嘉兵衛がクナシリ水道の「三筋の潮」を発見し、クナシリからエトロフへの安全な航行を可能にしました。
その後、嘉兵衛のすすめにより、工楽松右衛門は箱館・エトロフの港の建設に当たると話が進みました。
この時のエトロフ港をつくった功績により、松右衛門は享和2年(1802)に幕府から「工楽(くらく)」の姓をもらっています。
この辺りの事情を若干整理しておきます。
松右衛門エトロフヘ
その頃、ロシアの南下があり、蝦夷地はにわかに騒がしくなってきました。幕府は危険なものとして警戒に当たるようになりました。
寛政2年(1790)2月、幕府は国防のためエトロフ島に築港を計画しました。
そして、「択捉島(エトロフ島)ニ廻船緊場ヲ検定シ、築港スヘシ」と兵庫問屋衆に幕命が下りました。
兵庫湊の北風荘右衛門は、優れた航海技術と築港技術を持つ松右衛門を推挙しました。
この時、松右衛門は既に50才に近かったが、荘右衛門の要請に応じた。
エトロフへの船は、松右衛門の持ち船・八幡丸をあてた。
準備を整え、その年(寛政2年・1790)の五月、乗員20人と共に、兵庫津を出ました。
八幡丸に、多くの日章旗をはためかした華やかな船出でした。
八幡丸は、順調に東蝦夷まで航海し、エトロフ島のほぼ中央で、オホーツク海側の有萌湾(ありもえわん)に上陸し、さっそく湾底の大石除去工事に着手したが、10月になり急に寒気がきびしくなってきました。
これ以上の継続は不可能となり、松右衛門は、一旦兵庫港に帰ることにしました。
その年の12月、幕府は松右衛門の労を慰するため、30両をあたえました。
その文書が残っています。
申渡
一 金参拾両 兵庫佐比恵町 松右衛門
右其方儀恵登呂府波戸築立為御用彼地
迄モ罷越骨折相勤候二付書面通為取之
戌 十二月
(意味)
申し渡し
一つ、金三十両 兵庫サビエまち 松右衛門
右、その方の儀、エトロフ港築のため、かの地迄もまかりこし、骨折り、あい勤候に付き、書面の通りこれをとりなす
戌(いぬどし) 十二月
慰労金として、金30両は少ないようですが、松右衛門にとっては不足を感じませんでした。
むしろ、幕府からの仕事に誇りを感じるのでした。(no4976)
*地図:エトロフ島