知りたい宮島

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知りたい宮島 3 狛犬 灯篭

2023年12月22日 20時51分07秒 | 貴方の知らない宮島
むかし市杵島姫の命(いちきしまひめのみこと)が神烏(おがらす)と共に御降臨され、御鎮座地を探されるにあたりこの地を治める「佐伯の翁(佐伯鞍職(さえきくらもと)、岩木の翁、所の翁」に神勅が下った。
この前の常夜灯の前には、地面に埋もれて解りずらいのですが、長さ約20mにも及ぶ「防潮堤」が隠れています。
平成3年の台風19号により、商店街に高潮が押し寄せ甚大な被害をもたらしました(人の膝上位まで海水が押し寄せた)
その為出来たものです(地面を良く見ると、白いパイプが埋まっています、ここを中心に防潮堤が起き上がります)。
直近では昨年(令和4年10月)の台風でこの防潮堤が開きました。

ここからは、狛犬が出迎えてくれます。
右は「獅子」で左が「狛犬」です、一般的には両方あわせて「狛犬」とよんでいます、宮島には13対の狛犬がいます、

類聚雑要抄では、狛犬を次の様に言っています。
獅子は色黄にして口を開き、狛犬は色白く口を開けず、角あり
元は、清涼殿の御簾や几帳の裾に鎮子として置かれていたのが始まりです(対岸の国幣中社・速谷神社の宝物館には本物が展示してあります)
、その後神社の本殿の前の幣殿の左右の
置かれました(屋内ですから木造で出来ていました)。
現在宮島には重要文化財指定の獅子・狛犬が14対います。ブロンズ像が2対 木製が・5対 石でできているもの宮島島内にある狛犬は現在7
対あり
石造 7対 大元神社 雪舟園横、四ノ宮神社 大願寺 本殿裏 三笠の浜参道(2対)
青銅 2対 石鳥居横  平舞台
木製 5対 本社 幸神社 御山神社(3対あり

本社神社にあるのは、阿形で、吽形は京と国立博物館に寄託されている。(この像のみ、阿形・吽形が別々にある)
現存する木製の獅子・狛犬は奈良県薬師寺の鎮守林ヶ丘八幡宮、滋賀県大宝神社、京都府高山寺、にあり、いずれも重要文化財である。
御山神社にある、木製の「獅子と狛犬」3対あります
灯篭も多くありますが、「灯篭」は地域貢献の証でもあり、誰でもが寄進出来るものではありませんでした。
宮島町内の「石造物」に刻まれた「石工名」は48例あり
尾道24。 このように「尾道」の石工が大多数を占めており、近世から近代にかけて「尾道石工」の技術が高く
18世紀半ばから19世紀半ばにかけては「石工・山根(屋)」が活躍していた
山城屋惣八」は作品の全てが「石造狛犬」であることから、「狛犬」を得意とした石工であった
が7対 探してみてください

幸神社には木造製の狛犬がおります、探して下さい
しかし、時代が下がるにつれ、幣殿より外に出、更には木造から石(又はブロンズ)に変化していきました。

狛犬を過ぎると、大きな石の鳥居に出ます。
この石鳥居は高さ9.8m 横幅11.5mあり、主注は一つの石(花崗岩)で出来ています、明治10年に、海の大鳥居にちなんで、日本一の「石の鳥居」を作ろうと発願し、山口・広島・愛媛・北海道の信徒さんの寄付により作り始めました、
(現在、日光東照宮、八坂神社、鶴岡八幡宮、にも石鳥居がありますが、主柱は継ぎ足してあります)
完成は明治38年で28年間かかりました(浄財がなかなかうまく集まらなかった為と言われています)
石は山口県の周防大島(岩国空港から南に約30分走った所)の東端、椋野の田尻から運んだものです。 鳥居の種類は「明神鳥居」に分類されるものです。鳥居を「華表」とも言います。
明治の頃の石鳥居です、横には上卿雁木が見えます

鳥居の扁額がありませんが、以前には「三条実美」の書いた扁額がかかっていました。
大島は昔、屋代島と言われ、日本書紀によると11番目に出来た「島」、1番めの島は「淡路島」2番は「四国」と続く、

周防大島(屋代島)
平家の総大将「平知盛」が山城を築城した島、荘園もあった。壇ノ浦の戦いの総大将
「古事記」によると、「イザナミ・イザナギ」により出来た日本の島。最初は淡路島、四国、隠岐の島、九州、壱岐の島、対島、佐渡、本州、
の8つの島(大八島・おおやしま)。その後「日本書紀」では児島半島、小豆島、周防大島(屋代島)、姫島、五島列島、男女群島。
6つの小さな島。11番目の「周防大島(屋代島)」は大変由緒ある島と言える。
「イザナミ・イザナギ、が天浮橋(あまのうきはし)に立ち、天之瓊矛(あめのぬぼこ)で台地をかき混ぜた。その矛先から滴り落ちた
 滴が固まって出来たのが、淡路島(おのころ島)」と言われている。

