『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

森長可(もりながよし)[2/2]

2019-10-21 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
森長可(もりながよし)[2/2]

<現代仮名遣い>もりながよし

※下線部は信長公記以外の記事によります。


1582年3月小笠原長嶺・森長可・団忠直・河尻

    秀隆・毛利秀頼が川を渡り高遠の大手

    口につめると、保科正直は「織田方に

    忠節を尽くし城に火をかける」と申上

    しようとしたがその時間はない。織田

    信忠も高遠の搦め手から攻め付け大乱

    戦となる。

1582年3月織田信忠が織田勝長・団忠直・森長可

    を上野方面へおくると、小幡信真が人

    質を進上してくる。

1582年3月信長の知行割で、森長可は信州の四郡

    (高井・水内・更科・埴科)を下され川

    中島に在城する。加増され二十万石。

1582年4月森長可が川中島海津に在城し稲葉貞通

    が飯山に陣を取っていると、芋川親正が

    一揆を蜂起させ、飯山を取り囲み大蔵城

    に立てこもる。信長方から稲葉重通・稲

    葉通明・稲葉典通・国枝、信忠方から団

    忠直が遣わされる。森長可が切り崩し、

    飯山に在陣し、稲葉貞通は諏訪本陣に戻

    る。稲葉重通・稲葉通明・稲葉典通・国

    枝は安土へ戻り、この次第を安土城勢に

    報告する。

信長没後一時織田信孝に属すが、まもなく秀吉の

臣となる。

1584年4月長久手の戦いに参戦。激戦の上討死に。



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