あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

人間の欲望と行動について。(自我その361)

2020-06-01 17:05:46 | 思想
人間の行動は、自我の欲望の現象(現れ)である。それについて、具体例を挙げて、説明したいと思う。まず、女子プロレスラーが自殺するという事件があった。多くの者が、SNS上で、誹謗・中傷を浴びせたからだと言われている。なぜ、彼女は、SNSを利用したのか。多くの人に評価されたかったからである。人間の欲望には、常に他者に評価されたいという自我の対他化への欲望が存在するのである。それが、裏目に出たのである。なぜ、多くの者は、彼女を誹謗・中傷したのか。それは、彼女を嫌ったからである。人間の深層心理には、快楽を求め、不快を避けようという快感原則を満たそうという欲望があるのである。その欲望に従ったのである。なぜ、彼らは、SNSは使ったのか。SNSならば、自らの正体が露見しないからである。彼らも他者から評価されたいと思いがあり、自らの行為が他者から評価されないのはわかっているから、SNSという匿名空間を利用したのである。だから、自殺の後、自らの正体が露見するのを恐れ、投稿記事を消去したのである。次に、誰でも、二人で会話することがある。誰と誰が会話しているいるかと尋ねられると、誰でも、すぐに、答えられる。二人の固有名詞を上げれば良いからである。しかし、何と何が会話しているかと尋ねられると答えるのに窮してしまう。口と口が会話しているとか、言葉で会話しているとか、考えて会話しているなどという、とんちんかんな答えも出る。確かに、人間は、考えながら、会話している。しかし、人間は、表層心理で思考して、すなわち、意識して、思考して、会話しているのでは無い。人間が、表層心理で思考して会話しているのならば、すぐには返答できない。人間は、無意識のうちで、深層心理が思考しているから、すぐに返答できるのである。会話に限らず、人間は、いずれの行動も、無意識の思考である深層心理が、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、それによって動かされているのである。次に、二人の男性が、殴り合いの喧嘩をしている。誰でも、誰と誰が殴り合いの喧嘩をしているのかと尋ねられると、誰でも、すぐに、答えられる。二人の固有名詞を上げれば良いからである。しかし、何と何が殴り合いの喧嘩をしているのかと尋ねられると答えるのに窮してしまう。手と手が殴り合っているとか、口汚く罵り合っているとか、憎しみ合っているなどという、とんちんかんな答えも出る。そして、何のために殴り合っているのかと尋ねられると、誰しも、相手に勝つためであるという。確かに、人間の深層心理には、他者という対象を支配したいという、他者の対自化の欲望があるのは事実である。しかし、男性が勝つまで殴り合いの喧嘩を続けるのは、他者の対自化の欲望にとどまらず、自我の対他化の欲望の現れでもあるのである。喧嘩している相手という他者に自分の強さを認めてもらうだけで無く、見ている周囲の他者に認めてほしいのである。さらに、何が原因かと尋ねると、常に、相手の言葉であるとか相手の態度であるとか、常に、相手が原因である。第三者から見れば些細なことでも、本人にしてみれば、相手の言葉や相手の態度で、自我が傷つけられたのである。他者に認めてもらいたいという自我の対他化の欲望が傷つけられたから、深層心理が、怒り・憎しみの感情と殴れという行動の指令を生み出し、自我がそれに従ったのである。もちろん、表層心理(意識しての思考)では、殴れば、相手から反撃され、周囲から顰蹙を買うのは買うことはわかっているが、深層心理が生み出した怒り・憎しみの感情が強いので、深層心理が生み出した殴れという行動の指令のままに、殴ったのである。さて、人間は、常に、深層心理が、ある構造体の中で、ある自我を主体に立てて、ある心境の下で、欲動(四つの欲望)に基づいて、快感原則を満たそうと、思考して、感情と行動の指令もしくは感情と行動のイメージという自我の欲望を生み出し、それに動かされて、行動している。深層心理とは、人間の無意識の思考である。それに対して、表層心理とは、人間の意識しながらの思考である。つまり、人間には、深層心理の思考と表層心理での思考という二種類の思考が存在するのである。