ここで鳥居の「言われ」について、諸説あると言われていますが、概ね次のようです。

「伊勢神宮の神の使いは「鶏」でありますが、神の使いである「鶏」は神社境内を自由に駆け巡り遊んでいたが、時々犬・猫が襲ってくるので食事の時以外は安全な場所を求めて見通しの良い庭先に建っている「門」の横木に止まって休んでいた。そして神社を参詣する人々が訪れ、お供え物を供える準備をしていると直ちに飛び降りて啄む、お供え物が無くなると元の止まり木に帰る、この事が繰り返されていました、やがて庭先にある正面の門の事を「いつも鳥が居座っている
つまり「鳥居」に変わったといいます。

中国では「城郭」・「官庁」又は「墓所」の入り口に建てる門を「華表」とよんでいます。千畳閣の中には、明治8年に朱の大鳥居を再建した時に使用した、長さ6メートルの「華表尺度」が展示してあります、探してみてはいかがですか。
鳥居をくぐると、そこは「三笠の浜」になります、厳島八景の一つです、「御笠濱暮雪」と云い、積もった雪の美しさを詠っています。

さらに左の千畳閣下にあたる石垣は、豊臣秀吉の時代の石積で、広島県内最古の豊臣系の城郭の石垣です。

所々に大きな石を挟めて飾りにしてあります(この石を鏡石という)。毛利元就の領地で、豊臣系の石垣で「野面石の乱積み」です。
 隅の巨大な「立石と古式な算木積み」は関が原の合戦直後の滅びた古い技法で全国でもわずかしか見ることが出来ない。(三重県 松阪市の松阪城の一部がこの積みかたになっている)

穴太衆(あのうしゅう)の技法が入っていると言われています、

穴太衆は琵琶湖畔(比叡山山麓)の石工集団で信長の安土城築城を行う、熊本城、彦根城・広島城、九州熊本の通順橋などなどで、
現在は、第15代 穴太衆 粟田純徳氏

石の加工方法には、①打込接うちこみはぎ)・・・石を成形し積む、②切込(きりこみはぎ)石を完全成形し積む、③それと野面(のずら)とあります。

石の積み方は、①布積(ぬのづみ)・・・横方向に目地がよく通っている(本殿回廊の鏡の池の後ろの石垣は、毛利・吉川元晴の技術によるもので特徴をよく表している。)
②乱積
(らんづみ)・・・横目地が全く通らない

③谷積(たにづみ)・・・石材を斜めに落とし込んだもの(明治以降)、④亀甲積(きっこうづみ)・・・6角形に成形した石材を積み上げたものを言う。

石垣の隅部(角のところ)の積み方
①算木積(
さんぎづみ)・・・チャックの様に大きな石を交互に積む(慶長10年頃以降に確立した石垣隅部の積み方)
三笠の浜を過ぎると、いよいよ日本を代表する「朱の大鳥居」が見えてまいります。

鳥居の建っている場所は「玉御池(たまみがいけ)」と呼ばれた聖地となっており、
界文化遺産はこの鳥居より内側と神社社殿群、神社裏手の弥山までの原始林、全部で431.2ヘクタール(全島の約14%)の部分を言います。

鳥居は昔は「有の浦大鳥居」とよばれており、現在の鳥居は、明治8年(1875年)に再建されたものです、平安時代から9代目にあたり、木造(天然木)で種類として鳥居

高さは16.6m、棟の長さは24.2mあり、主注周りは約く9.9m総重量は60トン、木部は丹塗り(にぬり)となっています。平成13年4月に塗り替えが行われて現在に至っています。(丹塗りとは光明丹に酸化鉛を混合したもの)
主柱は楠木の自然木を使用、袖柱(稚児柱とも言います)は杉の自然木を使用しています。
平安時代(1168年には建立)から数えて9代目になります。

鳥居の重量は60トンあり海の中に置いてあるだけで立っています、各柱の下には、約50センチ前後の松の柱が30本から100本縦に埋め込まれており、その上に更に置石が敷かれその上に鳥居が乗っている状態です、(千本杭工法と言います)。また屋根の様に見える下の所を笠木・島木(鳥居の呼称名)といいますが、ここの部分は箱状になっていて、中には石が4トン入っています(この石を含めて総重量60トン)。

笠木の部分には、太陽(金色の丸)と月(金色の月)の印があり、陰陽道の影響といわれています(風水では北東を鬼門の方位とする為、太陽は鬼門封じの為ともいわれている)

