中西廃寺(加古川市西神吉町中西)
日本に仏教が伝えられました。
まばゆい仏を見て、その教えは、はっきりと分からないものの人々は畏れ、尊崇しました。
その後、仏教は日本各地に広がり、やがて加古川の地にも伝えられました。
それも、比較的早い白鳳時代(645~710)のことです。
加古川市西神吉町中西にあった寺院(中西廃寺)もそのひとつです。
『加古川市史(第一巻)』は、次のように述べています。
・・・この寺院(中西廃寺)は、正式な発掘調査が行われていないため、詳細は明らかでない。
・・・現在、薬師堂境内の西南隅にある塔心礎(写真)は、1919年(大正8)に元の位置より50センチばかり 移動したという話があるが、伽藍配置を復元する有力な手がかりとなる。
法隆寺式伽藍を備えていたようで、創建は白鳳時代である・・・
白鳳時代、各地に寺院が多く建られていますが、その創建者は、どんな人物だったのでしょう。
7世紀になると古墳を造る風習は次第に衰え、消えてゆきます。
これは、かつて、古墳を建設した有力な豪族がやがて、仏教の影響を受け、古墳に代わって寺院を建設したのでしょう。
平荘湖の周辺に、たくさんの古墳があります。
これらの古墳の主が、中西の寺院を建設したのでしょうか。そうでなかったとしてもこの辺りの古墳の有力者が中西廃寺の建設に関係したのでしょう。(no4776)
*『加古川市史(第一巻)』参照、写真:中西廃寺の塔の心礎
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