散歩コースにある地域の氏神様 内宮社
新たな参道は太鼓台を担ぎ上げるほどの広い石段になっているが、
これは江戸時代の古い鳥居と急な石段です。
石碑の文字は読めますか・・・「天照皇大神」ですね、、多分?
鳥居には「享保十七年壬子(みずのえね)九月二十九日」とあります。
歴史年表で見ると1732年
徳川吉宗、田沼意次の時代でした。
そして十七年と言えば、享保の大飢饉
西日本ではイナゴの大発生で収穫できず、
飢人246万人 餓死12千人とありました。
一方元禄時代に開坑された別子銅山は産銅で栄えた時代らしい。
そんな時代に建てられたのですね。
一行刻まれた年代ですが、辿ると面白い
西の空から雲が押し寄せ、天気は下り坂
入り口にある石碑や鳥居は立派ですね。建立時期が享保、地震にも耐えて今にある。
享保は大飢饉の原因は(どこだったかの?)外国の火山噴火と聞いたことがある。
そして冷害になり、病虫害による不作で多くの餓死者が出た。痛ましい出来事です。
鳥居に刻まれた年号から当時のことを思い馳せるのはいろいろ興味を引きます。
意外と、気が付かないだけで古いものはあるのかもしれません。
どんなに年数がたっても、天気を操ることはできないですね。
晴れるように祈ったり、雨ごいしたり、豊作を祈願したり・・・
昔とちっとも変っていないというのが、ちょっと感動します(笑
日本古来の氏神さまは祖先から地域の守神として大切にされてきました
どんなに時代が変わろうと人の心には信仰心があり
それによって救われることも多いでしょう
歴史を紐解く面白さもありますね
これからも神社の長い歴史は人々の暮らしとともにありこれからも大切にされるのでしょうね
今日は久しぶりの雨 カラカラ天気続きだったので恵みの雨です
氏神様というのは、一族の祖先を祀った神社なので古くからあるものですが、入り口の碑が「天照皇大神?」だとすれば、そこだけは明治になって建てられたものかもしれませんね。
興味深いです。
ただ人口の幅が大きくて一説では
江戸は世界一の人口だったとも記されていました。
新嘗祭があるように人口の増加と米の収穫が
大きく影響しているようです。
別子銅山で住友は大きくなったんだったかな?
以前行った時にそう学んだような記憶があります。
銅が採れなくなった後は穴だらけの山を
ちゃんと埋めて植林し元の山に戻したとも書いてました。
確りとした解説で、良く解りました。
嬉しく解り易かったです。
別子銅山、住友は最後の閉鎖まできちんとした処置を施したようですね。
昔は天災や争い病気さえも神頼みしかなかったのでしょう。
ちょっと歴史を紐解くと、少しだけ先人の暮らしが想像されますね。
日本人はとかく信仰に薄いと言われますが、
私も素通りはしないで、パンパンと手を打って頭を下げますね。
家族の無事平穏を、、、今年はコロナが早く収まりますように、、ですね。
寺社の石碑や辻々の石灯篭などに、年代が刻まれています。
古い墓石などは判読が難しいけど、ほぼ江戸時代のようです。
近年、自然災害が激しくなると言われますが、
昔はもっともっと酷いことだったでしょうね。
神頼みしかなかったのでしょう。
神社にもいろいろあるようで、
氏神様、、個人崇拝から格式の高い系列神社まで・・・
この歳になるまで、
区別なく氏神、神社、はては寺まで一緒くたに拝んでいましたよ。
せめて地区の神社は、成り立ちなども知っておきたいものです。
まとまった雨になりましたね。
この年まで余り気にもせず氏神様と崇めていましたよ。
なるほどです、、氏神様とは祖先を祀ったものでしたか。
それからすると、この神社は右の石碑に「内宮社」とあるように、
伊勢神宮の流れをくむものかもしれませんね。判りませんが
この際、も少し成り立ちなど調べてみたいと思います。