大きな扁額が見えますが、手前には「伊都岐島神社」と6文字で、反対側には「厳島神社」と4文字で、万葉仮名で筆書きされています。現在の扁額は明治8年(1875年)の再建時のもので、有栖川宮熾仁親王による染筆となっています。
伊都岐」とは万葉仮名のあて字で「」の意味で、「身を清めて神に仕える」と言う事で、
厳島」は「神様をお守りする島」と言う意味と言われています。
現在(令和2年10月)鳥居は修理中ですが、扁額は近くで見ることが出来ます。(12月13日までです)
本殿、祓殿に於いて展示中です。この様に近くで見ることが出来るのは、多分最初で最後と思いますので、是非見て頂けたらと思います。あまりの大きさに驚かれる事と思います。
なお扁額の横には、先ほどの文字の意味も書いてありますのでよくご覧になってみてください。

令和3年に修理した扁額が、神社本殿前の祓殿に展示してありました。
後日さらに化粧直しをした扁額が、大鳥居の改修後には皆様の目に触れると思います
戊辰戦争・西南戦争・日清戦争における指揮官でもあった人です)
なお現在の扁額は大変綺麗に見えますが、平成19年4月に化粧直しが施されている為です。

平安時代からの扁額について、少しお知らせがあります。
➀平安時代、鎌倉時代は 海側のみに「伊都岐嶋神社」の扁額が掛かっていました。
➁室町時代、江戸時代後期には、海側に「厳島大明神」 社殿側に「伊都岐嶋大明神」
当時は「伊都岐嶋大明神」と言う神で「大宮」と呼ばれており、第二の神は「中宮」と呼ばれ、宗像神は相殿神(あいどのかみ)
でした(主祭神と同じ本殿にお祀りする神)。大明神とは代表の女神の事です

➂江戸時代から現在には、海側に「厳島神社」社殿側に「伊都岐嶋神社」となっています。

有栖川宮は江戸時代初期から大正時代にかけて実在した宮家。四親王家「伏身宮(ふしみのみや)、桂宮(かつらのみや)、閑院宮(かんいんのみや)
と並ぶ世襲親王家の一つで、第二代良仁(ながひと)親王は皇統を継ぎ、後西天皇(ごさいてんのう)となった。
第9第有栖川宮熾人(ありすがわのみやたるひとしんのう)は徳川慶喜の妹で、徳川貞子を明治維新後に最初の妃として迎える
しかし貞子は2年後にに23歳で病没。その後 越後新発田藩主・溝口直博の七女・董子と再婚した。
明治維新後は陸軍軍人として明治天皇を支えた。明治28年(1895)61歳で死去。
明治15年(1882)にはロシア帝国の旧首都モスクワで行われた「アレクサンドル3世」の即位式に天皇の名代として出席し
帰路には欧州諸国と、アメリカ合衆国を歴訪した。


元はこの扁額は、天文16年(1547年)大内義隆が、大願寺の尊海の要請により「後奈良天皇の宸」の額を贈ったものである。一番最初は、表側には「小野道風」、裏は「空海」の書いた扁額が掲げてあった。

天文16年(1547年)10月初めに第4代目の大鳥居が建った。
この大鳥居には。つの大きな特色があった。
第一の特色は極めて短期間しか存続しなかった(14年間)
第二の特色は初めて4本の柱を添え柱にした(両部鳥居になった)、これ以後は現在まで受け継がれている
第三の特色は初めて天皇宸筆(しんぴつ)の扁額が大鳥居に揚げられた事。
   この時の「真字」は外側に、「真字」の扁額は内側に掲げる様に指示があった。
   この後奈良天皇宸筆の扁額は永禄4年再建の大鳥居にも引き続き掲げられ現在に至っている。

しかし、後奈良天皇の扁額の痛みが激しくなった為、元文4年(1739年)再建の大鳥居からはその写しが用いらるようになった。
享和元年(1801年)再建の大鳥居にも同じ扁額が掲げられていたが、湖の扁額も世間では後奈良天皇の宸筆と呼ばれていた。
なお、現在の大鳥居は明治8年(1875年)7月に棟上げが行われたが、この大鳥居には有栖川野宮熾仁親王宸筆の扁額が新たに
掲げられた。大内義隆が天文17年(1547年)11月に奉納した後奈良天皇の宸筆は、その写しも含めて約330年余り生命を
保ち続けたのであるという事になります。

参考に 
空海は平安時代の「三筆」とも呼ばれていました
空海、嵯峨天皇、橘逸勢(たちばなのはやなり)の三名です・

空海とは
宝亀5年(774年6月15日生)、承和2年(835年3月21日死去)  61歳の生涯
その後(86年後の延喜21年(921年10月21日)、第60代醍醐天皇より諡号(しごう)が
贈られる。
本当は「弘法利生(りしょう)」の諡号が与えられる事になっていたが、「弘法利生」の業績から「弘法大師」が贈られる。

