古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

上代語「畳」について─「隔(へだ)つ」の語誌とともに─

2024年04月23日 | 古事記・日本書紀・万葉集
上代のタタミ(畳)の諸例

 上代にタタミ(畳)に関する語を見ると次のような例がある。最後の二例は、記紀に「畳」字の用いられ方としてあげたものである。

 みちの皮のたたみ八重やへに敷き、亦、きぬたたみ八重を其の上に敷き、其の上にいませて、……(記上)
 海神わたつみここ八重やへ席薦たたみ舗設きて、る。(神代紀第十段本文)
 海に入らむとする時に、すがたたみ八重・かはたたみ八重・きぬたたみ八重を以て、波の上に敷きて、其の上にしき。(景行記)
 木綿ゆふたたみ 手に取り持ちて かくだにも われひなむ 君に逢はぬかも〔木綿疊手取持而如此谷母吾波乞嘗君尓不相鴨〕(万380)
 木綿畳 手向たむけの山を 今日けふ越えて いづれの野辺のへに いほりせむ吾〔木綿疊手向乃山乎今日越而何野邊尓廬将為吾等〕(万1017)
 木綿畳 田上山たなかみやまの さなかづら ありさりてしも 今ならずとも〔木綿疊田上山之狭名葛在去之毛今不有十方〕(万3070)
 木綿ゆふつつみ〈一に云ふ、畳〉 白月山しらつきやまの さな葛 後も必ず 逢はむとそ思ふ〈或る本の歌に曰ふ、絶えむといもを が思はなくに〉〔木綿裹〈一云疊〉白月山之佐奈葛後毛必将相等曽念〈或本歌曰将絶跡妹乎吾念莫久尓〉〕(万3073)
 よそのみに 君をあひ見て 木綿畳 手向の山を 明日か越えなむ〔外耳君乎相見而木綿牒手向乃山乎明日香越将去〕(万3151)
 いはたたみ かしこき山と 知りつつも われは恋ふるか 同等なみにあらなくに〔磐疊恐山常知管毛吾者戀香同等不有尓〕(万1331)
 いのちの またけむ人は たたみこも 平群へぐりの山の くま白檮かしが葉を 髻華うづせ その子〔伊能知能麻多祁牟比登波多々美許母幣具理能夜麻能久麻迦志賀波袁宇受爾佐勢曾能古〕(記31)
 畳薦 へだて編む数 かよはさば 道の柴草しばくさ ひざらましを〔疊薦隔編数通者道之柴草不生有申尾〕(万2777)
 逢ふよしの 出で来るまでは 畳薦 へだて編む数 いめにし見てむ〔相因之出来左右者疊薦重編數夢西将見〕(万2995)
 たたみけめ 牟良自むらじが磯の 離磯はなりその 母を離れて 行くが悲しさ〔多々美氣米牟良自加已蘇乃波奈利蘇乃波々乎波奈例弖由久我加奈之佐〕(万4338)
 何所いづくにそ 真朱まそ穿をか こもたたみ 平群の朝臣あそが 鼻のうへを穿れ〔何所曽真朱穿岳薦畳平郡乃阿曽我鼻上乎穿礼〕(万3843)
 …… 韓国からくにの 虎とふ神を 生け取りに 八頭やつ取り持ち 其の皮を 畳に刺し 八重やへたたみ 平群の山に 四月うづきと 五月さつきあひだに くすりがり ……〔……韓國乃虎云神乎生取尓八頭取持来其皮乎多々弥尓刺八重疊平郡乃山尓四月与五月間尓藥獦……〕(万3885)
 日下部くさかべの 此方こちの山と 畳薦 平群の山の 此方此方こちごちの 山のかひに 立ちざかゆる びろくま白檮かし ……〔久佐加弁能許知能夜麻登多々美許母弊具理能夜麻能許知碁知能夜麻能賀比爾多知耶加由流波毘呂久麻加斯……〕(記90)
 大君おほきみを 島にはぶらぼ 船余ふなあまり いがへむぞ が畳ゆめ ことをこそ 畳と言はめ 我が妻はゆめ〔意富岐美袁斯麻爾波夫良婆布那阿麻理伊賀弊理許牟叙和賀多々弥由米許登袁許曾多々美登伊波米和賀都麻波由米〕(記85)
 吾が畳 三重みへ河原かはらの 磯のうらに かくしもがもと 鳴く河蝦かはづかも〔吾疊三重乃河原之礒裏尓如是鴨跡鳴河蝦可物〕(万1735)
…… 畳々亞々御本〈音引〉……(記9、真福寺本)
 其の山の峯岫みねくき重畳かさなりて、また美麗うるはしきことにへさなり。(景行紀十八年七月)

 上代に畳というものの実態は、今日の床のついた畳のことではなく、コモやイグサ、ユフなどで編んだり織ったりして一枚にしたり、毛皮で作った敷物のことである。織って作られたもので言えば、今のイグサ上敷のような形態である。和名抄には、「畳 本朝式に、掃部寮に長畳・短畳と云ふ。〈唐韻に、徒協反、重畳なり、太々美たたみ〉、「莚〈席附〉 説文に云はく、莚〈音は延、无之路むしろ〉は竹席なりといふ。遊仙窟に、五綵龍の鬢莚と云ふ。〈今案ふるに、俗に又、九蝶莚有り、文に依りて之れを名く〉。唐韻に云はく、席〈音は藉と同じ、訓は上に同じ〉は薦席なりといふ。」、「薦 唐韻に云はく、薦〈作甸反、古毛こも〉は席なりといふ。」とある。つまり、タタミにはいろいろな素材によって作られたものがあり(注1)、タタミという語をもって自分の座席、居るべき場所のことを指すことにもなっている。また、その重ねるところから、形容する表現や助数詞にも用いられている。
 言葉は概念を一定の範疇に括るものである。その領域がどこまでを占めるのかは用例から確かに見出される。上にあげた例に、容易には理解しづらいものがある。「たたみこも 平群へぐりの山の」、「たたみこも へだて編む数」、「たたみけめ 牟良自むらじが磯の」といった修辞法である。いずれも「畳」が関係する言葉遣いである。それらを含めて納得が行ったとき、はじめて上代の人にとって「畳」とは何であったか、「畳」という言葉は何を意味していたかが理解できたということになるのだろう。

たたみこも へだて編む数」

 万2777番歌の「隔て編む数」という表現については、諸解説書に一致をみていない。結論としては、数多く通って来たら道の芝草も生えないだろう、つまり、頻繁に通って来ることを願う女性の気持ちを草に寄せて歌った恋の歌であるとされている。しかし、その表現の解釈に、大系本萬葉集は、「タタミコモは、いくらかずつの隔てを置いて、多くの節(ふ)に編み分けるという。同じような動作を幾度も幾度も繰返して編むわけである。」(239頁)と解しており、中西1981.、稲岡2006.も同様である。一方、新編全集本萬葉集に、「筵機むしろばたで筵を織るのも操作そのものは機織りと同じで、横糸に相当する藁わら・菰こもの類を、緯よこさしを往復させて、通しては筬おさで締めることを繰り返し、織り進む。隔テは、奇数番目の縦糸と偶数番目の縦糸とを交互に上下させる綜絖そうこうを用いて、横糸の通る道を開けることをいうのであろう。」(269~270頁)とし、「を詰めて編む数のように」(269頁)と訳しており、新大系本萬葉集も同様である。解釈に微妙なズレが生じている。
 畳は一部の汚れや棄損の際、その部分をわずかに抜いてまばらに誤魔化すことはあるが、当初から隔てを置いて藺草を編む(織る)ことはない。同じ慣用表現を用いている万2995番歌については、四句目原文に「重編数」とあるため、旧訓にならって「かさね編む数」と訓むとする説もあり、大系本萬葉集、澤瀉1963.、伊藤1997.、小野2006.などがそう訓んでいる。稲岡2006.は、「薦を幾重にも重ねて畳に編む編目の数の多いのを譬喩とした。」(300頁)と解説し、多田2009.はヘダテアムカズと訓みながら意味は同様である。一方、新大系本萬葉集は、「「重」字に隔てるの意は本来ないが、「一重山隔れるものを」(七六五)を「一隔山重成物乎」と表記した例がある。」(163頁)と指摘し、万2777と同様にヘダテアムカズと訓んでいる(注2)。訓みとしての説明であるが、編み方の証明ではない。
 今日、さほど顧みられていない考え方に、武田1963.の考え方がある。万2777番歌については、「隔編数 ヘダテアムカズ。ヘダテは、屋内の区切に使う、几帳、衝立の類。「高山タカヤマ ダテオキ」(巻十三・三三三九)。隔てを編む数で、コモで隔てを編むために苧の往復する度数で、度数の多い譬喩としている。」(167頁)、万2995番歌については、「重は、ヘの音を表示し、ここはヘダテに使つている。」(310頁)としている。汲むべき見解である。奈良時代に屏風を数える助数詞は「畳」であった。当時はパネルをつないだものであったが、国家珍宝帳にも、各種の屏風が「畳」と記して挙げられている。それにつづいて「大枕」、「御軾」、「狭軾」、最後に「御床」とあり、「御床二張 〈並塗胡粉具緋(黒)地錦端畳褐色地錦褥一張広長亘両床緑絁袷覆一條〉」と記されている(注3)。当時の宮殿はだだっ広いワンルームがあるばかりで建具が乏しかった。寝るのにスースー寒いから、パーテーションの屏風で部屋に仕切りを入れ、隔てとしていた。だから、万2995番歌の「重編数」をヘダテアムカズと訓むことに誤りはないと言い得る。するとここに、万2777・2995番歌にあるヘダテアムカズのヘダテとは、寝るときにプライベート空間を作るためのことと関係がある語義を持つということになる。すなわち、タタミコモ(畳薦)とは、ダブルベッドのような男女が夜の営みを共にする夜具、敷布団に当たるものと解される。だからこそ、恋の歌に用いられていて然りであるとわかる。
左:座具としての畳・臥具としての畳(春日権現験記模本、板橋貫雄模、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1286816/21をトリミング)、右:縁に布を覆っていないイグサ上敷(同https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1287494/19をトリミング)
 ただし、武田説は、「畳薦」が屏風、几帳、衝立の用のために編まれているかのように感じられてしまう。それでは上代ならではの奔放なエロティシズムが失われる。敷布団のための「畳薦」であることは譲れない。「隔て編む」はそれなりの編み方を言っていたと解されるべきである。「畳薦 隔て編む数」という言い方は他に例がないから、この二例から帰納される編み方が見極められなければならない(注4)。わざわざ「数」と記されている。途方もなく多くの数であることを示していることは確かである。現実に、畳を作るにはたくさんの藺草を用いる。経糸として張られた麻の縒糸の数は決まっている。畳表の膨らんでいる部分の下に2本ずつ仕組まれている。一畳の畳を見ると半間当たりおよそ100本程度であろう。一方、緯糸の藺草については、とても数える気になれないもので、一間に4000~7000本であるという。上級品は均質な藺草を数多く通し、中級品以下はそれなりにということである。前近代には人力の畳機を操っていた。棒綜絖を前後に傾けて経糸をやりくりし、その間にサシと呼ばれるかぎ針で藺草を通していく。万葉歌に、「畳薦 隔て編む・・」とあり、織機は使わず編み物のようにも受け取られるが、編み物をするときのようにかぎ針を使うところが「編む」という表現として現れていると考える。布を織る機との違いは、第一に、緯糸の扱いである。長い繊維でのなかに巻いておいて左右にやりくりし、端まで行ったらまだ戻るということがない。できない。その点、機構的には畳機は機械のように見えつつ、作業的には手編みの域を出ていない。一本通してはまた新しい藺草の端を折ってかぎ針にかけてまた通す。そこが手間なのであり、その手間が「数」という言葉に表されていて、藺草の数、4000~7000という値になる。それだけ多くの数、何べんも何べんもという意味にかなっている(注5)
 そして第二に、織機が経糸を地に対して水平、ないし斜めに張っているのに対して、畳機や筵機の場合、地に対して垂直に立てて張っている。したがって、畳、薦、筵などの製作過程にあっては、織る(編む)にしたがって障屏されていくように見える。ここに、「隔て編む」と形容されているのだとわかる。
機織形埴輪(彩色推定復元、栃木県下野市HP、https://www.city.shimotsuke.lg.jp/0390/info-0000000056-0.htmlより。同https://www.city.shimotsuke.lg.jp/manage/contents/upload/5821824666a85.pdf参照)
左:短い幅の畳機(世田谷区次大夫堀公園民家園展示品)、右:莚機(川崎市立日本民家園展示品)

たたみこも 平群へぐり

 万3843・3885番歌、記31・記90歌謡に、畳に関連して「平群へぐり」という地名が登場している。「畳薦たたみこも」が「平群へぐり」を導いている。言葉の間に関連があると考えられたから枕詞として用いられている。一般に、「平群へぐり(ヘは甲類)」のヘの音を引き出しているからとされている。しかし、他のヘ音で始まる語ではなく、「平群」しか導かない。筆者は、「平群へぐり」のグリ(クリ)とも関わっているからであると考える。「君がく 道の長手ながてを 繰りたたね 焼き滅ぼさむ あめの火もがも」(万3724)と比喩表現があるように、「道」という幅のあるものを「繰る」ことは、蛇腹状にどんどん短くすることを言っている。何重、何十重、何百重、何千重、何万重、何億重になるかはわからない。その際、「たたむ」と同義と解されている「たたぬ」こととは、蛇腹様に「」を重ねていくことと考えられる。万2777番歌にある「へだつ(ヘは甲類)」という動詞を、万2995番歌で「重」と書くことに不自然なところはないのである。「畳薦」が「平群」を導く枕詞である点が確認された。
 「(ヘは甲類)」と「へだつ(ヘは甲類)」の関係を整理してみよう。白川1995.に、「へだつ〔隔(◆(隔の旧字))・障〕 下二段。自動詞「へだたる」は四段。「」を語根とする類義語の「へなる」は、自然に間隔や境界が生まれること。もと空間的な間隔を作る意であるが、のち時間的な、また心理的な状態などにもいう。「へだて」は名詞形。ヘは甲類。」(671頁)とある。語を分解して語源に至ろうとせず、平明でわかりやすい(注6)
 空間的な間隔を作ることが「隔つ」の元の意であるとする説によりながら、万葉集の「へだつ」、「へだたる」、「へなる」の例を見ていく(注7)

 こころゆも おもはずき 山河も へだたらなくに かく恋ひむとは〔従情毛吾者不念寸山河毛隔莫國如是戀常羽〕(万601)
 人言ひとごとを しげみか君の 二鞘ふたさやの 家をへなりて 恋ひつつをらむ〔人事繁哉君之二鞘之家乎隔而戀乍将座〕(万685)
 海山も 隔たらなくに 何しかも 目言めことをだにも ここだともしき〔海山毛隔莫國奈何鴨目言乎谷裳幾許乏寸〕(万689)
 遥々はろばろに 思ほゆるかも 白雲しらくもの 千重ちへに隔てる 筑紫の国は〔波漏々々尓於忘方由流可母志良久毛能知弊仁邊多天留都久紫能君仁波〕(万866)
 たぶてにも 投げ越しつべき 天の川 隔てればかも あまたすべ無き〔多夫手二毛投越都倍吉天漢敝太而礼婆可母安麻多須辨奈吉〕(万1522)
 ひさかたの あまつ印と 水無川みなしかは 隔てて置きし 神代かみよし恨めし〔久方天印等水無川隔而置之神世之恨〕(万2007)
 逢はなくは 長きものを 天の川 隔ててまたや わが恋ひらむ〔不合者氣長物乎天漢隔又哉吾戀将居〕(万2038)
 月見れば 国は同じそ 山へなり うるはいもは へなりたるかも〔月見國同山隔愛妹隔有鴨〕(万2420)
 鳥がの きこゆる海に 高山を へだてして おきつ藻を 枕に為し ……〔鳥音之所聞海尓高山麻障所為而奥藻麻枕所為……〕(万3336)
 …… かしこきや 神のわたりの しき浪の 寄する浜辺に 高山を へだてに置きて ……〔……恐耶神之渡乃敷浪乃寄濱部丹高山矣部立丹置而……〕(万3339)
 月見れば 同じ国なり 山こそば 君があたりを 隔てたりけれ〔都奇見礼婆於奈自久尓奈里夜麻許曽婆伎美我安多里乎敝太弖多里家礼〕(万4073)
 あしひきの 山は無くもが 月見れば 同じき里を 心隔てつ〔安之比奇能夜麻波奈久毛我都奇見礼婆於奈自伎佐刀乎許己呂敝太底都〕(万4076)
 あまらす 神の御代みよより やすの川 中に隔てて 向ひ立ち 袖振りかはし ……〔安麻泥良須可未能御代欲里夜洲能河波奈加尓敝太弖々牟可比太知蘇泥布利可波之……〕(万4125)

 概観すると、ヘダツ(隔)の空間的な離れ方は、距離感によるものではないことがわかる(注8)。万685番歌では、二軒長屋の隣さえも隔てなのであるとする。万1522番歌の天の川は、小石を投げれば届くほど幅の狭い川と捉えられている。万3336・3339番歌は、高山だから隔てるものとして意味があるとも考えられるが、隔てにする、隔てを置くという言い方からは、高山を屏風に見立ててそれを舗設するような気持ちで言っているものと考えられる。万4073番歌も、衛星画像を見ればすごく近いところらしいことを言っている。
 ヘダツという語は、ヘ(辺)+タツ(立)の意(注9)とは解することはできない。言葉がまず先にあり、それを飛鳥時代当時の人がどのように感じ、受けとめていたかである。常に動態として存在する言葉を考えるうえではそれが重要である。万866番歌に、「白雲しらくも千重ちへに隔てる」とあるのは、鰯雲のような白雲が千層のミルフィーユ状態になっていることをもって隔たっていると主張しており、そこから、筑紫国の遠さを表そうとつとめている。つまり、ヘダツのヘとは、一重、二重のヘ(重)のことで、そのヘ(重)によって、両者間のつながりに支障をきたしていると感じられ、用いられていた言葉であると考えられる。山や川や家の壁によって隔てられているとは、村と村との間、家と家との間に自由往来ができないことを言い、間に仕切りを設置して隔絶させられていると述べている。ほんのわずかな絶縁層があることで電気が伝わらないような感覚である。ヘ(重)は仕切りそのことをいう訳ではないけれど、ヘ(重)によって表される屏風のような障屏物がタツ(立)ことで、ヘ(重)によってタツ(断・絶)ことになっていると解されていたと感じられる(注10)(注11)
 ヘ(重)+タツ(立)ことで、ヘ(重)+タツ(断・絶)ことになっていることは、タタミ(畳)という言葉と深くつながっていると感じられよう。奈良時代、屏風は「畳」を助数詞として数えていた。当時の屏風は縁のついたパネルであり、それをつなげて立てていた。唐紙障子と同じく、表と裏の間に格子桟を入れて面を構成している。中空層を持って面となって空間を遮断している点は畳と一致する。「畳薦」が「隔て編む」を導く枕詞となっているのは、意味を重ねていることまでも絡め表そうとした結果なのであろう。自己循環的に語の定義を下して証明としているのだった。

たたみという言葉とは何か

 次に、タタミ(畳)という語自体について考える。古典基礎語辞典の「たたみ【畳】」の項の解説として、「動詞タタム(畳む、タ四)の連用形名詞。タタムは、他動詞として「衣服みけしのみ畳みて棺の上に置けり」〈書紀 推古二一・一二〉や、「屏風の一枚ひとひら畳まれたるより」〈源氏 東屋〉のように、長さや幅のある平面的なものを幾重にも折り返して重ねる意。また、自動詞として、幾重にも重なる意。その連用形名詞タタミは、折り返して積み重ねることが本来の意で、折り畳むことのできる敷物の総称であった。上代では、むしろ・薦こも・毛皮などの類。中古になると、藺草いぐさなどでできた薄縁うすべりをいう。いずれも畳んで持ち運びし、板敷きの床や庭や旅の具などに用いた。神や天皇、貴人たちの座る場所や寝床としても敷かれた。」(718頁、この項、石井千鶴子)とある。
 また、民俗学大辞典に、「古代から『古事記』や『万葉集』などに畳の語がみえるが、古くは、むしろしとね・茣蓙などの薄い敷物も、すべて畳と称し、座臥両用に使用して、普段はたたんでおいたので、「たたみ」の語が生じたといわれている。当時の畳は、薦を数枚重ねて麻糸などで綴じ、表に藺草でつくった莚をかぶせてへりをつけたものであったが、のちに稲藁を綴じ固めた床の上に畳表と縁布をつけた厚畳を畳と称し、縁布をつけない莚・茵などと区別した。」(44頁、この項、松崎哲)とある(注12)
左:畳を運ぶ(一遍聖絵模本、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2591576/22をトリミング)、中:畳を巻く(北野天神縁起模写、神奈川大学21世紀COEプログラム・『マルチ言語版絵巻物による日本常民生活絵引』第1巻本文編http://www.himoji.jp/jp/publication/pdf/seika/101_01/02-125-191.pdf(5/67)をトリミング)、右:ふんわりと畳まれたイグサ上敷(?)(葛飾北斎・冨嶽三十六景・常州牛堀)
 言葉が分化していったのは確かであろうが、今日いうところの畳が、畳んで置かれていたから専売特許のようにタタミと称されたとする説は眉唾ものである。語学的見地に立てば、素材や用途などから、それぞれ別のものであると認識されて別の語として使われるようになっていたと考える。そして、布団を押入へしまう時のように、普段は畳んでおいたのでタタミというという説はあり得ない。タタミ(畳)と称され始めたとき、今日目にするタタミ上敷のような薄地のもの、いわゆる薄縁であった。仕舞う際に畳まれていたとすると、板敷の床の上に広げて使う際、その折ってあった部分が不陸になりかねない。本当に畳んでしまわれていたのか、文献や図様に確かめられない。むろんさまざまな方法があってかまわないのであるが、北野天神縁起に載る畳を巻いている例に対して説明がつかない。一帖ずつ積み重ねられていたとする考え方もあるが、その場合、言葉として命名されるとき、連用形名詞としてならツミやカサネとなったのではないか。それはすなわち、タタミという名詞だけでなく、タタムという動詞についても別の謂われを持つと考える必要があるということである。
筵の上で量り売り(一遍聖絵模本、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2591576/17をトリミング)
 藺草製の畳と稲藁製の莚の様態には明らかな相違がある。第一に、表面の性状、第二に、縁の有無である。表面の性状の違いは、藺草と稲藁という素材の違いにより、緑色と茶色の色合いの違いに表れる。また、その織りの組織の違いにも認められる。莚は茶色い藁の粗放な織り、畳は緻密な織りに特徴がある。絵に描く場合、前者は筋をつけて描き、後者は緑の面として描くのが一般的である(注13)
 莚は、莚機によって日常的に織られていた。稲藁を縒ったものを経糸とし、緯糸も稲藁である。多くの場合、畳同様、かぎ付きのサシと呼ばれる竿に引っ掛けて行って返る。それを繰り返す。片サイドは切れたままで終わる。その部分の始末についてはそれぞれである。藁に太さがあり縦糸と緯糸が交わるところが弱く折れ曲がってくねくねしていっており、放っておいてもすぐにばらけることはない。織り方は平織りである。筵機の棒綜絖の開孔は、一つ一つ山谷山谷の繰り返しになっている。性能からおさとも呼ばれるこの棒綜絖を半回転させて傾きをかえることで、経糸が手前側と向こう側を行き来し、そのたびに緯糸を通せば織りあがるようになっている。出来上がった莚の表面をみると、裏も表もないものであるが、縦にも横にも凹凸を繰り返す。藁(rice straw)自体が空気を含んでいるから、弾力性、保温性が得られる。
 一方、畳の場合、経糸は麻糸である。緯糸が藺草である。藺草の長さは半間あまりにすぎず、行ったきりである。両サイドが剥き出しになる。一帖の畳に藺草は4000~7000本使われる。藁ほどには太くなく、ある程度の硬さもあるため引きつれる心配があり、固く織り、縁を施すか畳床に縫い付けるかする。もともとそういうものとして考案されたものであったのだろう。その織り方は、泥染めしたうえで切りそろえた藺草を、経糸の麻糸2本ずつに交互にくぐらせ、強く押さえていく。経糸を通しておく棒綜絖は、山山谷谷山山谷谷と穿たれており、それを傾けることによって緯糸の藺草を二つ飛びずつ交互に通させる。その結果、表面から見ても裏面から見ても経糸は見えない。結果、絵巻ではただ緑色の面として描かれる。畳の本質は、見えない経糸と経糸の間に、空気の層を形成する点にある。そして、表面はきれいに波打って見える。太さに頼るのではなく、きつく織ることで面として弾力性と保温性を獲得している。
左:イグサ(神代植物公園水生植物園、2016年6月中旬)、右:畳開孔棒綜絖概念図
 筆者は、ここに、タタミのタタミたる所以を見出す。畳んでしまっておくからタタミではなく、叩くようにきつく硬く織られるところに由来すると考える。タタム(畳)とタタク(叩)は同根の語であると考える。その結果、空気層を間に保った面としてもった構成の敷物となっている。藺草の綿密な集合織りによって、藺草繊維一本一本の細い中空構造に加え、麻糸の隠れる部分が空気層となるように、緯糸の藺草が面として重ねられている。層状に構成する織りの構造からの命名である。古典基礎語辞典に記載の、推古紀や源氏物語の例にあった衣服や屏風は、もともとは人の胴や腕が入っていたはずであったり、心木の骨に麻や下貼紙を貼り重ねてその上に本地を貼るから空気の層を伴いながら重なることになる。ふんわりとゆるやかでありながら、重なり合いが起きている状態になる点を捉えてタタムと言っているものと考える。タタミを織っている最中、畳機は垂直機だから屏風を作っているように見えるし、屏風の横つながりのマイクロ化した様子を、畳の整然たる横波に譬えることもできる。そこで、タタミと呼び、「畳」という字をあてている。それ自体に波打ちが幾重にも重なって見える点でヘ(重)であるし、敷物にすれば中空の面状構造がはっきりと上下を隔絶してヘダツ(隔)存在となる。

畳として伝わるもの
左:御床畳残欠(正倉院中倉202、松本・尾形1990.https://shosoin.kunaicho.go.jp/api/bulletins/12/pdf/0000000158(21/36)をトリミング)、右:葡萄唐草文錦褥の麻芯・莚(麻・藺草製、奈良時代、天平勝宝六年(754)、法隆寺献納宝物、東博展示品)
 古代からの伝世品に、正倉院の畳・藺筵、法隆寺の筵が知られる。御床畳の畳については、松本・尾形1990.に、「御床畳残欠 一具(二畳分) 破損が多いが、おおよその構造は、真菰製の粗い筵三枚を二つ折りして重ね合わせて心とし、表に藺筵、裏に麻布、両長側小口に錦の縁裂をあてていたようである。比較的完全な部分の厚さ約四センチ……。」(80頁)と解説がある(注14)
 法隆寺献納宝物の莚部分は、経糸は麻糸かと思われ、緯糸に藺草を使った平織のように見える。きつく叩くように織られている。現在の畳とは織りの組織が異なる。藺筵と呼ばれるのがふさわしいようである(注15)。緯糸に隙間が生まれないように織った次の段階の発想として、経糸を二本ずつの畳織りにして経糸が完全に見えなくした畳表が作り上げられた。上にあげた素材の藺草が泥染めされていたかどうか、筆者にはわからない。織り方の工夫、泥染めするときれいに仕上がるという知恵もすばらしいものであり、端の処理に縁を付けた人、畳床を作ってそれに貼りつけた人、たくさんの知恵の積み重ねの上に暮らしている。私たちは当たり前のこととして顧みることが乏しかった。
 この、波打って層を成して面となる織り方をもってタタミと名づけていたとするならば、言葉に寄せる人々思いは藺草畳の製作段階にまで及んでおり、クッション性を持たせる技法を凝縮させた語であるといえる。
 記上の火遠理命の海神の宮訪問の部分の原文に、「美智皮之畳敷八重、亦、絁畳八重敷其上、坐其上而」とある。新編古典全集本古事記は、「みちのかはたたみ八重やへき、また絁畳きぬたたみ八重やへ其のうへ に敷き、その上にいませて、」(129頁、傍点筆者)と冗漫な訓を付けている。誤りであろう。畳むことで得られる確かなクッション性を畳という語で表している。それが八重にあるからクッション性がなおさら確かになる。旧訓の、「みちの皮の畳八重を敷き、亦、絁畳八重を其の上に敷き、其の上に坐して」が良い。連用形名詞がいまだ動詞の義を保っていたと思われる上代には、「みち」、すなわち、アシカの鞣革一枚をもって、「畳」と呼んだ理由は、その毛皮そのものに求められるものではない。アシカの毛が間に層を成しているとは見受けられない。実際がどうかではなく、語学的な理由があってのことと考える。その古語のミチは、「道」に同音であり、「道の長手」(万3724)を「繰り畳ね」ることが想念されたからであろう。実際、アシカの姿を観察すれば、動きに応じて皮に蛇腹が生じている。畳の細かな凹凸が、その蛇腹に再現されていると見立てられるのである(注16)
左:日に焼けたイグサ上敷、中:カリフォルニアアシカ(ウィキペディア、David Corby様「Sea Lion at Monterey Breakwater」https://ja.wikipedia.org/wiki/カリフォルニアアシカ)、右:サバトラ
 このような類推発想は他にも見られる。「…… 韓国からくにの 虎とふ神を 生け取りに 八頭やつ取り持ち 其の皮を 畳に刺し 八重やへたたみ 平群の山に ……」(万3885)とある。虎の皮に見事な縦縞模様があり、その波模様をもって「畳に刺し」、すなわち、畳状に刺して、という形容につながっている。語学的にも形態的にも凹凸感を認めがたいキツネやノウサギの皮の場合、たとえそれを八重に重ねても、それを畳と評することはなかったと考える。
 用例に、「みちの皮の畳八重やへに敷き、亦、きぬたたみ八重を其の上に敷き、」(記上)、「八重席薦たたみ舗設きて、」(神代紀第十段本文)、「すが畳八重・皮畳八重・絁畳八重を以て、波の上に敷きて」(景行記)、「吾が畳 三重みへの河原の」(万1735)とある。これらの修飾の掛かり方は、「畳」自体が重ねられたものとしてあったのではなく、薄い敷物を重ねたという表現であると解される。実物としては薄いものであるが、その造りや様相、名称が波打ちくものと感じられ、だからくものとしてふさわしい、つまり、くものであると語義認定が定まって、それはもとをただせば、たたみかけるように強く叩いて織られることに由来するもので、ならばタタミなるものは累乗して重ねてこそ語用論的におもしろいと思われたからそのようにしていた、ないしは、そのように見立てられていたということであり、記紀万葉に表現として行われていたのである。シクという言葉の概念にもっとも適する敷物こそタタミということになっている。言葉が言葉を循環的に自己(再)定義することは、無文字時代の人にとって認識を確かならしめる唯一の方法であった。
 凸凸凹凹の棒綜絖から作られたと思われる畳の遺物は、これまでのところ正倉院の「藺筵」類にまでしか遡ることができない(注17)。筆者は、古墳時代後期や飛鳥時代になって、技術的画期をもって完成した経糸二本ずつに織った新型の藺筵に対してタタミなる語をあてがい、畳という漢字で表すことにしたのではないかと考える。

(注)
(注1)「木綿ゆふたたみ」はユフをもって畳に拵えたものとする説がある。万380番歌を例にとり、西宮1990.は、「ユフで編んだ畳(古代の畳は床が無く、折畳めるものであつた)であるが、それを「手に取り持ち」、神に手向けるのであつて、端的に言へば、神に献る幣帛としてのユフ畳である。「木綿畳むけの山を今日越えて いづれの野辺にいほりせむ吾れ」(万6・一〇一七)の歌が、ユフ畳が神への「手向け」の品となつてゐたことをよく表してゐる。このやうに、「畳」の形にするのは、単に繊維のまま神に献るよりも、より手の込んだ、質量ともに上等のものであるべきだとする思想がさうさせてゐるのであらう。」(338頁)、「要するに、[ユフは]カウゾの樹皮から採れる帯紐状の繊維であり、それを懸けたり、結んだりして、神聖な場や物であることを示す具に用ゐられたものであると言ふことができるのである。まさに、和名抄が「祭祀具」として、筆頭に「木綿」を掲げただけのことはある。……このユフは「カウゾの樹皮から取れる﹅﹅﹅」等と上に述べてきたが、正確に言へば、「ユフを作る﹅﹅」のであつて、自然に取れるのではない。荒皮を蒸して剝ぎ、幾度も水にさらし白い繊維を取る、この工程が「作る」であり、ユフ作りの専門家がゐたのである。」(339頁)とする。筆者は疑問をいだく。実態としてどのようなものか知られておらず、万葉集の歌をもって存在を想像しているにすぎない。
(注2)契沖・万葉代匠記に、「へだてあむ数」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2552067/19)と訓んでいる。
(注3)国家珍宝帳(部分、宮内庁正倉院HP、https://shosoin.kunaicho.go.jp/treasures/?id=0000010568&index=8内CO0000001348・CO0000001350をトリミング合成)参照。
(注4)「たたみこも へだて編む数」について、「隔て編み」という編み方のことを示すとする説が、名久井2019.にある。「万葉歌人が詠んだ「隔て編み」の技法で作られた古代の「畳薦」は,民具の[まくり畳]の裏側のように細縄でわらを一目飛ばしに編む「隔て編み」の方法で編んだものであったというのが,自分の得た結論である。「隔て編み」を甚だ手数が掛かるものと認識していた古代人は,たぶん「織席」と「編薦」を対比していたのではなかろうか。つまり畳表として表面に張られる「席」は織物だから1回の動作で端から端までを織ることができるが,それと比較すると[薦編み台]上で一目ごとに「重り」を前後に動かして編んで作る「編薦」に要する手数は「席」の比ではないと認識されていたのであろう。しかも「狭帖」には数枚の「薦」を重ねて厚く作られる場合があったわけだから,「畳薦」といえば,その製作にはきわめて手数を要するものであるというのが万葉時代の人々の共通認識だったのであろう。」(43頁)とし、民具の炭すごの製作方法に「隔て編み」を見出している。
炭すご(宮古市北上山地民俗資料館『資料館だより』№23、平成29年3月31日発行。http://kitakamisanchi.city.miyako.iwate.jp/index/pdf/newsletter23.pdf(6/6)をトリミング)
 とてもユニークな見解で傾聴に値する。ただ、語学的見地からは、「隔て編み」なる言葉が使われた形跡がなく、編み方に「一つはね」に編んでいると言っている。緯糸を二・三列目にずらしながら編むことを「隔つ」ことと捉えることはないだろう。また、「隔て編み」という名詞をもってして「隔て編む」という動詞を説明することは、言葉の成り立ち上、上代に起こりえない。
(注5)阿蘇2010.に、「男に通って来てほしい回数を、「畳薦隔て編む数」と表現したところには、詠み手・歌い手の生活環境の反映があろう。」(514頁)とある。誤読と言い切れないところがある。
(注6)古典基礎語辞典の「へだ・つ」の解説には、「他動詞はタ行下二段活用。自動詞は、上代はタ行四段活用のヘダツとラ行四段活用のヘダタル(隔たる)とがあったが、中古以降、ヘダタルのみが用いられた。ヘは海辺・山辺などのヘ(辺)で、海や山のはし。他の地形との境界となる最も外側の部分。タツは「立つ」。ヘダツは静止した二つのものの中間に境目を置くことをいう。それが妨げとなって、両者がつながり合えなくなることを表す。空間・時間・心理のいずれにも用いる。類義語サク(放く)は、二つのものの一方が移動して間を置くことをいう。」(1072頁、この項、須山名保子)とある。また、同書の「へ【辺】」の解説にも、「さらに、ヘダツ(隔つ)・ヘナル(隔る)という動詞は「ヘ(境界)を立てる」「ヘ(境界)になる」という語源的な意味をもっている。つまり、この動詞には境界という「ヘ」の古い意味がはっきりと含まれている。」(1068頁、この項、白井清子)とある。
 ヘ(甲類)が「辺」の意とすると、いま検討中の万2777・2995・3843・3885番歌の「へだて」や「平群へぐり」のヘ(甲類)、さらには、万1735番歌の「三重みへ」のヘ(甲類)において、畳などの辺、へりのことを含意していることになってくる。ヘ(辺)は中央に対する周辺の意味である。へりをつけない粗雑な畳、薦、筵も、敷物として用を成している。
(注7)ヘナルとヘダタルの語義の違いについては、専論として田野2007.がある。
(注8)ヘダタル(隔)の例には、少し遅れて原義から転じ、「相去ること皆二千由旬をへだたれり。」(石山寺本法華経玄賛、淳祐(890~953)点)の例のように、遠ざかる、離れる、という距離感を示すものが出てくる。
(注9)古典基礎語辞典1072頁。
(注10)僅かに残るアクセントの表記からは、ヘダツのヘが、「辺」であるか「重」であるか定まらない。「八重垣(夜覇餓岐)」(神代紀第八段本文、紀1歌謡)に「上上平上」・「上上上□」、「八百重」(神代紀第五段一書第六)に「上上上」(以上、乾元本)のほか、「二重(赴多弊)」(紀47・49歌謡)に「上上平」、「八重子(野鞞古)」(紀124歌謡)に「上平上」・「上上上」、「八重(野陛)」(紀127歌謡)に「上平」(以上、兼右本)、「単衣(比止閇岐奴)」に「平平平平上」(和名抄)、「辺(陛)」(神代紀第九段一書第六、紀4歌謡)に「平」、「頭辺(摩苦羅陛)」(神代紀第五段一書第七)に「平平上平」、「脚辺(阿度陛)」(同)に「平上□」(以上、乾元本)、「へだつ(阻・複・間)」に(平平上)」(名義抄)とある。
(注11)古典基礎語辞典の「へ 【重】」の解説に、「層を成す造りや構えのものの、一つ一つの層をいう。仕切りともなり、仕切りと仕切りの間ともなる。身にまとう衣服、花びらなどは、「一重ひとへ」「三重みへ」「七重ななへ」「八重やへ」などといい、重なり立つ山、うち寄せる白波、わき立つ天雲などは、「百重ももへ」「五百重いほへ」「千重ちへ」と、大きな数で表す。雪の降り積もるさま、恋心のつのる様子も形容する。宮殿建築の外郭のほうは「外の重」、奥寄りの建物は「内うちの重」といい、自立語のなごりが見える。」(1068頁、この項、須山名保子)とある。この、「仕切りともなり、仕切りと仕切りの間ともなる。」という解説は正鵠を射ている。本居宣長・古事記伝にも、「幣陀都ヘダツと云は、を立と云ことなれば、本はと同じけれども、ソレに二の意あり、一にはをなしてカサぬる意、二には物と物との間をセキつ意にて、隔字は此意にアテたる字なり、」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1041637/1/153)とある。
(注12)有職故実大辞典に、畳は、「坐臥具の一種。帖ともいう。今日でこそ畳は藁でつくったとこの上に草でつくった敷物を縫いつけて板敷の間にしきつめて座敷をつくって生活しているが、時代がさかのぼればさかのぼるほど広い板敷の上に座したり横臥するところにのみ薄縁うすべりをしくだけであった。畳というものは今日の薄縁となんらかわらぬものでこれを幾重にもかさねて用いた。……紫宸殿のような間切のない広間では後世のように畳に一つのきまりがあったわけではなく、『延喜式』をみてもわかるように長短、 幅ともにさまざまの形態があり、畳の種類も蘭・菅・絹・薦でつくられ、これを幾枚もかさねて使用したのであった(『万葉集』)。」(463頁。この項、遠藤武)と説明がある。
 小川2016.に、「タタミの語源については、タ(手)アミ(編)、つまり手編みのもの、という意味から転じたという説(松岡静雄『新編日本古語辞典』)、あるいはタタムという動詞、すなわち用のない時は折りたたむとか、ないし はタタミ上げ(積み重ね)て用いるという用途からきているといった諸説(荻野由之監修『国史大辞典』など、この説を掲げるものが多いが、古く『古事記伝』『嬉遊笑覧』『倭訓栞』などに説くところを一部誤認しているふしがみられる)があって統一的な見解は定まっていない。」(11頁)とし、「タタミとは単にゴザやウスベリと同様なものというよりは、コモやムシロ(時には皮など)を重ね差しにした敷物と解してよいようだ」(15頁)、「古墳時代以前のいわゆる上古のタタミはともあれ、飛鳥・奈良時代の頃(いわゆる上代)には、タタミというものは、同じ形状の敷物を幾枚か重ね差しにするものである。さらに、その多くは薦を幾枚か重ね差しにするか、もしくは一枚の薦にじかに筵をとじつけたうえ、布か皮で縁どりをしたものであったということがほぼ明白になった。」(16頁)、「畳という漢字は、もともと晶と宜とを合成したもので、日を重ねて多い意(夕を重ねた場合の多と同様)を表わしている。のちに晶が畾に変化して現在の畳(畳)の字になるのであるが、こうした字義からみても、それがもともと重畳・複畳・層畳・積畳あるいは畳重という意味を、つまり、日本語のタタミに当てるにふさわしい内容をもっておったことは明らかであり、タタミに畳の字を当てることがやがて一般化し、定義化される必然性があったといえるのではないかと思う。」(17頁)としている。
(注13)絵画の常として、必ずしもそのとおり描かれているとは言い切れない。
(注14)木村1990.に、「現存の御床畳は、ほとんど崩壊寸前の状態ながら二床分あり、その構造は、幅約一二〇cmで、マコモ(薦)製の筵三枚を二つに折って六重にして、一旦綴じ、この表と両短側小口と裏面周までを一枚の藺筵で包み、裏面は白麻布で覆われ、両長側の縁と小口は、白絁の裏打ちのある錦で包まれていたことが、その残欠から、明らかとなった(第36図)。現代の畳縁と同様である。ただ現代の畳の心材は、稲藁のしびがらを綴じ固めたものを用いるが、御床たたみの場合は、薦筵が心材となっている。薦筵は、マコモを二本一組とし、樹皮様繊維の縒緒で捻り編みされている。」(27~29頁)と解説がある。同時に、「正倉院に残されている筵は、全て経に縒りの強い麻糸を用い、イグサを緯にし、緯の藺は経を二本越しに織ったものであり、今日の織り方と変わらない。」(27頁)としている。正倉院南倉151・152の「藺筵」と呼ばれているものも、今日イグサ上敷として市販されているものと同じ作りであり、畳み癖の起こらないような仕舞われ方が望まれたと思われる。端の処理に上品な縁を付けたものもある。つまり、麻糸を経糸にして、イグサの緯糸は二本飛ばしに互い違いに硬い織りを施して作った座臥用の敷物こそ、タタミの出発点、原形であったと考える。織りの組織の観点から「筵」と「畳」を区別するなら、正倉院南倉の「藺筵」は「藺畳」ということになり、敷物に使うという点からは「藺席」と記すのが適切ではなかろうか。「藺席」の読み方はイムシロである。
 なお、正倉院事務所1997.105~107頁の図版のものの解説に、「いずれも今日の畳表や茣蓙の類と同様のものである。……その主なものについては筵のたては藺、よこは稲(わら)である」(239頁、嶋倉・村田1987.参照)とある。タテヨコを逆に呼んでいる点、木村1990.の説明と異なる点など不明である。
(注15)法隆寺宝物の藺筵参照。
藺筵(法隆寺宝物、奈良時代、8世紀、東京国立博物館蔵、ColBase 国立博物館所蔵品統合検索システムhttps://colbase.nich.go.jp/collection_item_images/tnm/N-52?locale=ja#&gid=1&pid=5)
(注16)拙稿「「君が行く 道の長手を 繰り畳ね 焼き滅ぼさむ 天の火もがも」(万3724)」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/d635a0b8f7570a6154ad3497803b48b7参照。
(注17)海外に目を向けると、アッタール遺跡出土の藺草を編んだマットが畳によく似た形状となっている。井1987.参照。

(引用・参考文献)
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新大系本萬葉集 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『新日本古典文学大系1 萬葉集三』岩波書店、2002年。
新編全集本萬葉集 小島憲之・木下正俊・東野治之校注・訳『新編日本古典文学全集8 萬葉集③』小学館、1995年。
大系本萬葉集 高木市之助・五味智英・大野晋校注『日本古典文学大系6 萬葉集三』岩波書店、昭和35年。
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※本稿は、2016年1月稿を2021年1月に大幅に加筆、訂正し、2024年4月に一部訂正、加筆しつつルビ形式にしたものである。

「君が行く 道の長手を 繰り畳ね 焼き滅ぼさむ 天の火もがも」(万3724)

2024年04月20日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 万葉集巻15には、中臣宅守なかとみのやかもり狭野弟上娘子さののおとがみのをとめとの贈答歌が多数収められている。目録に、「中臣朝臣宅守なかとみのあそみやかもり蔵部くらべ女嬬にょじゅ狭野弟上娘子さののおとがみのをとめきし時に、みことのりしてながす罪にことわりて、越前国こしのみちのくちのくにながしき。是に夫婦めをとの別れ易く会ひ難さを相嘆き、おのもおのもいたこころべて贈り答へる歌六十三首」とある。最初の八首は、中臣宅守が流罪と決まったときに交わされた歌とされている。先に狭野弟上娘子が四首歌い、中臣宅守が四首返している。

