ひとひらの雲

つれづれなるままに書き留めた気まぐれ日記です

平安時代の大学

2020-05-24 19:19:53 | 日記

 最近は大学進学率も増えました。キャンパスライフを楽しんでいる一面、アルバイトに追われている学生さんも多くいます。殊に奨学金で進学された方は、就職できないと借金だけが残る形になるので卒業後は大変なようです。それでも学歴を得て一流企業へ就職し、少しでも多くの生涯賃金を獲得したいと思うのが人間。生存競争は子供の頃から始まっているんですね。

 さて大学ですけれど、意外にも平安の昔からありました。神泉苑(しんせんえん)の西隣にあって四町にもわたる広大な敷地を誇った大学寮(ダイガクリョウ、またはフミヤツカサ)がそれです。今の東大のようなものですね。当時の大学は中国と同じく儒教を学問の根本としていました。承和(じょうわ)元年に文章(もんじょう)、明経(みょうぎょう)、算、明法(みょうほう)の四学科制が確立し、やがて紀伝(漢文学・中国史学専攻)、明経(儒学専攻)、算(数学専攻)、明法(法学専攻)の四道(しどう)と呼ばれるようになります。別に経書の音読を教える音道、書跡の巧秀を教える書道などがありました。

 平安時代の大学は官吏の養成を目的とするもので、前期に優秀な官僚を多く輩出させましたが、中期以降は実質的な機能を失いました。それでも一定程度の官吏養成機能は維持したようです。大学というのはやはり官途に就くためのものだったといってもよいでしょう。

 大学の他に諸国には国学というものがあって、大学と同じように教官として博士(はかせ)を置き、教授の任にあたらせていました。その人員は一国につき一人というものでしたけれど、この時代、諸国にそうした教育機関があったというだけでも驚きです。そして教育内容としては、今の哲学・法学・政治学から天文学・数学・医学等の広範にわたるものでしたけれど、それらはみな漢文を以って記された漢籍による学問だったということです。漢文に通熟しなければならなかったことにより、それに力を注ぎ込み、文学の研究や作詩作文が学問の主流となってしまったことは否めません。

 

 また大学・国学の他に諸家で建てた学校というものもありました。在原行平(ありわらのゆきひら)が建てた奨学院(しょうがくいん)、藤原冬嗣(ふゆつぐ)によって設立された勧学院(かんがくいん)、檀林(だんりん)皇后とその弟橘氏公(うじきみ)によって設立された学館院(がっかんいん)、和気清麻呂(わけのきよまろ)の子広世(ひろよ)が父の遺志を継いで建てた弘文院(こうぶんいん)などがそれです。みな大学寮の近くにあって大学別曹(大学寮の敷地の外側に置かれた曹司)ともいわれ、氏族別の寄宿舎的性格を持っていました。運営財源は一門から寄付された荘園・封戸(ふこ)等であったようです。
 いずれにしても平安時代に、このような最高学府があったことは驚きですね。

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