弘法利生(こうぼうりしょう)とは、人のおしえを世間に広め、衆生(しゅうじょう)に利益を与える事
衆生とは人間。 
諡号(しごう)とは、主に帝主・相国などの貴人の死後に奉る。生前の事績への評価に基づく名の事


ちなみに、本殿の回廊を出た所、右に「大願寺」がありますが、ここを通り抜けて海岸通りの出ると、お土産屋さんの横に
小さな石橋があります、ここの手前に石柱の「注連柱」がありますが、
この石柱に「巖谷修」と書いてあります。
巖谷修は「巖谷一六」で、日下部鳴鶴(めいかく)、中林梧竹(ごちく)と共に
明治の「三筆」と呼ばれた人です


ここからは余談です
「1代から3代までの鳥居は、明神鳥居でした、その後4代から8代(現在の鳥居)までは両部鳥居でした。
 記録によると、鳥居は今までに7回倒れており、6回は台風で1回は落雷により倒壊しています。
 1325年  台風で転倒     1371年再建 46年間かかる
 1716年  台風で転倒     1738年再建 22年間かかる   再建に掛かる役夫は約5万人を要した
 1776年  落雷で消失     1800年再建 24年かかる    再建に掛かる役夫は4万1550人
 1850年  台風で転倒     1875年(明治8年)再建     この間24年間鳥居はありませんでした  
                      
*1738年(元文3年)の再建時には、1本柱となる巨木を2本調達する事は困難となっていた。

更には倒壊から再建までかなりの長い年月を要した時期もあり、再建が間々ならない時には「竹」を立て、注連縄を張って過ごした時期も見られたようである。

なお、明治8年の再建時には主注は本殿から向って右が「宮崎県西都市」左が「四国丸亀、和田浜」から持ってきた楠が使用されています、主柱に使用される楠は樹齢600年のものを使用していると言われています。
なお昭和26年には根元が腐食をし「根継」が行われています。
この時は「佐賀県鳥栖市」社殿から向かって左側と、「福岡県鳥栖市」、から御神木が使用されました。社殿から向かって右側。根継ぎに使用した場合、楠の耐応年数は約80年と言われています。

社殿より西側の「四国丸亀・和田浜」から持ってきた楠は、大きさも長さも足りなかったので、亀居山(千畳閣のある所)から調達した楠を抱き合わせて(大きな鉄の輪で締めている)います、しかし明治37年西柱に落雷がありましたが、幸いにして面目を保っています。(根継後の古い楠の主注の一部は宝物館の前に展示してあります)

* 明治8年再建時には鳥居は「朱色」ではありませんでした。
現在の様に朱色になったのは明治44年2月まで待たなければ為りませんでした。これは明治の初めに「神仏判然令」が施工され、「朱色」は仏教的との事により着色されまいせんでした。当然本殿の彩色の除去されました。

鳥居
鳥居があると「神社」と思っているかも知れないが
鳥居もいろいろな種類があり。「両部鳥居」は密教の影響受けている鳥居です
「両部」とは密教の考え方である「金胎両部(こんたいりょうぶ)」をいい、
神仏習合の名残を表す
別名、四脚鳥居、稚児柱鳥居、権現鳥居、枠指鳥居(わくざし)などがある

「金胎両部(こんたい両部)」・・・・
大日如来を智徳の面から開示した金剛界と,理から説いた胎蔵界。金胎両界。


神仏習合の時代、お寺にも「鳥居」があった時代が長くあった


明治30年「古社寺保存法(後の国宝保存法)」の施工により、国宝となる
昭和4年には「国宝保存法」が施工され、古社寺保存法は廃止になる
昭和25年「文化財保護法」の施工により従来の国宝はすべて「重要文化財」になり、以後順次 特に重要なものは改めて「国宝」に指定され、現在に至っている。
ハワイ ホノルル にも厳島神社と同じ「大鳥居」がある
高さ 8 m  幅 約11 m と厳島神社の大鳥居の1/3の大きさである
材は宮島大鳥居が「天然木」に対し、ホノルルの鳥居は「鉄」で出来ている
昭和34年(1955年)5月19日、ホノルル市議会が広島市との「姉妹提携」を結ぶ
また、昭和57年(1981年)には広島商工会議所とホノルル日本人商工会議所が「姉妹提携」を締結する。
さらに、平成9年(1997年)5月30日に広島県がハワイ州との間で「友好提携」を結ぶ
平成13年(2001年)、ホノルル日本人商工会議所の100周年を記念して「ジャパンタウン」をつくることになり
その事業の一環として「大鳥居」が寄贈された。