  中臣朝臣宅守なかとみのあそみやかもり狭野弟上娘子さののおとがみのをとめと贈り答へる歌〔中臣朝臣宅守与狭野弟上娘子贈答歌〕
 あしひきの 山道やまぢ越えむと する君を 心に持ちて やすけくもなし〔安之比奇能夜麻治古延牟等須流君乎許々呂尓毛知弖夜須家久母奈之〕(万3723)
 君が行く 道の長手ながてを 繰りたたね 焼き滅ぼさむ あめの火もがも〔君我由久道乃奈我弖乎久里多々祢也伎保呂煩散牟安米能火毛我母〕(万3724)
 我が背子せこし けだしまからば 白栲しろたへの 袖を振らさね 見つつしのはむ〔和我世故之氣太之麻可良婆思漏多倍乃蘇〓(イ弖)乎布良左祢見都追志努波牟〕(万3725)
 このころは 恋ひつつもあらむ 玉櫛笥たまくしげ 明けてをちより すべなかるべし〔己能許呂波古非都追母安良牟多麻久之氣安氣弖乎知欲利須辨奈可流倍思〕(万3726)
   右の四首は、娘子をとめの別れに臨みて作る歌〔右四首娘子臨別作歌〕
 塵泥ちりひぢの 数にもあらぬ 我ゆゑに 思ひわぶらむ いもかなしさ〔知里比治能可受尓母安良奴和礼由恵尓於毛比和夫良牟伊母我可奈思佐〕(万3727)
 あをによし 奈良の大道おほぢは 行きよけど この山道やまみちは しかりけり〔安乎尓与之奈良能於保知波由吉余家杼許能山道波由伎安之可里家利〕(万3728)
 うるはししと ふ妹を 思ひつつ けばかもとな 行き悪しかるらむ〔宇流波之等安我毛布伊毛乎於毛比都追由氣婆可母等奈由伎安思可流良武〕(万3729)
 かしこみと らずありしを み越道こしぢの 手向たむけに立ちて 妹が名りつ〔加思故美等能良受安里思乎美故之治能多武氣尓多知弖伊毛我名能里都〕(万3730)
   右の四首は、中臣朝臣宅守、上道みちたちして作る歌〔右四首中臣朝臣宅守上道作歌〕

 これらの歌の後も、中臣宅守と狭野弟上娘子の贈答歌は続くのであるが、ここまでが一つの問答群である。中臣宅守は、狭野弟上娘子の歌の内容を受けた形で答えている。本稿では、よく知られた万3724番歌について考察する(注1)

  君が行く 道の長手ながてを 繰りたたね 焼き滅ぼさむ あめの火もがも(万3724)

 狭野弟上娘子の歌った万3724番歌は、恋歌の絶唱、絶叫と評されることが多い。あなたが行く道、その長い道のりをたぐり寄せて 折りたたみ、焼き滅ぼしてしまうような天の火があったらなあ。これをスケールの大きい、恋の情熱のほとばしった歌として好意的に評価するか、表現に誇張があって、巧妙さが鼻につくと非好意的に評価するか、意見が分れている(注2)。だが、そもそも、現状の歌の理解はかなり不可解なものである。
 道を繰っては畳んで焼却してしまうという表現は、比喩として受け容れられていたのだろうか。斬新さが狭野弟上娘子の魅力だとする見方もあるが、その歌を聞く側として、聞いた瞬間に、道路を折り畳むという意味がピンと来るものではない。地震でアスファルトの路面が隆起して道路がぐにゃぐにゃになっているのを目にし、アスファルトが原油由来であることを知っていても、「道」が焼けてなくなるとは思われない。「あめの火」は漢語の「天火」の訓読語かともされている(注3)が、狭野弟上娘子が漢籍を勉強していたのだろうか(注4)。そして歌にして歌うからには、聞く人が聞いただけですぐにわかる言葉づかいがされていなければならない。多くの人が「天火」→「天の火」なる造語があると知っていたとは思われない。「天の火」という言葉はこの歌にしか見られない孤語である。
 「道の長手ながて」という語については、長い道のり、の意、それも、国境を越えても道が続いてなお進んでいくという意味合いを包含する言い方であろう。古代のアウトバーンである。律令国家のインフラとして整備された。その結果、「道の長手」という修辞表現が生れていると考える(注5)。古代の行政単位である「国」を二つながらつないでいて続く道を指している。だから、万3724番歌で「繰り畳ね」と言っているのも、国ごとにある道を屏風のように畳んでいくことを示そうとしているらしくはある。
 新しく墾かれた道である。路面が平らになるように工夫されている。その路面を引き剥がして畳むさまを思い浮かべたとされている。とはいえ、道路を「繰り畳ぬ」が何を指した表現なのか、さらにそれを焼いてなくしてしまおう、そのための「天の火」があったらなあ、と願っている点は、飛躍が甚だしくて理解が追いつかない。我々の理解ではなく、奈良時代当時にそのような言い回しが通行していたのか定かではないということである。作業として具体性に乏しい。歌はあくまでも口にまかせた言葉で作られているものだろう。
 道は新しく国と国とをつなぎ貫いていくように敷かれている。「道」が敷かれるものとする考えは、シク(及)という言葉にあるとおり、後から後から追いついていき、行き渡るように造成されることをもってよくかなう。大規模土木造成工事の結果生まれた官道は、シク(敷)というのに値する。シクを漢字で表した「く」、「く」、「く(しく)」はみな同根の語である。
恋ヶ窪遺跡展示パネル(国分寺市姿見の池。同図は、国分寺市2017.にも記載されている。)
 古代道路の工法としては、場所に応じてさまざまな手法がとられていたことがわかっている。近江2013.によれば、大略、①地盤を造る、②路盤を造る、③路面を造る、④側溝を掘る、に分類される。①では、今日までのところ、掘込作業の跡は道路では見られないが、軟弱な地盤を掘って砂などよく締まる土で埋め戻した例、敷葉工法といって軟弱地盤上に葉のついた木の小枝を大量に敷いてその上に土を盛っていき、流されないように工夫した例が見られる。②では、路盤に石混じりの砂で盛り土をして透水性を高めた例が見られる。③では、路面に砂を敷いたりきめの細かい土に土器片や小石を混ぜ込んで敷いた例も確認されている。茂っている葉を次々に置いていくのを敷葉というほどに、道は敷かれるものとなっていっていた。
 ミチ(道)を敷くという考えから、敷物としてのミチが言葉の上で意識されることとなった。ヤマトコトバでは敷物としてのミチは既存であった。ミチはアシカの古語、アシカの毛皮を敷物にしていた。

 是の時に、おとのみこと海浜うみへたきて、うなだめぐりてうれさまよふ。時に川鴈かはかり有りて、わなかかりて困厄たしなむ。即ち憐心あはれとおもふみこころを起して、解きて放ちる。須臾しばらくありて、塩土しほつつの老翁をぢ有りてまうきて、乃ち無目堅間まなしかたま小船をぶねを作りて、火火出見尊ほほでみのみことを載せまつりて、わたの中にし放つ。則ち自然おのづからに沈み去る。たちまち可怜うまし御路みち有り。故、みちまにまでます。おのづからに海神わたつみの宮に至りたまふ。是の時に、海神、みづから迎へてき入れて、乃ち海驢みちの皮八重やへ舗設きて、其の上にゑたてまつらしむ。……海驢、此には美知みちと云ふ。(神代紀第十段一書第三)

 みちをはるばる伝ってきたホホデミノミコトを、海神は海驢みちを敷いて出迎えている。ミチの話として頓智が効いていてよく理解できる。「可怜うまし御路みち」として想定されているのは、古代官道をイメージしたものであろう。国境を越えて続いていくから、別世界へ辿り着いている。
 そうした考え方により、「道の長手」と呼べるほどのものは、アシカの敷皮が連なっているのと同じことなのだという発想も生まれる。敷皮が後から後から追いかけては追いつくように続いている。つまり、敷皮が敷川になって水が流れるように思われるところが、古代官道、「道の長手」である。水が流れている道は水道で、古代には木樋が使われていた。樋(ヒは乙類)は火(ヒは乙類)と同音である。だから、水道は火の道にも転化しうるのだというのが上代の人たちの考え方である。つまり、ミチとヒ(乙類)とは切っても切り離せない語であり、道は敷くものだから敷物の畳とも大きく関係すると考えられていたのである。
 そのことは、一つには忌詞に展開している。失火のことをミヅナガレ(水流)と呼んだ。火と樋がともにヒ(乙類)で通じ合うから作られた言葉であろう。

 日日夜夜ひるよる失火みづながれの処多し。(天智紀六年三月)

 同様に、ヤマトタケルの物語でオトタチバナヒメが走水で入水した話にも構成、展開している。

 そこより入りいでまして、走水はしりみづのうみを渡りし時に、其の渡神わたりのかみなみおこして、船をもとほして進み渡ること得ず。しかくして、其のきさき、名はおとたちばなめのみことまをさく、「あれ、御子にかはりて海の中にらむ。御子は、つかはさえしまつりごとを遂げて、かへりことまをしたまふべし」とまをして、海に入らむとする時に、すがたたみ八重やへかはたたみ八重、きぬたたみ八重を以て、波の上に敷きて、其の上にしき。是に、其のあらなみおのづからぎて、ふね、進むこと。爾くして、其の后、歌ひて曰はく、
 さねさし 相武さがむ小野をのに 燃ゆる火の なかに立ちて 問ひし君はも(記24)
かれ七日なぬかの後に、其の后のくしうみに依りき。乃ち其の櫛を取りて、はかを作りて治め置きき。(景行記)

 ヤマトタケルの東方遠征では、進む道にいろいろ支障が生じている。まず、相武国で野火の難に遭っている。彼は草薙剣を用いて草を薙ぎはらい、ふくろいて火打石を取り出し、向い火を放つことで対抗できた(注6)。次の試練は走水での波浪の難である。そのときはオトタチバナヒメが、「妾、易御子而入海中。」と言い、ヤマトタケルの代わりに海に入り、波を凪いでいる。き波に対して畳をいて応戦している。苦難に対処する方法、ナグ(薙・凪)を受け継いでいる。焼津の「火(ヒは乙類)」に改めて走水に現れた困難とは、水が馳せるように走る道、人工的な構造物に譬えるなら水道だったことで、今、浦賀水道と呼んでいる。古語に「(ヒは乙類)」と言う。三種類の畳を八重に荒れる波の上に敷いてその上に入水したところ、凪いだのである。「かはたたみ」とあるのは、ミチ(海驢)の皮製であり得る。水が流れるところはカハ(川)でもあるから、カハ(皮)で対抗しようというのである。
左:アザラシの皮を用いた馬鞍の韉(出口公長・竹之内一昭・奥村章・小澤正実「正倉院宝物特別調査報告 皮革製宝物材質調査」『正倉院紀要』第28号、平成18年、7頁・挿図16をトリミング。宮内庁ホームページhttps://shosoin.kunaicho.go.jp/bulletin?p=3)、中:皮が皺々のカリフォルニアアシカ(ウィキペディア、David Corby様「Sea Lion at Monterey Breakwater」https://ja.wikipedia.org/wiki/カリフォルニアアシカ)、右:木樋(奈良時代、平城京いざない館展示品)
 ヤマトタケルは遠征するミチの途上、ヒ(火・樋)の難に遭っている。樋に対して、妻が皮畳を使ってナグ(凪)ことをして難を逃れ、先へ進むことができた(注7)
 万3724番歌では、中臣宅守が流罪で行くミチ(道)(注8)を前にして、妻の狭野弟上娘子は、ミチ(海驢)の皮畳を重ねることでヒ(樋)、それは罪を得て流される道なのだから水道、樋に違いないわけだが、難を逃れさせるのではなく、ヒ(火)の難、ミヅナガレ(失火)に遭わせて先へ進めなくならないものかと思案したのである。ヤマトタケルは天災から逃れる術を工夫し、狭野弟上娘子は天災が訪れることを願った。
 中臣宅守との別れに臨んで狭野弟上娘子が歌った「君が行く 道の長手を」の歌は、無文字時代の言語文化、伝承のネットワークのもとに成り立っているヤマトコトバで歌われていた(注9)。歌を歌うほどの力があるとは、上代の言語能力に長けているということであり、ヤマトコトバを深く認識、洞察していたということに他ならないだろう。言葉を使いこなせて巧みな表現ができ、歌に結晶させることができたのであった。

 君が行く 道の長手を 繰り畳ね 焼き滅ぼさむ 天の火もがも(万3724)
 あなたが流されて行く道の、長い道のりを、ミチ(海驢)の皮だとして引っ張り畳んで、ヤマトタケルの東征の時とは反対に、ヒ(乙類、火・樋)の難を得たまま逃れられず先へ進めなくなるように、失火みづながれのように全部焼いてなかったことにしたいなあ。流罪の流れを止めるような人知の及ばない天のヒ(乙類、火・樋)があったらなあ。

 「天の火」は漢語に由来するものではない。ヒ(乙類)というヤマトコトバが、流れるものとして想定されていることに思いを致し、そうではないヒ(乙類)がどこかにないか、人の世界ではなく、天の世界にそのようなものがあるのではないか。あるのなら欲しいものだ、と言っている。上代のヤマトコトバ使用という点で、当時の人の通念であった言い伝えの話を重厚に歌に込めている。現代の評価とはまったく別の意味で秀歌なのかもしれない。

(注)
(注1)中臣宅守と狭野弟上娘子の贈答歌は巻十五に63首も載せられている。それを「歌語り」とする論(伊藤1975.)があり、それに対する批判(神野志1992.)もある。歌群全体を文学史上いかに位置づけるかという議論になるが、まずもって一つ一つの歌がきちんと解釈されてもいないのに現代的観点から贅言を尽くしても仕方あるまい。
(注2)評価は別にして、解釈としては研究者による最近のものでも、「長い道のりを一筋の帯に見立て、たぐり寄せてたたみ、さらには、その道を焼き滅ぼしてしまうような「あめ」を希求する。スケールの大きな歌ですね。」(松田2021.25頁)「「道の長手」を「繰り畳」むとは意表を突く大胆な発想だが、それほどに強く宅守を引き留めたい衝動に発していることは容易に想像できよう。」(影山2022.255頁)とある。
(注3)「天火焼城門。」(漢書・燕刺王伝)、「自然天火能焼海水。」(大乗本生心地観経・巻第四)などとある。
(注4)目録に「蔵部女嬬」とあり、大蔵省に勤める女官とされるが、キャリアウーマンではなくて雑用係だろう。「女嬬に漢籍的教養があったか否か。和歌も記載時代に入っている。最下級とは言え宮廷に仕え、簡単な漢語知識やそれを和語化する程度の力はあったものか。」(佐藤1978.93頁)との推測がある。漢語「天火」は簡単なのか、和歌が記載時代に入っているのか、いずれも不明である。
(注5) 万葉集に「みち長手ながてを」という言い回しを使った歌は次の5例である。他の歌をまたいで位置する題詞や左注は原文のみを載せている。

  門部王かどへのおほきみの恋の歌一首〔門部王戀謌一首〕
 意宇おうの海の 潮干しほひかたの 片思かたもひに 思ひやかむ 道の長手を〔飫宇能海之塩干乃滷之片念尓思哉将去道之永手呼〕(万536)
  右は、門部王の、出雲守にけらえし時に、部内ぶない娘子をとめく。未だ幾時いくばくも有らずて、既に往来かよふこと絶ゆ。月をかさねし後、またいつくしみの心を起す。仍りて此の歌を作りて娘子をとめ贈致おくる。〔右門部王任出雲守時娶部内娘子也未有幾時既絶徃来累月之後更起愛心仍作此謌贈致娘子〕
 〔大伴宿祢家持更贈紀女郎謌五首〕
 ぬばたまの 昨夜きぞは帰しつ 今夜こよひさへ われを帰すな 道の長手を〔野干玉能昨夜者令還今夜左倍吾乎還莫路之長手呼〕(万781)
  大伴君熊凝おほとものきみくまこりの歌二首 大典だいてん麻田陽春あさだのやすの作〔大伴君熊凝謌二首 大典麻田陽春作〕
 国遠き 道の長手を おほほしく 今日けふや過ぎなむ ことひもなく〔國遠伎路乃長手遠意保々斯久計布夜須疑南己等騰比母奈久〕(万884)
  〔敬和為熊凝述其志謌六首〈并序〉/筑前國守山上憶良/大伴君熊凝者肥後國益城郡人也年十八歳以天平三年六月十七日為相撲使某國司官位姓名従人参向京都為天不幸在路獲疾即於安藝國佐伯郡高庭驛家身故也臨終之時長歎息曰傳聞假合之身易滅泡沫之命難駐所以千聖已去百賢不留况乎凡愚微者何能逃避但我老親並在菴室侍我過日自有傷心之恨望我違時必致喪明之泣哀哉我父痛哉我母不患一身向死之途唯悲二親在生之苦今日長別何世得覲乃作謌六首而死其謌曰〕
 常知らぬ 道の長手を くれくれと いかにか行かむ かりてはなしに〈一に云ふ、干飯かれひはなしに〉〔都祢斯良農道乃長手袁久礼々々等伊可尓可由迦牟可利弖波奈斯尓〈一云可例比波奈之尓〉〕(万888)
  〔羇旅發思〕
 な行きそと 帰りもやと かへり見に 行けど帰らず 道の長手を〔莫去跡變毛来哉常顧尓雖徃不歸道之長手矣〕(万3132)
  〔中臣朝臣宅守与狭野弟上娘子贈答謌〕
 君が行く 道の長手を 繰りたたね 焼き滅ぼさむ あめの火もがも〔君我由久道乃奈我弖乎久里多々祢也伎保呂煩散牟安米能火毛我母〕(万3724)
  〔右四首娘子臨別作謌〕

 よく似た言葉に「長道ながち」とあり、長い道のこと、次の3例が見られる。

  〔柿本朝臣人麿覊旅歌八首〕
 天離あまざかる ひな長道ながちゆ 恋ひ来れば 明石あかしより 大和やまとしま見ゆ〈一本に云ふ、家のあたり見ゆ〉〔天離夷之長道従戀来者自明門倭嶋所見〈一本云家門當見由〉〕(万255)
  〔當所誦詠古謌〕
 天離る 鄙の長道を 恋ひ来れば 明石の門より いへのあたり見ゆ〔安麻射可流比奈乃奈我道乎孤悲久礼婆安可思能門欲里伊敝乃安多里見由〕(万3608)
   柿本朝臣人麻呂の歌に曰はく、大和島見ゆ〔柿本朝臣人麿歌曰夜麻等思麻見由〕
  〔天平勝寳七歳乙未二月相替遣筑紫諸國防人等歌〕
 たちばなの 美袁利みをりの里に 父を置きて 道の長道は 行きかてぬかも〔多知波奈能美袁利乃佐刀尓父乎於伎弖道乃長道波由伎加弖努加毛〕(万4341)
  右の一首は丈部足麻呂はせつかべのたりまろ〔右一首丈部足麿〕〔/二月七日駿河國防人部領使守従五位下布勢朝臣人主實進九日歌數廿首但拙劣歌者不取載之〕

 「長手」と「長道」は同義かとされているが、最後の万4341番歌は両者を混同した例であり、当てにならないと考える。「ひな長道ながち」という言い方は、地方の遠路のことを指している。一方、「みち長手ながて」という言い方には、「今日の今朝」、「木の材木」に似て同語反復がある。
 「みち長手ながて」の対概念として「みち短手みじかて」を想定していたとすると、道には国道のように長いものと、町道、村道のような短いものとがあると認識されていたことによるのではないか。律令制において全国に道路をめぐらせようとし、アウトバーンさながらの直線道路が作られたことが知られている。行政単位としての「国」、大和国、河内国、摂津国、播磨国のそれぞれの国境を越えて続くようにした。現代に当てはめれば、NEXCО各社が運営している高速道路網のようなものについて、「道の長手」という言い方は当たるのだろう。
 とはいえ、歌に詠むとき、「道の長手」の形にしている点は気になるところである。語順が逆さまの「長手の道」のほうが、長く作った道、という意に解しやすい。歌のなかで「道の長手」は、長い道のり、の意として捉えられている。道を進み、国境を越えてもまた道が続いてそこを進む。その点を「道の長手」という修辞表現にしているのではないか。再掲してひとつひとつ検証してみる。

 意宇おうの海の 潮干しほひかたの 片思かたもひに 思ひやかむ 道の長手を(万536)
 ぬばたまの 昨夜きぞは帰しつ 今夜こよひさへ われを帰すな 道の長手を(万781)
 国遠き 道の長手を おほほしく 今日けふや過ぎなむ ことひもなく(万884)
 常知らぬ 道の長手を くれくれと いかにか行かむ かりてはなしに〈一に云ふ、干飯かれひはなしに〉(万888)
 な行きそと 帰りもやと かへり見に 行けど帰らず 道の長手を(万3132)
 君が行く 道の長手を 繰りたたね 焼き滅ぼさむ あめの火もがも(万3724)
 
 万536番歌では、潟の潮干、つまり、満ちたり引いたりするのが本来だが、その片方だけ、引いている時のことしか言っていない。だから、「片思」のことへとつながっている。片方しかないとなると、国境を越えてもう一つの国にも道がある、「道の長手」を行くという状況と相容れなくなる。だから、反語の助詞「や」を用いて不審視する歌を作っている。
 万781番歌では、通い婚で通ってきている男が、昨夜は返され、今夜も返されるとなると、二人の間には国境があるということになる、そんな隔てのある関係でこれからもいようというのですか、と言っている。
 万884番歌は、道が国境を越えてあることを直接表している。
 万888番歌では、「くれくれと」とくり返し言葉が使われている。暗い気持ちで、という意味合いながら、国境をまたいで二つの国でいずれも暗い気持ちで進むから、くり返し言葉を使っている。
 万3132番歌では、行くのと帰るのと、どちらへも動いている。国境を越えても二つながらに道があるのと呼応するように仕組まれている。
 万3724番歌では、「繰り畳ね」と、国境を越えて続く道について、国単位で一枚、一面、一扇として屏風のように畳んでいく様子を示している。

 以上のように捉えられるから、「長手ながて」と「長道ながち」は、ニュアンスを異にすると考えるべきだろう。
(注6)拙稿「ヤマトタケルの野火の難─「焼遺」をめぐって─」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/7e6875cfa711328a15daa6dd1bd77acb参照。
(注7)拙稿「記紀のオトタチバナ説話について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/3ed85f9584a8dc8bdea873cc9eb67423ほか参照。
(注8)中臣宅守は流刑地まで連行されて歩いて行ったものと思われる。「凡そ流移るいの人、 路に在らば、皆たがひ程粮ぢやうらう給へ。粮けむ毎に停まり留まること、二日にすぐすこと得ず。其れ伝馬でんめ給不たまはむたまはじは、時に臨みて処分せよ。」(獄令)、「凡そ行程ぎやうぢやう、馬は日に七十里、かちは五十里、車は三十里。」(公式令)と規定されている。足で歩くのか、それとも馬に乗って行くのか、「伝馬給不」は「臨時処分」である。身分が高いわけではないから無理だったろう。徒歩では一日に26kmほど進むことになっていた。筋肉痛が激しかっただろう。「伝馬給不、臨時処分」の項が知られていたのなら、「海驢みち」が別名、アシカのことであるのは納得がいく。足か? 馬か? は切実な問題である。和名抄に、「葦鹿 本朝式に葦鹿皮と云ふ。〈阿之賀あしか、陸奥、出羽の交易雑物の中に見ゆ。本文は未だ詳かならず〉」とある。
(注9)橋本1997.に、万3724番歌の上三句の発想を古事記神話の「道之長乳歯神みちのながちはのかみ」によるとする説がある。「長乳」は「長道」、「歯」は「岩」を表すかとし、帯の形状からうねうねと続く長い道が連想され、その帯から「繰り畳ね」という表現が生まれたかと推量している。伝承を承けた発想と見ているが、「長道」なるアウトバーンを作るようになって「道之長乳歯神」は想を得たのではないか。ヤマトコトバはずっと厳密に構成されていると筆者は考える。神話が言葉を作っているのではなく、言葉が話を作っている。今、その一部を「神話」と誤解している。

(引用・参考文献)
伊藤1975. 伊藤博『萬葉集の表現と方法 上 古代和歌史研究5』塙書房、昭和50年。
近江2013. 近江俊秀『古代道路の謎─奈良時代の巨大国家プロジェクト─』祥伝社(祥伝社新書)、2013年。
神野志1992. 神野志隆光『柿本人麻呂研究』塙書房、1992年。
佐藤1978. 佐藤美知子「中臣宅守・狭野茅上娘子群歌抄」伊藤博・稲岡耕二編『万葉集を学ぶ 第七集』有斐閣、昭和53年。
橋本1997. 橋本達雄「万葉集の悲恋─中臣宅守と狭野弟上娘子の贈答歌─」久保朝孝編『悲恋の古代文学』世界思想社、1997年。

柿本人麻呂の「夕波千鳥」歌について

2024年04月11日 | 古事記・日本書紀・万葉集
  柿本朝臣人麻呂の歌一首〔柿本朝臣人麻呂歌一首〕
 淡海あふみうみ 夕波ゆふなみどり が鳴けば 心もしのに いにしへ思ほゆ〔淡海乃海夕浪千鳥汝鳴者情毛思努尓古所念〕(万266)

 この歌は、柿本人麻呂が淡海の海、琵琶湖での光景を目にして、天智天皇が都した近江朝時代のことへ思いに耽っている歌と解されてきた(注1)。ただし、細部において意見は分かれており、本当のところはよくわかっていない。近年の通釈書でも、新大系文庫本に、「近江の海の夕波千鳥よ、おまえが鳴くと、心もしおれるばかりに過ぎし日々が思い出される。」と訳し、釈に、「人麻呂屈指の名歌。「夕波千鳥」は体言を重ねた造語。ほかに「山清水」(一五六)など。「汝が鳴けば」の「な」は、二人称の代名詞、多くは男から女に、さらには動植物などにも親愛感を込めて言う。「心もしのに」のシノは、動詞「しなふ」などのシナと同源の語。結句「古(いにしへ)思ほゆ」、既出(一四四)。 近江朝の栄枯盛衰を偲んだ歌であろうか。」(231頁)とある一方、多田2009.には、「近江の海の夕波千鳥よ、お前が鳴くと、心もひたすらに過去のことが思われてならない。」と訳し、釈に、「○タ波千鳥─夕波の上を飛ぶ千鳥。人麻呂の造語。ただし、「夕波」を背景に「千鳥」は岸辺にいるとする説もある。……○心もしのに─「しのに」は、対象にひたすら心が向けられてしまう状態を示す言葉。「しなゆ」の類語とする説は誤り。→二七七九、三九七九、三九九 三、四一四六。○古思ほゆ─「古」は、いまは廃墟となった近江宮の繁栄の過去。「イニシへ」は現在にまでつながると意識される過去。「ムカシ」には断絶感がある。「思ほゆ」は、「思ふ」の自発形。 思わされる。心が「古」への思いにすっかり領有されてしまったことを示す。千鳥の鳴く音が、その思いを引き起こす。」(240頁)とある。
 「夕波千鳥」(注2)、「心もしのに」(注3)、「古」の語について、はっきりしないところがある。
 大浦2007.は、「心もしのに」についての論稿の最後のところで、万3255番歌原文の「小竹」という用字から、シノニという語は「その直線性において、「小竹(篠)」とも通底しているのではないか。」(62頁)と鋭い指摘をしている。
 シノ(篠)という植物は、大型のタケ(竹)、小型のササ(笹)のあいだの、中ぐらいの大きさ、太さのものを指すと考えられている。厳密な区分があるわけではなく、あいまいに区分けして言葉を使っていたとされている。
ヨの続く篠の概念図
 そのシノ(篠)という言葉は、古代の人が、ヨシノ(吉野、ヨは乙類、ノは甲類)という地名について思っていたことと関わりがある。今日の我々から見ればほとんど駄洒落としか考えられないような理解である(注4)。ヨシノとは、ヨ(節、ヨは乙類)+シノ(篠、ノは甲類)の意で、フシ(節)につないで伸びていくこと、ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……なるものとしてあるものと悟っていたのである。ヨ(節)はヨ(代)と同根とされる言葉で、代々続くことを言い表すから、ヨシノ(吉野)は代々続くこと、未来永劫天皇の世が続くことを表すおめでたいところだと考えられていた。ために離宮が造られ、持統天皇はたびたび行幸していた。持統天皇のツボにはまった駄洒落であったようである。
 また、ヨヨという語は、多く「と」、「に」を伴って使われる擬態語・擬声語である。筍のように水があふれだすことを表す擬態語、さらには涙を流しておいおいと泣くことを表す擬声語としても使われた。

 御いづるに、食ひ当てむと、たかうなをつと握り持ちて、しづくもよよと食ひ濡らし給へば、……(源氏物語・横笛)
 開けて見るに、悲しきこと物に似ず、よよとぞ泣きける。(大和物語・一四八)
 八月より絶えにし人、はかなくて睦月になりぬるかしとおぼゆるままに、涙ぞ、さくりもよよにこぼるる。(蜻蛉日記・下)

 源氏物語の例に見るように、竹類は春に筍として出てきて非常に多くの水気を帯びて生育する。小ぶりのシノ(篠)とて同じである。つまり、ヨシノ(節+篠)なるところは「よよ」と瑞々しいのだといい、それはまるで川の流れのたぎつところを思わせるほどであって、その観念のもとに吉野では川こそが持て囃されるにふさわしくあるということになり歌に歌われている(注5)。特にシノ(篠)とされるものは、成長してなお、カハ(皮、葉鞘)の残したままにあるものが多く、だから、水のたぎるように流れるヨシノ(吉野)のカハ(川)こそ、ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……なる概念を具現化したところとして歌に詠まれて宜しとされていたのである。結果、水気の多い状態を表すウル(潤)という語と関連すると考えられて、一緒に使われることがある。

 あさかしは うるかはの 小竹しのの芽の しのひて寝れば いめに見えけり(万2754)
 かむ奈備なびの あさ小竹しのはらの うるはしみ わが思ふ君が 声のしるけく(万2774)

 上代の人たちには、シノという言葉(音)の持つ本意、含意に、小竹の意が絡んでいると認められていた。「心もしのに」という形容句もその観念のもとで成立している(注6)。その点を考慮すれば、標題歌、万266番歌は次のように解釈され直そう。

  淡海あふみうみ 夕波ゆふなみどり が鳴けば 心もしのに いにしへ思ほゆ(万266)

 夕波千鳥よ、お前が鳴いたら、こちらの心もヨヨと泣けてくるもので、それに見合うように淡海の海、琵琶湖は水が満ちている。ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……と何代も何代も遡っていにしえのことが思われる、と言っている。
 「夕波千鳥」という語についても、情景を詠むために造られた言葉であるとばかりとは限らない。たくさんの鳥が鳴いて、その泣く涙を集めたから、湖にはたくさんの水がある。鳥は鳴く時、涙を流さないと考えるのは科学的思考である。ヤマトコトバの発想ではナク(鳴、泣)の一語にまとめられている。一つの範疇を表している。
 このことは、「千鳥」という語にも当てはまる。「千鳥」を詠む歌は万葉集に26例ある。鳥は鳴くものだから、泣くことの譬え、歌では序のように扱われることがあり、泣けば涙が出るから千鳥が水辺にいることと論理的に合致する。理屈が通じるから好まれて、水のあるところ、川や海、瀬、「浦渚うらす」などと絡めて歌われ、20例を数える。特に「佐保」の地と関係して詠まれる例が9例にのぼり、詠み合わせ、歌枕と捉える見方もある(注7)。だが、そうではなく、サホという音が、サ(接頭語)+ホ(百)の意を印象づける点で、チドリという音、チ(千)+ドリ(鳥)と組み合わされている。百と千との数詞つながりで好まれたのである(注8)
 千鳥がよくナクのは、千鳥が今いる場を離れなければならない状況に陥っている時であろう。ぼやぼやしていられない、ああ、嫌だ嫌だ、と泣いていると捉えている。そんな時とは、夕方になって寝るために帰路に就く時や、波が立っておちおちしてはいられない時である。だから、「夕波」に「千鳥」は最もよく鳴く。千羽もいてよく泣くということは、涙がヨヨと流れて、設定されている水がいっぱいの琵琶湖によくかなうことになる。「夕波千鳥」は人麻呂の造語と考えられているが、「千鳥」が仕方なくそこから離れる時のことを思い浮かべて造ったものであろう。
 「心もしのに」についても、心にもヨヨと涙がたくさんあることでありつつ、ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+とヨ(代、世)がたくさんあることが自動的に頭をよぎることでもある。過去へ向かっていれば、かなり遠い時代の天皇の御世のことになる。通説にあるような数代前の天智天皇の御代、近江朝のことを歌っているものではない。なにしろ、千鳥がナクほどである。単位が千なのだから相当前の御代を指している。古の時代のことで、「淡海の海」について人々の間に語り継がれよく知られる話としては、神功皇后とその御子、後の応神天皇が、腹違いの忍熊王おしくまのみこと戦った戦のことがある。最終的に忍熊王は追い詰められ、船から琵琶湖へと入水自殺している。話のクライマックスに当たる部分は歌謡をもって盛り上げられている。

 是に、其の忍熊王おしくまのみこ伊佐いさひの宿禰すくねと、共に追ひ迫めらえて、船に乗り海に浮きて、歌ひて曰はく、
 いざ吾君あぎ 振熊ふるくまが いたはずは 鳰鳥にほどりの 淡海あふみの海に かづきせなわ(記38)
即ち、海に入りて、共に死にき。(仲哀記)
 忍熊王、逃げてかくるる所無し。則ち、五十ちの宿禰すくねびて、うたよみして曰はく、
 いざ吾君あぎ 五十ちの宿禰すくね たまきはる 内の朝臣が 頭槌の 痛手いたではずは 鳰鳥にほどりの かづきせな(紀29)
則ち共に瀬田のわたりおちりてまかりぬ。時に、武内宿禰、うたよみして曰はく、
 淡海あふみの海 瀬田のわたりに かづく鳥 目にし見えねば いきどほろしも(紀30)
是に、其のかばねけども得ず。然して後に、日菟道うぢがはに出づ。武内宿禰、亦うたよみして曰はく、
 淡海あふみの海 瀬田のわたりに かづく鳥 田上たなかみ過ぎて 菟道うぢとらへつ(紀31)(神功紀元年三月)

 この話は言い伝えられていて、飛鳥・奈良時代にも巷間に流布し、通念となっていたものと考えられる。人麻呂は人々の常識に従って歌を作っている。ヤマトコトバで「むかし」は現在につながらない断絶感を帯びている一方、「いにしへ」は現在にまでつながると意識される過去のことを指す。記紀にいわゆる人代として言い伝えられている時代は「いにしへ」に当たるわけである。人麻呂の作歌時点から三十年ほど前でしかない天智天皇の近江朝について、イニシヘ(にし)と形容することはあり得ない。

  淡海あふみうみ 夕波ゆふなみどり が鳴けば 心もしのに いにしへ思ほゆ(万266)

 淡海の海の夕波に千鳥が鳴く。お前が鳴いたら、こちらの心もヨヨと泣けてくるもので、その涙を集めたかのように淡海の海、琵琶湖は水が満ちている。ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……と何代も何代も遡っていにしえのことが自然と思い出される。忍熊王おしくまのみこは行き詰まって、ここ淡海の海に投身自殺した。私の心がしっとりと濡れるのと同じように、さぞかし水に濡れたことであろうから。

(注)
(注1)天智天皇の皇后、倭姫王やまとのひめおほきみ倭大后やまとのおほきさき)の歌(万147・148・149・153)からの連想を説く見方も散見される。
(注2)「棚無小舟たななしをぶね」(万58)などと同様の造語で、「彼[柿本人麻呂]がことばによって日本人の感受性を開拓していった跡を知ることができる。」(西郷2011.175頁)という評は、ヤマトコトバとは何かという根本的問題を踏み外している。
(注3)これまでの諸説や見解については、中嶋2003.、大浦2007.を参照されたい。
 そのなかの一つ、亀井1985.は、象徴的な「しのに」という語の存在により、動詞「しのぐ」、「しなふ」、「しのふ」を互いにパロニムとして古代人は把握していたとする。ところが、「なかんづく、人麿の作は、悲しみをこめて別離をうたってゐるのである。そこへ、単なる類音・・しゃれ・・・を用ゐてゐるとすれば、それは、あまりにも技巧として軽すぎるといはねばなるまいと、わたくしはおもふ。」(108頁)としつつ、言語現象を言語の表現美として捉えるフォスラー一派の学説を引き、「狭義の[社会的に固定した形態として成立する]コンタミネーションは、すべて、パロニミーにおける意味論的価値関係の転換であり、変革である。そして、えせ語源・・・・(étymologie populaire, Volksetymologie)もまた、この点、おなじである。」(109頁)として、「より大なる表現力への欲求から生まれた機能的形態とみらるべきもの」(同頁)として是認、評価している。本稿では、単なる類音と片づけることのできない駄洒落を見出している。言葉が言葉を生んでいく生成論的過程である。
(注4)拙稿「「吉野讃歌」は「吉野讃歌」ではない論」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/2be68298a70ce0aab17ace7832ecd2e0、「「吉野讃歌」は「吉野讃歌」ではない論補論」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/b28999093cc2e134e55a0f0751b4602e参照。
(注5)拙稿「「吉野讃歌」は「吉野讃歌」ではない論」に詳述した。
(注6)拙稿「「心もしのに」探求」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/f8f4a36774d4b3483ae9c62458d2c865参照。
 「吉野讃歌」とされる歌も、「心もしのに」という表現が使われる歌も、万葉集において柿本人麻呂の作を初出と認める傾向にある。ただ、当時の歌を網羅したのかわからない万葉集の用例をもってして表現の発案者が誰であるかは定められない。そして、そのようなことをしてもあまり意味のないことである。言葉は誰かが言い出したからといって言葉になるのではなく、受けとる側が賛同して受容しなければ言葉とならない。今日、表現の創作者としての人麻呂論は数多く展開されているが、眉唾ものとして扱わなければならない。
 なお、シノを詠み込む次の歌は、訓みに問題が残る。

 あきかしは うるかはの 細竹しのの芽の 人にはしのべ 君にあへなく〔秋柏潤和川邊細竹目人不顔面公无勝〕(万2478)

 四句目の原文は「人不顔面」である。これを「しのぶ(ノは乙類)」の意ととっているが、「しの(ノは甲類)と音が違う。奈良朝末期にノの甲乙の対立が消えたとされているが、無理があるように感じられる。
(注7)廣岡2021.76~79頁。
 次のような例を見れば、「千鳥」が鳴くことと作者が心に泣くこととを並立的に詠み合わせているものとわかるだろう。第一例では、涙で水がいっぱいになっていて、海や川のことを絡めて歌っている。第二例では、千鳥が友を呼んで鳴くのと、作者の大神女郎おほかみのいらつめが大伴家持が近くにいなくて涙しているのとを絡めて歌っている。

 意宇おうの海の 河原の千鳥 汝が鳴けば 我が佐保川の 思ほゆらくに(万371)
 さなかに 友呼ぶ千鳥 物思ふと わびをる時に 鳴きつつもとな(万618)

(注6)チドリのチを数詞(千)と意識して作られている例は他にもある。

 かどの の実もりむ 百千鳥ももちどり 千鳥はれど 君そまさぬ(万3872)
 …… 朝猟あさかりに 五百いほつ鳥立て 夕猟ゆふかりに 千鳥踏み立て ……(万4011)

(引用・参考文献)
阿蘇2006. 阿蘇瑞枝『万葉集全歌講義 第2巻』笠間書院、2006年。
伊藤1996. 伊藤博『萬葉集釈注 二』集英社、1996年。
大浦2007. 大浦誠士「「心もしのに」考究」『萬葉語文研究 第3集』和泉書院、2007年。
亀井1985. 亀井孝「「情毛思努爾」『亀井孝論文集4 日本語のすがたとこころ(二)』吉川弘文館、昭和60年。
西郷2011. 西郷信綱『西郷信綱著作集 第4巻』平凡社、2011年。(『万葉私記』未来社、1970年。)
新大系文庫本 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(一)』岩波書店(岩波文庫)、2013年。
大系本萬葉集 高木市之助・五味智英・大野晋校注『日本古典文学大系4 萬葉集三』岩波書店、昭和35年。
多田2009. 多田一臣『万葉集全解1』筑摩書房、2009年。
中嶋2003. 中嶋真也「「心もしのに」考」『国語と国文学』第80巻第8号、平成15年8月。
中嶋2014. 中嶋真也「しのに」多田一臣編『万葉語誌』筑摩書房、2014年。
廣岡2021. 廣岡義隆『萬葉風土歌枕考説』和泉書院、2021年。(「万葉「歌枕」の成立─詠み合はせ・伝聞表現・既定表現から─」『美夫君志』第26号、昭和57年。)

湯原王の鳴く鹿の歌

2024年04月08日 | 古事記・日本書紀・万葉集
  湯原王ゆはらのおほきみの鳴く鹿の歌一首〔湯原王鳴鹿歌一首〕
 秋萩あきはぎの 散りのまがひに 呼び立てて 鳴くなる鹿の 声のはるけさ〔秋芽之落乃乱尓呼立而鳴奈流鹿之音遥者〕(万1550)

 鉄野2011.の訳ならびに「鑑賞」をあげる。

 秋萩が華やかに散り乱れている辺りで、妻を呼び立てて鳴く鹿の声の、なんと遥かなことよ。
 萩と鹿とは夫婦一対のように見なされることが多い。この鹿は散り行く秋萩を惜しんで鳴くのであろうか。その声の「遥けさ」に、この歌の抒情の焦点がある。この語によって、 周囲の静けさが表され、空間が情趣に満たされる。視覚による近景(萩)と聴覚による遠景(鹿鳴)。遠近法によって、風景が立体的に構成されている……。遥かに聞こえてくる音に対する関心は、やはり「地ははるかにして遥蟬を聞く」(せい謝眺しゃちょう「張斉興に答ふ」詩)といった六朝・初唐詩に喚起されたのであろう。鹿鳴は『毛詩』(小雅)に詠われているが、その後の詩には余り見えない。この歌は日本的な景物を、漢詩的な描写法で捉えたものといえよう。湯原王は、詩の方法を摂取した先駆者として、大伴家持に影響を与えたと見られる点でも注目される(注1)(注2)。(105頁)

 的外れな解釈である。
 文法的に、「鳴くなる鹿の」の「なる」は伝聞が表すことは指摘のとおりである。一方、「散りのまがひに」の助詞「に」は、「散り乱れる時にの意。」(稲岡2002.340頁)ではなく、動作の状態を表す用法である。

 時雨しぐれの雨 なくな降りそ くれなゐ にほへる山の 散らまくしも(万1594)
 ゆくりなく 今も見がし 秋萩の しなひあらむ いもが姿を(万2284)
  あまむ かる嬢子をとめ いたかば 人知りぬべし 波佐はさの山の 鳩の した泣き泣く(記83)

 慣用句として用いられている言葉づかいが「散りのまがひ」や「声のはるけさ」に見られる。

 …… 大船おほふねの わたりの山の 黄葉もみちばの 散りのまがひに 妹が袖 さやにも見えず ……(万135)
 世間よのなかは 数なきものか 春花の 散りのまがひに 死ぬべき思へば(万3963)
 夏山の 木末こぬれしげに 霍公鳥ほととぎす 鳴きとよむなる 声の遥けさ(万1494)
 今夜こよひの おほつかなきに 霍公鳥 鳴くなる声の 音の遥けさ(万1952)

 慣用表現を並べて湯原王は何を詠おうとしているのか。
 秋の萩の花が散りまがうような状態に、雌鹿を呼び立てて鳴くという牡鹿の声は、遥かなるものであると歌っている。
 この意が何を意味するのか理解されるに至っていない。なのに、名歌と評されている。
 秋萩に絡めて鹿の鳴く声の遥かなことを歌っている。この「秋萩」という語の使い方は万葉歌に特有のものである。

 吾妹子わぎもこに 恋ひつつあらずは 秋萩あきはぎの 咲きて散りぬる 花にあらましを〔吾妹兒尓戀乍不有者秋芽之咲而散去流花尓有猿尾〕(万120)

 ズハについて、上代の特殊用法などと誤解されている。「は」の前で表している内容は、「は」の後で表している内容と同じことである。たまたま、「は」の前で表している内容に「ず」が含まれている。ただそれだけなのだから、PデナイノハQデアル、つまり、~P≒Qとでも書ける様相を呈している。
 「吾妹子に恋ひつつあらず」ハ「(花にあらませば)秋萩の咲きて散りぬる花にあらまし」ヲ
 彼女に対して恋しつづけないということは、どういうことかというと、もし仮に自分が花であるとしたら、秋のハギが咲いて、散ってしまった、その花であったらよいのになあ、というのと同じことである、という意味である。
 花のなかには椿の花のように花の形をとどめたままに散るものもあるし、蓮の花びらのように散華として手厚く思われるものもある。ソメイヨシノの散る様子を花吹雪として愛でることもある。しかし、一般には、散ってしまった花は見る影もないものが多い。とりわけ萩は花びらが小さく、塵くずのように見える。そんな萩を「秋萩」として歌に採用している。アキハギ(キは甲類、ギは乙類)という言葉(音)は、ハ(葉)とキ(木、キは乙類)(ハギで濁音化)がアキ(飽、キは甲類)てしまった様子を示しているように聞こえる。つまり、散ってしまったあの小さな花弁は、ハ(葉)ギ(木)に飽きられて捨てられた残骸である。花のなかでも恋を表す点では最低、最悪の花、それが「秋萩の咲きて散りぬる花」である。そんな最低、最悪の花になりたいわけはなく(反実仮想)、彼女に恋しつづけると宣言している。PでないのハQであるモノヲ、という論理式風の構文に作っているわけである(注3)
アキハギ
 湯原王の万1550番歌では、そんな秋萩が散りまがうという。ハ(葉)とキ(木)にアキ(飽)られてどこへ行ったかわからない散り方をしている。ちょうど同じように、鹿が異性を呼んで鳴く声が入り乱れていて、それらの声は遠いところから聞こえている。雌鹿に飽きられた牡鹿は、心理的に遠いところにあり、物理的にも遠いところにいるのがふさわしい。
 遠いところから未練がましく鳴いている。どんなふうに聞こえたら一番その状態をよく表すか。
 鳴く牡鹿には角がある。秋になって角が立派になった頃、発情期を迎えて盛んに鳴く。体格がよく角が立派で力の強い牡鹿一頭が十頭ほどの雌鹿を囲うハーレムを形成する。まれに他の強い牡鹿にハーレムごと乗っ取られることもあるが、弱い牡鹿は近づこうとしてはすぐに撃退されている。実際に繁殖するに当たっては、牡鹿一頭が種付けするのには肉体的にも時間的にも限度があり、周囲にいた牡鹿が隙を見て抜け駆け的に子孫を残すことも多いと言われている。それでも、十頭以上の雌鹿を一頭が牛耳っているように観察される。すなわち、他の牡鹿は離れたところでむなしく鳴き声をあげていることになる。
 牡鹿には角がある。異名をカセギというのは、先の分かれた角の様子が糸をかけて巻くのに使うかせによく似ているからである。遥か遠くからカセを頭に着ける鹿の鳴く声が聞こえている。声は風に乗って届いているようなものである。カセ(桛)とカゼ(風)の洒落、ヤマトコトバの概念体系に確かなことを述べている。頓智の効いた歌いっぷりである。遠い所からいくつもの声が同時に聞こえてきている。一つ一つを聞き分けることができずにまがうことになっている。秋萩の花が散ってしまい、もとどこについていた花弁なのかさっぱりわからず、まがうのと同じだというわけである。
 一頭しかハーレムのボスにはなれないから、多くの牡鹿が鳴く声は重なり合って何を言っているのか聞き分けられず、まがうものとなっている。何と言っているのかはっきり聞き取れない声を表すには、「云々しかしかいへり。」(注4)という言い方をした。言葉を表わす際に省略するやり方だが、何と言っているのかわからないながらも発言は確かにあったという場合にも用いられる。ハーレムに近寄れずに遠くから鳴いて呼び掛けるばかりのたくさんの牡鹿の声は、「云々しかしかいへり。」でまさに合っている。鹿だけにシカシカ言っているというのである。
 湯原王はアキハギという言葉に興趣を感じ、繁殖期の鹿のハーレムのあり様を理解しつつ、群れに近寄れない発情期の牡鹿の鳴き声について秋萩になぞらえる形で歌を詠んでいる。ヤマトコトバのおもしろさに感じ入って、なぞなぞのような歌に仕上げている。既存のヤマトコトバを既存のヤマトコトバによって循環的に解説しておもしろがっている。ヤマトコトバを使って知恵の輪を作っている。それ以上のこともそれ以外のことも、何も足し引きしていない。つまりは、この歌には叙景も抒情もない。地口的技巧によって作られた歌、今日の評価基準でいえばくだらない歌である。ヤマトコトバとはいかなる言語体系か、その点を抜きにして万葉びとの心に近づくことはできない。
 萩と鹿の組み合わせは萩の花の咲き散るのと鹿の繁殖期とが秋という季節で合致することはするのであるが、それは単に条件であって、頓智的言葉遊びにかなうことをもって、興趣をそそって多用されるに至ったものである。古典文学で常套的に組み合わせられているのは、その極意が不明になって以降に伝統化していったものである。

