森長可(もりながよし)[2/2]
<現代仮名遣い>もりながよし
※下線部は信長公記以外の記事によります。
1582年3月小笠原長嶺・森長可・団忠直・河尻
秀隆・毛利秀頼が川を渡り高遠の大手
口につめると、保科正直は「織田方に
忠節を尽くし城に火をかける」と申上
しようとしたがその時間はない。織田
信忠も高遠の搦め手から攻め付け大乱
戦となる。
1582年3月織田信忠が織田勝長・団忠直・森長可
を上野方面へおくると、小幡信真が人
質を進上してくる。
1582年3月信長の知行割で、森長可は信州の四郡
(高井・水内・更科・埴科)を下され川
中島に在城する。加増され二十万石。
1582年4月森長可が川中島海津に在城し稲葉貞通
が飯山に陣を取っていると、芋川親正が
一揆を蜂起させ、飯山を取り囲み大蔵城
に立てこもる。信長方から稲葉重通・稲
葉通明・稲葉典通・国枝、信忠方から団
忠直が遣わされる。森長可が切り崩し、
飯山に在陣し、稲葉貞通は諏訪本陣に戻
る。稲葉重通・稲葉通明・稲葉典通・国
枝は安土へ戻り、この次第を安土城勢に
報告する。
信長没後一時織田信孝に属すが、まもなく秀吉の
臣となる。
1584年4月長久手の戦いに参戦。激戦の上討死に。
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<現代仮名遣い>もりながよし
※下線部は信長公記以外の記事によります。
1582年3月小笠原長嶺・森長可・団忠直・河尻
秀隆・毛利秀頼が川を渡り高遠の大手
口につめると、保科正直は「織田方に
忠節を尽くし城に火をかける」と申上
しようとしたがその時間はない。織田
信忠も高遠の搦め手から攻め付け大乱
戦となる。
1582年3月織田信忠が織田勝長・団忠直・森長可
を上野方面へおくると、小幡信真が人
質を進上してくる。
1582年3月信長の知行割で、森長可は信州の四郡
(高井・水内・更科・埴科)を下され川
中島に在城する。加増され二十万石。
1582年4月森長可が川中島海津に在城し稲葉貞通
が飯山に陣を取っていると、芋川親正が
一揆を蜂起させ、飯山を取り囲み大蔵城
に立てこもる。信長方から稲葉重通・稲
葉通明・稲葉典通・国枝、信忠方から団
忠直が遣わされる。森長可が切り崩し、
飯山に在陣し、稲葉貞通は諏訪本陣に戻
る。稲葉重通・稲葉通明・稲葉典通・国
枝は安土へ戻り、この次第を安土城勢に
報告する。
信長没後一時織田信孝に属すが、まもなく秀吉の
臣となる。
1584年4月長久手の戦いに参戦。激戦の上討死に。
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