広島とハワイを結びつけたには「移民」の方たちの存在であった

現在は大鳥居の修理中です、完成はまだはっきりしていません? 
元の姿の大鳥居と修理中の鳥居の写真を掲載します
「潮位」の差は約4メートルにもなり、鳥居の沖100メートル位までは歩いて行く事が出来ます。島全体が「花崗岩」で出来ている為、砂洲は底が固く十分に歩いて渡る事ができます。

鳥居の左右に長さ50m位の杭が打ち込んであります、内側が「世界文化遺産」で外側は瀬戸内海、外では「あさり」を自由に掘ることが出来ます。貝掘りは無料なので春になると多くの方々が貝堀に来ます。
この浜に降りる所に「常夜灯」があります、よく見ると対岸(西の松原)にも同じ「常夜灯」があります。

目の前の常夜灯は1805年(文化2年)阿波の国の藍屋講中の寄進によるもので、対岸の常夜灯は上家の寄進した物です。江上家は島内一の資産家で(醤油醸造を手がけていた)現在の「歴史民俗資料館」は江上家の家でした。

「講」について少し触れておきます。
江戸時代中ごろから庶民の旅が盛んになった背景には「」の発達があった。
「講」とは特定の寺社に参詣したり、霊山に登山する団体組織の事を言う。 最大の人気を誇った「講」は富士講と伊勢講だ。富士山と伊勢神宮参宮の旅の為の講である。共に100を超える講社があった
富士講などは俗に「江戸八百八講」といわれたほどである。
講の属さず旅をするのは、手形の取得からして、何かと面倒であった。江戸時代、全国の街道 脇街道 裏街道などの要衝には
必ず「関所」があった。 すべて幕府の直轄で総計76箇所、諸大名等による私設の関所は禁じられていた。通常関所を通らずに
旅をする事はまず不可能であった。
関所を通るに必要なのが「関所手形」通常、庶民は往来手形が関所手形の代わりになる。 武家等の女子は別に「女手形」を
取得しなければならなかった。手形無くて通関する事は絶対になかった。

「往来手形」・・・庶民にとっての身分証明書でもあり、檀那寺(菩提寺) や、村役人、町役人に発行してもらい、氏名 住所 
   檀那寺、旅の目的が書かれていた。旅途中の死亡のさいの依頼、行き倒れの場合民家へ泊まる際の依頼状。
   旅籠などでの宿改めの際の身分証明ともなった。
「女手形」・・・・特に武家及び禁中方、尼僧等の女子の場合。発行は特に複雑で、出身地を上り、下りに分け、更に地域別に区分し
    それぞれ発行者が指定されていた。「入り鉄砲出女」で江戸を出る女子のチェックが厳しく、女手形と1箇所でも
  違えば通してもらえなかった。
庶民の旅はそこまで煩わしくないものの、手形の取得、通関 など何かと面倒であった、だが「講」に入っていれば安心だ
手形取得のノウハウから往復の交通手段の手当て、旅行に必要な物品や心得の用達や指導、宿泊等、全ての面倒をみてもらえた
講元」はいわば団体旅行の旅行会社の様なものであった。参詣、登山に必要な衣装や笠、杖に至るまであらゆる必需品を
手配した。更に様々な土産品、御礼や掛け軸、置物等も用意されていた、まさにいたれり尽くせりであった。
更に、江戸時代の庶民の「旅」について触れてみます。