(注)
(注1)ほかにも、中西2019.に、「鳴く鹿をよんだものだが、すでに秋萩は視野をまぎらして散りつづけている。その中で鳴く鹿は、姿を明瞭にしがたいのだが、さらに鹿は声だけだという。そして声は遙けきそれであるという。すべては分明でない。しかしそれは 朦朧と霞みこめて不分明なのではない。……王の歌に現れる動物は……すべて鳴き声だけで、姿は一つも歌われていない。王は清らかな物を見る目を持っていたと同時に、鋭敏な聴覚の所有者だったのである。」(219~220頁) とされている。
(注2)鉄野氏は、「万葉集に歌を収める貴族たちにとって漢詩漢文は第一の教養としてあった。何より彼らがかかわる律令制による統治体制がそれをもとめた。 万葉集を可能にした、歌を文字で記し、それを歌集としてまとめるという営み自体、漢詩漢文の教養がなければできないものである。 彼らの漢詩作の一端は『懐風藻』などの漢詩集に見ることができる。万葉集でも漢詩や漢文による序が、とくに山上憶良、大伴旅人・家持にかかわる巻五、十七~十九に見られる。そうした教義の基盤の上に彼らは歌を構想し、表現を模索したのである。」(105頁)と、万葉集作歌の背景に漢詩文があると決めつけているが、防人歌や東歌を並列させて一つの歌集「万葉集」として編むものだろうか。漢詩文の教養をひけらかしたければ漢詩を披露する機会があるのだからそこですればいい。
 人間の思考は母語に基づいて形成される。懐風藻にも万葉集の漢詩文風な序も、はたまた記紀の表記においても、倭習とも呼ばれるエセ漢文が記されている。中国人にわからせるために書記されているのではなく、ヤマトの人たちがどうやって母語を表記したらいいか、模索の過程でさまざまな方法をとり、副産物、派生物としていろいろな形となったと考えるのが妥当である。今日のように外国の文化、特に欧米の文化を受け容れてそれを基にしたテーマパークで楽しんでいても、一般に日常会話を英語で交わしているわけではない。会社でも海外事業を除けば、英語が公用語化されるケースはきわめて稀である。通じ合わなければ共同作業にならない。万葉集でも歌の作者がいくら漢詩文を勉強して表現の幅を広げてみせたところで、相手に通じなければ話にならない。だからそのようなことはせず、慣用表現を組み合わせて少しアレンジして、聞き手の誰もがなるほどと思えるようなものを思案して歌としていた。舎人や采女が聞いているところでウケない歌を詠んだりはしないものである。飛鳥・奈良時代の歌びとは、学校の教室でウケない講義を続けるほど感覚が鈍麻してはおらず、また、万葉集は講義ノートでもない。
(注3)拙稿「万葉集「恋ひつつあらずは」の歌について─「ズハ」の用法を中心に─」についてhttps://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/7d5cf1b67913a2b256382737e8b8d4b3参照。
 ハの前の文で「つつ」とある。二つながらにあることを示している。PハQ、と助詞ハでつながっているから、ハの後の文でも、「咲きて」と「散りぬる」にきちんと照応させてある。あるいはまた、「は(葉)」と「ぎ(木)」でもあり、「はぎ(萩)」=「は(葉)」+「ぎ(木)」と「花」とでもあるのだろう。正確な言葉遊びの才覚を駆使しながら、否定と否定とを両立させる高等表現を展開している。
(注4)「おほみことのりしてのたまはく、「なむぢ軽皇子かるのみこ」と云々しかしかのたまふ。〔策曰咨爾軽皇子云々〕」(孝徳前紀)のような例が日本書紀に見える。

(引用・参考文献)
鉄野2011. 鉄野昌弘「湯原王」神野志隆光監修『別冊太陽 日本のこころ180 万葉集入門』平凡社、2011年4月。
中西2019. 中西進『新装版 万葉の歌びとたち』KADOKAWA、令和元年。(『万葉の歌びとたち 万葉読本2』1980年。)

桜田へ 鶴鳴き渡る 年魚市潟 潮干にけらし 鶴鳴き渡る(万271)

2024年04月01日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 次の歌は万葉集のなかでもよく知られた歌である。

 さくらへ たづ鳴き渡る 年魚市あゆちかた しほにけらし 鶴鳴き渡る〔櫻田部鶴鳴渡年魚市方塩干二家良之鶴鳴渡〕(万271)

 題詞に、「高市たけちのむらじ黒人くろひと羈旅たびの歌八首」とあるうちの一首である。現在の解釈の主流は、「桜田の方へ鶴が鳴きながら渡って行く。年魚市潟は潮が引いたらしい。鶴が鳴きながら渡って行く。▷干潮の年魚市潟に餌を求めて移動する鶴の声。「たづ」は「つる」の歌語である。「桜田」は名古屋市南区元桜田町の周辺か。「年魚市潟」は「桜田」の海浜部であろう。」(新大系文庫本233頁)である。以前は、「見れば作良の田の方へ鶴の鳴きつつ移るなる。かくあるは蓋し、鶴の今まで居たあゆち潟は塩干になりて、魚を求食るに便なくなりしが為ならむとなり。蓋しこれは作者が作良の地より以外にありて、そこよりながめてよみしならむ。」(山田1943.国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1880320/1/88、漢字の旧字体は改めた)と、ツルは年魚市潟から桜田へ鳴きながら飛翔していると捉えていた。桜田と年魚市潟の位置関係が問題となり、現在の名古屋付近の地理について論じられることもあった。
 その議論は不毛である。桜田や年魚市潟に土地勘がなくてはわからない歌が歌われて、それが多くの人に享受されることは考え難い。高市黒人の羈旅たびの歌であり、黒人もその付近の地理に詳しいわけではない。歌が歌われた場で聞いた人も、また、歌を万葉集に採録した人も同様である。知らないところの風景を言葉にされて、それを聞いて情景を思い浮かべられるほど情報化社会ではなく、ツーリズムが流行っていたわけでもない。耳にした人や後から知った人も理解できる歌であったはずである。
 ツルが鳴いて渡っているのを黒人は目にして歌っている。桜田の方へ向かっていて、その理由は、年魚市潟が干潮になったらしいからだと推測している。干潟が現れたらどうしてツルは鳴きながら移動して行っているのか。これまでツルが餌を求めて移動していると思われていた。ツルはどういうところで餌を食べるのかばかり気にかけていた。しかし、鳴き声をあげて進んで行ったら獲物は逃げるのではないか。
ツルの寝姿イメージ
 ツルは水があるところで立って眠る。水位の浅い水があるところで一本足で眠る。水が張っていれば天敵の哺乳類が近づきにくく、水面を伝わってくる波紋で接近を知ることができるからと言われている。年魚市潟でアユ(年魚・鮎)を食べておなかがよくなりウトウトしていたところ、潮が引いて水がなくなってしまった。潟には潮の満ち干がある。キツネでも近づいたのだろうか。あわてて鳴きながら逃げ飛んで行って、水のある田圃のところ、桜田へと移動しようとしている。寝る場所を確保するためである。寝るのだから暗くないといけない。サタというのだから、少しクラくて寝るのに好都合である。アユチガタもサクラタも実際に存在した地名で、その名を使って地口にした歌が万271番歌である。自然詠を志向した近代の短歌界でもてはやされたのとはまったく別の動機、ヤマトコトバの言葉づかいによって作られている。無文字時代にヤマトコトバを使うこととは、頓智や洒落をルールとした言語ゲームであった。

 さくらへ たづ鳴き渡る 年魚市あゆちかた しほにけらし 鶴鳴き渡る(万271)
 桜田へ鶴が鳴きながら渡って行く。年魚市潟は潮が引いたらしい。(潮が引いてまわりに水がなくなったら天敵に襲われかねない。アユを食べて満腹になってその場で寝落ちすることはできない。厳しいな、泣けてくるよと思いながら、寝場所を求めて薄暗がりの名のついた浅い水が常時あるところ、桜田へ)鶴が鳴きながら渡って行く。


(引用・参考文献)
出水市ツル博物館・クレインパークいずみ「ツルの生態」https://www.city.kagoshima-izumi.lg.jp/page/page_80087.html(2023年12月28日閲覧)
新大系文庫本 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(一)』岩波書店(岩波文庫)、2013年。
山田1943.山田孝雄『萬葉集講義 巻第三』宝文館、昭和18年。国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1880320/

湯原王の菜摘(夏実)(なつみ)の川の歌

2024年03月13日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 湯原王ゆはらのおほきみは万葉集に19首の歌を残している。いずれも短歌である。

  湯原王の吉野にして作る歌一首〔湯原王芳野作歌一首〕
 吉野にある 菜摘なつみの川の 川淀かはよどに 鴨そ鳴くなる 山陰やまかげにして〔吉野尓有夏實之河乃川余杼尓鴨曽鳴成山影尓之弖〕(万375)

 「吉野の菜摘の川の川淀には鴨が鳴いているようだ。山の陰になっているところで。」(多田2009.304頁)

 この歌を一言で評すれば、「感のとおった叙景歌。」(古典集成210頁)とするのが通説である(注1)が、誤りである。吉野にあるナツミ川の風情をインスタグラムにアップした歌ではない。
 吉野に、ナツミという川が流れている(注2)。既存の固有名である。その言葉(音)を使って機知ある歌を作っている。吉野にあるナツミ(ミは甲類)という川の流れ方は、ヨシノというナ(名)+ツミ(積、ミは甲類)と積み重ねて表現するに値するものだと思われたのである。ヨシノという名を体現して止まないとするのである。ヨシノは、ヨ(代・世)+シノ(篠)という語呂合わせから、ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……と代々続くところと捉えられてめでたがられていた。このヨ(乙類)という音は、また、助詞のヨ(乙類)と同音である。助詞のヨは、相手に呼びかけ、念を押し、自分の考えを相手に押しつける気持ちを表している。確かに、ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……と、呼びかけのヨが連呼されるとすれば、それは念を押している意であると感じられる。
 そのように、ヨが渋滞して川の流れがとどこおっているから、そこは「川淀」ということになり、歌に歌われている。ヤマトコトバからして、これはおかしなことである。ヨシノがヨ(代・世)+シノ(篠)という語呂合わせからヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……と捉えられるなら、ヨヨと涙を流すように止めどもなく流れ続けることを表すはずである(注3)。川で言えば、たぎと呼ばれるようなところに当たる。川淀かはよどのように滞留していることは言葉の義に反する。川の形状が実際にどうだったかは問題ではなく、ヤマトコトバが撞着しているところに興味が向かっている。上代の人は言葉と事柄とは同じことを示すように志向した。それが上代の人たちの言葉に対する考え方であった。だから、この歌では、自分では確認できないことにしている。実見したわけではないから伝聞の助動詞「なり」を使い、物理的に見ることができないことを「山陰」だからと断って念を押している。助詞のヨの意味を強調し、具現化した構成になっている。
菜摘(吉野町HP https://www.town.yoshino.nara.jp/chomin/kankyo-gomi/post-49.html#natumiti)
 ヨシノという名が積まれたところとして、ナツミなる川の名がたまたま付いていた。ヨシノの地にあるのだから、ヨ(代)の意味のヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……の集積地ということになるだろう、なるだろう、と念を押すヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……なるところである。念を押さなければならないということは、本当のところは定かではないから相手に無理強いをすることになる。本当のところはわからないが、きっとそうだろうという言い方、眉唾ながらの詠嘆を表すには助詞のカモが使われる。助詞のカモのモは本来乙類であるが、早くからモの甲乙の区別はなくなり、鴨(モは甲類)の音と紛れ、万葉集の表記に「鴨」字を当てることがきわめて多い。ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……なるところ「かも」しれないし、ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……なるところではない「かも」しれない、と、鴨が代弁して鳴いているらしいと伝え聞いたと話している(注4)。湯原王は自分で確認することはできない。なにしろ吉野は山の地で、「山陰」のために見えやしないと言い訳を付け加えている。冗談を言っているのだから、マジで受け取られては困るのである。
 このような冗談の歌、言葉遊びの歌、諧謔の歌を前にして、叙景のすばらしさを褒めているとする現代の解釈は如何ともしがたい。湯原王が歌った時の意味とは別方向へ一人歩きしてしまっている。現代人が、聴覚と視覚を組み合わせて立体的に描写した叙景歌であるととるようには、万葉の時代に解されてはいなかった。そもそも、吉野の菜摘の川のうち、淀になっているところで鴨が鳴いているということだ、山の陰になっていて私の視界には入らないが、という意味のことを聞いたとして、上代の人にとって何かの役に立つことはない。湯原王は、万631番歌の題詞脚注に、「志貴皇子之子也」とあるが、続日本紀に系譜、閲歴はおろか、記事にも登場していない。皇族ではあるが重要人物ではない。少しばかり高貴なおじさんの目に、鴨の姿が入るか入らないかなど知ったことではない。
 近代以降、短歌を志す人にとっては、歌の歌い方がうまく、表現に深みがあると評価されることになった。しかし、音声言語でしかなかった時代には局地的な風情など意に介してはいられない。記憶のキャパシティを超えて覚えるに及ばないことは雑音でしかない。文字がないということは、記録がないということであり、検索することもできない。すべてはヤマトコトバの言葉のうちに込められた情報だけで生活していた。言い伝えられながらさまざまな知恵を凝らしたものがヤマトコトバで、ヤマトコトバを伝え聞くことで暮らしの知恵として役立てていた。すなわち、ヤマトコトバをもって歌を詠むということは、何か新しい情報を伝えるためではなく、頓智を凝らして聞き手をおもしろがらせる芸であった。基本的に娯楽作品なのである。うまいことが言えた時にのみ周囲の喝采を浴びて人々の間に歌として共有され、聞き手の記憶に残って拙い表記法で書きとめられ、やがて万葉集にも載ることとなった。人間の記憶には限りがある。叙景にせよ、歌枕にせよ、やりたければやればいいが、聞き手がついて来られない歌が空中をひとたび舞ったとしても、聞き流され、忘れられたに違いあるまい。

(注)
(注1)この歌について、澤瀉1958.は、「第三期の終より第四期のはじめへかけての作、天平のはじめ頃のものであり、優美婉麗の作風で、当時の新風をしめしてゐる。」(386頁、漢字の旧字体は改めた)、西宮1984.は、「この歌も王の代表作で、声調はn音とk音とが重ねられて鴨の鳴声と協和音をかなでる如く、しかも清澄な景色がそれによって鮮明に描かれている。「山蔭にして」とシテ止めにしているのも余情の表現となり、ニシテ止めの先駆をなしたものとして注意される。」(265頁)と評している。また、鉄野2011.は、贅言を尽くしてうがった見方をしている。「湯原王は、……宴席歌や相聞歌も達者であるが、優雅で清新な自然詠に特に優れる。この歌は吉野での作。夏実(菜摘とも)は、吉野宮のあった宮滝よりやや上流で、水の静かに流れるところである。「鴨そ鳴くなる」の「なる」はいわゆる推定の助動詞ナリで、音声が聞こえてくることをいう。それは鴨の姿が見えないことを表すが、一方で、「山影にして」と続けることで具体的に鴨のいる場所も示される。聴覚と視覚とを組み合わせた構成によって、景が立体的に描かれているのである。しかも、第四句と第五句を倒置したうえで、「…にして」と言いさしにしていることで、まるで鴨の声に引かれ山影に誘い込まれていくような余情がもたらされており、まことに効果的である。漢詩の対句には、聴覚・視覚といった感覚の個別性が意識されることが多いが、湯原王の描写法にも、その影響があると考えられる。」(104頁)。
 湯原王の歌全体については、中西2019.に、「湯原王の歌は輝くような太陽の代わりに月を好み、豪快なけものの肢体よりも小動物の声の世界に愛し、優美な新しい風雅の中に歌われた。そしてそれらの中に一点の物思いの曇りもとどめてはいない。」(222頁)、川島2005.に、「湯原王の詠作には、詩嚢の豊かさ、あるいは丹精のこまやかさといったものを、窺うことができる。」(182頁)と評されている。
(注2)「吉野なる」という訓み方も見られるが、原文に「吉野尓有」とあるから「吉野にある」と訓む。周知のことではないのだからそう訓むのがのぞましい。
(注3)中古の例文をあげる。

 御いづるに、食ひ当てむと、たかうなをつと握り持ちて、しづくもよよと食ひ濡らし給へば、……(源氏物語・横笛)
 開けて見るに、悲しきこと物に似ず、よよとぞ泣きける。(大和物語・一四八)

(注4)万葉集中に、鴨が詠み込まれた歌は20例ほどある。そのうち、その鳴き声だけを捉えて歌った歌は、標題歌以外、次の防人歌に限られる。

 あしの葉に 夕霧ゆふぎり立ちて 鴨がの 寒きゆふへし をばしのはむ(万3570)

 歌末の「む」は推量の助動詞である。防人に行って、夕方に葦の葉に霧が立ち、鴨が飛来して寒い夜に鳴き声が聞えるようになったら、絶対にあなたのことを思うだろうと言っている。どこか他人事のような言い方なのは、防人に出掛ける時、別れの時に歌った歌だからである。今はまだ季節が春か夏なのであり、晩秋になって鴨が渡ってきて鳴いたら、という将来を仮定して推量している。将来のことだからそうなる「かも」しれないし、そうならない「かも」しれない。だから同音の「鴨」を登場させて諧謔している。鴨が何と鳴くと聞き分けたか、擬音語化し定着していた言葉は知られない。助動詞のカモを表出させるために方便として登場させている。その点、万375番歌と同じ使い方である。誰もが聞いてわかるようになっている。

(引用・参考文献)
澤瀉1958. 澤瀉久孝『萬葉集注釈 巻第三』中央公論社、昭和33年。
川島2005. 川島二郎「湯原王の歌」神野志隆光・坂本信幸編『万葉の歌人と作品 第十一巻』和泉書院、2005年。
古典集成本 青木生子・井手至・伊藤博・清水克彦・橋本四郎校注『新潮日本古典集成 万葉集一〈新装版〉』新潮社、平成27年。(『新潮日本古典集成 万葉集一』新潮社、昭和51年。)
多田2009. 多田一臣『万葉集全解Ⅰ』筑摩書房、2009年。
鉄野2011. 鉄野昌弘「湯原王」神野志隆光監修『別冊太陽 日本のこころ180 万葉集入門』平凡社、2011年4月。
中西2019. 中西進『新装版 万葉の歌びとたち』KADOKAWA、令和元年。(『万葉の歌びとたち 万葉読本2』1980年。)

弓削皇子と額田王の贈答歌(万111~113)

2024年03月01日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 万葉集に載る額田王ぬかたのおほきみの最後の歌は弓削皇子ゆげのみことの間で交わされたもので、巻第二の「相聞」の部立の歌としてよく知られている。

  吉野宮にいでます時に、弓削皇子の額田王に贈り与ふる歌一首〔幸于吉野宮時弓削皇子贈与額田王歌一首〕
 いにしへに 恋ふる鳥かも 弓絃葉ゆずるはの 御井みゐの上より 鳴き渡り行く〔古尓戀流鳥鴨弓絃葉乃三井能上従鳴濟遊久〕(万111)
  額田王のこたへ奉る歌一首 倭京やまとのみやこよりたてまつり入る〔額田王奉和歌一首 従倭京進入
 いにしへに 恋ふらむ鳥は 霍公鳥ほととぎす けだしや鳴きし おもへるごと〔古尓戀良武鳥者霍公鳥盖哉鳴之吾念流碁騰〕(万112)
  吉野よりこけせる松がを折り取りてつかはす時に、額田王の奉り入る歌一首〔従吉野折取蘿生松柯遣時額田王奉入歌一首〕
 み吉野の 玉松がは しきかも 君が御言みことを もちてかよはく〔三吉野乃玉松之枝者波思吉香聞君之御言乎持而加欲波久〕(万113)

 万111番歌に対して万112番歌が歌われており、万113番歌はそれと同時、または同時期であろうとされ、同じく吉野宮にいる弓削皇子と倭京にいる額田王という位置関係で歌われている。
 すでに説かれているように、弓削皇子が額田王に謎掛けをし、きちんと答えたのが万112・113番歌の「相聞」の実態である。どういう謎掛けをしたかは額田王の和した歌からわかる。ホトトギスである。「古」のことをホトトギスという語が印象づけている。万葉びとには、ホトトギスという言葉のなかにトキ(時)という語を読み取っていた。そして、彼らがホトトギスという語を語構成として考えた形は、語形としてはホト→トギと間髪を入れずに鳴き交わすものとして、語意としてはほとんど時は過ぎるの意として了解されていたと考える。
 中国に「霍公鳥」と書いた例はなく、本邦上代に作られたようである。「霍」は「靃」に同じで、説文に、「靃 飛ぶ声也、雨ふりてならびて飛ぶ者、其の声靃然たり」とあるが羽音を意識したとは考えにくい。むしろ、「霍霍」の義に声のはやいことを表すことがあり、「霍乱」ははげしい吐瀉をともなう病のことである。鳴いて血を吐くほととぎす、といわれるほど口の中が赤く、その鳴き声ははやく、二羽がならんで掛け合うようにかぶせ気味に鳴い交わしているものと思われていたと推測される。すなわち、上代においては、ホト→トギと聞いたということである。語尾のスは鳥名に多く見られ、ウグイス、カケス、カラスなどと同じ用法である。
 そして、ホトトギスという言葉を意味の方から考えると、ホト(ホトホト(殆・幾)の語幹、ホ・トは乙類)+トキ(時、トは乙類、キは甲類)+スグ(過)の約と思われていたと考えられる。ホトホトは白川1995.に、「「ほとんど」の古い形。あることがらが実現しようとする寸前の状態にあること。まだ一歩だけ完全な状態に達していないことをいう。そのような状態にあることを、推測していうこともある。」(680頁)とある(注1)

   夏の相聞
  鳥に寄せたる〔夏相聞 寄鳥〕
 春されば 蜾蠃すがるなす野の 霍公鳥ほととぎす ほとほと妹に 逢はず来にけり〔春之在者酢軽成野之霍公鳥保等穂跡妹尓不相来尓家里〕(万1979)

 この歌は、単にホトトギスの音をもってホトホトへと続く序詞にしているばかりであるが、万葉びとの関心は、言葉の音に注がれていることを知ることができる。
 トギスは、トキスグの転訛(tökisugu → tökisug → tögisu)と捉えられた。その結果、ホトトギスという鳥の名は、ほとんど時は過ぎるという意味になる。この洒落の意味において、ホトトギスという言葉は興味深く迎え入れられている。アプリオリにホトトギスという言葉があり、それを万葉時代に独自の解釈を行っておもしろがって使い、意味の派生、展開を楽しんでいる。

 信濃なる 須我すが荒野あらのに 霍公鳥 鳴く声聞けば 時過ぎにけり〔信濃奈流須我能安良能尓保登等藝須奈久許恵伎氣婆登伎須疑尓家里〕(万3352)
  右の一首は、信濃国の歌〔右一首信濃國歌〕

 この歌は、スサノヲが清々すがすがしいと言った須賀すがの宮の話に準えた歌である。出雲ではなく信濃にあり、八重垣をめぐらせる宮があるようなところではなくて荒れた野である。これはいったいどういうことか。それをホトトギスが鳴いて教えてくれた。ほとんど時は過ぎる、ほとんど時は過ぎる、と鳴いていて、なるほど時間は経過していて、空間的にも離れたところにたどり着いたものだと気づかされた、と歌っている(注2)
 ホトトギスは、ほとんど時は過ぎるということだから、古いことを示す語とともに用いられている。「いにしへ」という語も該当する(注3)

  霍公鳥のくを聞きて作る歌一首〔聞霍公鳥喧作歌一首〕
 いにしへよ しのひにければ 霍公鳥 鳴く声聞きて 恋しきものを〔伊尓之敝欲之怒比尓家礼婆保等登藝須奈久許恵伎吉弖古非之吉物乃乎〕(万4119)
 いにしへに 恋ふらむ鳥は 霍公鳥ほととぎす けだしや鳴きし おもへるごと(万112)

 額田王の万112番歌については、中国の蜀魂伝説と結びつける解釈が、はやくは北村季吟・万葉拾穂抄(秋田県立図書館デジタルアーカイブズhttp://da.apl.pref.akita.jp/lib/item/00010001/ref-C-438484(10/59))から行われてきた。しかし、額田王が中国の逸話を熟知して拡大解釈するほどの勉強家であったとは伝えられておらず、想定することも困難である(注4)
左:「弓作り・弦売り」(東坊城和長・職人尽歌合、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2541160/21をトリミング)、中:ユズリハ、右:居眠りをする宿直の傍らに置かれた弓、箙に入れられた矢、弦巻(春日権現験記絵摸本、板橋貫雄摸、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1287489/10をトリミング)
 弓削皇子の歌い掛けに、「弓絃葉ゆずるは御井みゐの上より鳴き渡り行く」とある。弓削という名を負っているから、弓を削り作る人としての言にふさわしくあるべくして弓具に関連する弓弦ゆづるつながりの植物を持ち出している。弓絃葉ゆづるはは今日いうユズリハ、トウダイグサ科の常緑高木である。春に出た新葉が大きく整った頃に古い葉が落ちて、もとからある葉が新しい葉に譲っているように見えるのでその名がついたとされている(注5)。また、その用字に見られるように、上代の人の考えの中では弓弦と関係を持っていそうである。弓の弦は弦巻に巻いて控えとしていた。葉が控えとしてあることがユズリハの意なら、弓弦が弦巻に巻かれていることは言葉の義によく合致している。言葉は事柄であるとする上代の人たちの考え方にかない、わかりやすいものであったろう。
 弦巻のように巻くもので「御井みゐ」と呼ばれる井戸と関係がありそうな事柄は、井戸滑車のことと推測される。円形に従って同じように蔓が巻きつけられている。「御井みゐ」には、滑車を備えた車井戸を有するものがあったものと考えられる。車井戸では、一つの甕(桶)が登場するとき、もう一つの甕(桶)は落ちていく。ユズリハの落葉に擬せられる。
 考古学では、出土品が見られず、絵巻物などの絵画資料に描かれることがないから、井戸に滑車を用いた例は近世になって出現したとされている(注6)。しかし、万葉歌の比喩的用法を鑑みるに、上代にすでに存在していたとしなければならない。前近代のものの考え方として、技術が知られていないから使われていなかったととると事を見誤ることになる。船の帆をあげる滑車が使われていたのは、他に代替できずに航行に欠かせない必須アイテムだったためである。井戸の場合、滑車を細工して作ることとその便益とを比べた時、人力で引き揚げることが可能で、身近な井戸に設置した場合に子どもが遊ぶと危険で、ほかに撥ね釣瓶井戸にする方法も知られていたから、中古・中世にかえって廃れていたと考えたほうが妥当であろう。古墳時代の形象埴輪に象ったものがいまだ見られないので、それ以降に移入されたものかと思われる(注7)
左:一乗谷朝倉氏遺跡の復原井戸、中:灰陶井戸(前漢時代、前3~後1世紀、茂木計一郎氏寄贈、愛知県陶磁美術館展示品)、右:漢代の井戸(明器、左から偃師県中州大渠・洛陽焼溝・洛陽唐寺門出土、余静・王涛 「両漢墓葬出土陶井的考古類型学研究」中国人民大学復印報刊資料http://rdbk1.ynlib.cn:6251/qw/Paper/531527#anchorListをトリミング結合)
 明器の「漢代の井戸」に見られるもののうち、左と中はいわゆる車井戸、右は轆轤井戸である。前者は甕(桶)がロープの端にそれぞれ付けられていて片方が下りればもう片方が上がる仕組みである。後者はロープの片方に甕(桶)が付けられていて、もう片方は人が握り、幅広の滑車を利用して体重をかけて楽に引き上げる仕掛けである。いま、弓削皇子が「弓絃葉ゆずるは御井みゐ」と言っているのは前者に当たる。片方が上がればもう片方が下がる。ユズリハの新葉、旧葉のように、呼応、連動するメカニズムである。その時、滑車はきしむ音をあげる。その音は何の鳥が鳴いている声と聞きなすか。間髪を入れずに声をあげていると目される鳥は、ホト→トギと鳴くと思われていたホトトギスである。そのホトトギスは、ほとんど時を過ぎる、の意であるとも思われていたから、弓削皇子は「いにしへに恋ふる鳥かも」と形容しているのである。その謎掛けは倭京にいる額田王にすぐに通じ、一・二句目がほとんど同じ「和歌」を返し奉っている。
 また、万113番歌の題詞、「従吉野‐取蘿生松柯遣時、額田王奉入歌一首」にある「蘿生松柯」は、コケのついた松の枝のこととする説と、サルオガセの巻きついた松の枝とする説(注8)がある。和名抄に、「蘿 唐韻に云はく、蘿〈魯何反、日本紀私記に蘿は比加介ひかげと云ふ〉は女蘿なりといふ。雑要决に云はく、松蘿は一名に女蘿といふ。〈万豆乃古介まつのこけ、一に佐流乎加世さるをがせと云ふ〉」とある。サルオガセは樹皮に付着して懸垂する糸状の地衣類のことである。命名の由来は、サル(猿)+ヲ(麻)+カセ(桛)の意であろう。ヲガセ(麻桛)は麻糸を桛木かせきに巻きつけていく様子を示している。森のなかでそのような様が見られるからには人のすることでなく、木登り上手な猿の仕業であろうと考えてその名があるのだろう。ここでは、松の枝に何らかの地衣類の付いたものを弓削皇子が折り取って、吉野から都にいる額田王のもとへ贈ったことに対し、彼女は歌を返しているように受け取れるから、弓削皇子と額田王との間で二度やりとりされていると考えられないこともない(注9)。 
左:ナガサルオガセ(Shu Suehiro様「ボタニックガーデン」https://www.botanic.jp/plants-na/nasaru.htm)、中:桛で糸を巻く(板橋貫雄模、春日権現験記・第9軸、明治3年(1870)、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1287494/9をトリミング)、右:鹿杖かせづゑ(同、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1287494/5をトリミング)(注10)
 なぜそのような桛木が送られているのか。額田王はこれまでずっと行幸に参加してきた。内閣官房付きの歌人である。場を盛り上げるために歌を歌う大役を担い十分な活躍を見せてきた。けれども、今回の吉野行幸には参加していない。足が不自由になって同道できなかったのである。都にとどまっている彼女に吉野の状況を伝えつつ、慰みにもなる贈り物として考えられるのは杖である。そこで、鹿杖かせづゑが求められ、洒落で鹿角のような枝分かれした桛木が贈られている。
 なぜわざわざ「蘿」の着生したものを選んでいるのか。サル(猿・猨)で思い浮かぶ「いにしへ」話はサルタヒコ(猿田毘古神、猨田彦神)のことである。衢にいて道案内をする神である。杖の役割にふさわしいと考えられる。樹種に「松」である点は、松葉が二股に分かれた形姿をしているから、鹿杖の先が分かれていることを示すのにちょうどいいと考えられたからであろう。ひょっとすると額田王は骨折かなにかしていて、松葉杖を必要としていたということかもしれないが、鹿杖の松葉杖転用例はこれまでのところ知られてはいない。今後の研究課題である。
 すなわち、万113番歌の題詞の主語は弓削皇子で、万111番歌が贈られたときに使者の手に持たせた品であると考えることができる。サルオガセのついた松の枝、すなわち、鹿杖に当たる桛木を手にし、記憶としては万111番歌を持たせて遣わされている(注11)。だから、万112番歌を返しているし、そのためには、確かにこの使者は用命をきちんと果たしていると確かめられなければならないわけであるが、それができているということが、「君が御言みことを持ちてかよはく」と確認している。あなたの従者はちゃんとお使いを果しましたよ、という受取証として万113番歌は機能している。
 和名抄の記事にあるように、「蘿」は松に着いた苔のことであり、また、サルオガセでもあると認識されていたようである。「従吉野‐取蘿生松柯」と状況説明されている。吉野については、その地の名がヨシノということをもって、ヨ(節・代)+シノ(篠)の意に解されて、何世代にも渡って長く続く誉れある地と持て囃された(注12)。したがって、吉野の地にあって、常盤木にして永久を思わせる松の木に、さらに苔生している枝、その苔の一種がサルオガセであるが、それを折り取って都へと贈ったとすれば、なるほど弓削皇子の謎掛けで言いたいことは、ものすごく古い時代からずっと続いていることを表したいのだとわかる。「君が代」と同様の使い方であり、万葉集にも例がある。

   寧樂宮ならのみや
  和銅四年歳次辛亥、河辺宮人かはべのみやひとの姫島の松原に嬢子をとめかばねを見て悲しび嘆きて作る歌二首〔寧樂宮/和銅四年歳次辛亥河邊宮人姫嶋松原見嬢子屍悲嘆作歌二首〕
 妹が名は 千代に流れむ 姫島の 子松こまつうれに こけすまでに〔妹之名者千代尓将流姫嶋之子松之末尓蘿生萬代尓〕(万228)

 弓削皇子は、額田王の長寿を祝うためではなく、万111番歌の謎掛けのヒントとして「蘿生松柯」を寄こして来た(注13)。ずいぶん洒落たことをするじゃないかと額田王は弓削皇子に言いたかった。それが万113番歌である。形容詞ハシの用例を並べてみる。

 み吉野の 玉松がは しきかも 君が御言みことを もちてかよはく(万113)
  宴席に雪、月、梅の花を詠む歌一首〔宴席詠雪月梅花歌一首〕
 雪の上に 照れる月夜つくよに 梅の花 折りて贈らむ しきもがも〔由吉乃宇倍尓天礼流都久欲尓烏梅能播奈乎理天於久良牟波之伎故毛我母〕(万4134)
  右の一首は、十二月、大伴宿祢家持の作〔右一首十二月大伴宿祢家持作〕

 ハシは、いとしい、可憐だ、慕わしい、愛らしい、といった意である。「しき」にはちょっと気の利いたことをしたくなるというもので、花の咲いている枝を折り取ってプレゼントにしてみるような、そんな相手が欲しいと言っている。額田王も、「蘿生松柯」を折り取ってくるとなんて粋なことをするねえと、ハシという言葉で形容している。
 万113番歌の題詞にある「蘿生松柯」は、「君が御言みことを持ちてかよはく」ことの「御言みこと」、すなわち、謎掛けの歌である万111番歌の問いについて、それを解くための重要なヒントとして働いている。「蘿生松柯」は、ものすごく古い時代からずっと続いて来ている、さて、それを表す鳥はなーんだ? と問うています、と重ねて示しているわけである。額田王はヒントなしに答えがわかって万112番歌を歌い、「蘿生松柯」を目にしてなかなかやるねえと思い、万113番歌を追って歌ったのであろう。すなわち、吉野宮と倭京とのやりとりは一回きりである。若い弓削皇子が、ヤマトコトバの言語遊戯のルールのなかで謎掛け形式の歌を贈ることにより、都にとどまったままの老練な歌詠み、額田王の無聊を慰めた、そのやりとりを録したのがこの相聞歌であった。

(注)
(注1)月野2001.は、以下にあげる万3352番歌を引き、「「時過ぎにけり」と聞くことのできる霍公鳥だからこそ、やがて「懐旧」の鳥と理解されるに至ったと考えておきたい。」(9頁)としている。筆者の説は、ホト→トギと間髪を入れず呼応する声であると名を見立てたことと、ほとんど時は過ぎるとの意を名が表しているとすることとの合わせ技と見ている。拙稿「万葉集のホトトギス歌について」参照。
 上代の人にとって、ホトトギスの鳴き声ではなく、ホトトギスという呼び名にしか関心がなかったと考える。なぜなら、彼らが世界を表すのに使うのは言葉であり、その言葉は音声言語でしかなく、なぜそう呼ばれるようになったかは当時すでに不明であったが、彼らなりに考えて共通認識として分かち合おうとしていたに違いないからである。すなわち、世界を言葉によって表すのと表裏一体の関係にあること、言葉が世界を表すことに関心の中心があった。
(注2)この歌についても拙稿「万葉集のホトトギス歌について」参照。
(注3)ムカシは「」で、自分や自分の知る人が体験した出来事から時間が経過して、目の前の現実とは離れて記憶のなかにのみとどめられている過去のことであるのに対して、イニシヘは「にし」のことで、過ぎ去ってしまっていて伝承などで耳にすることはあっても、再確認することのできない遥か遠い過去のことを表している。万111・112番歌の「いにしへ」を諸説のようにたかだか20年前の天武天皇代の壬申の乱のことととるのは、言葉の義に合わない。万111・112番歌の「いにしへ」について、契沖・万葉代匠記(初稿本)に、「天武のもろともにみゆきしたまひし折をこひおほしめすとなるへし。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/979062/220~221)として以来、天武天皇代の吉野行幸時、ないしは、壬申の乱前の天武天皇の吉野雌伏のこと、あるいはまた、天智天皇の近江大津宮時代のことを言っているとする説が行われている。21世紀のものでも、阿蘇2006.、多田2009.、梶川2009.、新大系文庫本萬葉集などに見られる。また、影山2022.は、額田王にとって亡夫でもある天武天皇のことを偲ぶものであるとしている。
 年を重ねた人が若いころを懐かしんだとして、それをイニシヘと言っていた可能性はきわめて低い。当人は生きているから、「にし」ていないからである。岩波古語辞典に、「過ぎ去って遠くへ消え入ってしまったことが確実だと思われるあたり、の意。奈良・平安時代には、主として、遠くて自分が実地に知らない遙かな過去、忘れられた過去などの意に多く使われた」(124頁)との指摘がある。
 記紀万葉時代のホトトギスにまつわる「いにしへ」話として代表的なものとしては、田道間守たぢまもり(多遅摩毛理)の話がある。常世国とこよのくにに橘の実を求め帰還してみると、時間は経過していて捧げるべき垂仁天皇はすでに亡くなっていた。ほとんど時は過ぎる状態が生じていた。実地では知らないが話としてそう伝えられている。結局、田道間守自身は後追い自殺をしている。「にし」のことである。万葉集でホトトギスがタチバナとともに使われる例が多いのは、その話が人々のあいだで共通に認識されていたからである。

 大和やまとには 鳴きてからむ 霍公鳥 が鳴くごとに き人おもほゆ〔山跡庭啼而香将来霍公鳥汝鳴毎無人所念〕(万1956)

 この歌は、ナキ(鳴)とナキ(亡)との掛詞に過ぎないかもしれないが、垂仁天皇の御陵は奈良市佐紀にあって「大和」のことである。田道間守もその御陵で叫び哭いて自死している。
(注4)月野2001.や影山2022.は否定的見解を述べており、触れていない注釈書もある。だが多くは、中国の故事に触れて説明しようとしている。21世紀に入ってからのものでも、阿蘇2006.、多田2009.、梶川2009.、伊藤2009.、廣川2019.に見られる。中国の伝説を知るには、中国人から直接、ないしは間接に話を聞くか、書物を読んで目にするか、いずれかがなければならない。そのことは日本の伝説を知る要件と何ら変わるところではない。日本の昔話は幼少期から聞かされていたと考えられる。額田王もそうして知ったであろう。古事記も日本書紀も成立する前に成人している。そして、額田王の歌には、口誦性が指摘されている。文字で書いて歌が作られているわけではなく、口に出して暗誦しながら一首として世に送り出している。身﨑1998.は「〈口誦〉から〈記載〉への和歌史の転換期をいきぬいた」(42頁)、梶川2009.は当該歌について「明らかに文字で遣り取りされた歌だ」(268頁)としているが、誤認である。彼女は生涯、文字の読み書きをしなかったであろう。律令制にもとづいた文書主義的なお役所仕事が始められた頃に、額田王はこの最後の歌を歌っている。年配の女性が必要もないのに一から字の読み書きを勉強を始め、ふだんは借り受けられない舶来の書物まで手にして読むことができたとは考えにくい。蜀魂伝説を知ったのは華陽国志・蜀志に所載のものそのものではなく、引用文を参照したとしても、よほど吹きこまれなければ通暁することはないであろう。説文に「巂 周燕也。从隹、屮象其冠也。㕯声。一曰蜀王望帝、婬其相妻、慙亡去、為子巂鳥。故蜀人聞子巂鳴、皆起云望帝。」、芸文類聚・巻六に「十州忠曰。蜀王杜宇、自号望帝。」、文選・蜀都賦の「碧出萇之血、鳥生杜宇之魄。」部分の注に「蜀記曰。昔有人、姓杜名宇。王蜀号曰望帝。宇死。俗説云。宇化為子規。子規鳥名也。蜀人聞子規鳴皆曰望帝。」と見えはするが、学究精神を持ち合わせていなければわかるものではない。我が国でこの逸話をヒントに記されたものとしては、菅家後集・叙意一百韻の「啼声鵑杜乱」部分があげられている。飛鳥時代に文化人のサロンがあり、「香炉峰の雪いかならむ」などと言って悦に入っていたのに似た事例として蜀王望帝の逸話が楽しまれていたとは知られず、行幸にも参加できなくなっている額田王のまわりで行われたとも思われない。
 伝来した中国の書物を読んで理解したとして、鳥名のホトトギスを、万葉集に「霍公鳥」と記しているが、中国の書物にそのような字面を見出すことはできず、「子〓(圭偏に鳥)」、「杜宇」、「子鵑鳥」、「杜鵑」、「巂」などと見える。なぜそれらの用字を万葉集が用いずに「霍公鳥」とばかり記すのか、説明されたことはない。
 現代の研究者は、長期間にわたる学習経験を経ているが、万葉歌人の歌詠みはそうではなかった。まずもって学校というものがない。ひとり博覧強記なことを言ったからといって、聞く側にそれを勉強する気がなかったら、その場においてコミュニケーションは成り立たない。一般民でもわかるから声を出して歌うことができる。したがって、通じない歌は記録されることはない。弓削皇子と額田王の間だけで通じたのだという考え方は棄却されなければならない。人々の間で歌われた歌を書いて残そうとする営みにおいて、当事者にしかわからないものは、その最初の書記化の段階のおいて記録して残そうとはしない。多くの人に理解されたから伝えて残そうという意欲が起こり、題詞や左注をつけて状況を説明し理解の助けとしている。蜀魂伝説は七夕伝説とは違い、他に用例がなく、後代にほとんど続いていない。当時の人々に共有されていた常識ではなかった。現代人にとってよくわからない歌があると、すぐに漢詩文の影響を指摘しようとする向きがある。しかし、万葉集が歌われた人々の間は、歌界と呼ぶに近く、学界と呼ぶには遠いところであったろう。
(注5)万葉集には他に一首、ユヅルハの例が見られる。

   譬喩歌〔譬喩謌〕
 へか 阿自久麻あじくまやまの 弓絃葉ゆづるはの ふふまる時に 風吹かずかも〔安杼毛敝可阿自久麻夜末乃由豆流波乃布敷麻留等伎尓可是布可受可母〕(万3572)

 他の語源説に、葉の形が弓の弦のようだとする説もある。また、ウツル(移)は古語にユツルとも言ったことと関係するかもしれない。弓弦の例とユツル(移)の例をあげる。ユツル(移)の例が月とともに用いられるのは、時の移ろいを月齢、太陰暦で数えていたことからイメージを膨らませているものと考えられる。

 梓弓あづさゆみ すゑ原野はらのに 鷹狩とがりする 君が弓弦ゆづるの 絶えむとおもへや〔梓弓末之腹野尓鷹田為君之弓食之将絶跡念甕屋〕(万2638)
  池辺王いけべのおほきみうたげうたふ歌一首〔池邊王宴誦謌一首〕
 松の葉に 月はゆつりぬ 黄葉もみちばの 過ぐれや君が 逢はぬ夜の多き〔松之葉尓月者由移去黄葉乃過哉君之不相夜多焉〕(万623)
 まそ鏡 清き月夜つくよの ゆつりなば おもひはまず 恋こそされ〔真素鏡清月夜之湯徙去者念者不止戀社益〕(万2670)
 ぬばたまの 夜渡る月の ゆつりなば さらにや妹に 吾が恋ひらむ〔烏玉乃夜渡月之湯移去者更哉妹尓吾戀将居〕(万2673)
 天の原 富士の柴山 くれの 時ゆつりなば 逢はずかもあらむ〔安麻乃波良不自能之婆夜麻己能久礼能等伎由都利奈波阿波受可母安良牟〕(万3355)