しかし、ほとんどの人は、自ら意識しながら思考すること、すなわち、表層心理での思考しか知らないから、自ら意識して、自ら考えて、自らの意志で行動し、自らの感情をコントロールしながら、主体的に暮らしていると思っている。そこに、根本的な誤りがあるのである。しかも、人間は、表層心理では、独自に思考することは無いのである。すなわち、人間の表層心理での思考は、深層心理から独立して存在していないのである。人間が、表層心理で、意識して、思考するのは、常に、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望を受けて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令について受け入れるか拒否するかについてのみである。しかも、人間は、深層心理が生み出した行動の指令について、表層心理で、常に、審議しているわけではないのである。むしろ、人間は、表層心理で審議することなく、深層心理が生み出した感情と行動の指令のままに行動することが多いのである。それが無意識の行動である。ルーティーンという、同じようなことを繰り返す日常生活の行動は、無意識の行動である。だから、人間の行動において、深層心理が思考して行う行動、すなわち、無意識の行動が、断然、多いのである。フランスの心理学者のラカンは、「無意識は言語によって構造化されている。」と言う。「無意識」とは、言うまでもなく、深層心理を意味する。「言語によって構造化されている」とは、言語を使って論理的に思考していることを意味する。ラカンは、深層心理が言語を使って論理的に思考していると言うのである。だから、深層心理は、人間の無意識のうちに、思考しているが、決して、恣意的に思考しているのではなく、ある構造体の中で、ある自我を主体に立てて、ある心境の下で、欲動(四つの欲望)に基づいて、快感原則を満たすために、論理的に思考して、感情と行動の指令もしくは感情と行動のイメージという自我の欲望を生み出しているのである。そして、人間は、自らの深層心理が論理的に思考して生み出した自我の欲望に捕らわれて生きているのである。欲望が、人間が生きる原動力になっているのである。つまり、人間は、自らが意識して思考して生み出していない自我の欲望によって生きているのである。しかし、自らが表層心理で思考して生み出していなくても、自らの深層心理が思考して生み出しているから、やはり、自我の欲望は自らの欲望である。自らの欲望であるから、逃れることができないのである。ところで、人間は、常に、深層心理が、ある構造体の中で、ある自我を主体に立てて、ある心境の下で、欲動(四つの欲望)に基づいて、快感原則を満たそうと、思考して、感情と行動の指令もしくは感情と行動のイメージという自我の欲望を生み出し、それによって、行動するのであるが、自我とは何か。自我とは、ある構造体の中で、ある役割を担ったあるポジションを与えられ、そのポジションを自他共に認めた、現実の自分のあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。人間は、常に、ある構造体に所属し、ある自我を持って活動している。構造体には、家族、学校、会社、店、電車、仲間、カップルなどがある。家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があるのである。人間は、孤独であっても、そこに、常に、他者が絡んでいる。人間は、常に、ある一つの構造体に所属し、ある一つの自我に限定されて、暮らしている。人間は、毎日、常に、深層心理が、ある構造体の中で、ある自我を主体に立てて、ある心境の下で、欲動(四つの欲望)に基づいて、快感原則を満たそうと、思考して、感情と行動の指令もしくは感情と行動のイメージという自我の欲望を生み出し、それに動かされて、行動しながら、暮らしているのである。つまり、人間の行動は、全て、自我の欲望の現象(現れ)なのである。次に、自我を主体に立てるとはどういうことか。自我を主体に立てるとは、深層心理が自我を中心に据えて、自我が快楽を得るように、自我の行動について考えるということである。人間は、表層心理で、自我が主体的に自らの行動を思考するということはできない。それには、二つの理由がある。一つは、そもそも、自我とは、構造体という他者から与えられたものであるから、自我が主体的に自らの行動を思考することはできないのである。もう一つは、人間が、表層心理で、意識して。