江戸時代の庶民の旅
中世までの旅は、政治的かあるいは軍事目的・商業目的・宗教活動・情報伝達といった、いわば仕事としての旅がほとんどであった
しかし近世になると五街道をはじめ各街道が整備されて宿泊施設なども整い、寺社参詣や宗教登山を名目とする物見遊山の旅
が登場、やがて各種の「講」なども発達して、一般庶民も娯楽として旅を楽しむようになる。
東海道は品川より大津まで53宿。 中仙道は板橋より守山まで67宿あり、基本は歩く旅となる)
*一般旅行者が泊まるのは「旅籠(はたご)」である
  旅籠とは本来、旅行の時に馬の飼料を入れる「籠」の事で、旅は自炊が原則であり、旅人は多くの場合「薪や食料」を持参していた
  また、もともと旅のほとんどは仕事であり、他のも荷物が多かった。そこで馬と共に旅行をした、馬の飼料を用意して客を待った宿
  が、即ち「旅籠屋」である。
  「幕府が慶長16年(1612年)に定めた旅籠代は、人が3文、馬6文であり。元和8年(1622年)になると、人が4文 馬8文となる
   これは飼料の分だけ馬が高い。 これは宿で「薪」を買った時の値段で、薪を持参した時は人馬共に半額となった。
   しかし1泊2泊ならいざしらず、普通は薪まで持参しない、旅籠で薪代即ち「木賃」を払って買うことになる。だから旅籠は
   木賃宿ともいった。その内「旅籠屋」でも食事を出すようになると、「自炊専門の安宿」が木賃宿となり、やがて木賃宿は安宿の
   代名詞となった」
   旅籠代は年代と共に値上がりしていく 人 馬
慶長16年(1612年)では 3文 6文
元和8年(1622年)では 4文 8文
寛永10年(1642年)では 6文 16文
享保3年(1718年)では 主人35文 35文
従者17文
幕末になると 700文 1貫400文 人の2倍
(食事付きとはいえ、江戸初期の100倍近くにもなる)
  元禄から享保の時代にかけて、一般庶民が旅行を楽しむようなり、旅籠屋にもランクが出来サービスによって宿賃に差がで始める
  普通の旅で1ヶ月くらい(東海道で片道13日、往復約1ヶ月かかる、川止め等あり)かかり、荷物だけでも大変な量となる、そこで
  馬か荷担ぎの人足を雇うことになる。料金は宿駅ごとにそれぞれ公定料金が定められていた
、山坂においては登りよりも下り道
  の方が料金が高かった(これは馬も人も足に負担がかかり辛く、転ぶ危険もあった為)
  川越人足料金も5種類あり、①常水帯 ②乳下水 ③乳上水 ④脇通水 ⑤渇水期の浅い時
  川止の時は何日か滞在を余儀なくされ、宿代がかさみ、川開きとなっても水高があり高い人足代を支払った
  草鞋(わらじ)は3~4里歩くとちびて履けなくなり、普通1日に2足は必要で、1ヶ月の旅となると何十足も履きつぶす様になる
  茶屋で休めば、茶代 餅等を食べれば餅代 などもかかる。
  関所も通常は無料だが、待たされたり、女性の場合は特にうるさく調べられたり、そこで関所役人に袖の下をつかませたり
  また寺社に詣でれば「賽銭」も必要、ついついお土産も買いたくなる。徒歩旅行といえど、お金はかかるものであった。
しかし、金持ちしか旅が出来なかったのかと言うとそうでもなく、 ほとんど路銀を持たない人も結構多く旅をしていた。「行者僧」「旅芸人」、また貧しい農家の娘たちが着の身着のままで「霊場巡り」のたびをした例もあった、
「御蔭参(おかげ)」りなどの、集団伊勢参宮も、大多数が無銭の下層民衆で、飢饉などで土地を捨て、江戸をはじめ大都市を目指す
棄民たちもいた。
かつての「日本」は貧しい人達に対して優しかった、何がしかの施しをしてくれる家が少なくなかった。宿場のはずれや、村々には
宿代を持たない貧しい旅人を泊めてくれる家があった。善根宿(ぜんこんやど)である
 善根宿・・・諸国行脚の修行者・遍路、困っている旅行者を無料で泊める宿。
 修行僧や遍路、貧しい旅人などを無料で宿泊させる宿。宿泊させることは、自ら巡礼を行うのと同じ功徳があるとされた。
草鞋などまだ履けるものは、お地蔵さんやお堂に供えておいた、貧しい旅人が利用出来る様に、茶店で休んでも水を飲むだけ
なら「無料」であった。

御蔭参りの場合、豪商達が金品の施行を行い、厖大な無銭旅行者たちの面倒をみた。これは町の治安を守ると言う意味もあった
明和期(1764年ー1772年)の御蔭参りに際しては、大阪だけで「鴻池善右衛門ほかの豪商達が合わせて7千300貫文以上の銭を 施行したという。(これは当時の相場で米、8万4000石に相当する巨額である)
他にも、さしたる路銀を持たずに旅した者に、文人墨客がいる、彼らは貧者では無いそこそこに優雅な旅を楽しんだ。

江上家は本殿回廊を出たところ(西回廊出口)の「石橋」・水族館の前の大きな「燈篭」も寄進しています。


* いよいよ国宝「厳島神社」への入り口へと進むわけですが、
入り口の手前左に「厩舎」があり、中に木生の馬がいます。この馬を「神馬(しんめ)」と言い、わが国では古代より神社へ生き馬を奉納する習慣がありました。

日照りの際には「祈雨の為に黒毛馬を」、長雨の時には「止雨の為に白馬」を奉納して祈ったと言う記事が「続日本後期」に記してあります。(宮島は花崗岩で出来た島なので、土石流が多く発生その為、雨はノーサンキュウです)

絵馬について少し述べたいと思います、参考にして下さい
我国では古くから「馬」は神の乗り物として神聖視されてきた、その為神に祈願したり祭りをする時には神霊を迎える為に
「馬」を指し向けなければならなかった、ここに生馬献上の風が当然に生まれた。崇徳天皇の時代(1119年)から鹿嶋明神
に馬を献上する事になったといわれている(常陸国風土記)

