大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

ヨハネによる福音書19章28~37節

2020-03-29 11:57:25 | ヨハネによる福音書

2020年3月29日 大阪東教会主日礼拝説教 「渇く」吉浦玲子

【聖書】

 この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。そこには、酢を満たした器が置いてあった。人々は、この酢をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口元に差し出した。イエスは、この酢を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。 
 その日は準備の日で、翌日は特別の安息日であったので、ユダヤ人たちは、安息日に遺体を十字架の上に残しておかないために、足を折って取り降ろすように、ピラトに願い出た。 そこで、兵士たちが来て、イエスと一緒に十字架につけられた最初の男と、もう一人の男との足を折った。 イエスのところに来てみると、すでに死んでおられたので、その足は折らなかった。 しかし、兵士の一人が槍でイエスの脇腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た。それを目撃した者が証ししており、その証しは真実である。その者は、あなたがたにも信じさせるために、自分が真実を語っていることを知っている。これらのことが起こったのは、「その骨は砕かれない」という聖書の言葉が実現するためであった。 また、聖書の別の箇所に、「彼らは、自分たちの突き刺した者を見る」とも書いてある。 

【説教】

<私たちは渇きを知らない>

 ヨハネによる福音書において、主イエスは何回か、「水」について語っておられます。ヨハネによる福音書4章では主イエスとサマリアの女性と水をめぐる会話をされています。発端は主イエスが井戸の脇で、サマリアの女性に「水を飲ませてください」とおっしゃったことに始まります。その会話の中で主イエスは「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」とおっしゃいました。つまり井戸の水を汲んで飲んでも、また喉は渇くけれど、ご自分がお与えになる水を飲むと決して渇かないとおっしゃったのです。またヨハネによる福音書の7章では、仮庵祭という祭りの場面で、「渇いている人はだれでも、わたしのところへ来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」とおっしゃっています。当時、仮庵祭の祭りの最終日にはギホンの泉から金のひしゃくで祭司がうやうやしく水を汲むということがなされていました。それが祭りの最終日のクライマックスであったのですが、主イエスはそのような形式的な儀式の水ではなく、ご自分のところに来る者にこそ、まことの水が与えられ、その人自身の内から生きた水が流れ出るとおっしゃったのです。

 主イエスのおっしゃっていた「永遠の命に至る水」あるいは「その人の内から流れ出る生きた水」は聖霊を指していると言われます。しかし、サマリアの女性は、最初は主イエスのおっしゃる水を井戸の水だと考えていたのです。彼女は毎日毎日井戸まで水を汲みに来ていた。ですから井戸まで水を汲みに来なくて済むような特別な水があるなら欲しいと彼女は思ったのです。一方、ヨハネによる福音書7章においても、主イエスのおっしゃる「生きた水」よりも、仮庵祭の最終日のクライマックスで、祭司がギホンの泉からうやうやしく金のひしゃくで汲み上げる水を人々は求めていました。

 私たちには、サマリアの女性が井戸の水を必要としたように、たしかに、現実的な必要があります。生きていくためには肉体を潤すための水、食べ物、お金、人とのつながりなど、さまざまな必要があります。一方で、私たちは、精神的な平安をも必要としています。普段は信仰に興味のない人でも、多くの日本人は、神社仏閣などにいくと心洗われるような思いになるということがあります。クリスチャンであっても、礼拝堂で、何となく、おごそかな心持ちになったり、心休まるような思いを持ちます。宗教的な雰囲気や行為で何となく癒されるということがあります。まさに仮庵祭で祭司がギホンの泉から金のひしゃくで水を汲み上げるような行為に人々は心惹かれます。

 しかし、現実の必要が満たされても、何となく心洗われるような宗教行為に接しても、私たちは実際のところ、深いところの渇きは満たされないのです。現実的な必要は、水を飲んでも、またしばらくすると喉が渇くように、ひととき満たされても、すぐに失われてしまうです。あるいは満たされても満たされても、満足できず、もっともっと欲しくなってしまうものでもあります。宗教的な行為で、ひととき、心洗われたような、平安が与えられたように感じても、日常に戻ると、たちまちに壊されてしまいます。