思考するのは、常に、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望を受けて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令について受け入れるか拒否するかについてのことだけだからである。人間は、表層心理独自で、思考することはできないのである。次に、気分とは何か。気分は、感情と同じく、心の状態を表す。深層心理は、常に、ある気分や感情の下にある。つまり、深層心理は、まっさらな状態で思考して、自我の欲望を生み出しているわけではなく、気分や感情にも動かされているのである。気分は、爽快、陰鬱など、比較的長期に持続する心の状態である。感情は、喜怒哀楽や好悪など、突発的に生まれる心の状態である。人間は、気分や感情によって、自分が得意の状態にあるか不得意の状態にあるかを自覚するのである。人間は、得意の気分や感情の状態の時には、深層心理は現在の状態を維持しようとし、不得意の気分や感情の状態の時には、現在の状態から脱却するために、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。さらに、人間は自分を意識する時は、常に、ある気分の状態にある自分やある感情の状態にある自分として意識するのである。人間は気分や感情を意識しようと思って意識するのではなく、ある気分やある感情が常に深層心理を覆っているから、人間は自分を意識する時には、常に、ある気分の状態にある自分やある感情の状態にある自分として意識せざるを得ないのである。つまり、気分や感情の存在が、自分がこの世に存在していることの証になっているのである。すなわち、人間は、ある気分の状態にある自分やある感情の状態にある自分に気付くことによって、自分の存在に気付くのである。つまり、自分が意識する気分や感情が自分に存在していることが、人間にとって、自分がこの世に存在していることの証なのである。そして、気分は、深層心理が自らの気分に飽きた時、そして、深層心理がある感情を生み出した時に、変化する。感情は、深層心理が、ある構造体の中で、ある自我を主体に立てて、ある心境の下で、欲動に基づいて、快感原則を満たそうと、思考して、自我の欲望を生みだす時、行動の指令とともに生み出される。だから、人間は、自ら意識して、自らの意志によって、気分も感情も、生み出すこともできず、変えることもできないのである。すなわち、人間は、表層心理では、気分も感情も、生み出すことも変えることもできないのである。しかも、人間は、一人でいてふとした時、他者に面した時、他者を意識した時などに、何もしていない自分の状態や何かをしている自分の状態を意識するのであるが、その時、同時に、必ず、自分の心を覆っている気分や感情にも気付くのである。どのような状態にあろうと、気分や感情は掛け替えのない自分なのである。つまり、気分や感情こそ、自分がこの世に存在していることの証なのである。次に、快感原則とは、何か。快感原則とは、スイスで活躍した心理学者のフロイトの用語であり、快楽を求め不快を避けたいという欲望である。深層心理は、構造体の中で、自我が快楽を得るように、思考して、感情と行動の指令もしくは感情と行動のイメージという自我の欲望を生み出して、自我を動かしているのである。快感原則とは、ひたすらその時その場での快楽を求め不快を避けようとする欲望であり、そこには、道徳観や社会規約は存在しない。だから、深層心理は、道徳観や社会規約に縛られず、ひたすらその場での瞬間的な快楽を求め不快を避けることを目的・目標にして、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。次に、欲動についてであるが、欲動とは欲望の集団である。だから、欲動を欲望と読み直しても構わないのである。欲動が、深層心理を内部から突き動かして、思考させ、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出させたのである。だから、深層心理は欲動に基づいて思考していると言えるのである。つまり、欲動とは、深層心理に感情と行動の指令という自我の欲望をを生み出させ、人間を行動へと駆り立てる、深層心理に内在している欲望の集団なのである。フロイトは、欲動をリピドーと表現し、性本能・性衝動のエネルギー、すなわち、性欲を挙げている。しかし、フロイトが挙げているリピドとしての性欲だけでは、欲動は狭小であり、人間の全ての感情と全ての行動と感情の理由と意味を説明できないのである。