一方生馬に代わって「馬形」を献上する風も生まれる、全国各地より「土馬」が出土している、この土製馬形から木製馬形
も出現し木馬献上の事はしばしば「延喜式」などに見ることが出来る。 止雨の白馬献上
この馬形発生の理由について「類聚符宣抄」には天暦2年(948)丹生川上と貴布禰の社に祈雨の黒馬献上に際して
右大臣藤原師輔が「繁餌料をつけられないなら「板立御馬」をもってこれにあてよと命じた」とあり「神道名目類聚符」には
「神馬の索奉る事、及びサル者、木にて馬を造献す」とある。つまり経済的理由から生まれたものであると思われる。
この板立馬は木製馬形を更に簡略化し馬の形を板で作ったものである。板立馬が一層簡略化され絵馬になる。
板立絵馬は板を馬の形に切り抜いて彩色しこれが立つ様に台をつけねばならなかったが絵馬は板に絵を描けばよいのである
絵馬と言う言葉が初めて文献的に現れたのは寛文9年(1012)6月25日大江匡衡が北野天神に御幣ならびに
種々の供え物を目録した中に「色紙絵馬三匹」とある。
平安時代になると 生馬献上の風習とともに一方では生き馬に代わって木製馬形の献上が一般的となり形も
大きく精巧でいろいろな装飾が行われた
鎌倉時代 この時代の絵馬に奉額の中で特殊な系列を示す「36歌仙」を描いたものが見られた
室町時代
中期以降になると画題は「馬以外の物が多くなり」形状も多種多様となりに奉納される絵馬の図柄が仏菩薩を描くようになる
徐々に大型化し、専門絵師・著名画家が筆を振るうようになり絵馬の美術的質の向上を誘発し、やがて絵馬本来の目的を
離れて美術作品としての絵馬と考えられる様になった。絵馬の歴史の中の一つの転換期を迎えた時期で「歌仙絵」の奉納
も流行る。 俵屋宗達、尾形光琳、土佐光起(みつおき)、円山応挙など、室町から桃山時代のかけての有名画家
桃山時代
大型絵馬が更に扁額形式となり豪華になり、ますます大型化する。上流社会や貿易商人によって豪華な絵馬が奉納され
有名絵師もこぞって筆を取った。寺社に絵馬堂が出来、画家達はその作品を絵馬堂に掲げて人気を得んと心掛け、
一般の人も絵馬堂に集まり絵馬の図柄を鑑賞した。
江戸時代
桃山から更に大型化する、「扁額軏範」には、「横6 間縦2 間の大型絵馬」絵馬の公開的開放的性格が一層大衆との
つながりを深め地方の田舎でも扁額形式の大きな絵馬を「産士神(うぶすながみ)」の拝殿に掛けることが流行し、江戸時代
の後期は絵馬奉納の最盛期となる、歌舞伎図のなかでも特に「四十七士討入図」が各神社に目立つようになる。
明治時代
日清・日露の戦いを経て「忠君愛国」の理念が高まっていく風潮に即応した絵馬が多くなり、寺社の霊験や神社の崇高さを
讃えた「社景図」なども奉納された。
大正・昭和
衰退に向かい絵馬の数も減る、しかし戦争中は「戦勝祈願」「武運長久」の絵馬が流行する。ところが戦後には高売繁昌の
小絵馬を参詣者に売る寺社が現れ、最近は時代の要求に応じ「交通安全」「入学祈願」などを描いた絵馬も多い。
①武者絵 ②橋弁慶図 ③弁慶釣鐘負の図
絹本着色児持山姥図・・・縦150cm 横83cmの大型絵馬 昭和31年6月28日国の重文に指定。長沢藘雪44歳の時
の作。近松門左衛門の浄瑠璃(嫗山姥こもちやまうば)から取材した、坂田金時とその母と言う趣向で醜怪な老婆を迫力ある
筆至で描いてある。
 *坂田公時(俗に金時とも言う)は平安後期の武士で21歳の時、大江山酒てん童子を征伐、土蜘蛛退治で有名な
源頼光に見出された、源頼光 四天王の一人となった。相模国足柄山の山姥と赤竜の子と伝えられている、
その童姿は強健と武勇の象徴で五月人形に作られている。
 *長沢藘雪は寛政11年(1799)6月8日 享年46歳 大阪にて没す(廻向院過去帖)
長沢藘雪は広島に下向し大手町一丁目富士屋中島本町一丁目三国屋に滞在したのは寛永年間である、
その滞留中に幾つかの絵を描いている。「宮島八景図画柵(重文)」もその一つでこの中の「弥山神烏図」には
「甲寅冬於厳島写、平安蘆和七朗正麗に贈ったもので、これは後に広島市矢賀町の保田伴蔵家の所有となっている。
⑤ 船絵馬
⑥ 算額(数学の問題を書いた絵馬)
日本独特のものである、寛文の頃(1660年代)から始まった習慣で数学の難問が解けたことを感謝して奉納した。
またその問題を広く世に知せる意図も含まれていたので人目を引くように工夫されていた。
門弟の就学奨励の為 ◎自分の学力を誇示する為 ◎他流に対する挑戦 など動機は様々であった、又門弟が
師の功績を讃えて奉納する事もあった、現在のように研究発表である学会とか雑誌などが無かった時代だけに算額奉納
は、少なからず数学の進歩に貢献し、江戸時代から開発された「和算」は西洋の数学にも引けを取らない高度な
ものであり和算合戦も行われた。
呉入船山記念館  明治31年(1891)9月21日 吉田照登が「円扇形 三角形 方形などの複雑な面積の
出し方を和算で解き、この喜びと難問の解き方を後世に残す為」に奉納した
倉橋町の桂浜神社の扁額  
福山市 鞆町鞆の沼名前神社
海田町の熊野神社
36歌仙の絵馬