そしてそもそも、人間は、深いところで渇きながら、自分が渇いていることを知らなかったのです。神と出会うまでは本当の渇きを知らなかったのです。あるクリスチャンの姉妹は看護師をされていました。ずいぶん前のことです。私はまだ伝道者としての献身などを考えていない、受洗してさほどたっていない頃でした。彼女はわたしと同年代くらいの方ですが、女優さんかと思うほど美しい方で、そしてまたたいへん落ち着いた方でした。勤務先の病院でも責任のある地位についておられました。教会でも役員としてご奉仕をされていました。口数は多くはなかったのですが、いつも冷静で要所要所で的確な発言をされる方でした。完璧すぎるくらいの方で、私はちょっと気後れするような感じで、あまり親しくお話ししたことはありませんでした。でも、ある時、たまたま、その方がどうしてクリスチャンになったのかということを聞かれて、詳細はおっしゃりませんでしたが、「渇望があったから」とおっしゃったのを聞きました。「渇望」という言葉が彼女から出たことに驚きました。この完ぺきなように見える女性にも深いところで渇きがあったのかと改めて思った記憶があります。

もちろん、彼女のみならず、主イエスからまことの水、永遠の水、尽きない水をいただかなければ、私たちは皆、無限の渇きの中にいるのです。それでいながら、その渇きを知らず、私たちはむなしいものを求めるのです。

<十字架の上で渇かれた主>

 さて、主イエスが、十字架の上で「渇く」とおっしゃったことが今日の聖書箇所に記されています。尽きない水、命の水を与えるとおっしゃっていた主イエスが渇かれたのです。主イエスの十字架は、神の御子であった主イエスが、父なる神の裁きをお受けになることでありました。神の裁きとは、神との断絶です。他の福音書には、主イエスが十字架の上で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と詩編22編の言葉によって嘆かれたことが記されています。神から完全に見捨てられること、それが裁きでした。この地上を歩まれる時、父なる神といつも豊かな交わりをなさっていた主イエスが、父なる神の裁きのゆえに、父なる神と完全に断絶された、そのことのゆえに、主イエスは渇かれたのです。

 その渇きは本来、罪によって、神と隔たっていた私たちの味わうべき渇きでした。しかし、私たちの味わうべき渇きを主イエスご自身が味わってくださいました。主イエスご自身が渇いてくださった、そのことのゆえに、今、私たちは主イエスを信じるとき、豊かに渇きを癒されるのです。それは一時的な癒しではなく、尽きることのない癒しなのです。渇いていることすら気づかず、むなしく生きていた私たちに、まさに永遠の水が与えられるのです。

 主イエスが渇いてくださったゆえに、私たちの根源的な渇きが癒される、それが「すべてが成し遂げられた」ことでした。主イエスはすべてを成し遂げて、その地上での肉体的な命を終えられました。「成し遂げられた」というのは、単に、人生の終わりで自分の人生に悔いはないというような思いではなく、それは主イエスの勝利の凱旋の言葉でもあります。十字架は、主イエスにとって、みじめな死刑ではなく、むしろ高く上げられることでした。渇いて渇いて渇ききり、なお、そのことのゆえにすべてを成し遂げて、勝利されて、神の栄光を得られた出来事が十字架でした。

<犠牲の小羊>

 さて、主イエスが肉体の死を迎えられたのちのことが、少し細かく聖書には描かれています。まず、主イエスの足の骨が折られなかったということが書かれています。十字架刑になった罪人の足を折るというのは、たいへん残酷なことですが、過越祭を迎える時に、十字架に死体があるというのは、祭りを汚すことになる、ということで行われたことです。本来、十字架は場合によっては数日にわたって十字架にかけられた罪人が死ぬまで続きました。しかし、このときは祭りを控えていたので、祭りの始まる前に、死体を取り除きたかったのです。当時、一日は、日没から始まりました。つまり祭りの始まる日没までに死人を十字架から取り除きたかったのです。足の骨が折られることにより、罪人は十字架の上で体を支えることができなくなって、上体が陥没して呼吸が圧迫され死に至るのです。しかし、主イエスはこの時、すでに絶命されていたので、足の骨は折られませんでした。これはたまたま主イエスの絶命が他の同時に十字架にかけられた罪人より早かったから、ということではなく、旧約聖書の成就なのだと語られています。

十字架の出来事より1000年以上前、イスラエルの人々が奴隷になっていたエジプトから脱出する夜、人びとは子羊を食べたのです。それは人々の身代わりに犠牲となる子羊でした。その小羊の血を門と鴨居に塗ることによってイスラエルの人々は救われたのです。出エジプト記12章46節にその犠牲の小羊の骨を折ってはならないと記されています。まさに新しい時代の新しい犠牲の小羊として捧げられた主イエスは、その言葉通り、骨を折られることはなかったのです。