明確に、欲動は四つの欲望によって成り立っていると考えると、人間の全ての感情と全ての行動と感情の理由と意味を説明できるのである。まず、欲動には、第一の欲望として、自我を存続・発展させたいという欲望がある。自我の保身化という作用である。生徒・会社員が嫌々ながらも学校・会社に行くのは、生徒・会社員という自我を失いたくないからである。裁判官が安倍首相に迎合した判決を下し、官僚が公文書改竄までして安倍首相に迎合するのは、立身出世のためである。いずれも、自我を存続・発展せたいという第一の欲望、自我の保身化から来ている。次に、欲動には、第二の欲望として、自我が他者に認められたいという欲望がある。自我の対他化の作用である。それは、深層心理が、自我が他者に認められることによって、喜び・満足感という快楽を得ようとすることである。自我の対他化とは、言い換えると、他者から好評価・高評価を受けたいと思いつつ、自我に対する他者の思いを探ることである。他者に認めてほしい、評価してほしい、好きになってほしい、愛してほしい、信頼してほしいという思いで、自我に対する他者の思いを探ることである。自我が、他者から、認められれば、評価されれば、好かれれば、愛されれば、信頼されれば、喜びや満足感という快楽が得られるのである。受験生が勉強するのは、所謂名門大学に合格し、教師や同級生や親から褒められ、世間から賞賛を浴びたいからである。自我の対他化については、ラカンの「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、他者のまねをする。人間は、他者から評価されたいと思う。人間は、他者の期待に応えたいと思う。)という言葉にその意味が集約されている。つまり、人間が自我に対する他者の視線が気になるのは、深層心理の自我の対他化の作用によるのである。つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望して、それを主体的な判断だと思い込んでいるのである。人間が苦悩に陥る主原因が、深層心理の自我の対他化の欲望がかなわなかったことである。つまり、人間は、学校や会社という構造体で、生徒や社員という自我を持っていて暮らしていて、深層心理は、同級生・教師や同僚や上司という他者から好評価・高評価を得たいと思っているが、連日、悪評価・低評価を受け、心が傷付くことが重なった。深層心理は、快感原則の下で、傷心という感情とと不登校・不出勤という行動の指令という自我の欲望を生み出した。人間は、それを受けて、表層心理で、すなわち、広義の理性で、現実原則の下で、傷心という感情の中で、不登校・不出勤というが生み出した行動の指令を抑圧し、登校・出勤しようとするのだが、傷心という感情が強いので、不登校・不出勤になってしまうのである。そこで、人間は、表層心理で、すなわち、狭義の理性で、不登校・不出勤を指示する深層心理を説得するために、登校・出勤する理由を探したり論理を展開しようとするのだが、それが上手く行かずに、苦悩に陥るのである。人間は、深層心理がもたらした傷心を、表層心理で解決できないために苦悩に陥るのである。そして、深層心理が、この苦悩から脱出するために、自らを、精神疾患に陥らせ、現実を見ないようにすることもあるのである。すなわち、現実逃避するのである。次に、欲動には、第三の欲望として、自我で他者・物・現象という対象をを支配したいという欲望がある。対象の対自化の作用である。それは、哲学用語で言えば、有の無化作用である。深層心理が、他者や物や現象という対象を自我で支配することによって、喜び・満足感という快楽を得ようとすることである。深層心理が、自我を主体に立てて、他者という対象を自我の志向性(観点・視点)や趣向性(好み)で支配すること、物という対象を自我の志向性や趣向性で利用すること、現象という対象を自我の志向性や趣向性で捉えることなのである。すなわち、他者の対自化とは、自我の力を発揮し、他者たちを思うように動かし、他者たちのリーダーとなることなのである。その目標達成のために、日々、他者の狙いや目標や目的などの思いを探りながら、他者に接している。物の対自化とは、自分の目的のために、対象の物を利用することである。現象の対自化とは、自分の志向性でや趣向性で、現象を捉え、理解し、支配下に置くことである。対象の対自化は、「人は自己の欲望を対象に投影する」(人間は、無意識のうちに、他者という対象を支配しようとする。