(注6)鐘方2003.に、「日本では、滑車による揚水が近世までみられないようなので、このような[井戸滑車を備えるべき]構築物がそれ以前の井桁上に存在した可能性はほとんどない。」(13~14頁)としている。
(注7)滑車が出土しないからなかったと考えることができないのは、轆轤が出土しないからといっても轆轤挽きしたとしか考えられない器が残されているとき轆轤はあったと想定されることと対比すれば理解できよう。
(注8)21世紀のものとしては、阿蘇2006.、多田2009.、伊藤2009.、新大系文庫本萬葉集などに採られている。
(注9)二度のやりとりがあったとする説は、伊藤1995.、菊地1997.、身﨑1998.に見られる。
(注10)鹿の角は枝分かれしていてかせのようになっているから、鹿の古名をカセギといい、その形状を示す杖を鹿杖かせづゑという。枝分かれしている方を下にして地面につけるのか、上にして儀仗のように構えるのか区別がある。宮本2011.、網野1993.参照。弓削皇子は枝分かれしている方を下にして額田王に使ってもらうことを期待していると考える。現代の介護用品にも四つ脚のものが用いられている。
杖の諸相(賀茂祭縁起写、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2542592/21をトリミング)
(注11)古くから枝に消息文を挟んで往来したとする説がある。梓の木の枝に挟んだことがあったから、その代わりに松の枝が選ばれているというのである。武田1956.は、「上古まだ文字の無かつた時代には、使者を遣わすに、草木の枝などを持たせて遣わした。使者は、その持参した物に寄せて口上を述べたので、これが寄物陳思、乃至序詞、枕詞の起原になるのである。後世になつて文を通わすようになつても、これを草木の枝につけることが残り、漸次手紙の方が主になつても、正月の懸想文などは花の枝につけたのであった。今、吉野から玉松の枝が君の御言を持つて通つたというのは、その枝に御言が寄せられて来たことを言う。文が松枝につけられてあつたという解釈は、かならずしも誤りではないが、松が枝をほめた本意はそこには無い。」(369頁、漢字の旧字体は改めた)と評している。額田王のこの歌を「文筆に依つて作られた知的成立に依る」(367頁)と考えているため、ふみが松の枝に付けられているという想定が先に立っている。21世紀の解説書でも、阿蘇2006.、多田2009.、伊藤2009.、新大系文庫本万葉集に見られる。しかし、そう考えることの難点は、わざわざ「蘿生松柯」と限り断る必然性がない点である。湿度充満の木に挟んだら墨も滲みかねない。伝達に不要な情報を題詞に記した理由も不明となる。(注4)で述べたように額田王は文字を読まなかった。ふみが送り届けられたり、木簡代わりにされたのではなく、吉野宮から使者が暗記して行って額田王へ口頭で伝えた。そのとき、弓削皇子の言葉の意味合いをよく伝えるために小道具として「蘿生松柯」を持たされていた。「君が御言みことをもちてかよはく」とは、言葉の内容の真相をそれを以てよく伝えている、という意味である。
(注12)拙稿「「吉野讃歌」は「吉野讃歌」ではない論」、「「吉野讃歌」は「吉野讃歌」ではない論補論」、「「神ながら 神さびせすと」・「大君は 神にしませば」考」など参照。
(注13)通説に、「蘿生松柯」をプレゼントしたことについて、額田王の長寿を祈るものとする説があるが、他の行幸の例でもせいぜい一週間程度の吉野宮滞在時に、わざわざ使者を遣わせて長生きしてくださいと言った理由を説明するものはない。

(引用・参考文献)
網野1993. 網野善彦『異形の王権』平凡社(平凡社ライブラリー)、1993年。
阿蘇2006. 阿蘇瑞枝『萬葉集全歌講義 第一巻』笠間書院、2006年。
伊藤1995. 伊藤博『萬葉集釈注一』集英社、1995年。
伊藤2009. 伊藤博訳注『新版 万葉集一 現代語訳付き』角川学芸出版(角川ソフィア文庫)、平成21年。
稲岡1985. 稲岡耕二『萬葉集全注 巻第二』有斐閣、昭和60年。
岩波古語辞典 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典 補訂版』岩波書店、1990年。
影山2022. 影山尚之『萬葉集の言語表現』和泉書院、2022年。
梶川2009. 梶川信行『額田王─熟田津に船乗りせむと─』ミネルヴァ書房、2009年。
鐘方2003. 鐘方正樹『井戸の考古学』同成社、2003年。
菊地1997. 菊地義裕「額田王と季節観─弓削皇子との贈答歌の発想─」古典と民俗学の会編『古典と民俗学論集─櫻井満先生追悼─』おうふう、平成9年。
新大系文庫本万葉集 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(一)』岩波書店(岩波文庫)、2013年。
武田1956. 武田祐吉『増訂 萬葉集全註釈 三』角川書店、昭和31年。
多田2009. 多田一臣訳注『万葉集全解1』筑摩書房、2009年。
月野2001. 月野文子「弓削皇子と額田王の贈答歌─どのように「懐旧」を読み取るか─」『香椎潟』福岡女子大学国文学会、平成13年12月。
中西1978. 中西進『万葉集 全訳注原文付(一)』講談社(講談社文庫)、1978年。
廣川2019. 廣川晶輝「中国故事受容と和歌表現」上野誠・大浦誠士・村田右富実編『万葉をヨム─方法論の今とこれから─』笠間書房、令和元年。
身﨑1998. 身﨑壽『額田王─万葉歌人の誕生─』塙書房、1998年。(「いにしへに恋ふらむ鳥はほととぎす」『萬葉』第133号、平成元年9月。萬葉学会・学会誌『萬葉』アーカイブhttp://manyoug.jp/memoir/1989)
宮本2011. 宮本常一『山に生きる人びと』河出書房新社(河出文庫)、2011年。
吉井1976. 吉井巖『天皇の系譜と神話二』塙書房、1976年。
洛陽焼溝漢墓 中国科学院考古研究所編輯『中国田野考古報告集 考古学専刊 丁種第六号 洛陽焼溝漢墓 洛陽区考古発掘隊』科学出版社出版、1959年。(北九州中国書店、1982年再刊)

※本稿は、いずれも中途半端で誤りの多い2021年7月・2022年12月稿を改稿、整頓したものである。

日本書紀古訓オセルについて

2024年02月26日 | 古事記・日本書紀・万葉集
日本書紀古訓オセルについて

 日本書紀の古訓にオセルという動詞がある。「臨睨」、「望見」、「瞻望」、「廻望」、「望」、「遥望」、「遠望」、「望瞻」、「遥視」といった用字に対して訓まれている。上から下を見おろすことをいい、また、押シアリの約かとされている(注1)。「押スは平面に密着して力を加える意。そのように、力をこめて下界を見る意。」(大系本日本書紀(一)131頁)と説明がある(注2)
 大系本日本書紀や岩波古語辞典の語構成による説明、押シアリ説は誤りであろう。オセルは、語幹オセに動詞化するルが付いた形と考える。オセとは、曲がった背、猫背のことをいう。「おせたかくて龍のわだかまりたるやうなるものあり」(紙本著色病草紙断簡(背骨の曲がった男)、文化遺産オンラインhttps://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/589900)とある。また、オセグムは、背が曲がる、猫背であることをいう。「たけ高くおせぐみたるもの、赤鬚にて年五十ばかりなる、太刀はき、股貫ももぬきはきて出できたり。」(宇治拾遺物語・九・五)とある。つまり、オセルとは背を丸めて見ることを言っている(注3)。上の二例にあるとおり、くぐつのように小さく縮こまるのではなく、背の高いものが屈みこむ姿勢を言っている。
「背骨の曲がった男」(病草紙断簡、鎌倉時代、文化庁蔵。文化庁文化財第一課『国有品図版目録』文化庁、2022年。国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/12360121/1/2)
 したがって、高いところにのぼって下界を睥睨するようなときに用いられる言葉と推定される。日本書紀の用例にそのように受けとれるならそれで正しいことになる。以下、網羅の保証はないが多くの例を見てみる。
 まず、オセルと訓んで確かと思われる例について見る。

A.オセルと訓んで確かと思える例
 是の時に、勝速日天忍穂耳尊かちはやひあまのおしほみみのみこと天浮橋あまのうきはしに立たして臨睨おせりてのたまはく、「くに未平さやげり。不須也いな頗傾かぶし凶目杵之国しこめきくにか」とのたまひて、……(是時、勝速日天忍穂耳尊、立于天浮橋、而臨睨之曰、彼地未平矣。不須也頗傾凶目杵之国歟、……)(神代紀第九段一書第一)
 九月の甲子の朔にして戊辰に、天皇すめらみこと菟田うだ高倉山たかくらやまいただきのぼりて、くにうち瞻望おせりたまふ。(九月甲子朔戊辰、天皇陟彼菟田高倉山之巓、瞻望域中。)(神武前紀戊午年九月)
 因りて腋上わきがみ嗛間丘ほほまのをかに登りまして、国のかたちめぐらしおせりてのたまはく、「姸哉乎あなにや、国をつること。……(因登腋上嗛間丘、而廻望国状曰、姸哉乎国之獲矣。)(神武紀三十一年四月)
 則ち藤山ふぢやまを越えて、みなみのかた粟岬あはのさきおせりたまふ。(則越藤山、以南望粟岬。)(景行紀十八年七月)
 亦相模さがむいでまして、上総かみつふさみたせむとす。海をおせりて高言ことあげして曰はく、「是ちひさき海のみ。立跳たちをどりにも渡りつべし」とのたまふ。(亦進相模、欲往上総。望海高言曰、是小海耳。可立跳渡。)(景行紀四十年是歳)
 かれ碓日嶺うすひのみねに登りて、東南たつみのかたおせりて三たびなげきて曰はく、「吾嬬あづまはや」とのたまふ。(故登碓日嶺、而東南望之三歎曰、吾嬬者耶。)(景行紀四十年是歳)
 便ち高きをかに登りて、はるか大海おほみおせるに、曠遠ひろくして国も見えず。是に、天皇、神にこたへまつりて曰はく、「われ周望みめぐらすに、わたのみ有りて国無し。……」とのたまふ。(便登高岳、遥望之大海、曠遠而不見国。於是、天皇対神曰、朕周望之、有海無国。)(仲哀紀八年九月)
 丁酉に、高台たかどのに登りましてはるかみそなはす。時にみめ兄媛えひめはべり。西にしのかたおせりておほきになげく。……こたへて曰さく、「近日このごろやつこ父母かぞいろはおもこころはべり。便ち西にしのかたおせるに因りて、おのづからに歎かれぬ。……」とまをす。(丁酉、登高台而遠望。時妃兄媛侍之。望西以大歎。……対曰、近日、妾有恋父母之情。便因西望、而自歎矣。……)(応神紀二十二年三月)
 時に皇子みこ、山のうへよりおせりて、野のなかたまふに、物有り。其の形いほの如し。乃ち使者つかひつかはしてしむ。(時皇子自山上望之、瞻野中、有物。其形如廬。乃遣使者令視。)(仁徳紀六十二年是歳)
 太子ひつぎのみこ河内国かふちのくに埴生坂はにふのさかに到りましてめたまひぬ。難波なにはかへりおせる。火の光をみそなはして大きに驚く。……則ち更に還りたまひて、当県そのあがたいくさおこして、従身みともにつかへまつらしめて、龍田山たつたのやまよりえたまふ。時に数十人とをあまりのひとの、つはものりて追ひる有り。太子、はるかみそなはしてのたまはく、……(太子到河内国埴生坂而醒之。顧望難波。見火光而大驚。……則更還之、発当県兵、令従身、自龍田山踰之。時有数十人執兵追来。太子遠望之曰、……)(履中前紀)

 「天浮橋」、「腋上の嗛間丘」、「藤山」、「碓日嶺」、「高き岳」、「高台」、「山の上」、「河内国の埴生坂」、「龍田山」から、葦原中国、「域の中」、「国」、「南粟岬」、「海」、「東南」の平野部、「大海」、「西」、「野の中」、「難波」のほうを見晴らしている。観察者は標高の高いところにいて、見る対象の方が低い。全体を一望のもとに掌握できている。その時、視線は下を向いており、体勢としては少し背中が曲がることになるからオセルという言葉が適当であるとわかる。
 応神紀の例で、天皇は見巡らせているからミソナハス、妃の兄媛は西の方角の故郷一点を見つめてうなだれているからオセルと訓んでいる。すなわち、同じ漢字で「望」と書いても、オセルとは訓まない確かな例もある。仲哀紀や応神紀、履中紀の「周望」、「望」、「見」字にオセル以外の訓みがあるのは、必ずしもオセル姿勢になっていないということである。

B.オセルとは訓まないであろう例
 また那羅山ならやまりて、進みて輪韓河わからがはに到りて、埴安彦はにやすびこと河をはさみていはみて、おのおのあひいどむ。……埴安彦みのぞみて、彦国葺ひこくにぶくに問ひてはく、……(更避那羅山、而進到輪韓河、与埴安彦挟河屯之、各相挑焉。……埴安彦望之、問彦国葺曰、……)(崇神紀十年九月)
 九月の甲子の朔にして戊辰に、周芳すはのくに娑麼さばに到りたまふ。時に天皇すめらみこと、南にのぞみて、群卿まへつきみたちみことのりして曰はく、「南のかた烟気けぶりさはつ。ふつくあたらむ」とのたまふ。(九月甲子朔戊辰、到周芳娑麼。時天皇南望之、詔群卿曰、於南方烟気多起。必賊将在。)(景行紀十二年九月)
 時に湯河板挙ゆかはたな、遠くくぐひの飛びし方をのぞみて、追ひぎて出雲いづもいたりて捕獲とらへつ。(時湯河板挙、遠望鵠飛之方、追尋詣出雲而捕獲。)(垂仁紀二十三年十月)
 十七年の春三月の戊戌の朔にして己酉に、子湯県こゆのあがたいでまして、丹裳小野にものをのに遊びたまふ。時にひむかしのかたみそなはして、左右もとこひとかたりて曰はく、「是の国はなほく日の出づるかたに向けり」とのたまふ。(十七年春三月戊戌朔己酉、幸子湯県、遊于丹裳小野。時東望之、謂左右曰、是国也直向於日出方。)(景行紀十七年三月)
 四年の春二月の己未の朔にして甲子に、群臣まへつきみたちみことのりして曰はく、「われ高台たかどのに登りて、はるかみのぞむに、烟気けぶりくにうちに起たず。……七年の夏四月の辛未の朔に、天皇、たかどのうへしまして、はるかみのぞみたまふに、烟気さはに起つ。(四年春二月己未朔甲子、詔群臣曰、朕登高台、以遠望之、烟気不起於域中。……七年夏四月辛未朔、天皇居台上、而遠望之、烟気多起。)(仁徳紀)
 即ち那羅山ならのやまを越えて、葛城かづらきみのぞみてみうたよみして曰はく、……(即越那羅山、望葛城歌之曰、……)(仁徳紀三十年九月)
 今大王きみ、時を留めもろもろさかひて、号位なくらゐを正しくしたまはずは、臣等やつこら、恐るらくは、百姓おほみたからのぞみえなむことを。……願はくは、大王、もろもろねがひに従ひたまひて、あながち帝位みかどのくらゐきたまへ。(今大王留時逆衆、不正号位、臣等恐、百姓望絶也。……願大王従群望、強即帝位。)(允恭前紀~元年十二月)
 四年の春二月に、天皇すめらみこと葛城山かづらきやま射猟かりしたまふ。たちまちたきたかき人を見る。きたりて丹谷たにかひあひのぞめり。面貌かほ容儀すがた、天皇に相似たうばれり。(四年春二月、天皇射猟於葛城山。忽見長人。来望丹谷。面貌容儀、相似天皇。)(雄略紀四年二月)
 丙戌に、あしたに、朝明郡あさけのこほり迹太川とほかはにして、天照太神あまてらすおほみかみ望拝たよせにをがみたまふ。(丙戌、旦、於朝明郡迹太川辺、望拝天照太神。)(天武紀元年六月)

 「望」を希望のノゾムの意としたり、望み見るのであるが高いところに立っているわけではない場合や、上方や遠方を見たり、河や谷を挟んで反対側を見る時、また、遠く神さまを遥拝する時には背は屈まらないからオセルとは訓まない。景行紀や仁徳紀の烟気を見る場合も、烟気が立ちのぼる様を確認する作業だから、高台から見ていても烟気の立ちのぼるところを目が追い、また、遠くの烟気を探すために頭を動かしていくから、前屈みに固まる姿勢が印象づけられるものではなく、オセルという言い方はふさわしくない。仁徳紀三十年条の「那羅山」から「葛城」を見通す時も、奈良盆地の北側の標高の高いところから、南側の標高の高いところを遠望する様だから首がうなだれることはない。
 以上をもってオセルの使い方の基本は概ね定まるが、なお曖昧な例が見られる。次にその例をあげるが、二種に類別されるようである。

C.オセルと訓むか不確かな例
①睥睨しているのか瞭然としない例
 是の時に、石瀬河いはせのかはほとりに、人衆ひとども聚集つどへり。是に、天皇はるかおせりて、左右もとこひとみことのりして曰はく、「其のつどへる者は何人ぞ。けだあたか」とのたまふ。(是時、於石瀬河辺、人衆聚集。於是、天皇遥望之、詔左右曰、其集者何人也。若賊乎。)(景行紀十八年三月)
 〈時に天皇、淡路嶋あはぢしまいでまして遊猟かりしたまふ。是に、天皇、西にしのかたみそなはすに、数十とをあまり麋鹿おほしか、海に浮きてきたれり。〉(〈時天皇幸淡路嶋、而遊猟之。於是、天皇西望之、数十麋鹿、浮海来之。〉)(応神紀十三年九月)
 天皇、高台たかどのしまして、兄媛えひめが船をみそなはして、みうたよみして曰はく、「淡路嶋あはぢしま いやふたならび 小豆島あづきしま いやふたならび ろしき嶋々しましま かたあらちし 吉備きびなるいもを あひつるもの」とのたまふ。(天皇居高台、望兄媛之船以歌曰、阿波旎辞摩、異椰敷多那羅弭、阿豆枳辞摩、異椰敷多那羅弭、予呂辞枳辞摩之魔、儾伽多佐例阿羅智之、吉備那流伊慕塢、阿比瀰菟流慕能。)(応神紀二十二年四月)

②見てこわがっている例
 やつかれこのかみ兄猾えうかしさかしまなるわざをするかたちは、天孫あめみま到りまさむとすとうけたまはりて、即ちいくさを起しておそはむとす。皇師みいくさいきほひ望見おせるに、へてあたるまじきことをぢて、乃ちひそかに其のいくさかくして、……(臣兄々猾之為逆状也、聞天孫且到、即起兵将襲。望見皇師之威、懼不敢敵、乃潜伏其兵、……)(神武前紀戊午年八月)
 然るにはるか王船みふねおせりて、あらかじめ其の威勢いきほひぢて、心のうちにえ勝つまじきことを知りて、ふつくに弓矢を捨てて、のぞをがみてまをさく、「あふぎて君がみかほれば、人倫ひとすぐれたまへり。けだし神か。姓名みなうけたまはらむ」とまをす。(然遥視王船、予怖其威勢、而心裏知之不可勝、悉捨弓矢、望拝之曰、仰視君容、秀於人倫。若神之乎。欲知姓名。)(景行紀四十年是歳)
 新羅しらきこきしはるかおせりて以為おもへらく、非常おもひのほかつはものまさおのが国を滅さむとすと。ぢてこころまとひぬ。……(新羅王遥望以為、非常之兵、将滅己国。讋焉失志。……)(神功前紀仲哀九年十月)
 是に、倭彦王やまとひこのおほきみ、遥かに迎へたてまつるつはものおせりて、懼然おそりておもへりあやまりぬ。(於是、倭彦王、遥望迎兵、懼然失色。)(継体前紀)
 ここに、船師ふないくさ、海にいはみてさはに至る。両国ふたつのくに使人つかひ望瞻おせりて愕然かしこまりおづ。乃ち還りとどまる。(於是、船師満海多至。両国使人、望瞻之愕然、乃還留焉。)(推古紀三十一年是歳)
 夏四月に、阿陪臣あへのおみ、〈名をもらせり。〉船師ふないくさ一百八十艘ももあまりやそふなひきゐて、蝦夷えみしつ。齶田あぎた渟代ぬしろ二郡ふたつのこほりの蝦夷、おせぢてしたがはむとふ。(夏四月、阿陪臣、〈闕名。〉率船師一百八十艘、伐蝦夷。齶田・渟代、二郡蝦夷、望怖乞降。)(斉明紀四年四月)

 C①の、睥睨しているのかはっきりしない例は、Aのオセルと訓んで確かな例としてあげた応神紀二十二年三月条、「望」をミソナハス、オセルと別々に訓んでいる例が参考になる。天皇は高台から遠いところをさまざまに「みそなはす」ことをしているが、隣にいる妃、兄媛は、西の方にある故郷の一点を「おせる」ことをしている。対象を見やって動かない場合にオセルという語が用いられている。同様に、仲哀紀八年条の例でも、対象物をはっきり捉えようとして「おせる」ことをしているが、見えなかったから他にないかいろいろと探したと強調するため、「周望みめぐらす」と答えている。まとめると、屈みこむ姿勢に固まって一点を見続ける場合はオセルと訓み、それ以外の首を動かしてあちこち見回すようなときはオセルとは訓まない。
 C①の用例で言えば、対象が動かない「人衆聚集」の一点を見続ければオセルと訓み、「数十麋鹿、浮海来之。」や「兄媛之船」の動くのを見る場合は、高台から見ていたとしてもオセルとは訓まないとわかる。
 C②の、見て怖気づいている例は、言葉とは何かを知るうえでとても興味深いものである。四例目の継体前紀の例に、「おせりて、懼然おそりて」と見える。そう表現している理由は明確で、似た音のオセルとオソルの地口である。こうなると、もはや、視点の高さや対象物をはっきりと捉えているかどうかは二の次になる。音をオセルとオソルに揃え合わせなければならないと直観させられる。言葉とは伝えるためのツールなのだから、音声言語の優位性が適用されて然るべきである。
 「皇師の威を望見おせるに、敢へて敵るまじきことをおそる。(望見皇師之威、懼不敢敵。)」(神武前紀戊午年八月)と句点で切れる。「然るに遥に王船をおせりて、予め其の威勢をおそりて、……(然遥視王船、予怖其威勢、……)」(景行紀四十年是歳)、「新羅の王、遥におせりて以為へらく、非常の兵、将に己の国を滅さむとすと。おそりて志失ひぬ。……(新羅王遥望以為、非常之兵、将滅己国。讋焉失志。……)(神功前紀仲哀九年十月)、「両国の使人、望瞻おせりて愕然おそる。乃ち還り留る。(両国使人、望瞻之愕然、乃還留焉。)」(推古紀三十一年是歳)、「齶田・渟代、二郡の蝦夷、おせおそりて降はむと乞ふ。(齶田・渟代、二郡蝦夷、望怖乞降。)」(斉明紀四年四月)である。古訓では、「威勢をおそれて、」(景行紀四十年十月、熱田本訓)と見える程度で、あまり意識されていない。しかし、言葉を吟味すればオヅよりもオソルと訓んだほうがかなっている。
 古典基礎語辞典は、「[オヅは、]相手に直面して恐怖感を抱き、身体的に萎縮してしまう意。[気持ちが萎えることで、どちらかというと、心的また内面的に変化する場合に使われる。]……オソルは、相手に直面していない場合も含めて、危険を予想し、心配したり畏縮したりすることで、特に身体的な変化は伴わない。オビユは、相手に恐怖感を抱く点ではオヅと似ているが、すっかり生気を失ったり、ぶるぶると震えたりなど、身体的変化が顕著に表れる。」(239頁、この項、我妻多賀子)と解説する。すなわち、オヅは怖気づいて委縮すること、オビユはこわいと感じてびくびくすること、オソルは「畏」と書くこともある畏怖の念も含んでおそれをなすこと、という違いがある。
 C②の用例は、皆、戦おうにも敵兵の勢力、威勢を一目見て、まともではとてもかなわないと直観している。身体的反応を起こして身動きが取れなくなったり、泡を吹いているわけではない。武装解除して投降したり、策略を案じ潜入して騙し討つ作戦に切り替えている。そのことを表す言葉はオソルである。
 神功前紀の例では、これまで「ぢてこころまとひぬ。(讋焉失志。)」と訓まれており、「讋」字について、書紀集解以来、説文や漢書・武帝紀の顔師古注にある、「讋 失気也」を引いているものとされている。しかし、気を失い、心が乱れた、という言い方は、撞着を含んだ畳語的な言い方である。後漢書・班固伝の「陸はおそれ水はおそれ、奔走して来賓せざるは莫し。(莫陸讋水慄、奔走而来賓。)」部分の注に、「爾雅曰、讋、懼也。音之渉反」とある。それによるなら、「讋焉失志」は恐懼して気が動転した、という意に解することができ、わかりやすい。それはまた、継体前紀の例の、「懼然おそりておもへりあやまりぬ」、怖くなってふだんの表情でなくなった、とも照合するものである。

 神田喜一郎氏の言に、「一、古訓の漢土訓詁学上より見て極めて正確なること 一、古訓の一見疑はしきものも、必ず何等かの典拠に本づくものなること」(神田1983.415頁、漢字の旧字体は改めた)とある。他に二点指摘があるが、これら二条を補完する但し書きのようなものである。要するに、古訓は相当に正しく、今の常識で生半可に疑ってかかるほうが浅知恵の賢しらごとである。

(注)
(注1)リを完了の助動詞とする説もある。
(注2)新編全集本日本書紀は、古訓にとらわれずにノゾムといった訓を与えている。中村1993.は、漢字表記においてそのように感じられないとし、「臨睨以下、望、望見等の語は本来、「力を加えて見る」こととは無縁であるから、「オシ有り」は望文生義的な造語であり、削除すべき訓であると結論しておきたい。もちろん、古代における邪視や、見ることの威力への信仰は否定するものではないが、書紀本文はこれとは無関係に、あくまでも字義に即して正確に付訓すべきものと考える。」(81頁)と、古訓自体を存疑としている。
(注3)動詞オセルが名詞オセから派生したと考えるよりも、語幹オセを共にする一群の言葉として、オセ、オセル、オセグムという語が成っていると考えるべきであろう。

(引用・参考文献)
岩波古語辞典 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典 補訂版』岩波書店、1990年。
神田1983. 神田喜一郎「日本書紀古訓攷證」『神田喜一郎全集 第二巻』同朋舎出版、昭和58年。
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
新編全集本日本書紀 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注・訳『新編日本古典文学全集2・3・4 日本書紀①・②・③』小学館、1994・1996・1998年。
大系本日本書紀 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本書紀(一)~(五)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
中村1993. 中村宗彦「『日本書紀』訓釈十題」『山邊道』第37巻、天理大学国語国文学会、1993年3月。天理大学学術情報リポジトリhttps:/opac.tenri-u.ac.jp/opac/repository/metadata/3066/(2023年1月25日閲覧)

蜻蛉・秋津島・ヤマトの説話について─国生み説話の多重比喩表現を中心に─

2024年02月19日 | 古事記・日本書紀・万葉集
記紀の国生み説話

 ヤマトの名は、記紀の初めにある国生みの説話にすでに見られる。まず、天浮橋あめのうきはし天上浮橋あまのうきはし)から天沼矛あめのぬほこ天之瓊矛あまのぬほこ)を下して掻き混ぜ、潮が凝りて淤能碁呂島おのごろしま(磤馭廬嶋)となったところで、イザナキとイザナミが御合みあひ遘合みとのまぐはひ(共為夫婦・為夫婦・合為夫婦))をした。その結果、いくつかのしま(洲)ができたなかの一つが、大倭おほやまととよ秋津島あきづしま(大日本豊秋津洲)であった。



 記では、それぞれの「島」について、亦の名の神名を記す。一方、紀では、「洲」の名を連ねるに止まる。記では、淡道之穂之狭別島、伊予之二名島、隠伎之三子島、筑紫島、伊岐島、津島、佐度島を生んでから大倭豊秋津島を生んでいる。以上から大八島国といったとする。その後、吉備児島、小豆島、大島、女島、知訶島、両児島を生んだとしている。紀本文では、「及至産時、先以淡路洲胞。」とあり、すぐに大日本豊秋津洲を生んでいる。「胞」とは胞衣えなのことで、胎児をくるむ羊膜である。通常、臍帯などと同じく、後産あとざんとして子の出たあとから娩出される。これらをすべて、胞衣えなと称するようになっている。胞が先に出てきて子が後から出て来ているのが問題で、順序が逆になっている。その後、伊予二名洲、筑紫洲、億岐洲、佐度洲、越洲、大洲、吉備子洲の順で生み、以上で大八洲国の名前ができたとする。淡路洲は胞だから大八洲の勘定に入れていない。また、対馬島、壱岐島とその他の諸々の島々は、みな潮の泡が凝り固まってできたものであるとしている。洲と島とを使い分け、厳密な表記を心掛けている。
 紀一書第一では、胞の話はなく、大日本豊秋津洲、淡路洲の順で、大島が除かれて大八洲国としている。一書第二から一書第五までは国々の記載はなく、一書第六は、淡路洲・淡洲を胞として大日本豊秋津洲を生み、以下本文に同じである。一書第七は、淡路洲、大日本豊秋津洲、伊予二名洲、億岐洲、佐度洲、筑紫洲、壱岐洲、対馬洲の順である。一書第八になると、磤馭慮嶋が胞にされ、淡路洲を生み、次に大日本豊秋津洲、伊予二名洲、筑紫洲、吉備子洲、億岐洲、佐度洲である。一書第九では、淡路洲を胞として大日本豊秋津洲、その後に淡洲が登場し、伊予二名洲、億岐三子洲、佐度洲、筑紫洲、吉備子洲、大洲、一書第十では、淡路洲、蛭児を生んで終わっている。異同が多い点が、かえって厳密に記そうとしていた意図を伝えることになっている。

アハヂの謎(虻蜂取らず・蜘蛛の子を散らす)

 生まれる順として、淡路島を出発点に、本州から四国、九州、日本海側、瀬戸内海へと回るか、四国の次に隠岐、佐渡があって九州が後回しにされるか、記のように本州が大八島国の最後になるかいろいろである。紀に見られる「」は、国が生まれるときの梃子として効いており、淡路島がキーになっている。紀本文に「意所快。故、名之曰淡路洲。」とある。何が気に入らなかったのか、また、アハヂという名がどうして不快を表す名に値するのか。大系本日本書紀に、「第一子は産みそこないをするという当時の伝承がある通り、その第一子は生みそこないであったので、その第一子にアハヂ(吾恥)の島と名づけたという意(これはアハヂ島という、当時すでに存在していた島の名の地名起源説話の一つがここにからんだもの)。意に満たないので、この島は、おそらく流し捨てたのであろう。ここでは淡路州は大八洲の数に入っていない。この部分は古事記のヒルコの話に相当する。」((一)331頁)とある。新編全集本日本書紀には、それに加えて、「あるいは軽蔑する意の「淡あはむ」をかけたか。」(①27頁)ともある。淡路島はヒルコと違って流されずに現在も大きく存在する。国生みの話は、記、紀本文、一書第一~第十まであるが、一書の第二以降は大雑把で噺のレベルに達しておらず、説話として体を成しているのは、記、紀本文および一書第一だけであり、紀本文にのみ、何食わぬ顔で淡路島の悪口が書かれている。
 大系本にいうとおり、すでに存在していた地名に託けた地名譚であろう。先に阿波あはという地名があり、それに引きずられてできたであろう淡路あはぢという地名があった。そのアハヂという地名にからんで説話が創られている。そして、後先かまわず胞が先に出てきていることから、ちぐはぐさを感じさせる内容を表しているものと考えられる。おそらくこれは、諺の「虻蜂取らず」の訛った形の頓知であろう。虻蜂取らずとは、どっちつかずや中途半端なことの譬えに用いられている。abu+fati→afadi である。自ら張った巣の中央にクモがおり、巣の対角線上にアブとハチとが同時にかかった。両者ともクモにとっては獲物として大物で魅力的だが力も強い。クモは、どちらを捕ろうかと迷っているうちにどちらも捕れないまま逃げられてしまう(注1)。すなわち、畿内にある朝廷は、西方からの侵入者に対し、明石、鳴門の両海峡を防ごうとして、淡路島の真ん中に城を一つ構えて守ろうとしたが叶わなかった。それを虻蜂取らずの淡路島と洒落ている。
 クモの巣は高いところできらきらしている。移動に際して糸を伸ばして風に乗り、海を越える種もあるという。それを糸遊いとゆうと呼ぶ。3~7mmの成体のクモが細い糸を吐き、風に乗って移動する現象である(注2)。ただし、一般に糸遊といえば陽炎のことを指す。現象としてはいずれもぼやぼやっとしてちらちらっと目に映る。漢語の「遊糸」は、梁の簡文帝の詩賦などに見えており、芸文類聚にいくつも例が載る。本邦では和漢朗詠集や菅家文章にも見え、また、和訳して「糸遊」という語も作られている。空海は仏典に拠って「陽燄」の語を用いており、陽炎と遊糸がイメージのなかで混同しているとも考えられている。平安朝の仮名文学においても、「かげろふ」はほのかな光の揺らぎ、光ってはかげり、かげっては光る心もとない現象として想起され、人の世やわが身のはかなさの譬えとして表現されている。
糸遊イメージ(National Geographic「How Spiders Use Electricity to Fly | Decoder」https://www.youtube.com/watch?v=Ja4oMFOoK50。The New York Times「How Spiders Use Silk to Fly | ScienceTake」https://www.youtube.com/watch?v=VDL9VxLqdvw参照)
 秋津島は淡路島を胞として出てきた。淡路島は、古代以来、一つの島で一つの国、淡路国を形作る。その胞を破って、蜘蛛の子を散らすような状態になった(注3)。ものすごい数のもじゃもじゃが現れた。一つの島(本州)にたくさんの国(近江、丹波、信濃、上総、出雲、伊勢、吉備、紀伊、伊豆、美濃、播磨、……)がある。淡路島と本州との間は明石海峡である。明石はタコが名産である。そのタコを特に蜘蛛蛸と呼んでいる。「蛸」の字は、中国ではアシタカグモのことを指し、巣を張らずに家にいてゴキブリなどを食べて生きている。そんな「蛸」に似た水中の昆虫といえば、トンボの幼虫、ヤゴである。
左:アシタカグモ雌成虫(Jinn様「アシダカグモ」ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/アシダカグモ)、中:明石のタコ(松岡明芳様「明石市内の商業地区魚の棚で販売される明石ダコ」ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/明石ダコ)、右:コヤマトンボのヤゴ(Keisotyo様「ヤゴ」ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/ヤゴ)
 成虫のトンボは空を飛び、糸遊のように高いところで羽根がきらきらしている。したがって、カゲロフである。透き通った羽根がぼやぼやっとちらちらっと見えるのは、縁紋と呼ばれるステンドグラスの鉛線ケイムのような筋が入っていて、模様となっているからである。
 大倭豊秋津島(大日本豊秋津洲)の秋津とはトンボのことで、蜻蛉と記される。和名抄に、「蜻蛉 本草に云はく、蜻蛉〈精霊の二音〉は一名に胡〓〔勑冠に虫〕〈音は勅、加介呂布かげろふ〉といふ。釈薬性に云はく、一名に蝍蛉〈上の音は即〉といふ。兼名苑に云はく、虰蛵〈丁香の二音〉は一名に胡蝶は蜻蛉なりといふ。」とある。「蜉蝣かげろふ」とは、今いうカゲロウ目やウスバカゲロウのようなアミメカゲロウ目の昆虫だけでなく、トンボ一般のことを指した。そして、「陽炎かげろふ」は、光がちらちらと揺れ動くように見える現象をいい、「かぎろひ(ギ・ロは甲類、ヒは乙類)」の転とされ、ヒは火の意である。万葉集では、炎・蜻火・蜻蜓火といった字を当てている(注4)
 万葉集中に、アキヅとして記される例は全部で21例である。内訳は、地名のアキヅが7例(「秋津」(万36・911・1368・1713)、「蜻蛉」(万907)、「飽津」(万926)、「蜻」(万3065))、地名のアキヅノが6例(「秋津野」(万693・1345・1406)、「蜻野」(万1405)、「蜓野(万2292・3179))、枕詞のアキヅシマが5例(「蜻嶋」(万2・3250・4254)、「秋津嶋」(万3333)、「安吉豆之萬」(万4465))、昆虫としてのアキヅが2例(「秋津羽あきづは」(万376)、「蜻領巾あきづひれ」(万3314))である。

 秋津羽あきづはの 袖振る妹を 玉くしげ 奥に思ふを 見たまへ吾が君(万376)
 …… たらちねの 母が形見かたみと 吾が持てる まそみ鏡に 蜻領巾あきづひれ 負ひめ持ちて 馬へ吾が背(万3314)

 「秋津羽の袖」はうすもの製の袖、「蜻領巾」はオーガンジーの領巾のことである。いずれも透けるだけでなく、トンボの羽根の縁紋のように模様が施されていて、きらきらと輝くものであったものと思われる。

トンボの羽根模様と秋津島

 このように、アキヅが特別な言葉として扱われた理由は、国生みの説話と関係があるからであろう。トンボは秋になって成熟し、交尾できるようになると、その縁紋は左右の羽根でぴったり揃うようになる。交尾して産卵できるようになった証拠である。万376番歌は、題詞に「湯原王宴席歌二首」とある。女性が成長して高貴な皇子と婚約を発表した宴席に、湯原王が侍して祝った歌と思われる。トンボの縁紋を画に描くと、本州(大倭豊秋津島・大日本豊秋津洲)にたくさんの国のある様を描いた日本地図のようになる。
大日本図(拾芥抄、慶長12年(1607)、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2580206/63~64をトリミング合成)
 今日に伝わる古い日本地図としては、14世紀初めの仁和寺蔵日本図や金沢文庫蔵日本図、14世紀半ばのものを伝える拾芥抄所収の大日本国図が知られている。中世までの日本図を総称して行基図という。仁和寺蔵日本図に「行基菩薩御作」、拾芥抄に「大日本国図は行基菩薩の図する所也」と注記されている。いずれも、今日のものと比べ、本州に関東地方部分からの北方向への屈曲が少なく、また、諸国が丸みを帯びた形でつなぎ描かれている。行基図は独鈷図ともいう。まんなか辺がくびれているのを密教の法具の独鈷とっこに見立てたようである。拾芥抄に、「此の土の形、独鈷の頭の如し。仍りて仏法滋く盛ん也。其の形、宝形の如し。故に金銀銅鉄等の珍宝有り。五穀豊稔也」とある。地理的には、列島は若狭湾から琵琶湖を通って伊勢湾へ抜けるところが細くなっているから、それが独鈷の中心ということであろう(注5)
 また、金沢文庫蔵日本図に、我が国を取り巻くように、ヘビか何かのような鱗状の模様が描かれている。その外側の異域の記述は、今昔物語集に典拠があるとする考証が、応地1996.にある。また、鱗状の模様については、龍を描いて国土が守られるようなデザインであるとの考証が、黒田2003.に行われている。龍が描かれるにいたった根源には、龍が雨水を導く雷神と深い関係がある点にあるという。五行説では、青龍は東の方位と位置づけられるが、国を巡る形で描かれていることは、古代末期以降の雨の神としての龍神信仰によるものとしている(注6)。ただ、地図は古代からあったと考えるのが自然である。我が国の場合、諸国の編成に分国はあっても異民族に分断されたこともなく、大勢に変化はない。また、宗教的なドグマに支配された暗黒時代も訪れず、名称の点にのみ、行基図、独鈷図と呼ばれた程度で、特段に形が抽象化されたり偏向が行われた形跡は見られない。おそらく、既存の地図を目にしながら、模写や修正を繰り返して新しい地図は作られ続け、結果的に現存する行基図へとつながり、一部に龍のような芸術性を伴ったものが現れたのであろうと推測される。
 古代の地図が仁和寺蔵日本図に遠くないものとすれば、東西に延びている国々の様子は、トンボが羽を広げた姿に準えられて考えられたのではないか。その特徴を一言でいうなら縁紋的であるといえよう。棚田の広がる風景が、縁紋のつづく様子に合致することも重ね合わせて納得されたに違いあるまい。なかでも赤トンボの生育環境として、田圃ほどふさわしい場所はなく、水田稲作の展開によって我が国では赤トンボがたくさん見られるようになったといわれている。本州は、大倭豊秋津島(大日本豊秋津洲)、赤トンボの島とイメージされたのである(注7)
稲穂にとまるナツアカネ(産総研HP「赤トンボはなぜ赤い?動物で初めて見つかった驚きのメカニズム」https://www.aist.go.jp/aist_j/aistinfo/bluebacks/no23/)
 国生みのはじめが淡路島なのは、明石海峡の地名によっている。アカシ(証)になるのがアカシ(明石・赤石)である。

 白髪天皇しらかのすめらみことぎて小楯をだてつかはして、しるしを持ち、左右もとこ舎人とねりて、赤石あかしに至りて迎へたてまつる。(仁賢即位前紀)
杜虎符(中国、秦時代、Antolavoasio様「杜虎符」ウィキペディアコモンズhttps://commons.wikimedia.org/wiki/File:杜虎符.jpg)
 勅使の証は「節」である。竹の節を割ると、左右で合うものはほかにないから証明になる。節度使とは、竹の節によって勘合したことからくる名である。上に示した中国の虎符は銅製で、金の象嵌が篆文で施されている。銘に、「兵甲の符、右は君に在り、左は杜[咸陽の南に位置する県名]に在り。すみやか[迅]に士を興して甲を被らしめ、兵を用ふること五十人以上ならば、必ず君の符に会[合]はせん、……(兵甲之符、右在君、左在杜。凡興士被甲、用兵五十人以上、必会君符、……)」とある。和名抄に、蜻蛉の一名を「胡〓〔勑冠に虫〕」とあり、〓が勅の虫と記されていたのには深い意味があったようである。成熟したトンボの左右の羽の縁紋の形は、まるで「節」のように対称に揃っている。赤トンボは、子孫を残せるほど成熟した証として、縁紋が揃いもし、赤くもなって、二羽が合わさって交尾をし、水田で子どもがたくさん生まれる。水田で稲が赤く熟するのと良く合致している。紀では、「秋津あきづしま赫赫さかりにして」(継体紀七年十二月)、「熟稲あからめるいね」(皇極紀元年五月)と表現されている。
 秋津島では、秋になると蜻蛉の縁紋が合う。辻褄が合うという言葉で譬えられよう。辻褄とは、万葉集にいう「秋津羽」、「蜻領巾」同様、服飾用語である。辻は縫い目が十文字に合う所をいい、褄は着物の裾の左右がそろう所をいう。そこから、辻褄が合うとは、合うべきところがきちんと合って物事の道理が合うことをいい、辻褄が合わないとは、ちぐはぐなことをいう。先に胞となって出てしまった淡路島は、ヤゴではなかった。辻褄の合わない、すなわち、成熟してもトンボにならない蜘蛛、蛸、また、蜘蛛蛸のことを言っていたわけである。ヤマト朝廷の勢力が本州部分において、稲作にかなう地として東西に版図を広げていくなか、文様が左右対称状になっているのを正当なこととするようにニュアンスしていた。それが、aki(秋)+tudituma(辻褄)→akidusima(秋津島)である。

トンボと太鼓と雷

 トンボという名は飛ぶ棒の訛りかという。飛ぶ棒といえば、太鼓を叩くばち(枹)が連想される。和名抄に、「大皷〈枹付〉 ……兼名苑に云はく、槌は一名に枹〈音は浮、字は亦、桴に作る。俗に豆々美乃波知つづみのばちと云ふ〉は大鼓を撃つ所以なりといふ。」とある。国生みの話では、当初、イザナキとイザナミの御合みあひ遘合みとのまぐはひ(共為夫婦・為夫婦・合為夫婦))において、「あなにやし(あなにえや)」と唱える順序が逆であったため、蛭児や淡洲が生れて失敗している。そこで、「故、還復上詣於天」している。できちゃった結婚(授かり婚)は駄目で、神前できちんと結婚式をしてからでなければならない。順序がちぐはぐでは罰が当たるという戒めになっている(注8)。文字の点からいえば、「桴」の字は、淡路島は、明石、鳴門とも海峡に挟まれていることから連想される。「かひ」に挟まれている。秋になってできる稲穂とは「かひ」である。また、「枹」の字は、「」の字から連想される。「枹」の字はまた、ケラ(螻蛄)をも指す。形はヤゴによく似、地中で生活する。
ケラ(Didier Descouens様「ケラ」ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/ケラ)
 ヤゴは別名をタイコムシという。人々にとって、太鼓の原体験はでんでん太鼓である。抱っこされながらあやされるのに用いられる。記紀説話の最初の舞台、淤能碁呂島おのごろじま磤馭廬嶋おのごろじま)は、雷公をイメージしていたようである。オ(感嘆符のOh!)+ノ(助詞)+ゴロ(擬音語)、つまり、雷鳴を表すと考えられる。天沼矛あめのぬほこ天之瓊矛あまのぬほこ)のヌとは、玉飾りのことである。そのような装飾が鞘などに施された、あるいは刀身自体の形容であるなら、きらきら光る矛を高いところから下ろしたとは、稲光をイメージした表現ということになる。民俗で稲妻とは、稲を稔らせるパートナーの意であるとされている(注9)
 でんでん太鼓を背負って桴を振り回している様は、風神雷神図として描かれている。現存する古いものとしては、北野天神縁起絵巻や三十三間堂の彫像などが知られる。
左:でんでん太鼓(守貞漫稿、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2592414/4)、中:雷神(北野天神縁起、メトロポリタン美術館蔵、ウィキペディア「風神雷神図」https://ja.wikipedia.org/wiki/風神雷神図)、右:雷神(蓮華王院三十三間堂HPhttp://sanjusangendo.jp/b_2.html)
 その雷神の持物は桴に違いなかろうが、中がくびれて両端が膨らんだ形をしているようにも思われる。太鼓をたたくふつうの桴ではなく、でんでん太鼓のための桴、すなわち、玉を糸で止めたものに近いようにも感じられる。両方に振られるのを異時同図に描けば、桴の先端が膨らんでいると捉えれば独鈷にも見立て得るから、日本図を独鈷図と呼んでいたことに通じる。そして、雷は雲のなかに起こる。雷神が握っている物は、雲を掴むようなクモ、つまり、蜘蛛や蛸のようなものだと洒落を言っているように聞こえる。それらから総合的に推察すると、古代においては、雷神の桴の形としても秋津島は見られていたことになる。紀では黄泉よみの国へ行った後、イザナキは結果的に雷を生むことになっている。