平安時代 藤原公任は柿本人麻呂・山部赤人・紀貫之・小野小町ら、歌道の名人36人の有名な歌を挙げて、
その人の歌各一首づつ選んでこれを「36歌仙絵」と云った。
歌仙絵の絵馬は本来絵馬としては異質では在るが広義としては絵馬として取り上げられている。

県内の歌仙絵の遺品の主なものは以下の通り
①八本松町松原 雷八幡神社 赤人・遍昭・深順・兼盛・小大君 5人の歌人を除いたものが31枚ある。江戸末期の奉納
②海田市熊野神社 文化8年(1825)に奉納されたもので36枚揃っている。奉納者は頼一門の9人の人達で、頼山陽の母
 静子は坂上是則と藤原元眞の絵馬を、山陽の長子で事庵は藤原兼輔・中納言朝忠の絵馬を奉納している。
③福山市 両社八幡宮 天和3年(1683)領主水野勝慶が奉納、社伝によると額絵は、土佐家極彩色、色紙は
 冷泉大納言卿御染筆とある
厳島神社の 扇面形歌仙絵 寛永2年(1625)奉納されたもの、楬心筆 とある。
厳島神社の歌仙絵  永正12年(1505)奉納とある、県内にある年記のはっきりしたものでは最古のもので、
古法眼元信画 歌は山崎宗鑑書とある
その他、有名なものに
兵庫県・賀茂神社に狩野元信の描いた「神馬図」京都・岩清水八幡宮に円山応挙の「群鶏図」などがある
馬図~36歌仙絵~船・生業(なりわい)・風俗・動物となり、絵馬は鑑賞画としての一面をそなえてきた。
いよいよ、入り口です
入り口の右には、棹の部分が細い2本の燈篭が立っています、よく見ないと気がつかないかと思いますが、この燈篭が「曽我兄弟の燈篭」です、曽我兄弟の愛妾の手越しの少将」と、恋人、大磯の虎(白拍子)の二人が彼らの菩提を弔う為に寄進した燈篭です。
入り口直前左右に大きな燈篭があり、その上に「烏のブロンズ像」が載っています。
ここ宮島では「烏」は神様の使いとして崇められており神烏(おがらす)」という、「御烏喰式」では烏が主役となります。
5月15日の「お島巡り」では島の裏側にある「養父崎神社(やぶさきじんじゃ)」の前で催しされる「御烏喰式」が行われます、
海上で粢折敷(しとぎおしき)に粢団子(しとぎだんご)を載せ、舟に乗った神官達が雅楽「新楽乱声(しんがくらんじょう)」を奏でると、弥山頂上から烏が舞い降りてきて「粢団子」を啄む、するとこの御島巡りの参加者には幸運が授かると言われている。(参拝者は全員厳格な斎戒(さいかい)・・・清めの事、をしなければ参加出来ない)
雅楽「新楽乱声」は「鳥向楽(ちょうこうがく)」で嵯峨天皇の時代に舟遊びに奏する由、最も古い日本製の雅楽合奏曲。
そして10月28日には対岸、大野にある「大頭神社」において「四鳥の別れ」を行い、親は途中「速谷神社」に立ち寄り、紀州熊野に飛び立ち、子供は弥山に住み着く。昔から、弥山山頂の「御山神社」では毎日、朝昼晩の3度 団子を烏に与えていた、「神烏(おがらす)」はこれ以外の餌は食べないと言う。

東の回廊入口は、長らく客人社の屋根(檜皮葺)の修復工事中でしたが、この度(令和4年9月初旬)に完成、なかなか見れない「檜皮葺」の
新しい屋根を是非見て行って下さい。本殿の平舞台からだと翌見えますよ
平舞台から、客神社・五重塔をバックに写真を是非取ってみて下さい。
結婚式の時の記念写真もこの場所から取ります。





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