ひとひらの雲

つれづれなるままに書き留めた気まぐれ日記です

江戸時代の旅籠

2019-02-03 19:32:54 | 日記
 梅がちらほら咲き始めましたね。気の早い方は、そろそろ旅行シーズンのことなど考えておられるのでは。


 旅行ブームは今に始まったことではありませんが、旅をする環境は随分変りました。交通機関も発達しましたし、何といっても宿泊施設が充実しましたね。リゾートホテルなど、プライベートビーチやアクティビティがあって、数日はホテルだけでも楽しめます。本当にすごいことですよね。江戸時代にも旅籠(はたご)屋があって、旅人が重宝したことは間違いありませんが、セキュリティの面でも不安がありましたし、プライバシーや利便性の面でも行き届いていたとはいえません。それでも宝永二年(1705年)には362万人の人が「おかげまいり」をしたというから驚きです。当時の日本の人口は約3000万人ですから、一割強の人が社寺詣でをしたことになります。

 さてその宿泊施設としての旅籠ですけれど、「旅籠」という言葉は、古くは『今昔物語』にも散見されます。「然(さ)る程に夜になりぬれば、旅籠開きて物など食ひて寄り臥したるに…」とある「旅籠」は旅行用に携帯した「籠」で、食糧や身のまわり品を入れて持ち歩くものだったと考えられます。旅行者に宿を提供し、料理を出す旅籠屋が本格的に機能するようになるのは江戸時代。街道が整備され、公的宿泊機関である本陣・脇本陣が置かれるようになってからのことでしょう。


 「宿場の発達」にも書きましたが、旅籠屋の店頭には客引きがいます。旅人の袖を引き、自分の宿へ連れていこうとする「留女(とめおんな)」。弥次さん喜多さんも留女のすさまじさには辟易したようですが、宿場で一般庶民が宿泊できるのは旅籠屋だけでした。旅籠屋には二種類あって、ひとつは飯盛女(めしもりおんな)を置かないで百姓を兼ねている平旅籠、もうひとつは飯盛女を抱えている飯盛旅籠。どちらかというと飯盛旅籠の方が繁盛したようですが、旅人は何によって宿を選んだのでしょう。

 御油(ごゆ)の留女


 『東海道中膝栗毛』には、弥次さん喜多さんが客引きに質問している場面があります。それによるとまず「宿が綺麗かどうか」を尋ね、客引きは「建て直した新宅」と答えています。次に座敷が幾間あるか、風呂はいくつあるか、女は何人いるかなどを尋ね、さらに女の器量まで尋ねています。客引きは勿論、「女はとても美しい」と答えていますが、宿を選ぶ決め手となるのはこんなところでしょうか。

 赤坂

 宿場には大・中・小とさまざまな旅籠屋が林立しています。だいたい60坪以上のものが大旅籠、30~40坪くらいが中旅籠、12から15坪くらいのものが小規模の旅籠ということになります。天保12年(1841年)の保土ヶ谷宿の場合、7軒が大旅籠、26軒が中旅籠、36軒が小規模旅籠で、合わせて69軒の旅籠屋があったようです。

 宿賃はというと、江戸初期には数十文だったものが次第に値上がりし、幕末期頃には180~200文になっています。それでも天保期の職人一日の標準賃金が300文程度だったといいますから、意外に安価だったといえましょう。



 参考・宇佐美ミサ子著『宿場の日本史』(吉川弘文館)


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