唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

唯識入門(16)

2020-02-16 10:46:24 | 唯識入門
 おはようございます。あいにくの空模様です。午後から荒れ模様だそうです。お出かけされる方は気を付けてくださいね。
 今回は前回に述べました第一番目の刹那滅と第三番目の恒随転を結ぶような形の第二番目の果倶有(かくう)について考えます。
 言葉の難しさを感じます。どうしても、種子・現行・熏種子(くんじゅうし)と並びますと、それぞれが別に動いていると思ってしまいます。しかし、そうではなくて、現行の一つの側面を言い表しているのですね。
 現行は種子から引き出され、引き出された現行は、そのまま阿頼耶識(あらやしき)に熏習(くんじゅう)されているということです。
 深層の阿頼耶識の循環によって、私の生活は成り立っていることを教えています。
 縁に伴ってということがありますが、厳密には、その縁も自らが引いてきたことなんでしょうね。
 種子を因として、縁を伴って現行が果になります。これを異熟(いじゅく)と押さえています。過去の行為の結果が現在現行していることになりますね。これは元には戻せません。やり直しがきかないんです。
 しかし、現行に流されることなく、今を受け止める力を身につけることが求められますね。それこそですね、今がご縁なんです。昨日はお釈迦様が涅槃に入られた日、涅槃会も厳修されました。つまり、今をご縁として涅槃を求めることが大切な営みになるようです。
 そうしますと、今がとてつもなく有難いご縁になるんですね。
 こういうところが阿頼耶識の純粋性になると思います。私のいのちの根源は純粋なんです。純粋だからこそ、人生を見直すことができるんですね。僕みたいな不順な人間であってもですよ。見捨てられていないんです。
 果倶有の定義としては、種子は「現行(げんぎょう)と恒(つね)に倶(く)にあるもの」であることを明らかにしています。
 「二(ふたつ)には果倶有。謂く所生(しょしょう)の現行の果法と倶に現に和合するが方(まさ)に種子と成る。」と。
 種子は、所生の現行の果と倶に和合する。種子が表に現れたものを現行といいますが、この現行を果法といっています。現行の果法と種子は倶である、果と共にあるもの、異時ではなく同時存在なのです。因と果が時間的経過を経ているということではなく、同時同処をあらわしているのですね。種子生現行というでしょう。現行する為には縁があって現行するわけですが、縁のない時は種子生種子として、種子が種子として相続していくことになります。  
 第二の果倶有に於て、何が遮せられるのかですが、ここは第一の刹那滅ですね、これを受けています。
 刹那滅は刹那生滅ですから、同時であることを意味しているわけですが、
 一つの理由は、果倶有も同様に、前後を遮す、前後を否定しているわけです。種子は刹那の中で深く関わりあっている。常に因果同時であることを明らかにしています。
 ですから種子には前後が無いということになります。前の因(種子)が後の果(現行)となるという時間的前後を否定しています。倶時である。現行は種子の表面化ですね。種子があって現行するのではなく、種子の表面化が現行であるということになります。
 種子は阿頼耶識の中に蓄積され蔵されているわけですが、現行する時は種子生現行で同時なんです。種子があっても縁に触れないものは現行しません。
 二つ目の理由は、「定めて相離とを遮す」、定離(じょうり)です。
 私と無関係に種子はあるわけではないのです。「現在の時に因の用有るべし」と。永遠の今と言っていいのでしょうか。今を成り立たせているものが種子である、と。私が、今、現に生きているのは昨日のことでもなく、明日のことでもなく、今であるということ、これが種子のもっている意味であるのです。現行の果を生ずる種子は必ず現行と倶有であり、倶時であるわけです。大切なことを教えられています。
 またにします。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