人間は、無意識のうちに、物という対象を、自分の志向性や自分の趣向性で利用しようとする。人間は、無意識のうちに、現象という対象を、自分の志向性や自分の趣向性で捉えている。国会議員は総理大臣になってこの国を支配したいのである。教諭は校長になって学校を支配したいのである。社員は社長になって会社を支配したいのである。人間は樹木やレンガを建築材料として利用するのである。科学者は自然を対象として捉え、支配しようとするのである。また、人間は、自分の志向性や自分の趣向性に合った、他者・物・現象という対象がこの世に実際には存在しなければ、無意識のうちに、この世に存在しているように創造する。それが、「人は自己の心象を存在化させる」、哲学用語で言えば、無の有化という作用である。人間はは、この世に神が存在しなければ生きていけないと思ったから、神を創造したのである。さて、志向性や趣向性は、対象を支配しよう・利用しよう・捉えようという自己の欲望の位相(パラダイム、地平、方向性)である。しかし、志向性(観点・視点)と趣向性(好み)は厳密には区別できない。それでも差異があるとすれば、志向性は冷静に捉え、趣向性は感情的に捉えていることである。右翼・保守系の大衆は、愛国心を金科玉条にして、安倍首相を趣向性で捉えている、すなわち、好みで捉えているから、安倍首相が悪行をどれだけ悪行を重ねても、安倍政権を支持するのである。また、自我による対象の対自化は、挫折しても、深層心理が、自らを精神疾患をするまでに苦悩しないのである。なぜならば、挫折しても、深層心理は、無の有化作用、すなわち、、「人は自己の心象を存在化させる」ことによって、空想、妄想を生み出し、乗り越えていくからである。むしろ、自我による対象の対自化にこそ、人間の生きる希望が見出されるのである。そして、また、自我の対他化は自我が他者の視点によって見られることならば、対象の対自化は自分の志向性(観点・視点)や趣向性(好み)で他者・物・事柄を見ることなのである。深層心理は、自我で他者を支配するために、他者がどのような思いで何をしようとしているのかその欲望を探ろうとする。しかし、他者の欲望を探る時も、ただ漠然と行うのではなく、自らの欲望と対比しながら行うのである。その人の欲望が、自分の欲望と同じ方向にあるか、逆にあるかを探るのである。つまり、他者が味方になりそうか敵になりそうか探るのである。そして、その人の欲望が自分の欲望と同じ方向にあり、味方になりそうならば、自らがイニシアチブを取ろうと考える。また、その人の欲望が自分の欲望と異なっていたり逆の方向にあったりした場合、味方になる可能性がある者と無い者に峻別する。前者に対しては味方に引き込もうとするように考え、後者に対しては、排除したり、力を発揮できないようにしたり、叩きのめしたりすることを考えるのである。これを徹底した思想が、ドイツの哲学者のニーチェの言う「権力への意志」である。しかし、人間、誰しも、常に、対象の対自化を行っているから、「権力への意志」の保持者になる可能性があるが、それを貫くことは、難しいのである。なぜならば、ほとんどの人は、誰かの反対にあうと、その人の視線を気にし、自我を対他化するからである。だから、フランスの哲学者のサルトルは、「対自化とは、見るということであり、勝者の態度だ。見られることより見ることの方が大切なのだ。」と言い、死ぬまで戦うことを有言実行したが、一般には、その態度を貫く「権力への意志」の保持者はまれなのである。誰しも、サルトルの言葉は理解するが、それを貫くことは難しいのである。また、大衆は、他者という対象を、無意識のうちに、自分の趣向性(好み)で捉えることが多い。だから、大衆の行動は、常に、感情的なのである。最後に、欲動には、第四の欲望として、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望がある。自我の他者の共感化という作用である。それは、深層心理が、自我と他者を理解し合う・愛し合う・協力し合うことによって、喜び・満足感という快楽を得ようとすることである。自我と他者の共感化とは、自我の存在を確かにし、自我の存在を高めるために、他者と理解し合い、心を交流し、愛し合い、協力し合うのである。人間は、仲間という構造体を作って、友人という他者と理解し合い、心を交流し、カップルという構造体を作って、恋人いう自我を形成しあって、愛し合い、労働組合という構造体に入って、協力し合うのである。