 一書に曰はく、伊弉諾尊いざなきのみこと、剣を抜きて軻遇突智かぐつちり、三段みきだす。其の一段ひときだは是雷神いかづちのかみと為る。(神代紀第五段一書第七)
 時に伊弉冉尊いざなみのみこと脹満太高たたへり。うへ八色やくさ雷公いかづち有り。伊弉諾尊、驚きてげ還りたまふ。是の時に、雷等いかづちども、皆ちて追ひきたる。時に、道のほとりに大きなる桃の樹有り。故、伊弉諾尊、其の樹のもとかくりて、因りて其の実を採りて、以て雷にげしかば、雷等、皆退走しりぞきぬ。これ桃を用て鬼をふせことのもとなり。時に伊弉諾尊、乃ち其のみつゑなげうててのたまはく、「ここより以還このかた、雷じ」とのたまふ。是を岐神ふなとのかみまをす。此、本のは、来名戸くなと祖神さへのかみまをす。やくさの雷と所謂ふは、かしらに在るは大雷おほいかづちと曰ふ。胸に在るは火雷ほのいかづちと曰ふ。腹に在るは土雷つちのいかづちと曰ふ。そびらに在るは稚雷わかいかづちと曰ふ。かくれに在るは黒雷くろいかづちと曰ふ。手に在るは山雷やまつちと曰ふ。足の上に在るは野雷のつちと曰ふ。ほとの上に在るは裂雷さくいかづちと曰ふ。(神代紀第五段一書第九)

秋のヤマトと「山跡」とアキヅシマ

 秋津(蜻蛉)なる赤トンボが飛んでくるのが秋である。稲を刈り、市へ持ってゆき、売り買いする。秋だからあきなひという。分量をはかるのに必要なのがはかりで、天秤棒に吊るす。価値が釣り合うようにしなければならない(注10)。天秤棒の大型のものは杠秤ちぎり(扛秤)といい、雷神の桴に似て棒の中ほどが支点となり多少細くなっている。左右が釣り合ったところが辻褄が合うところである。もとは織機の経糸を巻く円柱の榺、すなわち、緒巻に由来するという。和名抄に、「榺 四声字苑に云はく、榺〈音は勝負の勝、楊氏漢語抄に知岐利ちきりと云ふ〉は織機のたていとを巻く木なりといふ。」とある。ちぎりとは約束、因縁のことである。今でも契約書には割印を捺す。勘合により確かめられる。
 秋にはかりも渡ってくる。季節をはかる鳥である。肥えた獲物を探して狩りにもゆく。トンボのような形の、火鑽杵のような形の弓矢を使って射ると、手負いの獣は血痕を残しながら逃げていく。どこへ、いつごろ逃げて行ったかは、地面に残る血の跡を見れば推しはかれる。和名抄に、「蹤血は波加利はかり」とある。山に残る跡だから、秋津島は一つの意味として、「山跡やまと」と結びつくことになる。
 万葉集でのヤマトの用字では、「山跡」が18例(万1・91・303・319・484題詞・551・570・1219・1221・1376・1677・1956・2128・3248・3249・4245・4254・4264)、「倭」が22例(万29・同或云・35・64・70・71・73・105・112題詞脚注・255・280・894(2例)・944・954・966・1129題詞・3128・3236・3250・3254・3333)、「日本」が17例(万44・52・63・359・366・367・389・810題詞・956・967・1047・1787・1175・1328題詞・2834・3295・3326)、その他に11例(「山常」(万2)、「八間跡」(万2)、「夜麻登」(万3363・3457・3648・4487)、「夜麻等」(万3608左注)、「也麻等」(万3688)、「大和」(万4277左注(行政単位としての国名))、「夜萬登」(万4465)、「夜末等」(万4466))がある。
 「倭」の用字は魏志による。「日本」は聖徳太子、あるいは、天武天皇時代に新たに作られた国号とされている。それらと同等に数多い用字に「山跡」がある。この表記が好まれたのは、秋津島(洲)との関わりがあったからに違いない。もともとのアキヅシマは、奈良盆地南部の地名、御所市室の小地名にすぎなかったのではないかと考えられている。孝安天皇の都の名は、「葛城の室之秋津島宮むろのあきづしまのみや」(記中)、「秋津嶋宮あきづしまのみや」(孝安紀)である。それが奈良盆地全体へと拡張した。トンボが交尾して胴体を丸くしたときの形が、畿内の大和国を取り巻く外輪山に準えられたかららしい。

 三十有一年の夏四月の乙酉の朔に、皇輿すめらみことめぐいでます。因りて腋上わきがみ嗛間丘ほほまのをかに登りまして、国のかたちめぐらしのぞみてのたまはく、「姸哉あなにや、国をつること。〈姸哉、此には鞅奈珥夜あなにやと云ふ。〉内木綿うつゆふ真迮国まさきくにいへども、猶し蜻蛉あきづ臀呫となめの如くにあるかな」とのたまふ。是に由りて、始めて秋津洲あきづしま有り。(神武紀三十一年四月)
 やまとは 国のまほろば たたなづく 青垣あをかき 山ごもれる 倭しうるはし(記30)
アキアカネの交尾(産総研HP「赤トンボはなぜ赤い?動物で初めて見つかった驚きのメカニズム」https://www.aist.go.jp/aist_j/aistinfo/bluebacks/no23/)
 アキヅシマの地理的範囲の拡張は、ちょうどやまとが、三輪山や巻向山の山麓付近の一地名であったのが、今の奈良盆地を表す大和やまと、列島全体を表す日本やまとへと拡張していったようにである。神武紀に、「由是、始……」と注意書きされるのは、秋津洲の意味合いも拡張していったことを含意していよう。それは、朝鮮半島南部の加羅からが、半島全体のから、中国のからまで指すようになったのと同様である。アキヅシマがヤマトにかかる枕詞となっている例には、先にあげた万葉集の5例のほか、紀62・63歌謡にも見られる。水田稲作の広がりこそがヤマトの広がりであるとの意識が底流にあったようである。日本図に見られる田一枚を一国とするような描きぶりは、ヤマトの版図が、トンボが羽化して羽根を広げていくことに準えていたのではないか。
 国生みで生んだのはシマである。紀ではシマに「洲」字を当てて表していた。地形的には川の中州のように現れたり消えたりするところでありながら、「洲」は「水中可居者曰洲」(爾雅・釈水)、「聚也、人及鳥物所聚息之処也」(釈名)と説明されている。アキヅシマという言い方をすれば、トンボが集まり憩うところということになる。水田が何面も広がって拡大していく版図のことをアキヅシマと名づけて得意になっていたようである。ヤマトコトバの言語体系において論理的な最適解を得、矛盾なく統合的に表すことができている。縁紋の話だけに、話の辻褄が合っている。

でんでん太鼓のばちのこと

 縁紋のように畦は田の水を取り巻いている。取り巻きといえば女なら芸者、男なら太鼓持ちのことをいう。倭の字は女が身をくねらせて舞っている様を表す。舞は見ていてちらちらする。目がくるめきちらちらするのは眩暈めまひである。舞舞はかたつむりである。その貝殻はぐるぐる巻いている。頭部の突起がでんでん太鼓の桴に似るからか、でんでん虫という。カタツムリの通った跡は粘液できらきらしている。でんでん太鼓は、また、張鼓はりつづみ振鼓ふりつづみという。立派なものとしては、雅楽に用いられるふりつづみがある。双方に張った小鼓を柄で貫き、両側に糸の玉を垂れた楽器で、柄を振れば玉が鼓の皮に当たって鳴る仕掛けである。和名抄に、「◆(鼗の上下逆)皷 周礼注に云はく、◆〈徒刀反、字は亦、鞉に作る。不利豆々美ふりつづみ〉は皷の如くして小さく、其の柄を持ちて之れを揺すらば、則ち旁の耳還りて自ら之を撃つといふ。」とある。雅楽のほか、追儺の行事で、最後に群臣が鬼を追うのにも用いられた。
左:奚婁(信西古楽図、鼗鼓、国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1194190をトリミング合成)、右:鼗(画像石、後漢時代、1~2世紀、東博展示品)
 海野2004.は、仁和寺蔵日本図の奥書の最後を、追儺関連の記述と見て次のような興味深い解説を行っている。

 行基の名を日本図に結びつけたのは、ほかならぬ悪鬼を払う追儺ついなの儀式であったと考えられる。根拠の一つとして挙げられるのは、行基の作であることが明記される仁和寺所蔵図……に「嘉元三年大呂たいりょ(一二月)寒風ヲ謝シテ之ヲ写ス。外見ニ及ブ可カラズ」(原漢文)とあって、書写という行為における自己強制と図そのものの非公開性が強調されていることである。その第二としては、行基を開基とする山崎(山城国)の宝積寺ほうしゃくじの縁起に、追儺のはじまりが慶雲三年(七〇六)の行基の奏上にあるとしていることである(『和漢三才図会わかんさんさいずえ』巻四おにやらひの項)。かつて追儺が朝廷における大晦日の行事であったことは、『延喜式』の記事からも明らかであるが、のち広く寺院でも行われ、その際疫鬼えききが入ってはならない国土の範囲を視覚に訴えるため、日本図が用意されたものと思われる。仁和寺所蔵図の書写の時期すなわち一二月は、この推定を裏付ける有力な証拠である。(91頁)

 すなわち、陰暦の十二月、追儺行事のために、仁和寺蔵日本図は描かれたものではないかとするのである。宮中での追儺より以前から、寺院において鬼やらいは行われていたのであろうが、その点は措く。この仁和寺蔵本には、金沢文庫蔵本のような龍様の囲みはない。龍が穢悪疫鬼を防ぐのではなく、追儺の行事を以て異域へと追い払うという解釈である。
 追儺の行事としては、本邦では当初、周礼をもとに考案されたと考えられている。赤、青、黄の3匹の鬼を、黄金四つ目の仮面を著けた方相氏が大声を上げながら矛と盾を打ち鳴らし、追い払う。その後、公卿が清涼殿の階から桃の弓で矢を放ち、また、殿上人らはでんでん太鼓を振って邪気を一掃した(注11)。鬼を追う全体の様態は、雷神が羯鼓を鳴らしながら暴れ回って驚かせるのととてもよく似ており、準えられるものとして受け容れられたのではなかろうか。そして、そのでんでん太鼓とは、トンボつりの時に赤トンボがブリという飛び道具によって絡め捕られる様子にとてもよく似ており、だからこそ準えられたのではなかろうか。
ブリの図(「絵本家賀御伽」国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1266553/80)
 ブリとはトンボ捕りの際に用いられる疑似餌釣りである。糸の両端に、小石などを結びつけ、投げあげる。トンボが小石を餌と間違えて飛びつくと、石についている糸が体に絡みつき、そのまま地上に落下したところを生け捕りにする。かなり高度なテクニックを要するが、夏から秋にかけての夕暮れ時など、トンボが餌を求めて群がり飛んでいる時には、上手に放物線を描けば引っかかってくれるという。
 つまり、でんでん太鼓の真ん中に居る雷神は、秋になると赤くなっていく赤トンボ同様、色変化していくものと考えられていたのであろう(注12)。そしてそれは、ヤマトの国の、秋になると稲穂が赤く色づいて一面に拡がる田圃の風景と呼応しているのである。令集解・職員令の鼓吹司に、「伴に、吹の音は呼飢反と云ふ。山海経に曰く、『東海のうち流波山りうはざん有り。獣有りて牛の如く、蒼身にして角无く、水に出入すれば則ち必ず風雨有り。其の光は日月の如く、其の声は雷の如し。其の名をと曰ふ。黄帝之を得て、其の皮を以て鼓を作り、声五百里に聞え、以て天下をおどろかす』といふ。周礼・地官・司徒上に曰く、『鼓人は六鼓を教ふるを掌る。雷鼓を以て神祀を鼓す。〈雷鼓は八面鼓也。〉霊鼓を以て社祭を鼓す。〈霊鼓は六面鼓也。社祭は地祇を祭る也。〉路鼓を以て鬼享を鼓す。〈路鼓は四面鼓也。鬼享は宗廟を享す也。〉賁鼓を以て軍事を鼓す。〈大鼓は之を賁と謂ふ。賁鼓は長さ八尺也。〉鼛鼓を以て役事を鼓す。〈鼛鼓は長さ丈二尺也。〉晋鼓を以て金奏を鼓す。〈晋鼓は長さ六尺六寸。金奏は楽を謂ひ、編鐘を撃つに作る。〉』といふ。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2570154/25~26)とある。雷神の鼓は8つと決まっていたらしい。クモやタコが8本足であったのに対し、昆虫のトンボは6本だから、叩く手が2本足りない。そこで、秤にもなる杠秤のような亜鈴型の桴が考案され、ないし、トンボ捕りのブリが引き合いに出され、8つの鼓を同時に叩けるとのオチに及んだようである。

トラの話

 鼗同様の打楽器としては、外来の銅鑼どらがある。銅鑼は反響が激しく、近場に本当に雷が落ちたほどになる。目上の人が大声で猛烈に怒るのを、雷が落ちるという。とらが吼えるほど恐い。同じく外来の物に名づけられたと思われる語である。銅鑼は船の出港のときに鳴らす。もやいを河岸から外すと船はふらふら揺れ始める。トラはネコのようであるが、身体に比べて頭が大きい。バランスが悪いから頭をふらふらさせている。首の揺れる張り子の虎の起源である。
左:張り子の虎(信貴山の縁起物)、右:秋の棚田(日本財団・海と日本PROJECT in 京都「伊根町「新井の棚田」稲刈り体験」https://kyoto.uminohi.jp/event/20170914/をトリミング)
 酔っ払って管を巻いている人のことをトラという。頭がふらふらしている。眠気がさしてまどろむようにとろとろの状態だからである。片栗粉のとろみ、まぐろの身の脂肪に富んだ部位のとろ、川の水深が深くて流れが緩やかなとろ、雷鳴の音のどろどろ、水が混じって粘性を増した土の泥、煮炊きに勢いの乏しいとろ火、皆同じ感覚から生まれた言葉であろう。神武紀元年正月条に、「妖気わざはひはらとらかせり。」とある。列島にいなかったタイガーのことを渡来人から聞いて、その頭のとろとろの揺れと、どろどろの雷のような吼え声からトラと名づけた。蕩かすとは、人に本心をすっかり見失わせて完全に迷わせることをいう。確かに、トラを前にしたらすっかり参ってしまうであろう。そして、トラの模様は棚田を高いところから見たような縞模様であり、虎符としてしるしの形としても用いられていた。
 「倭」の字は、前漢書地理誌に、「楽浪の海中に倭人有り。分れて百余国を為す。(楽浪海中有倭人、分為百余国。)」の場合、音はワである。説文にはヰの音で、「順ふ㒵なり。人に从ひ委声。詩に曰く、周道倭遅ゐちたり」と、詩経・小雅・鹿鳴之什の四牡を引いている。倭は佞と同義で、諂う、媚びる、阿るの意味である。相手の気に入られるように取り入って振舞い、迎合して空気を読み、追従口、おべっか、お世辞を言って回ることである。太鼓持ちの所作をいう。おもねるとは、面練ること、顔を左右に向けることが原義という。トラが首を左右に振っているのは、本来は獲物を探しているのかもしれないが、張り子の虎は阿っていると捉えられた(注13)

まとめに代えて

 記の上巻や神代紀の叙述について、今日の一般的な解説では、天皇による支配の正統性を主張するために祖先神話が語られているという(注14)。けれども、当の紀の巻一初めの「神世七代」以外に、カミノヨと訓むべき箇所はない。伊奘諾尊、伊奘冉尊までが「神世」である。巻一・巻二を「神代上」・「神代下」とするのは、他の巻の漢風諡号同様、後の時代に加筆されたものと考証されている。初めに神があったとするのは伊奘諾尊、伊奘冉尊の出現までで、以降は始めに言葉ありきである。紀冒頭で、淮南子を引きながら作為している箇所には次のようにある。

 其れ清陽すみあきらかなるものは、薄靡たなびきてあめと為り、重濁おもくにごれるものは、淹滞つつゐてつちと為るに及びて、精妙くはしたへなるが合へるは搏偏むらがり易く、重濁れるが凝りたるはかたまり難し。(神代紀第一段本文)

 きらきら輝くものがひらひらと天になって、うまい具合にできているものがぴったり合って群がっているとする。まさに赤トンボの形容であろう。本稿で見てきた国生みの話は、全体を俯瞰すれば、ヤマトにかかる枕詞、アキヅシマという言葉をめぐっての壮大ななぞなぞ体系である。倭人がオリジナルに創作したと思しき記・神代紀第四段の国生みの説話に代表される。そこにも、上空できらきら輝くものがぴったりと符合すると語られている。すなわち、紀の冒頭は、その連想から漢籍の字面を引きながら自らの考えを表したものである(注15)。修文、潤色の範囲を超えておらず、和魂漢才の記述である。
 国生みによって生まれた島は、本州、四国、九州とその周辺の島であった。それらの地域をヤマト朝廷が版図におさめたのは、5世紀、倭の五王の時代である。豊秋津島たる本州を、東は伊勢、西は出雲まで治めるに至ったのは、その少し前のことであろう。聖徳太子等が記紀の種本となる天皇記・国記・本記を録したのは推古28年(620)のことである。その時点で、つい数百年前に過ぎない最近のできごとであり、伝えられてきていた説話をシリーズ化したということであろう。基本的に無文字社会であった上代人の文化、観念がわかれば、記紀の説話は民族の祖先神話でも、天皇家を正統化する神話でもなく、手の込んだなぞなぞ話であることは理の当然と了解される。そこにあるのはヤマトコトバだけである。無文字に暮らした上代の人たちは知識を盾にして生きたのではない。知恵のかたまりのなかに生きていたのであった。

(注)
(注1)虻蜂取らず、という言葉の源や、古い用例について詳細は不明である。拙稿「允恭紀、淡路島の狩りの逸話、明石の真珠について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/17d842a2bc10d3783b29a39e7b44b4e8参照。
(注2)錦2005.参照。糸遊は山形県米沢地方で「雪迎え」と呼ばれている現象で、gossamerのことであると特定されている。
(注3)蜘蛛の子を散らす、という言葉の源や、古い用例について詳細は不明である。
(注4)白川1995.の「かぎろひ」の項に、「蜻火・蜻蜓火のように、とんぼの羽の繊細なかがやきとして表現するのは、おそらく他に例をみないような細やかな感覚である。」(209頁)とするが、疑問なしとしない。拙稿「履中記、墨江中王の反乱譚における記75・76歌謡について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/c6370f98a94cfed6b157be80bdffc5d6参照。
(注5)黒田2003.は次のようにまとめている。

 行基図の謎解きによって浮かび上がったのは、〈日本図〉が独鈷の〈かたち〉をしていたという事実である。その〈日本図〉を、中世人は役行者えんのぎようじや・聖徳太子・天照大神などと同体の仏神である行基菩薩が製作したものと考えた。中世人にとって、聖なる存在は同体だったのである。聖なるモノである独鈷の〈かたち〉も融通無碍ゆうずうむげであり、棒状・柱状をした聖なるモノは、何でも独鈷とイメージで結びつき、独鈷になりえた。結局のところ、行基図とは、仏神が描いた聖なる〈日本図〉なのであり、天皇の印である神璽でもあった。〈国土〉は独鈷の〈かたち〉に荘荘かざりたてられ、〈日本〉・震旦・天竺の三国は、それぞれ独鈷・三鈷・五鈷とするシンボリズムによって、厳な世界としてイメージされるに至ったのである。(54頁)
独鈷杵(日光男体山頂遺跡出土品、平安~鎌倉時代、10~13世紀、二荒山神社蔵、東博展示品)
(注6)淮南子・墬形訓に、「雷沢に神有り、龍身にして人頭、其の腹をちてたのしむ。(雷沢有神、龍身人頭、鼓其腹而熙。)」、山海経・海内東経に、「雷沢中に雷神有り。龍身にして人頭、其の腹を鼓し、呉の西に在り。(雷沢中有雷神、龍身而人頭、鼓其腹、在呉西。)」とある。
(注7)赤トンボと称されるトンボが種として何に当たるかについて、西日本では主としてウスバキトンボ、東日本では主としてアキアカネのことを指すようである。上田哲行氏は、人間に与えるインパクトの共通性という意味で、「文化的同一種」という言葉を提唱しており、示唆的である。いずれの種も、田圃という人為的に管理され、安定した生息環境によって多数発生し、それを人々が親しんで、「風景としての赤とんぼ」と化しているわけである(東・沢辺・上田2004.)。上代の人が赤トンボをいかに捉えたかは、生物学ではなく、文化人類学的な考察が必要である。
(注8)罰が当たるという言葉のバチという慣用音については、仏典によるとも思われるが、上代の用例は不明である。
(注9)雷電のことをイナヅマ(稲妻)というのは、稲が共寝をして子を宿して稔るからという理屈が箋注和名抄や東雅に唱えられ、民俗学で通説化している。和名抄には、「雷公〈霹靂電付〉 ……玉篇に云はく、電〈音は甸、和名は以奈比加利いなびかり。一に以奈豆流比いなつるびと云ひ、又、以奈豆末いなづまと云ふ〉は雷の光なりといふ。」とある。しかし、植物の稲に交尾つるびの譬えをして上代の人々に通じたのか、俄かには信じがたい。
(注10)釣り合わない例として、「高麗こま使人つかひしくまの皮一枚ひとひらを持ちて其の価をはかりて曰はく、『綿わた六十むそはかり』といふ。市司いちのつかさわらひて避去りぬ。」(斉明紀五年是歳)とある。
(注11)夏官・方相氏に、「方相氏。熊皮を蒙り、黃金の四目、玄衣・朱裳、戈を執り盾を揚げ、百隸を帥ひて時にし、以て室をもとめて疫をることを掌る。大喪にきゆうに先だつ。墓に及びて壙に入り、戈を以て四隅を擊ち、方良を敺る。(方相氏。掌蒙熊皮、黃金四目、玄衣朱裳、執戈揚盾、帥百隸而時難、以索室驅疫。大喪先柩。及墓入壙、以戈擊四隅、驅方良。)」とある。本邦での実際の様子としては、栄花物語に、「例の有様どもありて、はかなく年も暮れぬれば、今の上、童におはしませば、つごもりの追儺に、殿上人振鼓などして参らせたれば、上ふりけうぜさせ給もをかし。」(巻第一・月の宴)、「つごもりになりぬれば、追儺とのゝしる。上いと若うおはしませば、ふり鼓などしてまゐらするに、君たちもおかしう思ふ。」(巻第三・さまざまの悦)、大江匡房・江家次第に、「殿上人於長橋内射方相、主上於南殿密覧、還御之時、扈従人忌最前方逢方相、振鼓・儺木・儺法師等種々事〈皆故実有〉……」(十一十二月)とある。
(注12)一説に、雷神の肌の色は儀軌に赤と定められていたとされる(田沢2014.320頁)が、根拠は不明である。
(注13)拙稿「お練供養と当麻曼荼羅」参照。
(注14)諸説をあげることに及ばない。「神話」という語が明治時代に訳語として登場していることを承知のうえで行われている。平成から令和時代のはじめにかけてドグマと化している。
(注15)拙稿「日本書紀冒頭部の訓みについて─原文の「搏」や「埸(堨)」とは何か─」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/2836f8be437ba9abb1a6d157fc9eb3c4参照。

(引用・参考文献)
海野2004. 海野一隆『地図の文化史』八坂書房、2004年。
応地1996. 応地利明『絵地図の世界像』岩波書店(岩波新書)、1996年。
黒田2003. 黒田日出男『龍の棲む日本』岩波書店(岩波新書)、2003年。
産総研HP「赤トンボはなぜ赤い?動物で初めて見つかった驚きのメカニズム」https://www.aist.go.jp/aist_j/aistinfo/bluebacks/no23/
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
新編全集本日本書紀 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注・訳『新編日本古典文学全集2 日本書紀①』小学館、1994年。
千田2003. 千田稔「聖なる場としての国家領域─「神国」の表象─」『聖なるものの形と場』18号、2003年3月。日文研オープンアクセスhttps://doi.org/10.15055/00002965
大系本日本書紀 坂本太郎・井上光貞・家永三郎・大野晋校注『日本書紀(一)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
田沢2014. 田沢裕賀「風神雷神図屏風 俵屋宗達筆」(解説)東京国立博物館・読売新聞社・NHK・NHKプロモーション編『特別展 栄西と建仁寺』読売新聞社・NHK・NHKプロモーション、2014年。
錦2005. 錦三郎『飛行蜘蛛』笠間書院、2005年。(丸ノ内出版、1972年初出。)
東・沢辺・上田2004. 東和敬・沢辺京子・上田哲行「もう一つの赤とんぼ」上田哲行編著『トンボと自然観』京都大学学術出版会、2004年。

※本稿は、2014年5月稿を2020年8月、2021年8月の訂正を経て、2024年2月に再度補正しつつルビ形式にしたものである。

神功紀、紀28歌謡のハラヌチについて

2024年02月09日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 日本書紀の神功皇后元年三月条に、紀28歌謡がある。神功皇后・応神天皇方と忍熊王方との合戦に際して、忍熊王方の熊之凝くまのこりという先鋒が、自軍を鼓舞するために歌を歌っている。歌意はそれ以上のものではない。

 三月の丙申の朔にして庚子に、武内宿禰たけしうちのすくね和珥臣わにのおみおや武振熊たけふるくまみことのりして、数万よろづあまりいくさひきゐて、忍熊王おしくまのみこを撃たしむ。ここに武内宿禰等、精兵ときつはものを選びて山背やましろより出づ。菟道うぢに至りて河の北にいはむ。忍熊王、いほりを出でて戦はむとす。時に熊之凝くまのこりといふ者有り。忍熊王のいくさ先鋒さきと為る。熊之凝は、葛野城首かづののきのおびとの祖なり。一に云はく、多呉吉師たごのきし遠祖とほつおやなりといふ。則ちおのいくさびとを勧めむと欲ひて、因りて、高唱おとたかうたよみして曰はく、
 彼方をちかたの あらら松原まつばら 渡りきて 槻弓つくゆみに まり矢をたぐへ 貴人うまひとは 貴人どちや 親友いとこはも 親友どち いざはな われは たまきはる うち朝臣あそが 腹内はらぬちは 小石いさごあれや いざ闘はな 我は(紀28)
時に武内宿禰、三軍みたむろのいくさのりごとして……(注1)

 歌謡について、新編全集本日本書紀に、「遠方のまばらな松原、その松原に宇治川を渡って攻めて行って、つきの弓に鏑矢かぶらやを添え、貴い人は貴い人同士、親しい友は親しい友同士団結して、さあ戦おう。我々は。〈たまきはる〉武内朝臣たけうちのあそんの腹の中は、砂が詰まっているはずはない。さあ戦おう、我々は」(①442~443頁)と現代語訳されている。
 歌意が十分に了解されるには至っていない。「貴人うまひとは 貴人どちや 親友いちこはも 親友どち」に戦うとはいったいどういう意味で、どういう戦い方のことなのか。敵将の腹の内に小石が入っていはしないといったことを歌うことで、なぜ戦意が高揚するのか、疑問である。古今東西、生きている人間のおなかが砂礫でできている人はいない。熊之凝という人物はこの歌を歌うためだけに設定された人物のようであるが、前後でどのように意味が連関しているのかもわかっていない(注2)。山路1973.に次のようにある。

 私が、この歌謡と物語との結びつきの上で、不自然に感じ、不審に思うことの一つは、「腹中はらぬちいさごあれや」という部分に対する従来の解し方である。勿論、砂に矢の通り難いことを、経験を通して知っていたにしても、『記紀』では、「中天若日子寝胡床之高胷坂、以死」(『古事記』上)、「一発中胸、再発中背」(「綏靖紀」)、「彦国葺射埴安彦、中胷而殺」(「崇神紀」)等々とあるように、失のあたる処は、胸が通例であるのに、なぜ腹をとり、しかも微少感を免れ得ない「砂」をもってしたのか。「垜」はアムツチ・・(『名義抄』)であるから、矢を遮るのに、特に砂をもって表現する必要があったとは思えない。虚心にこの句を解すれば、「腹の中にはまじりものがない」ということであろうか。(303頁)

 当たり前の話だが、矢が当たるところは胸以外にもある。「流矢いたやぐし有りて、五瀬命いつせのみこと肱脛ひぢはぎあたれり。」(神武前紀戊午年四月)とある。紀28歌謡でどうして腹が出てくるのか、結局のところ何も解けていない。
 歌の中の語、ハラヌチ(波邏濃知)はハラノウチ(腹の内)の約であると考えられている(注3)。異説が現れていない。「国内くぬち」(万797・4000)、「屋内やぬち」(万4263)と同じ過程で成った言葉とされている。ノウチの約がヌチだというのである。しかし、その部分の、「内の朝臣あそが 腹内はらぬちの」というかかり方は、連体助詞ガの用法として不自然に思われる。岩波古語辞典に次のように解説されている。

奈良時代、連体助詞として使われた場合には「つ」と相互に役目を分けていた。「つ」が多く基本的な位置・存在の場所を示したのに対し、「が」は地名・植物名・動物名などを承けて所在・所属を表わした。例えば、「おほやが原」「きよみが崎」「かほやが沼」「あをねが嶽」「梅が枝」「うけらが花」「笹が葉」「松が根」「尾花が末」「雁が音」「鶴が声」などである。ことに顕著に目立つのが人代名詞・人をさす名詞を承ける用法である。「わが宿」「あが身」「汝が名」「妹が家」「君が姿」「吾妹子が心なぐさ」「己(おの)が命」「背なが衣」「母が手」「父母が殿」など多くの例があるが、ここにある代名詞・名詞の多くは、自分自身、あるいは結婚の相手・両親などで、自分自身を中心にして、周りに円周を描き、その中に含まれる人間つまりウチなる人間を指すのに使われることが圧倒的に多い。従って、親愛の対象を表わすもので、「が」はそれとの間の親しい、近しい、場合によっては軽口をたたきうるような対象との間の所有または所属の関係を表わしている。これ故、本来、これは尊敬して扱うべき役人に対して「(税を取り立てる)里長が声は寝屋戸まで来立ち呼ばひぬ」などと使えば、それは「里長」に対する軽侮・嫌悪の気持の表現となる。つまり連体助詞「が」は親愛→軽蔑→嫌悪という対人感情の移行の類型を、そのままに反映する助詞であって、「の」とはこの用法の点で大きく相違する。(1485頁)

 歌を歌っている熊之凝という人物と、内の朝臣たる武内宿禰との間に、どのような関係があったか不明である。親愛、軽蔑、嫌悪の感情を懐くほどの近しさは認められそうにない。熊之凝が「内の朝臣が 腹内の」と直接述べるのは不適当である。この歌を、主君、忍熊王に代わって歌を歌った代作の詠歌として、忍熊王の気持ちを言っていると考えるなら、忍熊王にとって神功皇后は義母に当たって曲がりなりにも皇族だから、武内宿禰との関係性は密であったと推定できないことはない。しかし、その場合、腹違いであることをもって「腹内」なる言葉を使って何かを表そうとしているとはいえない。男の腹が子を孕むことはない。武内宿禰の腹の内には五臓六腑があるばかりで、「小石いさご」が砂肝の謂いであるなどとは表さないだろう。
 筆者は、ハラヌチという語を「腹内」の意であるとする捉え方が間違っていると考える(注4)
 歌の前半で、「槻弓つくゆみに まり矢をたぐへ」とある。宇治川を挟んで両軍が対峙していて、矢を射かける射撃戦が始まろうとしている。歌の後の展開でも、武内宿禰側が儲弦うさゆづるを隠して武装解除したように装い、相手方を欺いたという話に展開している。武内宿禰のことは、内の朝臣と言い慣わされていた。天皇の側近くに仕える内大臣という意味である。「たまきはる」は「内」にかかる枕詞であるが、かかり方は未詳とされている。
 タマキハルという言葉が弓を使う時に用いられている。上代の弓の使い方としては、弓を持つ左手、弓手ゆみて・ゆんで籠手こてを着け、反対の右手、馬手めてには籠手を着けなかった。片籠手形式であった。籠手のことはタマキと言った。タ(手)+マキ(巻)の意である。タマキという語には、ブレスレットを指すくしろのことだけでなく、弓手を防護する籠手のことも指した。自らが操る弓具で自分の腕を怪我しないようにするために装着された。

 射韝 説文に云はく、韝〈古侯反、多末岐たまき、一に小手なりと云ふ。又鷹具に見ゆ〉は射る臂の沓なりといふ。(和名抄)
 韝 文選西京賦に云はく、青骹せいかうのあをきたか、韝のもとるといふ。〈韝の音は溝、訓は太加太沼岐たかたぬき、又射芸具に見ゆ〉。薩琮に曰はく、韝の臂衣なりといふ。(和名抄)
 釧 止援反、金契なり、久自利くじり、又太万支たまき。(新撰字鏡)
 𤿧 古岸反、弓を射る時の調度なり、古氐こて。(新撰字鏡)
 
 弓に矢を番えて発射するとき、精一杯引き絞る。弓手を張るから、籠手はまっすぐに張られた格好になる。その時、タマキハルという表現がありありと立ち現れる。
 弓の射手は、左手側には籠手があって、肘が守られている。まっすぐに伸ばされているから肘がどこにあるのかさえわからない。反対の右手側は防具を着装しておらず、肘が守られていない。曲げられているから肘の場所は明白である。肘が籠手で守られているとは、ギブスさながらにひぢひぢでもって固め守っていることを示す。ヤマトコトバは頓智を使って当該語の確証としていた。音声言語でしかなかったヤマトコトバは、言葉を声に発しながら循環的に定義していた。すなわち、辞書の役割を常時果たすことで再活性化を進めて行っていたのである。
片籠手姿(蒙古襲来合戦絵巻写、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2591516/1/5)

 臂 広雅に云はく、臂〈音は秘〉は之れを肱〈古弘反〉と謂ふといふ。四声字苑に云はく、肘〈陟柳反、或に䏔に作る、比知ひぢ〉は臂の節なりといふ。(和名抄)
 臂 音は比、訓は多太牟技ただむき、肘、比地ひぢ(新訳華厳経音義私記)
 淤泥 上の音は於、川泥なり、泥の音は乃、川淤なり、倭に比地乃古ひぢのこと云ふ。(新訳華厳経音義私記)
 ◆(磣の彡の代わりに水) 初錦反、◇(◆の石の代わりに土)同、悪毒害なり。石、微細にして風に随ひて飛ぶ沙なり。伊佐古いさご、又須奈古すなご(新撰字鏡)(注5)
 砂〈纎砂附〉 声類に云はく、砂〈所加反、和名、以佐古いさご、一に須奈古すなごと云ふ〉は、水中の細かき礫なりといふ。日本紀私記に纎砂〈万奈古まなご〉と云ふ。(和名抄)

 ヒヂノコという場合のコは、粉の意味であろうかとされている。イサゴも同様と考えられている。
 腕のことばかりに注目しているのは、「命武内宿禰・和珥臣祖武振熊、率数万衆、令撃忍熊王。」とあるからである。武内宿禰らは、朝敵追討のために派遣された「討手うて使つかひ(撃手使)」に当たる。「野大弐やだいに、純友がさわぎの時、討手うて使つかひにさされて、少将にてくだりける。」(大和物語・四)とある。ウテノツカヒだから、相当な腕自慢と聞きつけた熊之凝は、手強いと怖気づいている味方の戦意を保つため、腕は腕でも右腕の肘は何も防禦がなく、そこを狙えばいいと自軍に檄を飛ばしている。
 話はすべて、ウテ(討手)のウデ(腕)のことに巡り巡っている。弓手の左手は、籠手で堅固に守られている。ひぢをまぶしてひぢを守っている。固めた左手を伸ばしている様子は、古代官道が新たに敷設されまっすぐに伸びているのと同じだと見立てられた。「墾道はりみち」である。

 信濃道しなのぢは 今の墾道はりみち 刈株かりばねに 足踏ましなむ くつはけわが背(万3399)
 草蔭くさかげの 安努あのかむと りしみち 阿努あのは行かずて 荒草あらくさ立ちぬ(万3447)
 新墾にひはりの 今作るみち さやけくも 聞きてけるかも いもうへのことを(万2855)

 道路敷設についての記録は、日本書紀では応神紀三年十月条に見えるのが早い。考古学的知見からは、道路の工法としては、あらゆる工法が用いられており、同様の地形や地盤だからといって同一の工法をとるものではない。現場の判断で都合よく整備されていた。現在のアスファルト舗装のような、画一化された道路整備用資材があるわけではない。道路に限り何か特殊な技術があったわけではなく、古墳や港湾の船着場や池の堤防などの各種土木工事の技術と通じていた。土手のことは古語につつみと言う。何をいかにツツムか。ひぢで包むのが堤である。そんな堤のように、古代の道で路盤を包み整えたところがある(注6)
 道路のことは古語でチ(路)と言う。チという言葉は、単独では使われず、複合語として用いられたとされる。ミチ(道)は、接頭語ミが付いた構成と考えられている。また、チが複合語の後項に用いられる場合、ヂと濁ることが多い。アヅマヂ(東路)、アマヂ(天路)、イヘヂ(家路)、カハヂ(川路)、クモヂ(雲路)、シホヂ(潮路)、ソラヂ(空路)、ミヤヂ(宮路)、ミヤコヂ(都路)、ヤマヂ(山路)、避路(ヨキヂ)、ウミツヂ(海路)などとある。ただし、オホチ(大路)、シゲチ(繁路)、タダチ(直路)、ナガチ(長路)、タギマチ(当麻径)と濁らない例もある(注7)
 紀28歌謡のハラヌチという語に、ハラ(動詞「る」の未然形)+ヌ(助動詞ズの連体形)+チ(路)という語構成が見出せる。すべてはウテ(討手)のウデ(腕)のタマキ(韝)を出発点として、ひぢひぢの洒落へと展開している。設定された場所はウヂ(菟道)である。字を当てた「菟道」からは、ウサギが駆けていくほどの道、古代官道の「墾道」のことが連想される。土木技術に長けていれば、土塁や水城などを築き上げる軍事技術にも長けていると知れる。それでも、よく見ると、反対側の隠れている右手側は曲がっていて墾っていない道である(注8)。曲がっている肘と曲がっている道を対称と見ている。伸びておらず曲がっていて、無防備なところを「らぬ」と呼んでいるのであろう。大したことはない、戦って勝てる相手であると鼓舞している。
 古代官道は整備されている。地盤にバラスを入れて排水性が高められている。その整備された道路が大雨などで表面土が流されたら、その「小石いさご」が現れることになる。古代は、その都度補修していたらしい。「墾道」に「小石いさご」が地面の下に包まれてあるのに対し、昔ながらの道、「墾らぬ路」には「小石いさご」はあるはずもない。単に「歩く人が多くなればそれが道となるのだ」(魯迅)式に、人や牛馬が踏み固めて草が枯れてできた、いわば人の獣道にすぎない。つまり、「墾らぬ道に 小石いさごあれや」とは、新しく官道として整備したわけではない昔ながらの道路は、長い年月をかけて自然にできたもので、周りよりも高く作られているわけでもないからぬかるむことはあっても崩れることはない。路盤を備えていないから、剥き出しに現れることもない。だから、自然にできている特別な堆積層の場所を除いて、表面土が流されて「小石いさご」が出てくることはない。「らぬに 小石いさごれや」と言って正しい。小石が現れるか、いやいや現れない、の意である。(注9)
 同様に、人の腕も、弓手を籠手で固めれば「小石いさご」がたくさんまぶされているように鎖になっていて、鏃を跳ね返すほどに堅固である。イサゴという語は、拒否・拒絶を表わすイサ(否・不知)という語を含む音感から、矢の進入を拒んでいるように聞こえる。しかし、籠手で包まれていない右手は無防備で、矢で射かければすぐに突き刺さるであろう。神武前紀の話で、五瀬命に流矢が当たった腕は馬手(右手)であったろう。墾り固めていない右手に「小石いさご」が現れることはない。ウィークポイントである。右手の肘には、ヒヂノコ(泥)で固められることもなく、ましてやイサゴ(小石)のあろうはずもない。だからそこをめがけて「いざ闘はな」と言っている。イサゴ→イザ(率)と音もつながっている。
籠手(鉄錆地縹糸威腰取五枚胴具足の籠手、板橋区立郷土資料館展示品。時代は下るものであるが籠手の本質は変わらない)
 武内宿禰は、「たまきはる うち朝臣あそ」と呼びならわされる人物である。枕詞は多義的な意味合いを重ね持つものと推測され、その一義として「たまき張る」の意があるのだろう。「うち朝臣あそ」のアソ(ソは乙類)は、ア(網)+ソ(衣)の意であると錑られて解される。ソは、すそそでのソである。籠手の鎖繋ぎのことを網に見立てているらしい(注10)。鎖籠手の上にたまきを張っているという言い回しになっている。そのような名を冠した人物は討手の使として手強そうであるが、こちらからは隠れている右手のほうは籠手を着けていない。そこが狙い目であると歌っている(注11)
片籠手(中央:馬上で矢を番えて狙う武士、左下:射られて落馬する武士、右下:刺さった矢をなんとかしようとする武士、春日権現験記絵(板橋貫雄模、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1287490/1/12)
 籠手と墾道の洒落をもって歌が歌われている。戦意高揚のための歌である。「貴人うまひとは 貴人どちや 親友いとこは 親友どち いざはな」と呼び掛けている。なぜそのように言い含めなければならないのか。貴人は貴人同士で、親友は親友同士で敵と戦おうというのは、貴人は貴人と一緒になって敵と戦い、親友は親友と一緒になって敵と戦おうというのであり、貴人は敵の貴人と、親友は敵の親友と戦おうというのではない。ドチ(共)という語で呼び覚ませたいものがあるからそのように歌われていると考える。ドチ(共)という語については、辞書類に要領を得ていない(注12)
 新沢2017.に、「「どち」は、通常、「同士」「仲間」といった複数の人間集団を表す名詞と理解されている。ところが、万葉集に用いられる一五例と記紀歌謡の二例を、時代や作者をふまえた上で改めて眺めてみると、古い用例には名詞として「同士」「仲間」という意味を表すものはなく、「~と一緒に」というように、動詞に係りながら副詞的に機能するものばかりであることに気づく。」(104頁)、「「~と一緒に」といっても、……同じ立場の者が一緒に行動する場合に限って用いられるという点で、助詞の「と」より用法が限定的である。」(106頁)と的確に指摘されている。ドチの本義として、同じ立場の者が一緒に何かをする場合に限って用いられた。
 貴人は貴人とグルになり、親友は親友とグルになる。「ともに」と同じである。ドチ(共)がトモ(共)とほとんど同じ意味を持つことは、トモ(共)がトモ(鞆)と同じ音であることに因縁を持つ。鞆とは、弓具使用時に弦の反発によって自らを傷つけないために弓手に装着する防具である。革製の丸く膨らんだ仕様のものが知られる。用途は籠手と同じである。籠手は左腕全体を覆うものであるが、鞆は左手の前腕から肘の部分に付けたようである。すべては討手うてうでひぢひぢの洒落をもって成り立っている。同じ音ということは同じ意味であるとする無文字時代のヤマトコトバ使用の信念から、きちんとした理屈を述べていることになる。地口的同一性のもとに世界の把握、理解が進むというのがヤマトコトバの知恵であった。
鞆をつけた射手(年中行事図屏風、住吉如慶(1599~1670)筆、紙本着色、江戸時代、17世紀、東博展示品)
 最後に、この歌謡を「高唱おとたかうたよみし」た人物、熊之凝という名について触れておく。クマノコリ(ノは乙類、コは乙類)は、クマ(熊)+ノコリ(残、ノは乙類、コは乙類)の意であると聞こえる。日本に在来して目に付くクマは、ツキノワグマである。全身のほとんどは黒い毛でおおわれているが、喉の下のところだけ、弓張月の形の白い毛の部分があり、ツキノワグマと呼ばれている。弓を射ることがテーマであっただけにふさわしい登場である。そしてその白く輝く形は鉄鎌のようである。つまり、クマノコリ(熊之凝)という名はカマのことを表している。カマという語は、囂・喧などといった字を当てる、うるさい意を示す。「高唱之歌曰」を体現する名にふさわしいと知れる。
 「熊之凝」と書いてあるのだからその字義にもかなう意があるであろう。熊の煮凝りのことなら、熊の掌の料理が思い起こされる(注13)。遊仙窟に、「熊のたなごころ」とあるのは満漢全席にもみられる料理である。孟子・告子章句上に、「魚我所欲也。熊掌亦我欲所也。二者不得兼、舎魚而取熊掌者也。」、史記・楚世家第十、「成王、請熊蹯而死。」の杜預注に、「熊掌難熟冀久将外救_之也」とある。熊之凝という名が料理名を意識したものであるとすると、熊の掌のことを示している。熊の足跡を見てみると、人間と同じく五本指をしていながら人間よりも大きい(注14)。熊の掌ならびに腕は、人間が籠手をつけた様子にとてもよく似ている。そして、いわゆる熊手と呼ばれる捕物具も絡んでくる。馬を操りながら弓を構えていても、背後、すなわち、搦め手から熊手をもって絡められると落馬して倒すことができる。熊之凝という名に作るほどに戦闘具の熊手は、飛鳥時代には存在していたのだろう。すべて、籠手をめぐる話であったことが人名によく表れている。
熊手(中央:搦め手から熊手で絡められて対応する、春日権現験記絵再掲)
 以上、紀28歌謡「彼方をちかたの あらら松原 ……」歌を精読し、長年の誤解を解いた。

