MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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♯1747 やられてもやり返えさない

2020年10月23日 | テレビ番組


 9月27日に放送されたTBSドラマ「半沢直樹」の最終回が、平均世帯視聴率32・7%を記録した(ビデオリサーチ調べ、関東地区)と報じられています。

 7年前の前作と同様、最終回で最高数字を叩き出し、3人に1人が見た勘定となる視聴率30%超えはNHK、民放を通じて前作以来で、令和のドラマでは断トツだということです。

 「10%を超えれば成功」といわれる昨今の連続ドラマ界ですが、同局によるとこの数字は、単純計算で(少なくとも)3300万人が視聴した計算になるとのこと。

 新型コロナウイルスの影響で(このドラマも含め)各局の連続ドラマの放送開始が遅れたり、途中で放送が取りやめになったりする中、最終回で果たされた快挙に「見事な“倍返し”だ」との声も上がっているようです。

 さて、物語の主人公、堺雅人演じる銀行員の半沢直樹の(押しも押されもしない)「決め台詞」が、悪徳の限りを尽くす敵役に対して切る「やられたらやり返す、倍返しだ!」という啖呵です。

 (水戸黄門の印籠ではありませんが)このシーンこそが、約1時間のドラマの最大の見せ場となっており、大向こうから「待ってました!」の声がかかる瞬間と言えるでしょう。

 理不尽なことが多いこの世の中で、正義はどこにあるのか。売られた喧嘩は買わなければ男じゃない。間違った奴らに正義の鉄槌を下さなくては…。現実社会ではなかなか実現できない巨悪への「仕返し」に、留飲を下げたオジサンたちもきっと多かったのではないでしょうか。

 しかし、少し落ち着いて考えてみると、「自分は純粋な被害者で、非は相手のみにある」…そんな状況は(実は)あまりないような気がするし、「だから相手も辛い思いをするべきだ」という反応は、なんとも単純で子供じみているような気もします。

 やられたらやり返したくなるのは人の常とは言え、とことんやってしまえば関係性の修復は不可能になるばかりか、周囲からも(すぐ熱くなる)感情的な人間とみなされることでしょう。

 さらに言えば、そこには再びやり返される可能性が生まれることになり、いつまでたっても悪い循環から抜け出せない「負のループ」によって、事態はますます悪化していくかもしれません。

 そう考えれば、「やられてもやり返さない」という選択もあるのではないか。

 総合情報サイト「DIAMOND ONLINE」では、「お寺の掲示板の深~いお言葉」という連載において「半沢直樹の逆を行くのが仏教」(2020.10.12)と題する一文を掲載しています。

 東京の築地本願寺の掲示板に掲げられたこの言葉(「やられてもやり返さない」)を見て、「半沢直樹」を思い浮かべない人は少ないはず。彼の「やられたらやり返したい」という気持ちはわかるけれど、ここはひとつ「怨みの絆」の恐ろしさを踏まえ、「やられてもやり返さない」ということの意味を考えてみようというものです。

 「倍返し」が達成されれば、確かにその時点で一時的な快感が得られるかもしれない。しかし、やられた相手もその怨みを決して忘れることはない。『法句経』の中にも、「他人を苦しめることによって、自分の快楽を求める人は、怨みの絆にまつわられて、怨みから免れることができない。」という言葉があると筆者は記しています。(『ブッダの真理のことば 感興のことば』岩波文庫)

 やられた相手が遺恨を持つことによって、そこに「怨みの絆」が結ばれる。怨みの絆は本当に厄介なもので、一度結ばれてしまうと、これが後に大きな悲劇を引き起こすことがあるというのが筆者の認識です。

 今から100年少し前のこと。第一次世界大戦が終結し、戦勝国のイギリスとフランスは莫大な賠償金要求を敗戦国ドイツに突きつけようとしていた。特に国土を蹂躙された隣国フランスはドイツに対する怨みが非常に大きく、この機会にたたきつぶしてやろうと目論んでいたということです。

 それに対して、アメリカ大統領のウッドロウ・ウィルソンは、過酷な要求は怨みを残し次の戦争の火種になると考え、パリでの講和会議でその賠償要求に強く反対していた。しかし、イギリスやフランスは一歩も譲らず、話し合いが平行線をたどる中、ウィルソンは当時世界中で猛威を振るっていたスペイン風邪に罹患してしまったということです。

 第一次世界大戦を終結に導いたことで知られるこのスペイン風邪は、結局その後の会議の流れを大きく変えてしまった。病で完全に気力を失ったウィルソンは、イギリスやフランスに押し切られ、当時の国家予算の約20年分に相当する1320億マルクを賠償金としてドイツに科すことが決定したと筆者は綴っています。

 さて、その後、莫大な賠償金を払わなければならなくなったドイツでは、ハイパーインフレでマルクの価値は暴落し国民の不満が爆発することになります。

 さらに、それがきっかけでナチスドイツが台頭し、ドイツのポーランド侵攻を発端として第二次世界大戦が勃発。フランスやイギリスだけでなく、ヨーロッパ全体にさらに大きな災禍がもたらされることになったのは周知の事実です。

 (そう考えれば)もしも、パリでウィルソンがスペイン風邪にかからず、巨額の賠償金を請求しない形で合意がなされれば、ひょっとするとヒトラーの台頭も第二次世界大戦もなかったかもしれないというのが筆者の見解です。

 これは怨みが連鎖した典型的な例といえる。「倍返し」という復讐行為には誰しもカタルシスを感じるかもしれないが、それでは怨みの連鎖が永遠に続いてしまうと筆者は指摘しています。

 さて、イエス・キリストの有名な言葉に「右の頬を殴られたら左の頬を差し出せ」(「マタイによる福音書」)というものがあることは広く知られています。報復は何も生み出さない、「汝の敵を許せ」というのが、キリスト教の基本理念だということでしょう。

 一方、古代バビロニアのハンムラビ法典には「目には目を、歯には歯を」という言葉が残され、イスラム法では同害報復の原則が中心的な位置を占めていると聞きます。ジハード(聖戦)を行とするイスラム原理主義とテロとの関係にも、そうした影響があるのでしょうか。

 いずれにしても、仏教では(こうしたことから)「やられたらやり返さない」のが基本的なスタンスになっているというのが筆者の指摘するところです。

 『法句経』には「怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息(や)むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である。」と記されているということです。

 人生を暮らす中で、「幸福」の二文字をどれだけ長い目で見られるか。

 安息は恨む心を捨てたところにあると考えるこの言葉をしっかり心に留めて日々の生活を送りたいものだと私たちを戒めるこの一文における筆者の指摘を、私も興味深く読んだところです。



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