年齢を問わず、人間は愛し合って、カップルや夫婦という構造体を作り、恋人や夫・妻という自我を持つが、相手が別れを告げ、カップルや夫婦という構造体が破壊され、恋人や夫・妻という自我を失うことの辛さから、深層心理の敏感な人ほど、ストーカーになって、相手に嫌がらせをしたり、付きまとったりするのである。それは、カップルや夫婦という構造体が壊れ、恋人や夫・妻という自我を失うことの苦悩から起こすのである。ドイツの詩人ヘルダーリンは、愛するゼゼッテが亡くなったので、深層心理が、この苦悩から脱出するために、自らを、精神疾患に陥らせ、現実を見ないようにしたのである。また、敵と対峙するための「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、自我と他者の共感化の志向性である。政治権力者は、敵対国を作って、大衆の支持を得ようとするのである。安倍晋三首相は、中国・韓国・北朝鮮という敵対国を作って、大衆の支持を集めているのである。このように、人間は、人間の無意識のうちに、深層心理が、自我を存続・発展させたいという第一の欲望、自我が他者に認められたいという第二の欲望、自我で他者・物・現象という対象を支配したいという第三の欲望、自我と他者の心の交流を図りたいという第四の欲望のいずれかの欲望に基づいて思考して、感情と行動の指令もしくは感情と行動のイメージという自我の欲望を生みだし、人間は、それによって、動きだすのである。さて、ほとんどの人の日常生活は、無意識の行動によって成り立っている。それは、欲動の第一の欲望である自我を存続・発展させたいという欲望が満たされているからである。毎日同じことを繰り返すルーティーンになっているのは、無意識の行動だから可能なのである。日常生活がルーティーンになるのは、人間は、深層心理の思考のままに行動して良く、表層心理で意識して思考することが起こっていないからである。また、人間は、表層心理で意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。ニーチェの「永劫回帰」(森羅万象は永遠に同じことを繰り返す)という思想は、人間の生活にも当てはまるのである。人間が、毎日同じことを繰り返すルーティーンの生活をしているのは、自我を存続・発展させたいという欲動の第一の欲望が満たされているからである。それが、人間が毎日同じことを繰り返すルーティーンの生活をしている理由と意味である。深層心理は、自我が存続・発展するために、そして、構造体が存続・発展するために、自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないのである。だから、人間は、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。さて、人間は、常に、深層心理が、ある構造体の中で、ある自我を主体に立てて、ある心境の下で、欲動(四つの欲望)に基づいて、快感原則を満たそうと、思考して、感情と行動の指令もしくは感情と行動のイメージという自我の欲望を生み出し、それに動かされて、行動しているのであるが、深層心理が、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出した後、人間は、表層心理で、意識して思考することなく、深層心理が生み出した行動の指令の通りに行動する場合と、表層心理で、深層心理が生み出した自我の欲望を受けて、自我を主体に立てて、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が出した行動の指令について許諾するか拒否するかを意識して思考し、その結果、行動する場合がある。前者が、無意識による行動である。後者が、表層心理での思考の審議を受けてからの行動である。ここにおける、表層心理での思考の審議は広義の理性の思考である、広義の理性の思考の結果が意志(による行動)である。現実原則も、フロイトの用語で、長期的な展望に立って、自我に利益をもたらせようとする欲望である。表層心理での思考で行動の指令を許諾すれば、人間は、深層心理が出した行動の指令のままに行動する。これが意志による行動となる。表層心理が拒否すれば、人間は、深層心理が出した行動の指令を意志で抑圧し、その後、表層心理が、意識して、別の行動を思考することになる。これが狭義の理性である。一般に、深層心理は、瞬間的に思考し、表層心理の思考は、長時間を要する。