(注)
(注1)神功紀は次のように続いている。

 時に、武内宿禰、三軍みたむろのいくさのりごとしてふつく椎結かみあげしむ。因りて号令のりごとして曰はく、「おのおの儲弦うさゆづるを以て髪中たきふさをさめ、また木刀こだちを佩け」といふ。既にして乃ち皇后きさきおほみことのたまひあげて、忍熊王ををこつりて曰はく、「吾は天下あめのしたむさぶらず。ただわかみこうだきて、君王きみに従ふらくのみ。豈ほせき戦ふこと有らむや。願はくは共にゆづるを絶ちてつはものを捨てて、とも連和うるはしからむ。然して則ち、君王きみ天業あまつひつぎしらして、みましに安く枕を高くして、たくめ万機よろづのまつりごとまさむ」といふ。則ちあきらかみいくさの中にのりごとして、ふつくゆづるたちを解きて、河水かはなげいる。忍熊王、其のをこつりことけたまはりて、悉に軍衆いくさびとのりごとして兵を解きて河水に投れて、弦を断らしむ。爰に武内宿禰、三軍に令して、儲弦をいだして、更に張りて、真刀まさひを佩く。河をわたりて進む。忍熊王、欺かれたることを知りて、倉見別くらみわけ五十狭茅宿禰いさちのすくねかたりて曰はく、「吾既に欺かれぬ。今まけつはもの無し。豈戦ふこと得べけむや」といひて、兵を曳きてやや退く。(神功紀元年三月)

(注2)管見であるが、紀28番歌に関して山路1973.の疑問に答えるような議論はこれまで行われていない。問題は放置されている。
(注3)谷川士清・日本書紀通証に、「波羅濃知波〈腹中者也、知宇知〉」(巻十四、二十オ)、河村秀根・益根・書紀集解に、「餓波羅濃知波クハラノチハ。〈按餓波羅考羅、地名、山城国綴喜郡河原、崇神天皇十年伽和羅、仁徳天皇即位前紀考羅済、即此綴喜宇治接、知ウチナリ〉」(巻之九、十九ウ)(ともに漢字の旧字体を改め、適宜句読点を施した)とある。
(注4)神功紀の熱田本に声点が付されている。ハラヌチ(波邏濃知)には、平平上平とある。これは、かなり古くからこの言葉、ハラヌチを腹の内の約であると考えた挙句に付された声点であると考える。ハラ(腹)は和名抄に、平平の声点が付されている。神功紀の歌謡に用いられている「波」字は、紀28・29歌謡に用いられている。「いざあはな(伊装阿那)」、「われは(和例)」、「たまきはる(多摩岐屢・多摩枳屢)」、「はらぬちは(邏濃知)」である。それぞれの「波」字は、順に、平、上、平、平、平である。いわゆる日本書紀の(表字法)区分論に、神功紀はβ群に当たり、中国中古音の声調を意識したものではないとされており、ここでも「波」字に上声の声点のものが見られて一貫性に欠けている。音の高低を反映して文字が選択されているわけではない。神功紀の声点は、付された時点での当該語についての見解に基づいたものとしか定められず、声点を頼りに語の解釈を定めることは難しい。
(注5)白川1995.に、「磊々らいらいたる山中の石は、谷川に転じて激流に流され、沙礫となる。それが「いさご」である。〔新撰字鏡〕にあげる磣は、〔玉篇〕に「食に沙あるなり」とあって、食物に砂がまじっている意であるから、……熊之凝くまのこりが歌った「腹内はらぬち異佐誤いさごあれや」という句は、まさに磣の字義にあたるものであろう。」(108頁)とするが、考えに誤りがある。「あれや」は反語を表し実際にはまったくない。磣の字義を表すものではない。
(注6)和名抄に、「陂堤 礼記注に云はく、水を蓄ふるを陂〈音は碑、和名は都々美つつみ、下同じ〉と曰ふといふ。纂要に云はく、土を築き水をむるを塘〈音は唐〉と曰ひ、亦、之れを堤〈音は低、字は亦、隄に作る〉と謂ふといふ。」とある。日本書紀に道路を造ったとする記事は限られている。仰々しく記さなければならないことではないからであろう。

 即ち蝦夷えみしつかひて、厩坂道うまやさかのみちを作らしむ。(応神紀三年十月)
 是歳、大道おほちみさとの中に作る。南のみかどよりただに指して、丹比邑たぢひのむらに至る。(仁徳紀十四年是歳)
 是の月に、呉のまらうとの道をつくりて、磯歯津路しはつのみちに通はす。呉坂と名く。(雄略紀十四年正月是月)
 又、難波よりみやこに至るまでに大道を置く。(推古紀二十一年十一月)
 処処の大道を脩治つくる。(孝徳紀白雉四年六月)

 古代道路の工法としては、場所に応じてさまざまな手法がとられていたことがわかっている。近江2013.によれば、大略、①地盤を造る、②路盤を造る、③路面を造る、④側溝を掘る、に分類される。①では、今日までのところ、掘込作業の跡は道路では見られないが、軟弱な地盤を掘って砂などよく締まる土で埋め戻した例、敷葉工法といって軟弱地盤上に葉のついた木の小枝を大量に敷いてその上に土を盛っていき、流されないように工夫した例が見られる。②では、路盤に石混じりの砂で盛り土をして透水性を高めた例が見られる。③では、路面に砂を敷いたりきめの細かい土に土器片や小石を混ぜ込んで敷いた例も確認されている。このうち、今問題にしたいのは、バラス(「小石いさご」)が地盤や路盤に用いられたケースである。前者では、奈良県御所ごぜ市の鴨神遺跡の古墳時代のものや東京都国分寺市の恋ヶ窪遺跡の東山道駅路の例が知られる。後者では、福岡県京都みやこ郡みやこ町の呰見あざみ樋ノ口遺跡の西海道駅路の例が知られる。
左:恋ヶ窪遺跡展示パネル(国分寺市姿見の池。同図は、国分寺市2017.にも記載されている)、右:呰見あざみ樋ノ口遺跡(web博物館「みやこ町文化遺産」http://miyako-museum.jp/list/detail.php?uniq_id=22)
 万葉歌の例の万2855番歌では、「新墾の 今作る路」が「さやけし」を導くとされている。道が開通するように彼女のこともよく伝わってきたという意である。今日までの解説に、この道路が古代官道を示すもので直線的であるといったことが言われているのかわからないが、それだけでこの表現が成り立っているとは考えない。道路が舗装されている点が意識されている。路盤にバラスが入れられて上を路面が覆う形になっている。これは、まるで、豆がさやに入っているのと同等ではないかと感じられたのであろう。歌は口頭語でできている。サヤ・・ケクという語を導いていておもしろいと思え、よくわかる使い方である。
(注7)蜂矢2017.の第四章「チ[路]+ミチ[道]」参照。
(注8)宇治の渡り部分について、あるいは、この時期にすでに堤が整備されていて馬踏を軍勢が行き交っていたことを示すものかもしれないが、直線的な土手が築かれていたとは思われない。巨椋池に流れ込んで低湿地となる悪路も多かった。一部で土木技術の粋を極めて整備されながら、その他の道は昔ながらの悪路であることの謂いであるとするほうが理解しやすいであろう。
(注9)佐佐木2010.43頁の想定では、「墾らぬ道に 小石有れや」の古い形とするが、そのような曲解を必要としない。つづく「あれや」を「有れや」の意に解しており、「れや」の可能性が検討されていない。
(注10)有職故実の武具研究では、棒状板鎖繋ぎは中世後期に完成して篠籠手と呼ばれている。それ以前になかったのかは不明である。
(注11)矢を持って射かけるのに動きづらくて不便だから、射手は右手に籠手をはめなかった。片籠手である。中世後期に戦が打撃戦に変質すると、騎兵でも両方の腕に籠手を着けた。諸籠手である。本邦の歴史上、籠手はミッシングリンクの器具とされており、通史にまとめられていないようである。とはいえ、概念としては一貫してコテ(籠手)であった。
(注12)古典基礎語辞典に、「どち 名 解説 親しい間柄の人・仲間・同輩の意。多くは名詞や動詞の連体形に付いて接尾語的に、それと同類の者の意を付加する。形の近似した語にタチ(達)があるが、タチは外から見て高く見える対象を扱い、神や人について尊敬を込めて用いられる点でドチとははっきり異なる。ドチは互いに精神的な交流がある間柄でいう。人数は原則的には不定だが、二者の交流関係を扱うことが多い。ドモ(共)は本来「供」の意で、目下扱いの表現。ラ(等)は対象をモノ扱いに低めて表現する語。ドモ・ラは人間以外にも用いることがある。……語釈 ①親しい間柄の人。友だち同士。同輩。……②接尾語的に用いる。…どうし。…仲間。……」(839頁。この項、筒井ゆみ子)とある。
(注13)延喜式・典薬寮式、諸国進年料雑薬として挙げられるなかに、「美濃国六十二種に、……獺肝三具、熊胆四具、猪蹄十具、鹿茸七具、熊掌二具。」とあり、また、庭訓往来・五月九日・佐平進平・進上蔵人将監殿 御館」条に、「塩肴は、鮎の白干、……干鹿、干江豚ほしゆるかいのこの焼皮、熊掌、狸の沢渡り、猿の木取、……」などとある。薬と塩肴は加工品として異なったとしても、いずれも熊の煮凝りを示すようなものではない。本邦の記録には見られないことになる。
(注14)玉篇佚文内篇に、「熊 獣似豕山居冬蟄舐其掌々似人掌也─涅槃経……」(岡井1933.123頁)とある。

(引用文献)
岩波古語辞典 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典 補訂版』岩波書店、1990年。
近江2013. 近江俊秀『古代道路の謎─奈良時代の巨大国家プロジェクト─』祥伝社(祥伝社新書)、2013年。
岡井1933. 岡井慎吾『玉篇の研究』東洋文庫発行、昭和8年。
国分寺市2017. 国分寺市教育委員会教育部ふるさと文化財課編『古代道路を掘る』国分寺市教育委員会、平成29年。
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
佐佐木2010. 佐佐木隆校注『日本書紀歌謡簡注』おうふう、平成22年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
新沢2017. 新沢典子『万葉歌に映る古代和歌史─大伴家持・表現と編纂の交点─』笠間書院、2017年。
新編全集本日本書紀 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注・訳『新編日本古典文学全集2 日本書紀①』小学館、1994年。
蜂矢2017. 蜂矢真郷『古代地名の国語学的研究』和泉書院、2017年。
山路1973. 山路平四郎『記紀歌謡評釈』東京堂出版、昭和48年。

(English Summary)
On the word "Haranti" in the song of Nihonshoki No.28 (the article of March in the first year of Jingu Empress).
Examining the contents of the tale shows us a story about the gauntlet they wear when one shoot the bow, using metaphor of road paving. Therefore, we can see that "Haranuti" means not inside the belly but the unpaved road. Because elbow and mud are the same sound "hidi" in Yamato Kotoba.

※本稿は2018年7月稿について、2024年2月に一部改めつつルビ形式にしたものである。

万葉集「恋ひつつあらずは」の歌について─「ズハ」の用法を中心に─

2024年02月01日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 万葉集で、慣用的に「恋ひつつあらずは」という言い回しが使われている。
 上代におけるズハの用法は、文法学的にとても難しいものと思われている。「ンヨリハ」説(本居宣長)、「ズシテハ」説(橋本進吉)以降もさまざまに解釈されてきている。同じズハの形であるのに巧妙に訳し分けることが行われている(注1)。以下の用例では現状の解釈を示すために多田一臣氏の訳を引く(傍点筆者)。

 かくばかり 恋ひつつあらずは 高山たかやまの 磐根いはねし巻きて 死なましものを(万86)
  こんなにばかり恋い焦がれてはいずに・・・・・、いっそ高い山の岩を枕に死んでしまいたいものを。
 立ちしなふ 君が姿を 忘れずは 世の限りにや 恋ひ渡りなむ(万4441)
  しなやかに立つあなたの姿を忘れずに・・、生きている限り恋い続けることだろうか。
 三諸みもろの 神の帯ばせる 泊瀬川はつせがは 水脈みをし絶えずは われ忘れめや(万1770)
  みもろの神が帯にしておられる泊瀬川、その流れが絶えないかぎりは・・・・・・、私はあなたをどうして忘れることがあろう。 
 夕々よひよひに が立ち待つに けだしくも 君来まさずは 苦しかるべし(万2929)
  夕べごとに私は立って待っているのに、もしも万一あなたがおいでにならないとすると・・・・・・・・、つらいことに違いない。

 筆者はズハという結びつきによって構文が成されたものであるとは認めない。すなわち、ズハという言葉を連語として有意であるとは考えない。仮定や比較を表すとは見なさないのである。考えないのだから、ズハの前項が未実現か既実現かを考慮して仮定の用法を分類して事態の先後関係を順行、逆行と仕分ける(注2)には及ばないと考える。実例に沿って議論を進めてみよう。
 ズハのある文には、「まし」を伴うことが多い。

 かくばかり 恋ひつつあらずは 高山の 磐根いはねし巻きて 死なましものを〔如此許戀乍不有者高山之磐根四巻手死奈麻死物乎〕(万86)

 「まし」は反実仮想を表す。現実の事態に反した状況を想定し、もしそうなら、これこれの事態が起こったであろうのに、と想像する気持ちを表す。「ものを」は「もの」と「を」が複合した間投助詞で、順接にも逆接にも使う。「まし」で現実に反することを仮想しておき、「ものを」で逆説的に現実に帰る機能を果たしている。
 「まし」の使い方としては、「ませば……まし」、「ましかば……まし」が基本形であり、前件が省略されることがある。省略されていても意味が通じるからである。
 万86番歌の例で省略を補ってみれば、次のような構文になるであろう。

 「かくばかり恋ひつつあらず」ハ「(死なませば)高山の磐根し巻きて死なまし」モノヲ

 ハの前は、これほどに恋しつつあることがない、の意である。
 ハの後は、もし仮に死ぬとするなら高山の磐根を巻いて死にたい、のだけれどなあ、の意である。
 この両者が、助詞ハによって結ばれており、文章全体の骨格を決めている。
 これほどに恋しつつあることがないのは、もし仮に死ぬとするなら高山の磐根を巻いて死にたい、のだけれどなあ、という回りくどい言い方をしている。
 これを例えば、こんなに恋しているくらいなら高山の磐根を巻いて死んだ方がましだ(注3)、の意に解するのは誤りである。第一に、当時は人生を肯定的に捉える傾向があり、「恋ひつつあり」が辛い状態にあるとは考えにくい。第二に、助動詞「まし」の語義を、「益し」の意と捉えることは間違いである。第三に、「高山の磐根し巻きて」の修辞的意味を封殺したら、何のために歌を考えひねり作っているのかわからないことになる。
 どうして「高山の磐根し巻きて」という表現が生まれているのか。
 それはこれが恋の歌だからである。恋をして男女は同じ枕を巻いて寝る。「巻く」は「く」と同根の語で、妻として抱く意を包含する。すなわち、この歌では、共寝すること、恋をすることに対して否定的な言動は一切見られていない。前半で恋を否定しておいて、そんなことはとてもじゃないが嫌な話で、当然ながら死ぬのは同等に嫌なこと、つまりは、仮に死ぬとするなら彼女を娶かないで、共寝の枕を巻かないで、高山の岩盤なんかを巻いて首吊りするほどに嫌なことだよなあ、と言っている。
 本当に言いたいことは、それとは真逆のことである。このように恋し続けていって、首吊り自殺なんかしないで枕を共にしながら生きていければいいよなあ、ということである。首にロープを巻くのではなく彼女を娶いて生きていければいいよなあ、このように恋を続けて、という意である。
 「恋ひつつ」とは、恋して恋して、の意である。「つつ」という言い方の「つつ」は、二つながらにあることを示している。「恋ひつつ」とは、恋して恋して、の意である。ハの後でも「巻く」ことが二つながらにあることを示唆している。首にロープを巻くのか、腕を巻くのかである。「ハ」は前と後とをつなぐ助詞である。前と後とがつながるものであることを支持する要素として、両者が絡みんでいることの明示となっている。言葉に忠実な表現が行われている。

 かくばかり 恋ひつつあらずは 朝にに 妹が踏むらむ つちにあらましを〔如是許戀乍不有者朝尓日尓妹之将履地尓有申尾〕(万2693)
 「かくばかり恋ひつつあらず」ハ「(地にあらませば)朝に日に妹が踏むらむ地にあらまし」ヲ

 このように恋をしつづけないということは、どういうことかというと、もし仮に私が地面になるのであれば、朝に昼に彼女が足蹴に踏みつける地面でありたいというとんでもない倒錯になるよなあ、の意である。
 当たり前のことであるが、人間が地面になることはない。反実仮想である。仮に地面になるとして、最悪のなり方は朝や昼に足蹴にされる地面になることである。これは恋の歌である。恋の時間で大切なのは夜である。夜に足蹴にされることは、M的な性癖を持っていたらひょっとすると許されたり喜ばれたりするかもしれない。ところが、朝や昼に踏みつけられる地面になるとはそういうことではなく、ただ路盤になるということである。冗談じゃないのだが、それが恋を続けないということだと言っている。つまりは、これまでどおり恋を続けていきたいと高らかに歌っている。「つつ」の二つ性が指しているのは、「朝に」と「日に」でもあり、「朝に日に」と「夜に」を暗示したものでもあり、あるいは「踏む」足が右足、左足であるからでもある。

 吾妹子わぎもこに 恋ひつつあらずは 秋萩あきはぎの 咲きて散りぬる 花にあらましを〔吾妹兒尓戀乍不有者秋芽之咲而散去流花尓有猿尾〕(万120)
 「吾妹子に恋ひつつあらず」ハ「(花にあらませば)秋萩の咲きて散りぬる花にあらまし」ヲ

 彼女に対して恋しつづけないということは、どういうことかというと、もし仮に自分が花であるとしたら、秋のハギが咲いて、散ってしまった、その花であったらよいのになあ、というのと同じことだ、と言っている。
 散ってしまった花は見る影もないものである。どうしてよりによって「秋萩」を採用しているのか。それは、アキハギだからである。アキハギ(キは甲類、ギは乙類)とは、ハ(葉)とキ(木、キは乙類)(ハギで濁音化)がアキ(飽、キは甲類)てしまった様子を示しているように聞こえる。つまり、あの小さな花弁は、ハ(葉)ギ(木)に飽きられて捨てられた残骸なのである。花のなかでも恋を表す点では最低、最悪の花、それが「秋萩の咲きて散りぬる花」である。そんな最低、最悪の花になりたいわけはなく(反実仮想)、彼女に恋しつづけると宣言している。
アキハギ
 この歌で「つつ」の二つ性が後半部で指しているのは、「咲きて」と「散りぬる」でもあり、「は(葉)」と「ぎ(木)」でもあり、「はぎ(萩)」=「は(葉)」+「ぎ(木)」と「花」とでもある。こういう言葉遊びの才覚を隠しながら、否定と否定とを両立させる高等テクニックの表現を展開している。

 おくて 恋ひつつあらずは 紀伊の国の 妹背いもせの山に あらましものを〔後居而戀乍不有者木國乃妹背乃山尓有益物乎〕(万544)
 「後れ居て恋ひつつあらず」ハ「(山にあらませば)紀伊の国の妹背の山にあらまし」モノヲ

 置いてけぼりを食わされて後に残り恋しつづけないということは、もし私が山であったとしたら、紀伊の国のイモセの山、それはイモ(妹)とセ(背)とが吉野川を挟んであって一つにはなれない山であるが、そうだといいのになあというのと同じことだ、と言っている。山は動かないから合体することはない。間に川が流れているから大地震があっても一つにはならないだろう。そうだといいなあというのは、取り残されて相手のことを忘れて恋しなくなるというほどのことである。
 これは恋の歌である。今言ったようなことは、とてもじゃないが容認することはできない。言いたいことはその真逆で、旅に行くなら一緒に出掛けて恋をしつづけて、恋が爆発して一つの山になることがあるのを望んでいる。
 「つつ」という言い方の二つながら性は、ハの後でも、山が二つながらになっている。「妹」の山と「背」の山である。

 よそて 恋ひつつあらずは 君がいへの 池に住むといふ 鴨にあらましを〔外居而戀乍不有者君之家乃池尓住云鴨二有益雄〕(万726)
 「外に居て恋ひつつあらず」ハ「(鴨にあらせば)君が家の池に住むといふ鴨にあらまし」ヲ

 長期の出張先であなたのことを恋しつづけないということは、もし仮に人間である私が鴨であるとしたら、あなたの家の池に住んでいるという鴨でありたいというのと同じことだなあ、と言っている。庭の池に鴨をペットとして飼っていたことがなかったとは断言できないが、アヒルやガチョウではないから、怪我でもしたのか飛び立てなくなった鴨が、渡りの季節を過ぎてもいつづけているということであろう。当然、一羽でいる。そんな取り残されて動けない鴨になりたいわけではない。つまりは、遠距離になったからといっても恋しつづけたいのである。
 「つつ」という言い方で表す二つ性は、後半部で「池(ケは乙類)」と「け(ケは乙類)」(注4)とに示されている。「行け(ケは乙類)」は「行く」の已然形で、すでに行ってしまったこと、渡り鳥の群れが渡ってしまっていることを指している。だから「に住むといふ」などと変にもったいぶった言い方をしているのである。そして、「住む」ところは「家」のはずだから、「家」と「池」とが二つながら存在していることにも対応していると言える。

 おくて 恋ひつつあらずは 田子たごの浦の 海人にあらましを 玉藻たまも刈る刈る〔後居而戀乍不有者田籠之浦乃海部有申尾珠藻苅々〕(万3205)
 「後れ居て恋ひつつあらず」ハ「(海人にあらませば)田子の浦の玉藻刈る刈る海人にあらまし」ヲ

 置いてけぼりを食わされて行ってしまったあなたのことを恋しつづけないということは、もし仮に私が海人であるとしたら、田子の浦で玉藻を刈って刈ってをくり返す海人でありたいというのと同じことだなあ、と言っている。あなたと一緒に連れ立って出掛けたいのであって、田子の浦で玉藻刈りに専念しなければならない海人にはなりたくなどないのである。
 最後のとってつけたような「珠藻刈る刈る」は、前半にある「つつ」と対応させるために「刈る」と「刈る」を示すためにつけられていると思われ、際立たせるための倒置表現となっている。田子の浦の海人が玉藻を刈っては刈ってをくり返すという地口はわかりやすいものである。そこがタゴ(原文に「田籠」)だから、タコ(蛸)のようにたくさん手(足?)を持っていて、藻刈鎌を同時に複数使うことができるからである。この玉藻についてはよく知られた歌がある。

  麻続王をみのおほきみの伊勢国の伊良虞いらごの島に流さえし時に、人の、哀傷かなしびて作る歌
 打つを 麻続王 海人なれや 伊良虞の島の 玉藻たまも刈りをす(万23)
  麻続王、これを聞きて感傷かなしびて和ふる歌
 うつせみの 命を惜しみ 波に濡れ 伊良虞の島の 玉藻刈りをす(万24)
  右は日本紀をかむがふるに曰はく、「天皇四年乙亥の夏四月戊戌の朔乙卯に、三位麻続王、罪有りて因幡に流し、一子は伊豆の島に流し、一子は血鹿の島に流す」といふなり。是に伊勢国伊良虞の島にながすと云ふは、若疑けだし後の人の歌のことばに縁りて誤り記せるか。

 この歌では、天皇の被る天子だけに許された冠、玉藻を、我が子の遊びのためにちょっと拝借したため天武天皇の逆鱗に触れ、流罪になったことについて歌にしている(注5)。すなわち、玉藻を借ることを海藻である玉藻を刈ることに準えて歌っている。その歌の意を加味すれば、後に残されて恋をしつづけないということは、もし海人となるとしたら、もちろん海人になるなどということはないが、好ましからざる海人になって蛸のように手がたくさんあって玉藻をどんどん借りてしまい流罪の憂き目に遭うのが必定な田子の浦の海人になりたいというのと同じぐらい駄目なことであると言っているとわかる。言いたいことはその真逆で、私のことを置いていかないで恋しつづけさせてくれて、仮に海人となるにしてもほとんど玉藻をカル(借・刈)ことのない海人、魚や貝を獲るのが専門の海人になることが望ましいですよねえ、と言っている。
 よく知られた麻続王の玉藻の歌を踏まえているとすれば、その左注に見えるように、天皇の玉藻を拝借したがために連座させられることを示唆していることになる。私のことを放って遠くに行くと、私は玉藻を借りる海人になって、あなたも連座させられて罪になりますよ、と恋の脅迫を仕掛けているのである。

 かくばかり 恋ひつつあらずは 石木いはきにも ならましものを 物思はずして〔如是許戀乍不有者石木二毛成益物乎物不思四手〕(万722)
 「かくばかり恋ひつつあらず」ハ「物思はずして(石木にもならせば)石木にもならまし」モノヲ

 これほどに恋しつつあることがないのは、もし仮に私がもの思いをしないで岩石や樹木になるのだったら、岩石や樹木になるであろうことよ、という意である。当然、人間らしい感情を持たない木石ではないのだから、このように恋し続けているのである。
 「つつ」という言い方で表す二つ性は、後半部では「石」と「木」に反映されている。
 表面上はこのように解されるが、これまでの例と比べると、修辞として物足りない感がぬぐえない。もう少し突っ込んだもの言いをしているのではないか。
 初句で「かくばかり」と言っている。それがどれほどのものなのか、歌の内部には説明されていないように見える。しかし、それでは何を言っているのかわからない歌ということになる。
 なぜ「石木いはき(キは乙類)」と言っているのか。これは同音の「岩城いはき(キは乙類)」のことなのではないか。岩城とは、岩で造られた墓の石室のことである。死者を埋葬する空間として確保されている。古墳の横穴式石室では、追葬されることがあらかじめ準備されていた。すなわち、寿陵のように死んだ後のことまで考えられている(注6)。念の入った準備である。物思いにふけることなく、行く末のことに悩み煩うことも一切ない。老い先の心配はいらないよ、死んだ後までも、というきつい冗談を言っている。木石が「物思はず」であるばかりか、死んだら入るべき「岩城」がすでに決まっているというのは「物思はず」にいられることである。これほどまで恋しつつあることがないのは、他人のものになることはなくて必ず自分のものになるからあれこれ気にかけることがないお墓を持っているように、何かと思案することがないのと同じことだ、ということである。「つつ」は後半部で、「石木」と「岩城」の二つに表れている。本心は、恋の煩いに遭いながらこんなにも恋し続けるのが良いことで、寿陵をこしらえて死んだ後の安心感を得ようとするなんて棺桶に片足を入れた人の考えること、ご免だね、そんな全然楽しくないことは、と言っている。

 家にして 恋ひつつあらずは ける 大刀たちになりても いはひてしかも〔伊閇尓之弖古非都々安良受波奈我波氣流多知尓奈里弖母伊波非弖之加母〕(万4347)
 「家にして恋ひつつあらず」ハ「汝が佩ける大刀になりても斎ひてしか」モ

 「てしか」は、テは完了の助動詞ツの連用形、シカは回想の助動詞キの已然形である。もう済んだ話で不可能だが、もしそれが可能なら~したいものだ、という意味である。これは、反実仮想の一様式といってよいだろう。「ませば……まし」と似た表現である。
 「斎ふ」という言葉は、将来の吉事、幸福、安全が得られるように、善い行いを重ね、悪い行いを慎しむことが原義である。吉言を述べ、まじないをすることも広くイハフと言っている。ここでは、安全が護られることを期待するために、守り刀になろうものをという呪言的な意味合いを含めて言っている(注7)
 家にあって恋しく思い、また恋しく思うをくり返すことがないというのはどういうことかというと、実際にはできっこしないことであるのだが、お前(自分の子)が腰に着けている大刀に私がなってでも安全が護られるようにしたいものよ、というのと同じことでもある、の意味である。「つつ」の表す二つ性は、「大刀たち」は諸刃の剣で、どちら側にも刃があることを表している。そしてまた、守り刀となって安全を護るという言い方に、親が子を護るという意味と、防人が国を護るという二つの意味を兼ねるからである。
 つまり、お前が腰につける大刀になってでも護ることができるようにというほどに、善い行いをし、悪い行いを慎んで家にずっといて、お前のことを恋しく思い続けているよ、と言っている。家にい続けていれば、インターネットにつながってもいないのだから、悪いことをしようにもできないのである。初句の「家にして」の意味はここにおいてのみ明らかとなる(注8)

 吾妹子わぎもこに 恋ひつつあらずは 苅薦かりこもの 思ひ乱れて 死ぬべきものを〔吾妹子尓戀乍不有者苅薦之思乱而可死鬼乎〕(万2765)
 「吾妹子に恋ひつつあらず」ハ「苅薦の思ひ乱れて死ぬべき」モノヲ

 この歌は、下を「まし」で承けていない。上に多く見た例に寄せれば、次のようになるだろう。

 吾妹子に 恋ひつつあらずは 苅薦の 思ひ乱れて 死なましものを(万2765改)
 「吾妹子に恋ひつつあらず」ハ「(死なませば)苅薦の思ひ乱れて死なまし」モノヲ

 彼女に対して恋しつづけないということは、どういうことかというと、もし仮に死ぬのだったら、(苅薦の)思いが乱れて死んでしまいたい、というのと同じことだなあ、ということである。万2765番歌はその同類表現で縮約されたものと考えられよう。
 彼女に対して恋しつづけないということは、どういうことかというと、もし仮に死ぬのだったら、(苅薦の)思いが乱れて死んでしまうべきなのだ、というのと同じことだなあ、ということである。死に方として、同じ死ぬにしても、思いが乱れて死んでしまうのではなくて、一途に思い続けて死んでしまうことのほうが、彼女に恋する身として誠実というものである。それなのに、ノイローゼを患って自死を選ぶ場合、思いが乱れて死ぬという言い方をする。そういう言い方をする以上、そんな死に方は死に方としてふさわしくないのである。だから、思いが乱れて死ぬようなことなく、一途に彼女のことを恋いつづけている、というのが本音であり、歌の本意である。
 この歌における「つつ」の二つ性はどこにあるのだろうか。枕詞「苅薦かりこもの(刈薦の)」は、薦筵に編んだものの長さを部屋の大きさに合わせるために端を刈ることをしたら、せっかくの綴じ目がなくなるから緯糸にも経糸にもしているこもが区別なくバラバラになることを指して作られた言葉ではないかと考えられる(注9)。「つつ」の二つ性は、経糸と緯糸の二つがあるところを指しているということだろう。
 「恋ひつつあらずは」が倒置されている例も多い。

 白波の 来寄きよする島の 荒磯ありそにも あらましものを 恋ひつつあらずは〔白浪之来縁嶋乃荒礒尓毛有申物尾戀乍不有者〕(万2733)
 「恋ひつつあらず」ハ「(あらませば)白波の来寄する島の荒磯にもあらまし」モノヲ

 恋いつつあることがないというのは、どういうことかというと、もし仮にあるとしたら、白波が来て寄せる島にある荒磯でもありたいものだなあ、ということに相当する、と言っている。激しい波がしきりに打ち寄せる荒磯などにはなりたくはない。アップアップしたくはないからである。ずっと息継ぎのことしか考えていなければならないなんて、それは泳いでいるのではなく溺れているのである。金がなくて賃労働を得ようと翻弄されるだけ、あるいは、権力闘争に明け暮れて落ちつく暇もないといった状況に陥り、浮いた話の一つもない人生などまっぴらご免である。荒れた海のなかで露頭を顕わにしている岩などになるのではなく、恋をしつづけたい、というのが本心である。
 波が「白波」と呼べるほどのものである限り、何度も何度も来ては寄せ、来ては寄せをくり返すものである。「つつ」の二つ性はそこに表れている。「荒磯ありそ」に「り」、「荒磯あらいそ」に「らまし」といった韻も関係するかもしれない。

 秋萩あきはぎの うへに置きたる 白露の かも死なまし 恋ひつつあらずは〔秋芽子之上尓置有白露乃消可毛思奈萬思戀管不有者/秋芽子之上尓置有白露之消鴨死猿戀乍不有者〕(万1608・2254)
 「恋ひつつあらず」ハ「(死なませば)秋萩の上に置きたる白露の消かも死なまし」

 恋いつつあることがないというのは、どういうことかというと、もし仮に死ぬとして、秋のハギの上に置いた白い露が消えるように死んでしまいたい、というのと同じことである、と言っている。
 ハギの花は露が置いたように点々と咲くものであり、露があったことは紛れていてわからないまま消えていくことになる。シラツユであり、露知らずの意を含んでいる(注10)。すなわち、この歌は、恋しつづけないということは、アキハギの上に置いた白露が、存在すらおよそ意に介されないままに消えてなくなるように、無碍なことに死んでしまいたいというのと同じことに当たると言っている。これは恋の歌である。恋する相手から、いるかいないか気に留められないのではかなわない。たとえ嫌われようとも、それは異性として認められているということで、まだ救いがあるというものである。そして、これからも恋しつづけていたいと歌い、できることなら相手に振り向いてもらいたいと願っている。奥ゆかしく、情熱的な歌である。
 この歌での「つつ」の二つ性は、後半部では、白露が置くのは霧の「(ケは乙類)」によるが、それが「(ケは乙類)」となることを言っている。

 秋の穂を しのに押しべ 置く露の かも死なまし 恋ひつつあらずは〔秋穂乎之努尓押靡置露消鴨死益戀乍不有者〕(万2256)
 「恋ひつつあらず」ハ「(死なませば)秋の穂をしのに押し靡べ置く露の消かも死なまし」

 恋いつつあることがないというのは、どういうことかというと、もし仮に死ぬとして、秋の穂がしっとりと濡れておし靡かせるほどに露がかかっている、その置いている露が消えるように死んでしまいたい、というのと同じことである、と言っている。
 実際の思いはその真逆である。死んでしまいたくなどなくて、それも最悪の死に方、絶対に簡単には消えないはずの大量の露が忽然と消えるような死に方はしたくない。秋の穂をぐっしょり濡らし、秋の穂を押し靡かせ垂れさせている露は、そう簡単には消えるはずもなくて長くありつづける、そのように恋いつづけたいと告白している。もしも露が簡単に消えるとなると、押し靡かせて頭を垂れている稲穂も元通りになり、稔っているはずが稲粒は空っぽだったということになり、凶作であるほどに不吉である。
 「つつ」の二つ性は、上の万1608・2254番歌にあるのと同じく、「(ケは乙類)」と「(ケは乙類)」によるものと思われる。また、「しのに押し靡べ」にもあるのだろう。シノという音(言葉)は、「篠」字で常用される小さな竹、つまり、ササ(笹)のことをいう。「篠は小竹なり。此には斯奴しのと云ふ。」(神代紀第八段一書第一)、「小竹を訓みて佐佐ささと云ふ。」(記上)とある。サとサの二つ性を隠していることになる。言語遊戯の歌である。

 秋萩あきはぎの 枝もとををに 置く露の かも死なまし 恋ひつつあらずは〔秋芽子之枝毛十尾尓置霧之消毳死猿戀乍不有者〕(万2258)
 「恋ひつつあらず」ハ「(死なませば)秋萩の枝もとををに置く露の消かも死なまし」

 「置く露の 消かも死なまし」の三例目である。
 恋いつつあることがないというのは、どういうことかというと、もし仮に死ぬとして、秋萩の枝もたわむほどに置いている露が忽然と消えてなくなるように死んでしまいたい、というのと同じことである、と言っている。
 実際の思いはその真逆である。死んでしまいたくなどなくて、それも最悪の死に方、秋萩の枝がたわむぐらいまでついている大量の露が消えてなくなるような死に方はしたくない。秋萩の枝をぐっしょり濡らしている露は、容易に消えるはずもなく長くありつづける、そのように恋いつづけたいと告白している。露が簡単に消えるとなると、枝のたわみは大したことはなくて元どおりになるということである。それは本当のところ秋萩と呼ぶことはできないのかもしれない。枝が十分にたわむほどになると、萩の枝は充実したことの証となる。そんな萩の枝は、刈り取って簾に編まれた。これは恋の歌である。御簾みすを作って部屋に掛け、中を隠して情事に至る。だが、萩の枝が充実していないと簾は完成しない。二人の関係がそこまで進んでいないということや、まだ若くて未熟だから不適当であるということを意味する。
 「つつ」の二つ性は、同様に「(ケは乙類)」と「(ケは乙類)」によるものと思われる。また、「とををに」という言葉にもあるのだろう。トヲヲはタワワの母音交替形であるが、トヲトヲを約したものと受けとれるから、トヲとトヲの二つ性を含んでいる。

 「恋ひつつあらずは」を助動詞「む」ばかりで承ける例もある。

 おくれ居て 恋ひつつあらずは 追ひかむ 道の隈廻くまみに しめへ吾が背〔遺居而戀管不有者追及武道之阿廻尓標結吾勢〕(万115)
 「後れ居て恋ひつつあらず」ハ「道の隈廻に標結へ吾が背、追ひ及か」ム

 置いてけぼりを食わされて行ってしまったあなたのことを恋しつづけないということはどういうことかというと、道の曲がり角には目印をつけていってください、追いかけていって追いついてしまうつもりですよということです、と言っている。本心は真逆で、置いてけぼりを食わされてもここでずっとあなたに恋しつづける。道の曲がり角ごとに目印をつけて目立つようなことはしないでほしい、追いかけていって追いつこうとしたくならないように、と言っている。
 題詞に「勅穂積皇子近江志賀山寺時、但馬皇女御作歌一首」とある。歌の作者は但馬皇女で、相手は穂積皇子である。但馬皇女は高市皇子の宮に在って人妻なのである(注11)。恋しつづけないということは、後先考えずに行動するのと同じことなのだ、と言っていて、この歌で伝えたいのは、置いてけぼりを食わされても一人恋しつづけているのが好ましく、人目に立つような下手な行動は互いに慎もうということである。
 このような場合でも、ハの上にある「つつ」の二つ性は後に反映されている。「道の隈廻」はくねくね曲がる道の曲がりごとにということであり、左カーブ、右カーブが交互に現れるし、「追ひ及かむ」というのも「追ふ」ことが「及く」、つまり、「追ひ追ひ」することを指している。

 剣大刀つるぎたち 諸刃もろはうへに 行き触れて 死にかも死なむ 恋ひつつあらずは〔剱刀諸刃之於荷去觸而所𭣰鴨将死戀管不有者〕(万2636)
 「恋ひつつあらず」ハ「剣大刀諸刃の上に行き触れて死にかも死な」ム

 恋いつづけていないとは、どういうことかというと、(剣大刀)諸刃の上を行くように触れて、いずれにせよ死んでしまうように死んでしまいたい、というのと同じことだ、と言っている。これは恋の歌である。本心では、死んでしまいたいのではなく、恋しつづけたいのである。「剣大刀諸刃の上に行き触れて」という比喩は、情勢がどちらに転んでも死罪になるような緊張状態を言っている。うまく立ち回ることで生き続けてきたのであるが、それがバレてどのみち死ななければならなくなっている状況に陥ってしまった。やはり忠誠を誓うなら一人の主君に仕えるのでなければならず、二君に仕えようとしたことが誤りであった。恋も同じで、一人の人を恋しつづけるのでなくてはうまくいかない。今、自分は、あなたのことしか考えていないのであって、これからもあなたのことしか考えないで恋しつづけたい、と言っている。
 ハの前の「つつ」の二つ性は、ハの後のどちら側にも刃がある諸刃のさまと、「死にかも死ぬ」という言い方に表れている。助詞のハとハ(刃)とを絡めあげて使っているようである。

 住吉すみのえの 津守つもり網引あびきの 浮子うけの 浮かれかかむ 恋ひつつあらずは〔住吉乃津守網引之浮笶緒乃得干蚊将去戀管不有者〕(万2646)
 「恋ひつつあらず」ハ「住吉の津守網引の浮子の緒の浮かれか行か」ム

 恋いつづけていないとは、どういうことかというと、住吉の津守が網を引くときの浮子がついているロープのように浮かんで行ってしまいたい、ということと同じことだ、と言っている。
 「住吉の津守」は港の安全管理に当たる人で、船の出入りを円滑にする仕事をしている。網が設置されていたら船の行く手を阻み、接岸する邪魔になる。だから本来すべきことではないが、内職として「網引」をしているように描かれている。船が見えたらロープは切って流れるままにしていたという設定なのであろう。これは恋の歌である。相手に訴えたいことは正反対で、恋いつづけて、放たれたロープについた浮子がプカプカ浮かぶようなことにならず、あなたのもとに引き寄せられたいと言っている。
 ハの前の「つつ」の二つ性は、ハの後の「浮子」に表れている。網にはいくつもの「浮子」が付けられていた。「浮子」と「浮かれ」という言葉の表出にも表れている。

 いつまでに かむ命そ おほかたは 恋ひつつあらずは 死なむまされり〔何時左右二将生命曽凡者戀乍不有者死上有〕(万2913)

 この歌は訓みが確定していない。結句の原文「死上有」はシヌルマサレリ(元暦校本など)、シヌゾマサレル(荷田春満・萬葉集童蒙抄)、シナムマサレリ(鹿持雅澄・萬葉集古義)、シナマシモノヲなどと訓まれている(注12)
 字面だけからわかることとして、恋しつづけないでいるということは、死ぬこと以上のことである、の意であろうと推測される。シヌルウヘニアリ、シヌルウヘナリと訓むことはできるが、ウヘを比較の上位を表す語として使う例は上代に見られない。そこで、上等の意からマサルという語を当てようとされてきた。「上」字はアガルとも訓み、「神あがり〔神上〕」(万167)の例に従えば、カムアガリアリのように死ぬことと関連させて訓むことも可能ではある。ただし、貴人について使う言葉であり、三句目にある「凡者」と釣り合わない。その「凡者」は不注意なことに、オホカタハ、オホヨソハ、オホロカニなどと訓まれている。万2532番歌に「凡者」をオホナラバと訓む例があるから従えばよいのだが、歌意を曲解した先入観からここには当たらないと却下されている(注13)
 上の句で命が限られていることが詠まれている。限られた命をどのように使うかは、時のイデオロギーやプロパガンダに左右されることはあっても、基本的にはその人その人の判断で決められることである。人生を神仏に捧げるというのではない人であるなら、という意味で使っている。通り一遍、いい加減、平凡のことをいうオホ(凡)の意をそのまま表している。神に仕えるために斎宮へ行くような特別な場合を除き、ふつうの人、凡人であるならば、恋をしつづけないということは、死んでしまう以上につまらないことである、と読みとれる(注14)。五句目の「死上有」は、斎宮忌詞を用いた言い回しではないか。「死を奈保留なほるふ。」(倭姫命世記)、「死を奈保留なほると云ふ。」(延喜式・斎宮寮式)と見える。

 いつまでに かむ命そ おほならば 恋ひつつあらずは なほることあり(万2913)
 「いつまでに生かむ命そおほならば恋ひつつあらず」ハ「直ること」アリ

 いつまで生きられる命かわからない、命を神に捧げたわけではないごくふつうの人であるなら、恋をしつづけないということは、どういうことかというと、忌詞で死んでしまうことを表すナホル、というのと同じことである。ふつうの意味のナホル(直・治)は、険悪、異常な状態からもとの平静、平常な状態にもどることである。天気、機嫌、病気、拘禁状態などから回復することをいう。そのままの意味で解すれば、恋煩いをせずにいるということは、平静であるということである。それはそのとおりなのであるが、それははたして人の人生というに値することなのであろうか、というのが歌の作者、抒情というものを少なからず良いものと思っている人にとっての感慨である。神と結婚してしまう斎宮様じゃないのだから、恋に狂うことなく生き続けるなんてもったいないよ、と言いたいのである。そこで、忌詞を使って歌にし、その点を強調するために「死上」という義訓書きにしている。シヌの上等表現がナホルである(注15)
 そして、「つつ」の二つ性は、この「直る」という言葉の二重性、heal と die に表れている。

 以上、万葉集の「恋ひつつあらずは」の用例を見てきた(注16)。すべての例で確認されたように、「ズハ」という連語を考えて無用な混乱に陥る必要はなく、係助詞の「ハ」が前と後とを等価であると示すことで理解されるものであった。PハQとあれば、P=Q(P≒Q)のことと考えればよいのである。「ハ」は前後を機械的に結合するのが役割である。前件に「……アラズ」と否定形が置かれているのは、そこで条件節になる(P→Qなどで示される)のではなく、否定している事柄ないし否定したい事柄どうしを結合させて、実際にはその真逆のことを主張しようとしている。「ハ」を現代語に訳すとき、ンヨリハやズシテハ、デナクテ、セズニ、ナイデなどではなく、Pナンテ(マルデ)Qダ、に近いものがあるだろう。「クリープを入れないコーヒーは、日焼けした写真プリントのようだ。」といった言い方が例となる(注17)。この例は商業広告である。クリープを入れないことを広告主は推奨するのではなくて入れてくれることを求めていて、写真プリントも日焼けして色がわからなくなるようでは困るから耐久性のある顔料が望まれるのである。
 否定的な言辞どうしを「ハ」で結ぶ言い方によって、その表現とは真逆のことを言い表そうとする手法は、上代人にとってさほど難しいものではなかったと思われる。昨今、皮肉が通じなくなったと言われることが多い。皮肉を言っていることを理解しあえるリテラシーが失われた、ないしは、共有されなくなったからであると説かれている。その場合、まったく同じ言い方で褒めているのか貶しているのか状況から読み取らなくてはならない。広義の反語についても同様なことと言われている。ところが、上代では、同じ言い方ではなく、已然形+「ヤ」が反語を表すように、はっきりした文型をもって反語表現が行われている。否定的な言辞どうしを「ハ」で連接させるのも、一つの文型として確立しているものだから、疑問の余地は生じない。
 短詩文形式の歌が隆盛を誇っていたのが上代の文体の特徴的なところである。短い言葉だけで言いたいことを全部言うにはどうしたらよいかということを一生懸命に考え、端的な表現が指向されていたと言えるだろう。反語表現を現代語に訳す際、~であろうか、いやいや~であろうことはない、などと二重に訳している。つまりは言葉が二倍に膨らんでいる。三十一文字(音)のうちに短縮化したいのだから、半分で済む言い方は重宝されることになる。否定的な言辞動詞を「ハ」で結ぶ言い方も、~でないのは、~というのと同じことだ、つまりは、~であって、~にならないようにしたいものだ、と、否定を裏返して訳して結果的に四倍に膨らんでいる。四倍の量のことを一気に言えるのだから、この言い方は修辞的表現として当時の言葉の使い手たちにたしなまれたのである。なぜそれほど短く言おうとする圧力がかかっていたのか。それは、文字を持たなかったからであろう。記憶にとどめられるように短くしていきたかった。その傾向の最たる言葉は枕詞である。意味が多層に重なり合って訳そうにも訳せない代物と化している。なぜ枕詞というものが生まれたのか。すでに述べたことと同じであろう。