<血と水>

 すでに絶命されている主イエスは足の骨を折られませんでしたが、死んでいることを確認するためにローマ兵が槍でわき腹を突きました。するとすぐに「血と水が流れ出した」とあります。これはまさに主イエスが人間としてたしかに死なれたということを示します。神であり、人間であるお方が、肉体において、たしかに死なれたという証です。血と水が流れ出るいう生々しい場面において、主イエスはたしかに人間の肉体をもって死なれたことが表されています。人間的な存在であることをいう言葉に「血も涙もある」という言い方をします。逆に人間的でないというとき「血も涙もない」といいます。血と水が流れ出たということは、主イエスは、冷たいアンドロイドのような存在ではなく、全身に血も通い、また涙が出るような水分に満たされ、感情を持った存在なのだということです。主イエスはまさに肉体として完全に人間であったということです。そして確かに死なれたのです。

 そしてまたこの血と水は、聖餐と洗礼を暗示しています。私たちは主イエスの水で洗われる洗礼によって救われ、主イエスの裂かれた肉と血を聖餐によって受けて繰り返し新しくされるのです。洗礼と聖餐という、プロテスタントの教会において大事にされている聖礼典は、ただのおごそかなありがたい儀式ではありません。まさに十字架の上で、渇き、すべてを成し遂げられ、刺し貫ぬかれた主イエスの血と水を受けることです。そのことによってのみ、私たちはまことの渇きから解放され、永遠の豊かな水を内側に与えられるのです。

<新しい時代が始まる>

 そしてまた、主イエスのわき腹が刺し貫かれた、ということも、旧約聖書に記されていたことの成就でした。これはゼカリヤ書12章10節に描かれています。「わたしはダビデとエルサレムの住民に、憐れみと祈りの霊を注ぐ。彼らは、彼ら自らが刺し貫いた者であるわたしを見つめ、独り子を失ったように嘆き、初子の死を悲しむように悲しむ。」とゼカリア書に記されています。キリストのわき腹が刺されたのは歴史的事実を越えて、それが神のご計画の内にあったということです。

 渇き切って苦しんで命を落とされたその亡骸が無残にも槍で刺されるということは、むごいことです。しかしその普通に考えるとむごい出来事もまた神のご計画であり、十字架に上げられ、渇かれ、足を折られず、刺し貫かれた一連の出来事は主イエスにとっては、栄光の証でありました。

そしてまた、キリストを刺し貫いたのは私たち自身でありました。私たちは、私たち自身の罪のために、この手で十字架のキリストを刺し貫いたのです。この受難節、私たちは、私たち自身が刺し貫いた十字架のキリストを見上げます。受難節に主イエスのご受難の物語を聞くのは、けっして心躍るようなことではありません。<独り子を失ったように嘆き、初子の死を悲しむように悲しむ>とゼカリア書に描かれているような辛い思いになってしまいます。ことに今年の受難節は、新型コロナ肺炎の蔓延の中、この先、世界が、そして日本がどのようになっていくのか暗澹とした思いの中で迎えています。全世界の教会で通常の礼拝が持てない状況でもあります。

しかし、主イエスの十字架は敗北でも暗澹とすることでもありません。主イエスは成し遂げられたのです。十字架によって新しい時代が切り拓かれたのです。それこそがキリストの栄光でした。私たちは、今、聖餐式を執行することは控えております。しかし、み言葉によって、主イエスの血と水を受けます。キリストの血によって清められ、内側に豊かな尽きない水をいただきます。私たちは罪を後悔しながら辛い思いで、十字架の上で刺し貫かれたキリストを見上げるのではありません。御言葉によって血と水を受け、まことの悔い改めを与えられ、新しい人間とされる喜びの内に十字架のキリストを見上げます。毎週毎週、礼拝によって新しくされます。今日は多くの方が、会堂ではなくそれぞれの場でみ言葉に耳を傾ける礼拝を守られています。私たちは御言葉によって日々新しくされます。そこに希望があります。

すべては成し遂げられました。神の偉大なご計画の内に新しい時代が開かれました。いまもそれは開かれています。今は永遠に閉じられない救いと恵みの時代なのです。確かに現実的には、未曽有の困難な時代にあります。しかしなお、キリストが切り拓いてくださった時代は閉じられません。その時代にあって、私たちは、み言葉によって、揺るぎない恵みにあずかります。渇くことのない水をいただきます。



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