感情は、深層心理が生み出すから、瞬間的に湧き上がるのである。そして、表層心理が、深層心理の行動の指令を抑圧するのは、たいていの場合、他者から侮辱などの行為で悪評価・低評価を受け、深層心理が、傷心・怒りなどの感情を生み出し、相手を殴れなどの過激な行動を指令した時である。表層心理は、現実原則から、行動の指令の通りに行動すると、後で、他者から批判され、自分が不利になることを考慮し、行動の指令を抑圧するのである。しかし、その後、人間は、表層心理で、傷心・怒りという苦痛の感情の中で、傷心・怒りという苦痛の感情から解放されるための方法を考えなければならないことになる。これが狭義の理性である。この場合、人間は、表層心理で、傷心・怒りの感情の中で、深層心理が納得するような方策を考えなければならないから、苦悩の中での長時間の思考になることが多い。これが高じて、鬱病などの精神疾患に陥ることがある。しかし、人間は、表層心理で、深層心理の行動の指令を意志を使って抑圧しようとしても、深層心理が生み出した感情が強ければ、人間は、深層心理の行動の指令のままに行動することになる。この場合、傷心・怒りなどの感情が強いからであり、所謂、感情的な行動であり、傷害事件などの犯罪に繋がることが多いのである。だから、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令をコントロールしながら生きていけなければいけないのだが、深層心理が生み出した感情が強ければ、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動するしかないのである。ここに、人間の限界があるのである。それほど、深層心理が生み出す行動の指令とは、大きな存在なのである。それは、行動の指令は、常に、感情と共に、深層心理が生み出しているからである。深層心理が生み出す自我の欲望とは、感情と行動の指令が一体化した者だからである。いわば、行動の指令の強さは感情の強さなのである。しかし、確かに、自我の欲望は、惨劇・悲劇をもたらすが、それを否定しきれないのである。なぜならば、人間は、無意識のうちに、深層心理が思考して感情と行動の指令という自我の欲望を生み出さなければ、行動できないからである。人間の意識しての思考、すなわち、表層心理での思考は、独自に動けず、常に、深層心理が思考して感情と行動の指令という自我の欲望を受けて、始まるからである。生み出さなければ何か。次に、行動のイメージとは、何か。深層心理が生み出す自我の欲望には、感情と行動の指令が合体したものと、感情と行動のイメージが合体したものが存在するのである。言うまでも無く、行動の指令は深層心理が自我に行動することを強いるのであるが、行動のイメージはイメージするだけで実行性は存在しない。好きな人とデートしている場面を空想すること、好きな人とセックスしている場面を妄想すること、嫌な上司を殴っているのを夢で見ることなど、人間の生活は行動のイメージの連続である。もちろん、空想、妄想、夢は、実際には体を動かしていず、イメージでしかない。しかし、イメージにしろ、行動が形作られ、それによって、快楽や満足感が得られたり、気持ちを収めることができるので、実際に体を動かしてする行動と同等である。なぜならば、実際に体を動かしてする行動も、快楽や満足感が得ること、気持ちを収めることに目的があるからである。それでは、なぜ、行動をイメージするだけで満足し、実際に体を動かして行動しないのか。それは、実際に行動するが不可能であったり、実際に行動することで、対象の他者や周囲の他者から顰蹙を買い、自我に不利益が生じるからである。深層心理は、その点を考慮して、行動の指令を出さず。イメージだけにとどめているのである。もちろん、イメージだけの行動で満足する行動は、全ての行動ではない。それは、イメージを形作るだけで、十分に、快楽や満足感が得、気持ちを収めることができるものだけである。それだけで、快感原則を満たすことができるからである。これまでの歴史において、行動ばかりが取り上げられ、行動のイメージの効用を追究する哲学者、心理学者があまりに少ないのは残念なことである。深層心理は、無の有化作用、すなわち、「人は自己の心象を存在化させる」ことによって、空想、妄想、夢を生み出し、現実を乗り越えていくからである。








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