(注)
(注1)浜田1986.は、「恋ひつつあらずは」は、「恐らく話者の意識の中に「こんなにいつまでも徒に恋しく思っていたくない○○」という気持がある為に、それが打消の「ず」となって、現るべからざる「かくばかり恋ひつつあらば○○○」という条件句の中に現れる結果となったものではないかと思う。」(243頁)とする。
(注2)小柳2004.ほか参照。個別具体的に用例を検証し、可能的未実現、既実現、不可能的未実現、可能的仮定条件句、不可能的仮定条件句、などと分類している。一つの言葉、「ズハ」にまとめられるはずはなかろうことを無理にまとめようとしている。解釈は袋小路に入っており、不毛な議論が絶えない。
 本稿では「恋ひつつあらずは」の例をとりあげている。これまでの「ズハ」の分類では既定の事態を受けるものの一方に偏っている。もう一方の未定の事態を受けるものとする分類の例を二、三採りあげ、検証しておく。

 立ちしなふ 君が姿を 忘れずは 世の限りにや 恋ひ渡りなむ〔多知之奈布伎美我須我多乎和須礼受波与能可藝里尓夜故非和多里奈無〕(万4441)
 「立ちしなふ君が姿を忘れず」ハ「世の限りにや恋ひ渡りな」ム

 しなやかに立つあなたの姿を忘れないということは、どういうことかというと、生きている限りであろうか、いやいやそうではなく死んだ先できっと恋い続けるであろう、ということである。あなたの雄姿を忘れないというのは、向こうの世界でも恋い続けていることだ、と言っている。この場合、空想を空想が「ハ」で承けているとすれば、空想だとわかっているからわざわざすべてを反転させて解さずとも済むとも考えられる。しかし、それでは何を訴えるために歌っているのかわからないことになる。多田氏による現状の解釈、「しなやかに立つあなたの姿を忘れずに、生きている限り恋い続けることだろうか。」という訳では、この歌がモノローグとなってしまう。声に出して歌を歌うとは、相手に直接、あるいは、間接的につてとしてであれ、まずは何かを相手に訴えるために発していると考えるべきである。
 この歌は恋の歌である。言いたいことは、現実的に、生きている今、しなやかに立つあなたの姿を目にしたい、この世の限りとして燃える恋がしたいということである。あの世で恋をしているなんて、今恋をしていないの裏返しである。そんなことはまっぴらである。本心は真逆で、このまま放って置かれたらあなたの素敵なお姿を忘れるでしょう、あたり前の話ですがあの世で恋しても仕方がないでしょう、今、私のことを気にかけてくださいね、と言っている。

 吾が袖は 手本たもと通りて 濡れぬとも 恋忘こひわすれ貝 取らずはかじ〔和我袖波多毛登等保里弖奴礼奴等母故非和須礼我比等良受波由可自〕(万3711)
 「吾が袖は手本通りて濡れぬとも恋忘れ貝取らず」ハ「行か」ジ

 この歌は遣新羅使歌群中の歌である。対馬まで来たところで詠んだ歌である。私の袖は袂からどんどん濡れてしまっていても恋忘れ貝と呼ばれる貝を取ることはない、とはどういうことかというと、ここからどこかへ行くつもりはないということである、と言っている。袖が濡れたのは自分の涙によってである。恋をしているのに現状では職務がら郷里に帰ることなどかなわない。すでに袖は濡れているのだから、水の中の恋忘れ貝を手に取るとしても大して変わりはないが、そうはしない。それはここを去って行くつもりはないということだ、と言っている。逆に言うと、恋忘れ貝を取ってはじめて新羅へ行くことができるようになる、というのである。それは、あなたへの恋心を忘れてしまわない限り、異国へ行くなんてできることではない、ということであり、当たり前の話だがお上の命令で新羅へ遣わされていて、仕事なのだから行かないわけにはいかないのであるが、後ろ髪を引かれる思いとして唯一あるのはあなたへの恋心なのだ、と言っている。
 この解釈は、竜頭蛇尾の文型によく適合している。五句目の途中までを「行かじ」だけで承けている。「行く」は新羅へ行くことである。何かかんかいろいろ条件をクリアしてようやく行くことができるというのが頭でっかちの文にしている。むろん、宮仕えの身で行かないという選択肢はない。なのにそのことを天秤にかけ、恋心が激しくてどうにもならないと大げさに訴えている。誇張表現のために「恋忘れ貝」という言葉を用いている。
 現状の解釈(多田氏)では、「私の袖が袖口あたりからすっかり濡れ通ってしまおうとも、恋を忘れさせるという貝を拾わずには帰るまい。」とあり、望郷の念、故郷にいる妻への情を振り払おうとする思いを歌っていることとしている。しかし、この解釈では単なるモノローグとなっており、しかも「行く」を新羅へ向かうことではなく妻のもとへ帰ることと捉えている。そもそも恋を忘れさせる貝を拾って恋人のところへ帰るというのでは理屈が通らない。

 吾妹子わぎもこが 屋戸やどの橘 いと近く 植ゑてしからに 成らずはまじ〔吾妹兒之屋前之橘甚近殖而師故二不成者不止〕(万411)
 現状の解釈(多田氏)では、「あなたの家の庭の橘を私の家のすぐ近くに植えたのだから、実らせずにはおかないつもりだ。」とする。実が成るのと恋愛が成就するのとを掛けて歌われている。それはそのとおりであろうが、「いと近く」がどこに近いのかが問題とされている。通説では自分の家の近くのこととされている。
 「吾妹子が屋戸の橘いと近く植ゑてし故に成らず」ハ「止ま」ジ
 あなたの家の庭の橘をすぐ近くにごく最近植えたせいで実が成らないとは、終わりにならないということと同じである、と言っている。「近し」という形容詞は、場所だけでなく時間についてもいう。つまり、ここでは、とても最近、植えたということも含み示している。
 橘の実のことは、「ときじくのかくの木実このみ」(垂仁記)、「非時ときじくの香菓かくのみ」(垂仁紀九十年二月)とも呼ばれている。タジマモリが常世国とこよのくにから将来したとされている。「時じく」は時間に関係なく、の意で、いつでも香りが豊かであることを表している。橘の実が成るということを恋愛成就と掛けているのだから、時間とは無関係の実が成るのなら永久に変わらない愛を手に入れることができたということになる。だが、つい最近植えたということは、時間とは関係がないとはまだまだ言えそうにない。実が成らないうちは、育成の作業は終りにならない。反対に、実が成ったら終わるというのは、実が成ったらそれは「非時香菓」だから、時間とは関係がないレベルに超越できたことを意味する。つまり、永久不変の愛を手に入れることができたことになる。目下のところ、その愛を育み中ということになろう。彼女の家の橘を場所的にも時間的にも「いと近く」植えた。「橘」を移植したとは彼女が自分の側に、ごく最近やってきたということで、相手に惚れ抜いて一緒になった新婚さんの歌である。「止む」とは、動きが自然におさまること、物事が途中で行われなくなること、事が決着することである。夫婦として落ち着きを見せるまでしばらくかかりそうだと客観的に自分を見ている。よって、「殖而師故二」は「植ゑてしゆゑに」ではなく、「植ゑてしからに」と訓むのが正しい。この歌は、「大伴坂上郎女の橘の歌一首」(万410)に「和ふる歌」である。大伴坂上郎女が、娘のことを心配する歌を詠み、その歌に「和」している。若い娘は客観視できているから、この歌のやりとりをもって「止む」、つまり、母親の心配について決着がついている。
 くり返しになるが、この場合、「ズハ」をもって「可能的未実現」を示すと考えるのは誤りである。「橘」が「非時香菓」であることを伝える歌とならず、時間軸を超える関係性を視野に入れていることを汲み取ることができなくなる。
(注3)高山の磐根を巻いて死ぬならば、これほどに恋い続けてあることはない、という因果関係に捉えることはできない。高山の磐根を巻いて死ぬなどと大仰なことをしなくても、感染症に罹ったり、栄養失調がもとで死んだり、足を踏み外して溜池に落ちて溺死することは日常的なことであった。死因とは関係なく、死んでしまえば恋い続けることも、息をし続けることも、毎朝納豆を食べ続けることもできない。「恋ひつつあり」を拒むために山の巌で首つり自殺するという歌をノイローゼの歌と解するのは誤解である。つないでいるのはハであって、バではない。
(注4)イク(行、往)はユク(行、往)に比べて新しく、俗な形かと思われており、万葉集歌では字余りの句に現れている。この駄洒落もかなり俗な部類のものである。
(注5)拙稿「玉藻の歌について―万23・24番歌―」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/a1e703d9391bbd05309a1dd9a00a945eなど参照。
(注6)薄葬化し、火葬されるようになっていた時、どのような寿陵が営まれていたのか詳細は不明である。
(注7)「大刀たち」は「断つ」から派生した語と考えられ、守り刀となる短いもの、ただしカタナとはないから短刀ではなく短剣のことであろう。
(注8)家に放火するといったことは悪い行いだが、そうなると「家にして」でなくなるから除外される。
(注9)拙稿「枕詞「刈薦(かりこも)の」について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/b311622d92d50aed57fa9e715fc0ba89参照。コモが敷物とされるだけでなく、コモヅノとなって食用や真菰墨の採集にも用いられていることから、その二つの様態を表して「つつ」に対応しているとも考えられる。
(注10)上代に副詞のツユの確例は見られない。
(注11)万114番歌の題詞には、「但馬皇女在高市皇子宮時、思穂積皇子御作歌一首」、万116番歌の題詞には、「但馬皇女在高市皇子宮時竊接穂積皇子事既形而御作歌一首」とある。不倫関係にある女性が邸宅を抜け出して思い人のところへ追いかけて行くほど大胆なことをしたら、ちょっとたいへんなことになるだろう。
(注12)「ズハ」という語について本居宣長や橋本進吉に議論されて以来、先入観があるからこれらの訓み方が定着している。ラ変動詞のマサレリ(優・勝)は集中ではほかに、「益有」(万492・1206)、「益流」(万3016)、「麻佐礼留」(万803)、「益」(万3083)という用字が行われている。マサル(優・勝・増・益)でも、訓字を用いた場合には「益」「増」字が使われている。「上有」そのままで義訓されている例はない。
(注13)澤瀉1963.71頁。吉井2021.225頁。
(注14)推古紀三十二年四月条では、仏道に励む僧尼のことを「道人おこなひするひと」、一般人を「俗人ただひと」と対置している。
(注15)ナホルという忌詞が上代に使われたとする確例はないものの、斎宮忌詞以外の忌詞は、例えば、「失火みづながれ」(天智紀六年三月)などとある。
 三句目の「凡者」はオホナラバと訓むのが一番しっくりくる。平凡な人であるならば、の意として解することができるのだから、この訓み方は説得力を持つものと考える。
 「……こと有り」という形は、「……」について別に説明することを予感させる言い方である。

 いにしへの人、云へること有り。「娜毗騰耶皤麼珥なひとやはばに。(汝人や母似?)」。此の古語ふるごと未だつばひらかならず。(雄略紀元年三月)

 「云へること」が「有」るとまず呈示しておき、その「云へること」とは何か、次に述べている。万2913番歌の筆者の新訓と対照させると、「恋ひつつあらずは、直ること有り。」というのは、もともとは倒置形であってもおかしくなかったことを感じさせてくれる。助詞「ハ」の力量である。忌詞の「直る」を言って落ちとしているから歌のような語順になっている。「直る」に当たるところが落ちでも何でもなければ、倒置して「恋つつあらずは」を文末に持ってきていたであろう。倒置形になっていないという点から考えても、「死上」は「直る(こと)」と訓むのが正解に近いと理解できる。
(注16)「恋ひつつあらずは」から少し形の崩れた類例がある。

 長き夜を 君に恋ひつつ けらずは 咲きて散りにし 花にあらましを〔長夜乎於君戀乍不生者開而落西花有益乎〕(万2282)
 「長き夜を君に恋ひつつ生けらず」ハ「(花にあらませば)咲きて散りにし花にあらまし」ヲ

 長い夜を君に恋いつづけて生きているのではないということは、どういうことかというと、もし花であるなら、もちろんそんなことはないのだが、仮にそうであったら、咲いて散ってしまって見る影もない花でありたいなあという、まことにみじめなことであるよ。
 つまり、秋の夜長にあなたのことを恋いつづけて、もし花であるなら、すでに咲いて散ってしまった花などではなくて、盛んに咲いている花であるように、あなたの注目を浴びていたいことよ。
 現状の解釈を多田氏に見れば、「この秋の長い夜を、あなたに恋い続けて生きているよりは、いっそ咲いて散ってしまった花であったらよかったものを。」となっている。恋心に悩み疲れるというのはわからなくはないが、だからといってそれで自暴自棄に陥っていると悪態をつかれたら、聞く相手は嫌になる。

 おくれ居て 長恋ひせずは 御園生みそのふの 梅の花にも ならましものを〔於久礼為天那我古飛世殊波弥曽能不乃于梅能波奈尓忘奈良麻之母能乎〕(万864)
 「後れ居て長恋ひせず」ハ「(梅の花にならませば)御園生の梅の花にもならまし」モノヲ

 置いてけぼりを食わされて宴に参加できずに、長く慕いつづけることがなく無関心になるのは、どういうことかというと、もし仮に自分が梅の花になるのであれば、もちろんそんなことはないし望んでもいないけれど、よりによって御屋敷の庭の梅の花になりたいものだなあ、というのと同じことである。
 この歌は、令和の出典とされた大伴旅人の「梅花歌三十二首〈并序〉」に奉和した歌である。作者の吉田宜はその宴席に参加できなかった。後日旅人から宴のことについて手紙が来て、それにこたえる歌として作っている。その宴席で梅の花の散るのを雪のることになぞらえて歌に作りなさいとお題が示されていた。それが「序」である。謎掛けを仕掛けた歌会であった(補注1)
 実際にどうかは別問題として、そういう想定のもとであれば、宴から日を経て吉田宜が作歌している今、大伴旅人邸の梅花は散ってしまって見る影もないことであろう。風流ぶって楽しむことなどできない。旅人邸の「御園生みそのふの梅の花」は梅の花として最悪の花である。そんなみじめな梅の花にはなりたくないのである。今、野山でちょぼちょぼ咲いている梅の花になるほうがまだ救われている。
 万862番歌は、大伴旅人の「梅花歌」の歌会を見事に承けた歌として機能している。本心は、宴に参加したかったのに参加できずに残念でした。季節をわきまえずに散ってしまうお庭の梅の花になどならないで、咲いているのを愛でられて楽しめるものになりたいです、と言っている。花が咲いていれば人目に付く。そのことは、出席できずにお目にかかることがなかったことへの詫びにもなっている。
 なお、現状の解釈では、「後に残されていて、いつまでも恋い慕っていないで、いっそ御庭の梅の花にもなりたいものを。」と捉えられている。題詞に「奉-和諸人梅花歌一首」とある。諸人が梅の花をモチーフにして歌った歌に対して、宴会が終わってから唱和している。リモート参加ではないから、今から大伴旅人の庭の梅の花になっても仕方あるまい。

 あひ見ずは 恋ひざらましを いもを見て もとなかくのみ 恋ひばいかにせむ〔不相見者不戀有益乎妹乎見而本名如此耳戀者奈何将為〕(万586)
 「相見ず」ハ「(恋ひざらませば)恋ひざらまし」ヲ、「妹を見てもとなかくのみ恋ひばいかにせむ」

 お逢いしないということは、どういうことかというと、もし仮に私が恋をしないというのであれば、あなたに対して恋をしないであろう、というのと同じことである。あなたを見てわけもなく起こる恋心をどうしたらよいのだろうか。
 この歌は二句切れである。逢わないなどということは、ちょっと考えられないことで、もし私が仮に恋をしない人種に属しているとしたら、よりによって最悪なことにあなたに対して恋をしないというのと同じことである、と言っている。本心は真逆であり、私は恋をする人種であり、その相手はまぎれもなくあなたである。なにしろあなたに逢っている。ああ、あなたを見ると自動的に湧きおこる恋心をどう扱ったらよいのだろう。どうかよろしくお願いします、という意味である。
 「ズハ」を連語とする説に依拠すれば、もし~ないなら、~なかったら、の仮定条件ということになり、一句目で仮定していたのをさらに五句目で再び仮定するのはおかしいことになるとして、「恋ふるはいかにせむ」(補注2)と訓むと解されることがある。「ズハ」は連語ではなく、P≒Qという命題を提示し、句切れの後の三句目以降は、その命題下における具体的な状況への対処法について追及することで相手に訴えかけようとするものである。

 なかなかに 君に恋ひずは 比良ひらの浦の 海人にあらましを 玉藻刈りつつ〔中々二君二不戀者枚浦乃白水郎有申尾玉藻苅管〕(万2743)
 「なかなかに君に恋ひず」ハ「(海人にあらませば)玉藻刈りつつ(ある)比良の浦の海人にあらまし」ヲ

 中途半端にもあなたに恋しないとは、どういうことかというと、もし仮に私が海人であるのなら、よりによって比良の浦の海人でありたがるのと同じことであり、そうなるといつまでも玉藻を刈りつづけることに陥るものだ、と言っている。「ハ」の上に「なかなか」とあり、下に「つつ」とある。「恋ひつつあらずは」の例に見られたように呼応関係にあると考えられる。海人のなかで特定の地名を有する海人について言及している。ヒラの浦は琵琶湖に面したところとされているが、この歌で取りあげているのはその音の妙である。ヒラというのだから、ひらひらしていて原文に「枚」と書かれている形状について示している。ひらひらしているものはおおよそ平板なもので、形式的に表と裏があるかのように扱っているが、本質的には区別がなく、見えている面をオモ(テ)、見えていない面をウラと便宜的に呼んでいるにすぎない。となると、ヒラノウラというところは、裏を確かめようとひっくり返しても、またその反対面が気になってまた裏を確かめようとひっくり返す、の堂々巡りになる場所であることを示している。そんなことに明け暮れていたら、恋をすることなく人生は終わってしまう。
 なぜそう言えるかといえば、ウラ(裏)という言葉は、裏、内側、中、心、思い、の意を範疇としているからである。中にあるであろう心を知ろうにも薄っぺらくて知ることができない。「ハ」の上には「なかなかに」とあり、ウラの意に注目させる仕掛けとなっている。常套表現に「うらも無く」と使われている。

 うらも無く 我が行く道に 青柳の 張りて立てれば 物つも(万3443)

 何心なく歩いて行くと、の意である。ヒラノウラというところは、心に何も物を思わなくなるところ、つまり、恋とは無縁のところの謂いなのである。
 海人の性質に堂々巡りをするところがあるのは、オホサザキノミコト(大雀命、大鷦鷯尊、仁徳天皇)とウヂノワキイラツコ(宇遅能和紀郎子、菟道稚郎子)とが互いに位を譲り合っていた時、その間を大贄おほにへ(苞苴)となる魚を奉るために持ってまわって腐らせて哭いたとする話が載っている(応神記、仁徳前紀)。それは、海人は魚や貝を獲るばかりではなく、藻を刈り採ることもあった点と関連する。モという言葉(音)は、助詞のモ、並列を表し、あれもこれもの意を表すことと対照される。助詞のモと名詞のモ(藻)との間に語根的、語源的なつながりがあるとは知られないが、同じ音、同じ言葉として使われていたら、同じ意味合いでその言葉を使ってみたい、聞く人の心に訴えるところがあるに違いない、と思う人があっても不思議ではない。
 万2743番歌では、中途半端にではなくあなたに恋をすると宣言していて、藻を刈り続けることに一生を捧げて恋もせず、何が楽しかったのかと言われるような失策人生など歩みたくない、大好きなんだ、あなたのことが、と言っている。
 現状の解釈では、「なまなかにあなたに恋したりせずに、いっそ比良の浦の海人ででもあったらよいものを。玉藻を刈りながら。」としている。海人は常民とは異なる存在で、卑賤視された、あるいは、落魄のイメージが強いなどという。根拠の不明な見解であり、三句目以降の語句を選択した必然性もないことになる。

 なかなかに 君に恋ひずは 留牛馬なはの浦の 海人にあらましを 玉藻刈る刈る〔中々尓君尓不戀波留牛馬浦之海部尓有益男珠藻苅々〕(万2743或本)
 「なかなかに君に恋ひず」ハ「(海人にあらませば)玉藻刈る刈る留牛馬の浦の海人にあらまし」ヲ

 同じように、「ハ」の上の「なかなか」と下の「刈る刈る」は呼応関係にある。
 この歌ではナハが持ち出されている。縄は綯うことでできあがる。藁縄であれば藁と藁とを縒り合わせて二本の藁が一本の縄と成っている。右縒りであれ左縒りであれ、目をつけた個所のウラ(裏)は何かと探るには、ひっくり返してためつすがめつ見てみたり、時によっては少しほどいてみることもあるかもしれないが、ほどいたらもはや縄ではないからわからなかったということになる。「うらも無く」「玉藻刈る刈る」人生を送ったりはしない。あなたのことで頭がいっぱいだ、と言っている。
(注17)往年のCMの例は、「クリープを入れないコーヒーなんて、ピンボケの写真のようだ。」といった譬えを使っていたと記憶する。ここでは日焼けの写真プリントに改編した。写真プリントがコーヒー色に焼けることを含ませたかったからである。「ハ」の前と後とが絡んでいなければ歌のレトリックとしておもしろみがない。あるいはこうも言えるだろう。「ハ」の前と後とでかけ離れたことを言っていて、それをつなぐ助詞「ハ」に負荷がかかっている。どうして両者を「ハ」でつなぐことができるのかという疑問に対して、ほら、よく考えてごらん、前と後とで絡んでいるところがあるだろう、と証明してみせているのである。
(補注1)拙稿「令和の出典、万葉集巻五「梅花歌三十二首」の「序」について─「令」が「零」を含意することを中心に─」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/994f3bd968826c87cb3a8d8845581d17参照。王羲之の蘭亭の序を意識した催し物で、実際に梅の花を見て歌を作っているわけではないことは暦日からも窺える。
(補注2)中西1978.304頁。
(補注3)原文の「留牛馬」部分については異動がある。「留鳥浦之」をアミノウラノ、「留牛鳥浦之」をニホノウラノと訓む説もある。それらの訓みに有意性を見出せないので、通訓のナハに従った。

(引用・参考文献)
澤瀉1963. 澤瀉久隆『萬葉集注釈 巻第十二』中央公論社、昭和38年。
小柳2004. 小柳智一「「ずは」の語法─仮定条件句─」『萬葉』第189号、2004年7月。萬葉学会ホームページhttps://manyoug.jp/memoir/2004
多田2009.&2010. 多田一臣『万葉集全解1・2・3・4・5』筑摩書房、2009年、『同6・7』2010年。
中西1978. 中西進『万葉集 全訳注原文付(一)』講談社(講談社文庫)、1978年。
浜田1986. 浜田敦『国語史の諸問題』和泉書院、1986年。
吉井2021. 吉井健「副詞「おほかたは」について」『萬葉集研究 第四十集』塙書房、令和3年。
※「ズハ」については数多くの論文を参照したが、引用したものに限って記載した。

丹比笠麻呂の「袖解きかへて」考

2024年01月15日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 万葉集巻四に載る丹比笠麻呂たぢひのかさまろの長歌と反歌の歌はあまり取りあげられることはないが、理解が行き届いているものではない。筑紫国へと下向する時、離れてしまう相手の女性への思いを歌にしているが、反歌にある「そできかへて」がどういう意味なのか、解釈が落ち着いていない(注1)。本稿では、この「そできかへて」という語に焦点を当て、この長短歌を正しい理解へと導きたい。はじめに、現在の解釈で標準的な、新大系文庫本の訳を添えて歌を呈示する。

  丹比真人笠麻呂たぢひのまひとかさまろ筑紫国つくしのくにくだる時に作る歌一首〈あはせて短歌〉〔丹比真人笠麿下筑紫國時作歌一首〈并短謌〉〕
 おみの 櫛笥くしげに乗れる かがみなす 御津みつ浜辺はまへに さにつらふ ひもけず 吾妹子わぎもこに 恋ひつつれば れの 朝霧あさぎりごもり 鳴くたづの のみし泣かゆ が恋ふる 千重ちへ一重ひとへも なぐさもる こころもありやと いへのあたり が立ち見れば 青旗あをはたの 葛城山かづらきやまに たなびける 白雲しらくもがくる あまさがる ひな国辺くにへに ただ向かふ 淡路あはぢを過ぎ 粟島あはしまを がひに見つつ 朝なぎに 水手かここゑ呼び 夕なぎに かぢおとしつつ 波のうへを いきさぐくみ いはを いもとほり 稲日いなびつま 浦廻うらみを過ぎて とりじもの なづさひ行けば 家の島 荒磯ありその上に 打ちなびき しじひたる なのりそが などかもいもに らずにけむ〔臣女乃匣尓乗有鏡成見津乃濱邊尓狭丹頬相紐解不離吾妹兒尓戀乍居者明晩乃旦霧隠鳴多頭乃哭耳之所哭吾戀流干重乃一隔母名草漏情毛有哉跡家當吾立見者青旗乃葛木山尓多奈引流白雲隠天佐我留夷乃國邊尓直向淡路乎過粟嶋乎背尓見管朝名寸二水手之音喚暮名寸二梶之聲為乍浪上乎五十行左具久美磐間乎射徃廻稲日都麻浦箕乎過而鳥自物魚津左比去者家乃嶋荒礒之宇倍尓打靡四時二生有莫告我奈騰可聞妹尓不告来二計謀〕(万509)
宮仕えの美しい女性の櫛箱に乗っている鏡、その鏡を「見つ」という名の美しい御津の浜辺の仮寝で、妻が結んでくれた(さにつらふ)赤い下紐を解き放つこともせずに、妻を恋い慕っていると、夜明け方の薄暗い朝霧の中に鳴く鶴のように声を挙げて泣けてくる。
私が恋しく思う心の千分の一でも慰むこともあろうかと、我が妻の家のある大和の方を立ちあがって眺めるが、(青旗の)葛城山にたなびく白雲に隠れて全く見えない。
(天さがる)鄙、西国の筑紫国に向かって、難波の真正面に見える淡路島を通過し、粟島を後ろに見ながら、朝凪に水夫は掛け声を合わせて漕ぎ、夕凪に梶の音をきしませて波の上を進みかねて、岩の間を行きなやんで、稲日つまの浦の周辺を過ぎて、(鳥じもの)難渋しながら進んで行くと、家島が見えて来たが、その荒磯の上に、波に靡いて生い茂っている名告藻(なのりそ)は、「な告りそ」と禁じているのでもないのに、どうして私は妻に大事な別れを告げずに来てしまったのだろうか。(343~345頁)
  反歌
 白栲しろたへの そできかへて かへむ 月日をみて きてましを〔白細乃袖解更而還来武月日乎數而徃而来猿尾〕(万510)
(白たへの)袖を解き交わして、筑紫から家に帰って来る月日を数えて、妻の家に行って戻って来られたらなあ。(345頁)

 解説に、「寝物語に旅の日数を計算して、帰宅の日を妻に約束できるように、船から家に行って帰ってこられたらなあと願う。類例、「み空行く雲にもがも今日行きて妹に言問ひ明日帰り来む」(三一〇)。「袖解き交へて」は「帯解き交へて」(四三一)に類似するが、帯ではなく袖を解くことが理解しにくい。」(同頁)とある。
 「そできかへて〔袖解更而〕」という言い方は孤例である。「そでへて」か「そでへて」か意見が分かれている。類例には次のような歌がある。

 敷栲しきたへの 袖へし君〔袖易之君〕 玉垂たまたれの 越野をちの過ぎ行く またも逢はめやも(万195)
 いにしへに 有りけむ人の 倭文幡しつはたの 帯へて〔帯解替而〕 伏屋ふせや立て 妻問つまどひしけむ 葛飾かづしかの 真間まま手児名てこなが おくを こことは聞けど ……(万431)
 高麗錦こまにしき 紐解きはし〔紐解易之〕 天人あまひとの 妻問ふよひぞ われしのはむ(万2090)
 垣ほなす 人は言へども 高麗錦 紐解きけし〔紐解開〕 君にあらなくに(万2405)

 男女が情事を交わすことを暗示する言い方である。しかし、「袖解・・更而」とある。洗濯の際に縫い目をその都度ほどいていたことからも、袖をほどいて交換することを歌っていると考えるべきである(注2)。「トキカヘテは、旧衣の紐を解いて、別の衣に著換えてである。妻のもとに行つてさつぱりした衣服に著換えてで、次の句を修飾する。」(武田1957.69頁)、「官服の長い筒袖を縫い目から外して解いて交換することをうたっていると考える……。ただし、……「妹」のもとへ行く前の行為と見る。」(関谷2021.145頁)などとも説かれている。
 丹比笠麻呂は筑紫国へ下る途上、船のなかで歌を歌っている。解き洗いを船中で行うことは考えられない。海の水で洗うはずはなく、縫い直す人、女性も同乗していない。また、着ている服が官服かどうかもわからない。
 長歌で歌っていたのは、どうして「妹」に何も告げないで出立してしまったかという後悔の念であった。用命で筑紫へ行くことになったからしばらく逢えないことになると、きちんと言って出かけてきたらよかったのに、何も言わないでいつものようにまたね、と言っただけで別れてきてしまった。長いこと逢えなくなると悲しむからとその場しのぎに黙っていたが、実際に逢うことのない日が続けば彼女はいろいろと悩むだろう。彼女にとっても自分にとっても良いことではなかったと気づいたのである。こんなにつらいものだとは思わなかった。自分のほうでも声をあげて泣けてくる。事情を聞かされずに放られた彼女のつらさは自分以上であろう。だから、……ということを反歌で歌っている。
 「きて」という言い方は、とんぼ返りに行って帰ってくること、短時間で行って帰ってくることをいう。

 たつも 今も得てしか あをによし 奈良の都に 行きてむため(万806)(注3)

 この例では、空想上の駿馬「龍の馬」に乗って瞬間移動する時に用いられている。丹比笠麻呂は、今、船上にいるわけだが、ささっと「妹」のところへ行って帰って来たいものだ、と思っている。もちろん、現実にできることではないのだが、行っておよその日程を告げたいと言っている。それが下の句である。
 上の句もそれと同じことを言っている。袖を解いて交換する必要が生じている。夜明け方の鶴のように声をあげて泣いてしまい、袖はぐっしょり濡れているから彼女のところへ行って解いてもらい、違うものに交換して縫ってもらって帰って来よう、と言っている。涙に袖を濡らす例は万葉集中にいくつか見られる(万135・159・614・723・2518・2849・2857・2953)。丹比笠麻呂は気持ちが悶絶していて慟哭の歌を歌っているのである(注4)

  白栲しろたへの そできかへて かへむ 月日をみて きてましを(万510)
 (白たへの)袖を解いて濡れていないものに代えてすぐに還って来ましょう。筑紫での日程がどのくらいになるか彼女に数え伝えて、とんぼ返りに行って帰って来たいものですよ、ああ。

(注)
(注1)解釈が定まらない反歌を措き、長歌の道行的叙述について和歌史的に重要であったとする考えが清水1980.に見られる。作者の丹比笠麻呂は伝不詳で、他の作品としては万385番歌があるばかりである。およそ何時頃の人かと推定し、他の万葉歌について先後の関係から表現を受け継いでいると見ようとするのであるが、万葉集に載らなかった歌がなかったのか、確かめようがないことである。論証できないことを議論する以前に、丹比笠麻呂が歌に込めた意味を理解することが求められよう。清水氏も校注者の一人である集成本に、「第二段では、船旅の困難さと重ねて、逢う意を思わせる 「淡路」「粟島」、妻が隠れている意の「稲日都麻」、さらに「家島」と続く地名にかけて、家から離れて行く心細さを述べ、妻恋しさに戻っている。」(267~268頁)とある。地名をあげているのは地口による暗示の性格が強い。古事記に楠葉くずは(「久須婆くすば」)という地名が「屎褌くそばかま」の訛ったものとする説明があるように、上代の人にとって当たり前のことであったろう。言葉を考えることは言葉を使うことを考えることで、言葉の使用史を和歌史に限ることはほぼ無用である。
(注2)そのような指摘は散見される。洗濯方法については、拙稿「万葉集における洗濯の歌について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/c5d4d5de2d83a06f6cbdde7f9bd3712aも参照されたい。
(注3)拙稿「万葉集の「龍の馬(たつのま)」について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/d8777a3302a4f3fb5bf68d8b6fab7396参照。
(注4)近年の解釈に、「あの子と白妙の袖をさしかわし紐を互いに解きあって還って来たい。月日を数えて行って帰って来ようと思うのだが。」(稲岡1997.296頁)、「(いとしい妻と)白栲の衣の袖をさし交わし、帰って来る日までの月日を数えて行って来るのであったよ。」(阿蘇2006.485頁)、「(白たへの)袖を解き替えて、帰って来るだろう月日を数えて、(それを教えに大和に)行って(難波に戻って)来るのだった。」(関谷2021.125頁)などともある。
 阿蘇氏は、三句目と五句目に妻のもとに行って戻って来たいと繰り返すのは、気持ちを抑えきれず性急に畳みかけていることになり、長歌ののびやかな調べにそぐわないとしている。しかし、長歌で歌っていることは道行きではなくて、「などかもいもに らずにけむ」という後悔である。壮大な序を構えて、事情を告げず、いつまた逢えるか見当をつけることもないままに放ってしまった、その事の重大さを引き出そうとしているのである。
 全集本の語注に、「帰り来む─都の妻に逢ってから現在歌を詠んでいる地点まで引き返して来ようの意。ここで句切れ。」、「行きて来ましを─この行キテ来は妻の家に行って「来」、現在の地点に戻ってくることをさす。」と正しい判定ながら、「袖解きかへて」の語釈が覚束なく、また、「月日を数みて」について、「筑紫下向に要する日程(筑前まで下り十四日)をつめて遅れないように努めることをいう。」(310頁)と、あたかも実際に都へ行って戻ってくることを想定しているように解している。丹比笠麻呂が船をチャーターしているとは考えられないし、船団のうちの一隻のうちの最高位の乗客で他の船から離れて別行動を取ってかまわないということもない。この歌は船上で歌われ、同乗者がいて聞き、理解されたに相違あるまい。聞く人がいてはじめて歌となる。
 その他、長歌のはじめにある「おみ」は官女のことで、「吾妹子わぎもこ」や「いも」との関係を指摘する向きもある。同一人物としたり、二人別にいるとしたりして考えようとするのである。しかし、「おみの 櫛笥くしげに乗れる かがみなす」は「御津みつ」を導く序詞である。丹比笠麻呂が通う妻は、官女ではなくて、いい鏡も持っていない(持たせてあげられていない)。安物の鏡に映るようなところをミツと呼ぶのはふさわしくない。多少歪んでいても見えるから見ツであるとは思われない。ミツ(ミは甲類)がミ(御)ツ(津)に当たらなくなり、語感に合わない。
 また、「葛城山かづらきやま」とあるのは、その付近に丹比笠麻呂やその「吾妹子わぎもこ」の居住地があるからとする向きもある。「いへのあたり が立ち見れば 青旗あをはたの 葛城山かづらきやまに たなびける 白雲しらくもがくる」も修辞表現である。すでに「櫛笥くしげ」や「かがみ」が出てきている。十分に自分の容姿を確かめたがっていることを匂わせている。「吾妹子わぎもこ」は年若いようである。美容にこだわりがあるのだから髪飾りも大事であり、ウィッグであるカヅラ(鬘)がうまく装着しているか見ようとしている。だから、大和の地にある山でも特別に「葛城山かづらきやま」を取りあげている。地名を歌に詠み込む理由は、地理的な意味よりも地口として伝えたいからである。地図に書き記して行程を示す旅の栞ではなく、一度きり大きな声で歌って周囲の人の興味を引く瞬間芸であった。

(引用・参考文献)
阿蘇2006. 阿蘇瑞枝『萬葉集全歌講義 第2巻』笠間書院、2006年。
稲岡1997. 稲岡耕『和歌文学大系1 萬葉集(一)』明治書院、平成9年。
清水1980. 清水克彦『萬葉論集 第二』桜楓社、昭和55年。
集成本 青木生子・井出至・伊藤博・清水克彦・橋本四郎校注『新潮古典文学集成 萬葉集一』新潮社、昭和51年。
新大系文庫本 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(一)』岩波書店、2013年。
関谷2021. 関谷由一『万葉集羇旅歌論』北海道大学出版会、2021年。
全集本 小島憲之・木下正俊・佐竹昭広校注・訳『日本古典文学全集 萬葉集一』小学館、昭和46年。
大系本 高木市之助・五味智英・大野晋校注『日本古典文学大系 萬葉集一』岩波書店、昭和32年。
武田1957. 武田祐吉『増訂萬葉集全註釈 五』角川書店、昭和32年。

女鳥王物語─「機」の誕生をめぐって─

2024年01月01日 | 古事記・日本書紀・万葉集
女鳥王説話

 仁徳天皇時代の話として、女鳥王(雌鳥皇女)と速総別王(隼別皇子)が天皇との確執の末に敗れる話が記紀に残されている。両者で少し言い回しが異なるが本筋に変わりはない(注1)



 本稿では、古事記の話を中心に考える。女鳥王は天皇ではなく速総別王と結婚して歌を歌った。すると天皇は軍隊を動員して殺害しようとしてきた。ともに逃げたが、追いつかれてあえなく殺された。その一連の出来事が語られている。実際、それしか書かれていない。今日の人の先入観を排し、言い伝えられたお話を、文字がわからないから聞くしかなかった当時の人々にどう映っていたかを明らかにする(注2)

頓智話(咄・噺・譚)としてのアプローチ

 多妻制が当たり前の時代であったが、女鳥王は天皇の妻になることを拒んだ。前妻の皇后が嫉妬深いから嫌だと言い、仲人として来ていた隼別王と結婚した。女好きの大雀王(仁徳天皇)が嫌なのか、皇后の石之日売命いはのひめのみことが嫌なのかといった痴話話が書いてあるわけではない。頓智話(咄・噺・譚)が書いてある。
 言い伝えの話(story)は歴史(history)そのものではない。おもしろい話が創られている。そうしないと覚えられず、伝えられず、世の中に広まることはない。稗田阿礼はよく覚えていたとされるが、勉強が得意で科挙に合格したといった人物ではない。天武天皇が話して聞かせた言い伝えをよく諳んじただけで、おそらく字の読み書きはできなかったであろう。未だヤマトコトバを漢字で書く方法が定まっていなかったから、太安万侶はたいへん苦労しながら工夫して書いている。むしろ、記録する術を持たなかったから、記憶がすべての言語空間が構成されていたと考えられる。言い伝えは広く知られていて、ヤマト朝廷に関係のあるほとんどすべての人々の共通認識となっていた。話を人々が共有してはじめて無文字社会は成り立つ。皆が知っている言い伝えが底流にあるから社会は意味を成し、存立しつづけられる。その関係が形成されている空間がヤマトコトバの語圏、すなわちヤマト朝廷の勢力圏ということになる。非識字率がほぼ100%の時代の様相を伝えるのが記紀に残されている説話群である。
 記紀に、女鳥王の、「雲雀は 天に翔る 高行くや 速総別 雀取らさね」(記68)、隼別王の舎人の、「隼は 天に上り 飛び翔り 斎が上の 鷦鷯取らさね」(紀60)という「歌」を天皇が聞いて、二人を殺そうとしている。仁徳記では軍隊を興し、仁徳紀では刺客を送っている。女鳥王(雌鳥皇女)、速総別王(隼別皇子)側に謀反の動きは記されていない。女鳥王(雌鳥皇女)は機を織っているし、速総別王(隼別皇子)は媒酌人の使いになるほどに天皇の舎人と化している。二人とも、いわば部屋住みの身分である。天皇がひとり怒って殺しにかかっている。そう記されているのだからそう捉えなくてはならない(注3)
 話の主役たち三人の名は鳥に関するものばかりである。
 仁徳天皇の名、大雀命おほさざきのみこと(大鷦鷯天皇)のサザキについては、新撰字鏡に「鷯 聊音、鷦、加也久支かやくき、又佐々岐さざき」、和名抄に「鷦鷯 文選鷦鷯賦に云はく、鷦鷯〈焦遼の二音、佐々岐さざき〉は小鳥なり、蒿莱の間に生れ、藩籬の下に長ずといふ。」とある。現在いうミソサザイのこととされる。他方、速総別王はやぶさわけのみこ(隼別皇子)のハヤブサは、現在いうハヤブサである。和名抄に、「鶻 斐務齊切韻に云はく、鶻〈音は骨、波夜布佐はやぶさ〉は鷹の属なり、隼〈音は笋、和名は上に同じ〉は鷙鳥なり、大名に祝鳩といふ。」とある。では、女鳥王の女鳥の鳥の種類は何か。話は、どちらの妻になるかということである。当たり前のことだが、サザキの♂、ハヤブサの♂と番いになれるのは、それぞれサザキの♀、ハヤブサの♀である。すなわち、何の種類かわからないが鳥の♀であることを示すから「女鳥王」となっている。女鳥王はサザキの♀にはならずに、ハヤブサの♀になることを選んだ、というお話である(注4)
 女鳥(王)については、メドリ、メトリと清濁通用していたのではないか。女鳥(王)の訓みがメトリと清音で訓まれれば、なるほど「めとり」の話であると納得されよう。「娶り」とは、取りの意であるとされ、名義抄に「娶 メトル」とある。トリ(取)のトは甲乙両方あり、トリ(鳥)のトは乙類である。り、と言っても通じる。記66番歌の「売杼理」の「杼」の字は通常ド(乙類)と濁音であるが、「明かしてとほれ(阿加斯弖杼富礼)」(記86)、「言挙げせずとも(許登安氣世受杼母)」(万4124)といった用例もある。乙類のト・ドの両方に当てられている(注5)。紀59番歌の「謎廼利」はメドリ(ドは乙類)と濁音で訓まれている。いずれにせよ、娶りの話だから、メトリ、ないし、メドリという名前に仕立ててあると考えることができる。笑い話としてうまくできている。

