ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

大河・かこがわ(264) 近世の高砂(60) 新、工楽松右衛門物語(31)・松右衛門エトロフヘ

2020-05-24 06:52:49 | 大河・かこがわ

 嘉兵衛がクナシリ水道の「三筋の潮」を発見し、クナシリからエトロフへの安全な航行を可能にしました。

 その後、嘉兵衛のすすめにより、工楽松右衛門は箱館・エトロフの港の建設に当たると話が進みました。

 この時のエトロフ港をつくった功績により、松右衛門は享和2年(1802)に幕府から「工楽(くらく)」の姓をもらっています。

 この辺りの事情を若干整理しておきます。

      松右衛門エトロフヘ

 その頃、ロシアの南下があり、蝦夷地はにわかに騒がしくなってきました。幕府は危険なものとして警戒に当たるようになりました。

 寛政2年(1790)2月、幕府は国防のためエトロフ島に築港を計画しました。

 そして、「択捉島(エトロフ島)ニ廻船緊場ヲ検定シ、築港スヘシ」と兵庫問屋衆に幕命が下りました。

 兵庫湊の北風荘右衛門は、優れた航海技術と築港技術を持つ松右衛門を推挙しました。

 この時、松右衛門は既に50才に近かったが、荘右衛門の要請に応じた。

 エトロフへの船は、松右衛門の持ち船・八幡丸をあてた。

 準備を整え、その年(寛政2年・1790)の五月、乗員20人と共に、兵庫津を出ました。

 八幡丸に、多くの日章旗をはためかした華やかな船出でした。

 八幡丸は、順調に東蝦夷まで航海し、エトロフ島のほぼ中央で、オホーツク海側の有萌湾(ありもえわん)に上陸し、さっそく湾底の大石除去工事に着手したが、10月になり急に寒気がきびしくなってきました。

 これ以上の継続は不可能となり、松右衛門は、一旦兵庫港に帰ることにしました。

 その年の12月、幕府は松右衛門の労を慰するため、30両をあたえました。

 その文書が残っています。

  申渡

  一 金参拾両  兵庫佐比恵町 松右衛門

     右其方儀恵登呂府波戸築立為御用彼地

     迄モ罷越骨折相勤候二付書面通為取之

    戌 十二月

 (意味)

  申し渡し

  一つ、金三十両 兵庫サビエまち 松右衛門

   右、その方の儀、エトロフ港築のため、かの地迄もまかりこし、骨折り、あい勤候に付き、書面の通りこれをとりなす

      戌(いぬどし) 十二月

 

 慰労金として、金30両は少ないようですが、松右衛門にとっては不足を感じませんでした。

 むしろ、幕府からの仕事に誇りを感じるのでした。(no4976)

   *地図:エトロフ島

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