のろまな天皇

 最初に天皇は、自分の奥さんになってくれないかと女鳥王に打診するに当たり、異母弟の速総別王をなかたち(注6)として使いに寄こしている。異母妹に対して自分で求婚に行かず、弟を媒酌人として立てている。立場として叔父ぐらいを媒酌人として使いに寄こすならともかく、年下の弟を寄こして恥ずかしくないか。女鳥王は、「大后のおずきに因りて、八田若郎女を治め賜はず」などと理由をつけて断っている。古訓のオズキは「おずし」という形容詞で、殺伐なほど気の強い様を表わす(注7)。天皇の夫婦関係だから、大后の気が絶対的に強いということではなく、相対的に天皇の気が弱いということを物語っている。継妹の女鳥王にしてみれば、直接、告白できない気弱な男などこちらから願い下げということになる。古語拾遺に、「天鈿女命あめのうずめのみこと〔古語に、あめ乃於須女のおずめといふ。其の神、おずあらく猛く固し。故、以て名と。今のに、強き女を於須志おずしと謂ふは、此の縁なり〕」とある。オズシはまた、オゾシともいい、オゾマシイという形にも展開している。そのオゾシは、人に対して畏怖と嫌悪の思いを持たせるような性格をいう。とともに、オソシ(遅・鈍、ソは乙類)という形容詞の、頭の働きが鈍いこと、気づくのが遅いこと、愚かなことを表す用法にも通用した。オゾシに上代の文献的用例は見られず、ゾの甲乙を決め難いが、通用していたことから考えておそらく乙類であろう。つまり、女鳥王は、そもそもからして天皇が、自分の腹違いとはいえ妹に対して、おっかなびっくり弟を介してしか話ができない気弱さが嫌になっているのである(注8)。だから、後で何を言って来たってそれはもうオソシ(遅)であり、言ってくるような間抜けはオソシ(鈍)なのである。その状況を一気呵成に進めて固定化し、速総別王と一緒になっている。だから、総別王と書いてある。わかりやすいように太安万侶は工夫している。
 時間の進むのが、天皇は遅く、女鳥王は速い。まどろっこしいことしないで頂戴と思って速総別王と結婚している。周回遅れで天皇は女鳥王のもとへやって来る。「爾、天皇、直幸女鳥王之所_坐而、坐其殿戸之閾上。於是、女鳥王、坐機而織服。」という状況である。男として、本当にアンポンタンなのであろう。タダニ(直)というのは直接来たということである。最初からそうすればいいことである。このタダニは、何の思案もせずに、阿呆面さげて、という意味にとれる。呆れてものも言えない相手だと思ったであろう。その天皇は歌いかけてくる。「女鳥の 我が大君の 織ろす服 誰がたねろかも」(記66)。この歌については、これまで、天皇を称賛しないはずはないとの思い込みから疑念が抱かれていた(注9)。しかし、事は男女の仲のことである。身分は必ずしも関係しない。いわゆる殿のお手がついた場合でも、逃げられたり、逆に刺し殺されたりすることもある。古今を問わず、男女の関係が地位や名誉や金で何とかなるとは限らない。
 記では、はじめから、のろまな男を語るためにそういう歌い方に仕立てられている。見事な台詞づけである。あなた様が織っていらっしゃるハタ(服)は、どなたのためのものですかだって。呆れるではないか、うすのろ間抜け。「高行くや 速総別の 御襲衣がね」。新編全集本古事記は、「速総別王の襲衣を織っているのだと答えるのは結婚したことを明らかにするもの。そこには天皇への反発と、挑発的な語気がある。」(300頁)と解している。ただし、この挑発的な語気は、あんたはずいぶん鈍感ね、と馬鹿にしているのである。天皇の問い掛けの言葉に、機織りで織られた布帛を指すハタという言葉が使われている(注10)。天皇の、「誰がたねろかも」に対して、女鳥王は、「速総別の 御襲衣がね」と畳みかけ返している(注11)。「速総別のたね」という答えではない。タネ(料)はもと「種」と同じ語、ガネ(料)は、もと「兼」に由来する語である。「種」はまだ芽が出ていないが、「兼」はすでに予定されたことを示す語である。白川1995.に、「国語の「かぬ」には合せる意と予測の意とがある。〔万葉〕「豫〓(兼の旧字体)而知者」〔九四八〕は「あらかじねて知りせば」とよみ、ことを予知する意である。」(239頁)という的を射た用例をあげられている。もう行き先は決まっているの、あなたのではないの、ほとんど終わりにさしかかっているでしょ、見ればわかるじゃない、ふつうとは少し違う織り上がりでしょ、スケベ根性丸出しの人の肌着じゃないのよ、ということである。本当にオソシと思うから、仕上げる衣服の名も襲衣おそひ(ソは乙類)なのである。襲衣は、旅や神事に使う、衣服の上から被り着るマントのような上着である。
 延喜式・神宮太神宮式の太神宮装束に、「帛意須比おすひ八條〈長さ二丈五尺、広さ二幅〉」とある。広さが「二幅」とあるのは、織物として機織り機で織り上げた布を2つ、倍の幅につなげていることを表すのであろう。長さが二丈五尺とあるから、それだけ縫いあわせたということらしい。上着だから厚地の生地で、幅も広く、機織りに相当な時間がかかった。機織りしていた数か月間、もうとっくに速総別王とラブラブな関係なのに、今頃になって天皇は現れて誰のために機織りをしているのかと宣った。ばかばかしくなる。オソシ(遅・鈍)→襲衣である。長時間の骨の折れる機織り仕事であった(注12)。うまい道具仕立てである。紀では、この襲衣に焦点を当て、用途が旅と神事にあることから伊勢神宮へ逃げる話にしている。小道具から筋立てを決めている。
 それに対して、天皇は還っていく。「故、天皇、知其情、還-入宮。」ちょうどそのとき、速総別王が来たので、「其妻」と既成事実化している女鳥王は、「雲雀は 天に翔る 高行くや 速総別 雀取らさね」と歌っている。天皇はこの歌を聞いて、すぐに軍隊を興して殺そうと思ったと書いてある。どうして「還-入宮」と書いてあるのに「聞此歌」とあるのか。それは、天皇が、すべてにおいてオソシ(遅)だからである。お還りになって宮に入られていたと思ったら、まだ、そこら辺をうろうろしていて聞かれてしまった。
 天皇がぐずぐずしているとも知らずに女鳥王のところへ速総別王が「到来」した。原文に、「此時、其夫速総別王到来之時、其妻女鳥王歌曰、」とある。新編全集本古事記に、「「時に」が重なるのは異例の構文となる。「到来之」の「之」は文末助辞とみ」(301頁)る解釈をするが、そうではない。「時」という言葉をを俎上に上げている。オソシ(遅)というのは、時計の針は人によって進み方が違うことを表す言葉である。二つのものを比較する際には、前を基準にして後のものをいうのがオソシ(遅)であり、反対に前のものはハヤシ(速)やトシ(疾・捷)である。つまり、ふつうの時間の進み方である女鳥王や速総別王タイムでなら天皇はもう宮入りしているはずなのにまだ残っていたのである。だから「時」がダブって書かれており、歌を天皇に聞かれてしまったと教えている。太安万侶の書きぶりは冴えている。
 紀のほうでは、「乃語之曰、孰捷鷦鷯与_隼焉。曰、隼捷也。乃皇子曰、是我所先也。」と説明されている。最後の部分は、「是、我がさきだてる所なり。」と訓まれてきた。「隼は捷し」だから自分のほうが先に行くのだと言っていると解されている。そのような当たり前のことを念を押すためにわざわざ述べられているのだろうか。この部分は、「是、我がさきだたるるなり。」と訓み、ハヤブサの口の先が嘴縁突起と呼ばれる形をしていて、口の先で獲物を捕らえ肉を断つのに適しているという特長を有しているからサキダツのだと論証しているものと考えられる。

立ち聞きされる建物

 「時」がダブり、天皇が還った「時」と速総別王が到来した「時」とが同じとはどのような状況か。容易に想像がつかないことは伝達されないから、具体的に起こりえない設定は行われないだろう。出入口で鉢合わせにならない造りの建物ということになる。女鳥王が機織りをしている機殿(機屋)の出入口が一つの場合、「時」は重なることはないが、二つあるのなら、天皇の出て行った口と、速総別王が入って来た口とが異なり、出くわすことはない。そのような建物は考古学で検証されている。
 浅川2013.に、「戸口の復元は、これまで高床倉庫で試みられてきたが、平地土間式の大型建物では高床倉庫の戸口を採用するのが難しく、一般的には突き上げ戸や外し戸などを用いた復元が少なくない。しかし、今回[青谷上寺地遺跡]は幸運にも角柱と戸口の材に恵まれ、本格的な片開戸を復元することができた。」、「青谷上寺地遺跡の蹴放(もしくは楣)は、必ずしも完全な姿をとどめているわけではない。しかし、両端の角柱にはめ込む仕口を備え、扉板両脇の方立を納めるしゃくり溝や扉の軸受穴も確認できる。この蹴放(もしくは楣)が角柱と複合しているのはあきらかであり、……蹴放(もしくは楣)の正面側には、同心円状の模様が刻みこまれている。」(70頁)とある。
青谷上寺地遺跡建物復原イメージ(Lablog 2G様「アイアンロード」http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2166.html、2023年12月4日閲覧)
 建物の妻側に二つの片開きドアがついている。内部はワンルームである。復元モデルでは、3.84m×8.12mと広いから、今考えている機殿(機屋)そのものと俄かには定められないかもしれないが、機の道具や製糸にまつわる道具(紡錘車や桛)、材料(麻、苧麻、巻子)が保管されていたとも考えられる。建物の妻側に開き戸となる扉が二つついている。どちらの妻になるかという意を暗示する設定である。開き戸はパタパタと開け閉めする。機はハタである。パタパタ織っているからハタという。古代の音韻では、ハタは pata に近いものがあるとされる。高機は中国を起源として伝わった。中国でと呼ばれていたものが、ヤマトコトバにハタと言っている。文字がないのだから、これは何ですかと隣村の人に聞かれた時、キですと答えても相手に意味は伝わらない。パタパタして織るものだからハタというのだよ、と新語を造って答えたのではないか。むろん、言葉の語源はわかるものではなく、他の説もある。筆者は、語源説ではなく、この女鳥王の話において、ハタという言葉をそのように捉えて創作していると考える。
 ハタという語には、「はた~、はた~」という言い方で使う副詞がある。あるいはまた、それともまた、と仮設しておいて、一方を選択するために使う言葉である。AかそれともBかという選択の意味に発し、もし、あるいは、おそらく、などの意へ展開する。漢語の用例では中国六朝時代の俗語として見られるという。ヤマトコトバのこのハタについては、時代別国語大辞典に、「語源的にハタホトリなどに関係のある語であろう。」(580頁)とある。筆者は、語源という立場に立たないものの、上代の語感として「はた」や「はた」との洒落も見て取れる。左右のどちら側にもあって二つあるのが魚の鰭である。機は、左右のどちらからもを入れて反対側の端を通り抜けさせ織り進める。足を踏みかえて経糸を上下させて緯糸をくぐらせるのである。その動きのなかでパタパタと音がする。擬音語、擬態語から、ハタという語が生まれているように思える。機の場合、梭を追いかけて頭を左右に振り見ながら織っている。

 いましはた我に先だちてかむ。はた我や汝に先だちて行かむ。(神代紀第九段一書第一)
 為当はた此間ここに留らむと欲ふや。為当本郷もとのくになむと欲ふや。(欽明紀十六年二月)
 かむさぶと いなとにはあらね はたやはた かくしてのちに さぶしけむかも(万762)
 す痩すも けらばあらむを はたやはた むなぎを捕ると 川に流るな(万3854)

 どうしてそのようなパタパタする言い方になったのか、由来は謎であるが、二つドアの建物は「はた~、はた~」という言い方にふさわしい。建物の一面に二つ扉のある建物は、ハタ(服)を織るハタ(機)を置く機殿(機屋)と、言葉の上で似通っている。つまり、天皇が還ったというのは右側の扉を出て行ったということ、速総別王が来たというのは左側の扉から入ってきたということである。扉をパタパタと開け閉てしている。その際、絵巻物の異時同図法が採用されると、出て行った図を描いた右側の扉部分を見てから巻き直して左側の扉部分を見ると入ってきたところとなる。それで話を進めている。だから「時」という語がダブっている。両方を見渡せるように俯瞰してみると、天皇はまだ還りきっておらず、速総別王はすでに入って来てしまっている。そこで歌を歌ってしまったから、天皇は還る間際に聞いてしまい、怒って軍勢をたてて攻めようという気を起こしている。
 古事記は冗談話をくり広げている。機織りをして左右に送っているものは、緯糸を入れてあるシャトル、(杼)(ヒは甲類)である。同音の(ヒは甲類)は毎日、東から昇って西に沈んでいく。機殿(機屋)での機織りは室内作業で、明るくなり、暗くなるの繰り返しである。南を向いて機織り機に座っていると、織り手から見て日は、朝は左の戸、夕は右の戸を行き来している(注13)。日がな一日織りつづけ、日はどんどん経過し、がんばって左へ右へ梭を送ってもなかなか織り上がらない。ヒ(日、梭)は飛ぶように進むのである。つまり、将~将~などという言い方は、パタパタと、どちらかどちらかとばかり言っているだけで、なかなか決められない優柔不断ぶりに相応する作業をしている。この説話のなかで、ハタというヤマトコトバは自己言及的に概念構築されているわけである。
 だから、機屋に扉は二つある。どちらも片扉である。パタパタ言っているばかりの扉である。引戸ではなく開き戸である(注14)。つまり、記に「しきみ」とあるのは、建築用語の蹴放ちである。戸が当たって戸締りになるための下部の押さえである。横は方立、上は楣で囲まれている。そこに扉があって戸が構成され、枢構造で支えられている。「坐其殿戸之閾上」という状態は、蹴放ちの上に腰を下ろしているということで、外開き扉であれば開いていなければあり得ない。信貴山縁起の尼公は、糸作り作業中の土間の入口の敷居に座っている。戸が開いているから「坐」すことができている。中では機織りをしているなら、明るくないと仕事にならないから開けていたのだろう。見物のために機屋に踏み入ったとしても、相手の女性は機織りに熱中していてかまってはくれない。作業状況を具に見ても、素人にはどういう機構で織り上がっていくのか理解できず、近くにいても手持無沙汰である。
左:「閾(?)(土台)に坐す」(信貴山縁起模本、覚猷他写、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2574278/15をトリミング)、右:越後織布(木村孔恭著、法橋関月画、日本山海名産図会、国文学研究資料館・新日本古典籍データベースhttps://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/200018806/viewer/158をトリミング合成)
 機屋に片扉が二つ離れてあることは、ハタヤという言葉をものの見事に語り尽くしている。神社の本殿などでは観音扉が採用され、扉を合わせ閉めて海老錠をもって戸締りとした。対して、機殿(機屋)に二つ離れて片扉があるのは、機織りのために明るくなければできないから、採光のためにドアを開けて織っていたと考える(注15)。日本の古代建築の板戸で応じるには、建物の妻側を南に向けてその左右に戸を分けて設けることで明かり取りに都合が良くなる(注16)。棟持柱のある建物で妻側に戸を作ると左右に二つとなるのは自然の流れで、その二つの出入口がそのまま明り取りになる。だから、「はた戸が有るや、将戸が有るや」構造の建物、機殿(機屋)が造られていることとなる(注17)。機は部材を持ちこんで機屋のなかで組み立てられ、形を保ったままでは戸口から出せない大きさであったかもしれない(注18)
 歌に、「雲雀は 天に翔る 高行くや 速総別 雀取らさね」とある。和名抄に、「雲雀 崔禹食経に云はく、雲雀は雀に似て大まりといふ〈比波利ひばり〉。楊氏漢語抄に鶬鶊〈倉庚の二音、訓は上に同じ〉と云ふ。」とある。どうして話に雲雀ひばり(ヒは甲類)が出て来るのか(注19)。登場人物たちは皆鳥の名を負っていた。それに合わせる形でヒバリが出てきているわけだが、機屋のなかでは幅広い織物、襲衣に仕立てるべく機織りをしている。手先で操るのはヒ(梭、杼)(ヒは甲類)である。特に幅広の生地を織っていたから、横幅が狭くならないように安定させる伸子を使っていたと推定される。伸子は両端を張って広げる道具で伸子針とも呼ばれる。だから、ヒバリ(雲雀)となる。人物名の鳥に関わる洒落に仕立て、話をおもしろく、印象づけて覚えやすくしている。「雲雀は 天に翔る」は「高」、ないし、「高行くや」へと掛かっていく序詞とされている(注20)。ヒバリボネ(雲雀骨)という言い方も生まれており、雲雀の脚のように細々した骨格を表した。鷹狩に使う小型の猛禽類であるハヤブサは、和名抄で「鶻」という字を使っている。骨張ったものつながりということであろう。幅が狭くならないように骨を張っていると見立てている。
「簇削」(源三郎絵・人倫訓蒙図彙、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/945297/1/106をトリミング)
 伸子(箴)は、主に洗い張りの作業に用いられる。和名抄に、「叉 六韜に云はく、叉〈初牙反、文選に叉簇を比之ひしと読む。今案ふるに簇は即ち鏃の字なり〉は、両岐の鉄柄にして長さ六尺なりといふ。」とある。ヒシという訓みがあるのは、字鏡集に「簇、シヒシ」とある伸子と関連する。竹製の伸子の両先端は二股に分かれている。雲雀の脚の骨張りを連想させる。機織りで最初に経糸をかける際などには、糸のテンションを整えるために雲雀結び(注21)をして確かめていく。きれいに機織りするには、最初の過程、経糸を整然と引っ張る機拵えにかかっている。語源は不明であるが、引き張ることからヒキハリ→雲雀結びと呼ばれたのかもしれない。「引く」のヒは甲類である。女鳥王が織っていたのは、襲衣用の、幅の広い厚地の布であり、横方向に幅が狭くならないようにするために、伸子を使って織りあげ中の生地を張っていた。ハヤブサには織りに必要なヒバリではなく、仕事の邪魔をするサザキを排除して欲しいと言っていることになっている。

倉椅山くらはしやまのクラのこと

 速総別王は、記69・70番歌とつづけて三句目途中まで同一の歌を歌っている。倉椅山は現在の桜井市倉橋の地にある山のこととされているが、独特の枕詞「はしたての」が被さっている。高床式倉庫に梯子を掛けて登るから「はしたての」はクラの枕詞と考えられているが、その語は「はしたて○○の」であり、「はしかけ○○の」ではない。どこかへ掛けているのではなく、梯子は自立している。脚立の様相を呈している。そんな形をしているものとして、駄馬の背に置かれる荷鞍のことが思い浮かぶ。荷鞍は乗馬用の鞍とは異なり、中央が高く横から見ると三角形に突起している。馬は脚立を背に載せているように見える。女鳥王と速総別王とは山越えをして逃げ延びようとしている。天皇に対して反乱を起こそうとしたのではないから乗馬用の軍馬を持ってはいない。聳え立つ荷鞍に掛け渡した籠に乗って身を任せるから急峻な山も越えられるという、目には目を、歯には歯をというような発想に基づいている。片側に一人だけ乗るとバランスは取れないが、両側に乗れば荷鞍でも人は運ぶことができる。女鳥王と速総別王とは荷となって運ばれようとしたのである。馬の高さのところへ登れば天皇は手が届かないと軽侮していた(注22)
左から、荷鞍(高岡市立博物館蔵、文化遺産オンラインhttps://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/282520)、米俵を運ぶ(石山寺縁起絵巻模本、狩野晏川・山名義海模、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0019204をトリミング)、荷鞍につけた木製籠で人を運ぶ(二宝荒神、葛飾北斎(1760~1849)「四日市」『東海道五十三次』、江戸時代(1804年頃)、小判横絵(11.6×16.7㎝)、フィラデルフィア美術館蔵、アン・アーチボールド氏寄贈、受入番号1946-66-81o、https://philamuseum.org/collection/object/203263)、押機(蔀関月著・法橋関月画図「捕洞中熊」『日本山海名産図会』、江戸時代(1799年)、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2575827/40をトリミング)
 天皇が軍隊を興して殺そうと思った相手は、オソシ(遅)と軽蔑した女鳥王と、彼女が織っていたオソヒ(襲衣)をプレゼントされた速総別王である。夫婦一体になって荷鞍の上にいる。荷鞍の上に座を設け、その上に乗る乗り方もしていて、それはオソヒと言われた。「就而熟つらつら視れば、皇后きさき御鞍おそひなり。」(欽明紀二十三年六月)とある。木を格子に組んで屋根板の押さえにするものもオソヒと言っていたから、縄などを使って木組みにして押さえるつけるものをそう呼んだのであろう。紀61歌謡に、「梯立の 嶮しき山も 我妹子と 二人越ゆれば 安蓆かも」とあるのは、馬の荷鞍の山型を覆って両サイドに広げた駕をつけ、二人乗ればバランスが取れて良い具合の座席になるということであろう。「安蓆」とは安定して座ることのできる蓆であり、枠取りし、木を格子に組んだ上に敷物を置き、簡易座席としていることを指しているようである。そんな「はしたての」脚立状梯子の様子は、力の強い獣を逃がさない檻、捕まえるための罠である「押機おし」(神武記)と同じような造りである。オソとも呼ばれることがあり、天皇は目には目を、歯には歯を、オソにはオソで対抗して捕らえにかかっているというわけである。
 紀では、天皇と隼別皇子との間柄を「干支このかみおとど」(「友于」(前田本)(注23))としている。もともと、干は幹、支は枝を示す。天皇と女鳥王と速総別王とは、みな兄弟姉妹の間柄、つまり、木で言えば幹と枝、つまり、干支である。そして、干は杆に通じる。爾雅・釈木に、「棧木、干木」とあり、格子状の桟木を表す。屋根に瓦を載せるために縦横に組まれているのは瓦桟木である。枕詞「はしたての」が捕り物に梯子格子を使うのを、兄弟姉妹の関係の話に合わせるために「干」字を用いようとしたと理解される。
 話の後半では、言葉のなかにソ(乙類)の音がたくさん出てくる。「退く」のソは乙類である。ソ(背)と同根の語とされる。オソシ(遅、鈍)やオソヒ(襲衣)、オソル(恐)のソも乙類である。馬の背のことと山越えする稜線のことをいう馬の背のことを絡めながら創作している。「其地そこより逃げ亡せて、宇陀の蘇邇そにに到りし時に、御軍追ひ到りて殺しき。」と終っている。ソコ(其地)のソ、地名のソニ(蘇邇)のソも乙類である。紀では、菟田の素珥山そにのやまに追いつき攻めたがまだ逃れ、最終的に伊勢の蔣代野こもしろのので殺している。ソニとは今のカワセミのことで、記の天若日子あめわかひこもがりの件に御食人みけびとの役を演じている。死者に手向ける食べ物を用意した。それがコモシロというところにも関係するというのだから、コモに包まれて馬に載せ運ばれた米のことをイメージしながら創作されていると考えられる。御食人のふりをしてソ(背)+ニ(荷)の山越えには成功したが、馬上の荷であるはずのコモの代わりになっていたことが伊勢に至って露見したという話に構成されている。

まとめに代えて

 以上が女鳥王の話(咄・噺・譚)である。鈍くさいと言ってしまった兄弟喧嘩を鳥の話にし、鈍くさい駄馬を使った脱出劇に仕立てている。記紀の話は継ぎはぎだらけのパッチワークに見える。ただ、その語り口には一貫性が備わっている。おもしろい頓智を繰り出しながら話(咄・噺・譚)が構成されている。姓は稗田、名は阿礼、よくぞ伝えてくれたと思える機知に富んでいる。
 わずかに320字ほどの本文を後講釈し、古代天皇制の反逆物語であるとか、律令時代の儒教倫理を謳うものであるとか、女性の社会的な発言を物語るものであると唱えるのは荒唐無稽である。いわゆる史実を下敷きにしていると考えることはもはや困難であろう(注24)。ヘロドトスや司馬遷のように、歴史とは history、文字で書記してはじめてできるものである。対する無文字時代に、どうやって残して伝えたか。口伝えに伝えて記憶にとどめつなぐしかない。唯一確実な手段は、story、お話(咄・噺・譚)として完成度を高めることである。洒落を数珠つなぎにつなぎあわせて最後にオチを持ってくる。自然と覚えられて伝えられ、聞く人を飽きさせない。その時代を表すのにふさわしい新技術を織り交ぜながら、まったくそうであったと悟らせることができる。無文字文化において、すべてを言葉のなかで伝えるために、意味の塗り込められたヤマトコトバという代物を、巧みに知恵を働かせて伝承していたのであった。

(注)
(注1)藤澤2016.に、記紀両書の差異として、「①反逆の主導者の違い ②討伐後の宴に登場する皇后の違い の二つが大きな違いであろう。」(213頁)とされて議論が展開されている。内藤2003.は、「ウタとその用い方には多くの異同が認められる」(245頁)と見ている。本稿では微視的な差異から記紀の構想の違いを論うことはしない。肝心の話(咄・噺・譚)を理解せずに分析はできない。
(注2)今日の研究者たちが勝手に思い込んでいるような、古事記を完成された文学作品であると捉えたり、古代国家による王権制のプロパガンダであるといった根拠不明の先入観をもってみることから解放されなければならない。また、文字を持たない民族文化を遅れたものとする偏見からも解放されなくてはならない。
(注3)先行研究について検討を加え、立脚しながら、あるいは批判を加えながら、新しい解釈を進めるのが作法であるが、結局のところ一語一語の言葉を軽視していて女鳥王の話を読み切っているものはない。いくつか簡単に紹介しておく。荻原1998.は、女性である女鳥王が主導性を担う理由について述べている。寺川1992.は、記紀は律令制社会に入ってから氏族の伝承を公開したものであると考え、反逆氏族の伝承が記されている理由と女鳥とは何を意味するかを検討している。山田2008.は、日本書紀に「鷦鷯」という字で記されている点から出発して、陰陽五行の変化に則っているという議論を展開している。孫1991.は、前田本仁徳紀の頭注に、「養老記云、隼鳥昇天兮 飛翔博衝 鷦鷯所執乎」とあることから、紀60番歌について漢詩の翻案である可能性を考えている。阿部2003.は、女鳥王が王権の論理の世界から離脱しようという主体性を持っているものと捉えている。都倉1975.は、古事記の一篇のお話を文学讃歌へと高めて評価している。猿田1990.は、この説話に歌われる歌謡から、歌謡と説話の結び付き方について分類を試みている。村上2013.は、女鳥王が天皇に仕えないことを、仲介者の速総別王ともども示しているとする。小林2008.は、隼別皇子は雌鳥皇女を妻としようとは思っても、皇位簒奪を狙う意識はなかったと指摘する。
(注4)荻原1998.は、女鳥王は雌の鳥を表示するのみだから何の鳥か同定しようとし、「雌鶏めとりをとりに化れり。」(天武紀五年四月)を引き合いに出し、鷹狩の獲物となる雌雉ではなかったかと考えている。
 けれども、女鳥王がニワトリやキジの♀のはずはない。有性生殖の生物に異種間の交雑は起こりにくく、ラバやレオポンの話を創っても聞き手に理解されはしない。自然が卑近に存在し、取り囲まれ従って生きていた古代の人にとって、ハヤブサの♂とキジの♀が番いになるという発想はむしろ大祓の対象になるだろう。生命、種族の存亡にかかわるから、野生の思考において動物は擬人化されず、人間の擬動物化以上のものではない。トーテミズムの根本問題である。
(注5)トル(取)という語のトの甲乙の混在について、以前から議論されてきた。筆者は、トリ(鳥、トは乙類)との洒落の関係を探っている。上代語表記の清濁について、犬養1992.は、「文字のsystemは、伝達に支障のない限りにおいて、対応する音声言語の諸要素のうち、どこまでを捨象することが許されるか。……実用を旨とする場では、万葉仮名の濁音専用の字体を用いないこと、すなわち音韻の「清濁」を書きわけないことが経済であり、それが平仮名・片仮名への連続面をなす……。……平仮名・片仮名がなぜ濁音専用の字体をもたないsystemとして成立したかという問題は、音韻と文字の両面から考えなくてはならない。本書の筆者[犬養隆]の認識によれば、古代語の「清濁」についての議論は、一九七〇年代から後、基本線において前進していない。亀井孝……濱田敦……馬淵和夫……小松英雄……木田章義……[らの見解を]本書の筆者の理解によって約言すれば、今までのところ、phonemics の level ではなく、prosody あるいは phonetics の level でとらえる説が有力であるということになる。 本書の筆者は prosody の level と考えている。アクセントが統制的な性格を強めるにつれて「清濁」は prosodeme から phoneme に変わって行ったというのが筆者の考えであるが、……ここでは、古代語の音韻における「清濁」の別が、知的・論理的意味を弁別する phoneme ではなかった可能性が大きいことを確認するにとどめる。」(344~345頁)としている。
(注6)古訓に、「媒」はナカタチ(ナカダチ)のほか、ナカヒト(ナカビト)ともある。現在の記の解説書にナカタチ(ナカダチ)説を採る例は少ないが、紀では前田本傍訓にナカタチとあって従っている。筆者は、古事記でもナカタチ(ナカダチ)と訓むのが正しいと考える。今の仲人なこうどのことである。結婚相談所の人が依頼人の意向を無視して紹介相手を横取りして結婚してしまうということは、いかに相手方から求められたからとて世間の信用を失うことで常識を欠いている。そのようなことは、ヒト(人)のすることではない。人のようで人でない。木のようで木でないのは、ウドの大木とも言われる山ウドである。ナコウドという言い方は、それを捩ってもいておもしろい。拙稿「雄略即位前紀の分注「𣝅字未詳。蓋是槻乎。」の「𣝅」は、ウドである論」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/ceb99a8b6b28f3929182489b7d106226参照。そして、速総別王は、間に入って両者の仲を断つことをしている。したがって、ナカタチ(ナカダチ)と訓むのが意味を伝達するのに必要十分である。
(注7)この部分の「因大后之強」に、「大后のコハキに因りて」と、コハシという形容詞による別訓も行われている。「オズキと訓むのが通説だが、『記』の用字法に照らしてコハキと読む。コハキは強くて扱いにくいの意。」(新編全集本古事記299頁)。同じ「強」という字を当てても、コハシというのは高句麗騎馬軍が「こは」いことを言うように、馬冑、馬甲、甲冑といった硬さを伴ったつよさを指す。こはいご飯とは、水が足りないか蒸らす時間が足りないかした硬いご飯のことである。皇后が嫉妬深くて気が強いからといって、高句麗騎馬軍や芯の残ったご飯の硬さを連想することはできない。ねたまれて嫌になるのは気分の問題で、もっとおぞましい、ぞっとする、背筋の寒くなる感情の発露として言葉があるであろう。通説のオズキが正しく、清音でオスキと訓む説もある。オソシへと音が通じる点からも確かである。
(注8)日本書紀では雌鳥皇女の話は仁徳紀四十年にあり、磐之媛皇后はそれ以前、三十五年に亡くなっている。
(注9)山路1994.363頁。また、身崎2007.は卑屈なまでの天皇の求愛の態度とメドリの堂々とした拒否の態度を対照させようとしていると見ている(89~90頁)。
(注10)原文の「服」には、ミソ(御衣の意)という古訓もあるが、直後の記67番歌に、「織ろすハタ」とあり、ハタと訓むべきである。機織り機で織られた布帛をハタといい、機械の方もハタという。思想大系本古事記、古典集成本古事記、西郷2006.などに採用されている。地の文で「女鳥王にハタに坐してハタ織れり」とパタパタ言うことで、この話のテーマがハタの頓智からなっていることを示している。
(注11)荻原2003.に、「問いに対する答えとは、問いに従属するものではない。答えとは、一見、問いを受けた受動的なもののようでありながら、実は問いが掬いとった状況の質を判定し、方向づけるものなのである。だからこそ女鳥王の歌は、状況の現実にすら気付いていない仁徳天皇に、状況を判定し現実を突きつけて、以後の状況の方向を決定づけるはたらきをもつ。そこに女性の歌の一つの本質がある。」(11頁)とある。似て非なることを筆者は考える。問いは状況がわからないときに発し、方向性を示唆してもらうために行われる。馬鹿なふりして聞いてみた、という言い回しがあるように、答えによって導かれるのである。仁徳天皇は、女鳥王に馬鹿にされているわけであるが、特に女性の歌だからというわけではない。
(注12)古代の衣装と一概に比較できないかもしれないが、一般的に、着物を一着仕立てるために必要な布は反物一反である。基準にしてある。現在の着物の反物は、幅が約37㎝、長さが約12.5mとなっている。丸帯を織る場合には、70cmほどの幅で織って縦方向にふたつに畳み、かがり留めしている。延喜式の「長さ二丈五尺。広さ二幅」は、長さが約7.5m、広さが約1.32mに当たる。現在も紬を織るのに用いられている腰機をみると、腰幅よりも少し広めに幅がとれるから70cmほどに織っていくことは可能である。延喜式に「広さ二幅」という単位があり、「幅」の古訓にはハタバリともある。それとの兼ね合いから考えるなら、66cm幅のものを7.5mの長さまで織り続け、二枚分織りあげてそれを縫いつないで「襲衣」を作ったとするのが妥当であろう。織る人に肩幅がなければ梭を横から入れていくのも大変であるし、巻き取りながら作るにしても歪まないようにしなければならない。織りの技術に相当熟達しているといえる。女鳥王の答え方が強い物言いになっていて、「料ろかも」の答えが「御襲料」となっていた。ふつうの着物じゃないことぐらい見ればわかるでしょ! ということは、見ただけで分かりそうな違いが機織り機の上にあったということである。
 幅の広い織りを施すのに狭まっていかないように両端を広げておく工夫があった。前田1992.には、「経糸の幅出具[鋸状幅出棒]は日本ではアイヌの織機にしかない」(149頁)、「[天秤腰機では、]現在、緯打ちにも筬が使われているが、本来は幅出用で、長い緯打ち刀か杼を用いていた。」(185頁)とある。筆者は、記68番歌謡を聞くにつけ、ヒバリが唐突に出て来ている以上、伸子によって幅が縮まらないようにし、幅広で厚手の反物が織りあげていたと考える。「襲衣」は上着なのだから生地は分厚かったであろう。
 機の種類については用語に混乱が見られている。地面に尻もちをつけるタイプを地機と呼んでいるのか、身体で経糸を引っぱるのものを呼んでいるのか不明である。植村2014.は、「三種類の基本形について、錘を下げて張る織機を「錘機おもりばた」……、地面を利用して張る織機を「地機じばた」……、人体の腰で張る織機を「腰機こしばた」と表記する」(48頁)とする定義を試みている。経糸のテンションを何によっているのかの区分である。そこには、その地機の発展型として、インドによく見られる地面に穴を掘って足を入れ、足で綜絖を操作するタイプが現れ、それを木組みにして全体的に地面上へとアップさせたものが高機であろうという。ただし日本では、腰で経糸を引っぱる方式の腰機にも、天秤腰機のように機に一体型の腰掛に座って行うものも多い。インドに見られる掘りごたつタイプは、「穴織あなはとり」(応神紀三十七年二月)のことに当たるのではないかと指摘されている。
 ほかに、「漢織あやはとり呉織くれはとり及び衣縫きぬぬひ兄媛えひめ弟媛おとひめ」(雄略紀十四年)という記事も見られ、それまでの「呉織」とは別種の「漢織」が来日しているので、あるいはそれが、機構をすべて機に委ねて体が解放された、いわゆる高機の移入に当たるのではないかとも推測される。また、「倭文しつおり倭文しつり」といった例が見られる。「倭文神、此には斯図梨俄未しとりがみと云ふ。」(神代紀第九段本文)、「倭文部」(垂仁紀三十九年十月)、「倭文機しつはた〔之都波柂〕」(紀93)、「倭文、此には之頭於利しつおりと云ふ。」(天武紀十三年十二月)、「倭文幡しつはた」(万431)、「倭文旗帯しつはたおび」(万2628)などとある。筆者はハタ(機)をパタパタという音と関係すると述べてきた。シツオリのシツは、シヅカ(静)の意と関係があると推測する。梭(杼)をそっとさし入れて静かに織っていく機とは何か。アンギンや、招木を持たない尻もちをついた形の腰機かとも思われる。それらもハタと呼び出したのは、パタパタいう機織り機に対してシツハタと後から名づけたのではないか。

 天照大御神、忌服屋いみはたやいまして、神御衣かむみそを織らしめし時、其の服屋はたやいただき穿うかち、天の斑馬ふちこまを逆剥ぎに剥ぎて、おとし入れたる時に、天の服織女はとりめ、見驚きて、陰上ほとを衝きて死にき。(記上)

 この例や本稿の仁徳記の例は、「呉織」の類で、今いう天秤腰機ではないかと推測されるが未詳である。詳しくは前田1992.、前田1996.などの労作を参照されたい。いずれにせよ、作業上は高機とあまり変わりないらしい。腰で経糸を引っぱっていると、張り具合のニュアンスが感じられやすいという利点もあり、結城紬は今でも腰機で織られている。工業化されないのであれば、使いやすいものや簡便なものを用いて不都合はない。それでも、天照大御神の機織りの作業場は、母屋とは別棟の「忌服屋」、「服屋」である。また、雄略紀の織り手、縫い手が必ずペアで渡来している点も、パタパタ二つ扉のある機殿(機屋)での作業を示唆しているのではないか。
(注13)例えば、近代に桐生市に建てられたノコギリ屋根織物工場群のように、採光は北からであったかもしれないから、戸の方角は調べなくては確かなところはわからない。考古学の発掘に期待するほかないが、すでに記に語られていることである。
(注14)建築史では、敷居に溝を掘ってレールとして走らせることは技法として新しく、引戸、襖障子が現れるのは平安時代になってからのことである。日本史大事典に、「回転式のいわゆる扉の形式が古く、これには板扉いたとびら桟唐戸さんからどとがある。……同じ回転式であるが、扉とは異なって水平方向に回転軸を持つのが蔀戸しとみどである。寝殿造しんでんづくりでは蔀戸に対し、扉形式の戸は妻戸つまどと呼ばれた。これは元来、建物の妻(棟の両端の側面)に設けられていたことから生れた名で、出入口として使われた。……引戸は遣戸やりどと呼ばれるが、その発生は扉よりも遅れ平安時代後期である。この時代の絵巻物えまきものに見えるのは狭い間隔に横桟を打ったもので、のちに舞良戸まいらどと呼ばれる形式である。……平安後期にはふすまが登場し、明障子あかりしょうじ(現在の障子)が現れるのも平安末期である。」(第五巻1頁、この項、清水擴)とある。
家形埴輪の戸ぼそ(江野2012.49頁)
 高橋1985.に、「日本でいちばん古い建具」(2頁)として扉が紹介され、「奈良時代の住宅の建具は扉だけであった」(9頁)と刺激的なキャッチコピーが施されている。弥生時代の農村集落跡、伊豆山木遺跡から、軸釣(枢、とぼそ、くろろ)とみられる作り出しのある扉が出土しており、「古墳時代になると、……扉の出土例が増えるのみならず、扉用の軸受けをもったしきみも発掘され、さらに大阪府八尾市美園古墳から出土した埴輪屋には、開口部の上下に扉の軸を受ける穴が作られている。」ことから、「扉はすでに相当普及していたらしい。」(2頁)とある。
(注15)戸を閉めて明かりを灯しながら織っていたと考えられなくはないが、植物油の燃油は非常に高価である。魚油や松明を使って臭いがつき、火の粉が飛んで穴を開けかねないリスクを冒しはしない。だからこそ、囲炉裏に火を熾さない別棟の機殿(機屋)を設けて作業している。
 暑ければ屋外で行うことも考えられ、軒下に機を設置して織っている例も見られる。インドでは高床式の縁の下の例もある。中央アジアから中近東にかけては、雨の心配がほとんどないから完全に屋外で行われている。それが通常の機織りの光景であった。
(注16)民俗事例としては、吉見1995.に、「この[湖東]町の民家にみられる特徴は機織窓の存在である。でいの前面の一間半を四分し、中央の四分の一の二つ分を窓とし外側に縦格子、内側に二枚の引戸をたて、これを「機織窓」と呼んでいる。」(74頁)とある。
(注17)二つ片開き扉の建物の用途については筆者の語学的推測によるものであり、考古学の考証を経ているものではない。
(注18)推古紀に、建物を建ててから仏像を入れようとしたら戸が狭くて入らなかったという記事がある。寄木造だったのかもしれない。

 又仏像ほとけのみかたを造ること既にをはりて、だうに入るること得ず。諸の工人たくみ、計ること能はずして、将に堂の戸をこほたむとす。然るに、戸を破たずして入るること得。(推古紀十四年五月)

(注19)新編全集本古事記に、「ヒバリだって空を翔る、ましてや天空高く行くハヤブサは…と対比的にハヤブサを引き出す。」(301頁)とあるが、ヒバリとハヤブサを比べ出したら焦点がぼけて肝心のサザキのオソシ点が霞んでくる。
(注20)ヒバリダカ(雲雀鷹)という語もあり、6月頃、ヒバリの羽の生えかわる時に、ヒバリ専用に鷹狩をする鷹のことをいう。日葡辞書に「Fibaridaca」とある。なお、ハヤブサがヒバリを捕まえる鷹狩は行われるが、サザキ(ミソサザイ)を捕まえる鷹狩は知られない。人里近くにいるスズメなら練習用に捕まえさせることはあるが、小さな鳥は霞網を用いて捕えれば事足りる。鷹狩の獲物は、通例では、鳥類では、ツルやガン、ハクチョウ、カモ、キジ、ウズラなど、哺乳類では、ノウサギやリス、キツネなどである。わざわざ飼育、調教するのだから、ふだん捕れない大きな獲物を狙うのが鷹狩の醍醐味である。鷹狩に使うタカは短距離向きで、木の多いところでも使えるが、ハヤブサは比較的長距離に使えるが、木の少ないところに適するとされている。草の枝葉の間を飛んでいるサザキを捕ることは難しい。
(注21)輪の中を糸が通るようにした結び方を雲雀結びと呼んでいる。結索法は、結びの用途から次のように大別されている。①結節法、②結合法、③結輪法、④結着法、⑤結縮法、⑥結束法、⑦装着法である。このうち、雲雀結びは結着法に当たり、「元」のところ二本に同じく力がかかる場合にのみ有効である。
(注22)仁徳天皇は脚が不自由だったらしく、屋根の雨漏りを直すことができなかった。拙稿「仁徳天皇は「聖帝」か?」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/3b6bf7b7b6923362822f33da0c609948参照。
(注23)誤写ではなく、当初から異本が存在していたものと筆者は考える。河村秀根・益根の書紀集解に、「按干原誤。舒明天皇即位前紀干支。晋書芸術伝戴洋曰、干、支。拠、借兄弟干支耳。未出。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1157913/21、漢字の旧字体は改め、句読点を付した)とある。舒明前紀には、「吾、汝がことよくもあらぬことを知れども、干支このかみおととことわりを以て、やぶること得ず。」とある。
(注24)歴史学からすれば、古墳時代に天皇家の兄弟姉妹間に事実としてあったかもしれない、あるいは、皇統譜に女鳥王や速総別王の母親が豪族出身者であることから氏族伝承が組み込まれたのかもしれないと見て取りたくなるであろう。しかし、それがどうして天皇家の三人の兄弟姉妹の喧嘩のことへと発展しているのか、検証不可能にして説得力ある解釈は行われることはない。氏族の祖先伝承がまとめられることがあったとしても、記紀に所載の話の内容とは関わりがない。今日でも余所の家のことを一度ならずとも聞かされるのには閉口するであろう。ましてや、それをまるごと全部覚えるようにと言われてても、凡人には覚えられるはずもない。新撰姓氏録を覚えていてもいかなる試験問題に出ることもない。門閥重視でも貴族社会でもない時代のことを考えるのに、古代史学は氏姓のつながりを重んじすぎてはいないだろうか。

(引用・参考文献)
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(English Summary)
In this article, we know that the story of the Princess bird(女鳥王“Medörinööfökimi”)in Kojiki is very witty linguistically. The main point of the story is the following, there are two doors on the gable side of the weaving machine house, and it opens and closes flutteringly(“fatafata”)for lighting, and the machine is called a grouper(機“fata”in Yamatokotoba). It faces south, and the sun(日“fi”) rises from the left in the morning and sets to the right in the evening everyday, and the shuttle(梭“fi”) is repeatedly moved from side to side and left and right.

※本稿は、2017年5月、2018年1月、2019年9月稿をまとめた2020年10月稿について、2024年1月に再度誤りを正しつつ論旨に不要な先行研究部分を大幅に割愛し改稿したものである。

枕詞「はしたての」について

2023年12月31日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 枕詞「はしたての」は「倉椅山くらはしやま」のクラ、また、「さがし」、地名「熊来くまき」にもかかるとされている。高倉式倉庫には梯子を立て掛けて登るからかかるのであると考えられつつ、クマキにかかる意味は不明ながら同じく枕詞であるとされている。
 万葉集巻七の旋頭歌に「右廿三首柿本朝臣人麿之謌集出」(万1294番歌の左注)のうちの三首に「はしたての倉椅くらはし……」の歌が三首載る。

 はしたての 倉椅山くらはしやまに 立てる白雲しらくも 見まくり 我がするなへに 立てる白雲〔橋立倉椅山立白雲見欲我為苗立白雲〕(万1282)
 はしたての 倉椅川くらはしがはの 石の橋はも 男盛をざかりに 我が渡りてし 石の橋はも〔橋立倉椅川石走者裳壮子時我度為石走者裳〕(万1283) 
 はしたての 倉椅川くらはしがはの 川の静菅しづすげ 我が刈りて 笠にも編まぬ 川の静菅〔橋立倉椅川河静菅余苅笠裳不編川静菅〕(万1284)

 これらの歌は恋の歌であると見られている。
 巻七の雑歌の部立に上の旋頭歌も含まれている。雑歌の歌は恋の歌とは決めつけられない(注1)。これら「はしたての倉椅……」の歌も、そこで歌われている歌い手とされているワ(「我」・「余」)に関して、性別としては二首目から男性と見られるが、どのような対象と見るのがふさわしいか俄かには判断できない。三首とも、一句目にある「はしたての」は枕詞で、往時の倉は高床式で梯子をかけて上り下りしたからクラにかかるとされているが、弥生式集落を復元してみると倉庫ばかりでなく首長の館か集会場のような施設も高床式であったことが知られている。「はしたての」と言えば次にはクラが必ず導かれるとは、言葉からだけでは想定され得ない。この枕詞解釈には再考の余地がある。
 筆者は、その語が「はしたて○○の」であり、「はしかけ○○の」ではない点に注目する。梯子段はどこかに掛けているのではなく、梯子段は立てられている。梯子段が自立するためには、それは梯子が互いに向き合った状態、すなわち、脚立のことを指しているのだろう(注2)。そんな脚立の立っているのがクラ(ハシ)へと義が収斂する形で続くとすると、クラは倉庫のことではなく、馬の背に載せる鞍、それも荷鞍のことであろうと推測される(注3)。荷鞍は乗馬用の鞍とは異なり、中央が高く横から見ると三角形に突起しており、脚立を背に載せているように見える(注4)
荷鞍(高岡市立博物館蔵、文化遺産オンラインhttps://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/282520)
 すなわち、これらの歌の歌い手であるワ(「我」・「余」)は、馬を主人公に擬人化して詠まれた歌ではないか。クラハシという語も、馬にまぐさラハシていることと結びついていて正しいと知れる。三首目(万1294番歌)で、「我が刈りて 笠にも編まぬ 川の静菅」とあるのは、馬が川辺に生えているスゲを刈る、すなわち、んで噛み砕いてしまったら菅笠に編もうにも編むことなどできない。二首目(万1283番歌)には訓みの誤りがある。「我度為」は「我が渡してし」と訓むのであろう。壮年期の力がみなぎっていた頃、馬力を使って石橋を架けることに使役された。牽引に労されたことを思い出すなあと、老馬を擬人化し、語らせている。
 一首目(万1282番歌)の「我がするなへに〔我為苗〕」の「する」とは何をしているのであろうか。馬が使役されているのだから、農耕ないし運搬の可能性が最も高い。「我がする」と言って言い当てていると考えられることとしては、田の代掻きがあげられる。田植え前の田に水を充たし、土塊を砕いて土を平らに均す作業である。荒代あらしろ中代なかしろ植代うえしろの三回ほど行うことで水田は整えられた。馬の背に据えた農耕用の鞍に綱をつけて馬鍬を引かせたのである(注5)。マグワ、マンガなどと通称されている。
農耕鞍に馬鍬(大和耕作絵抄、黒川真道編『日本風俗図絵』第五輯、日本風俗図絵刊行会、大正3年。国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1266538をトリミング)
 だから、「我がするなへに」と言ったときの「する」という動詞は、馬なのだから馬鍬を使ったあの代掻き作業のことだと理解される(注6)。ここで使われている「なへに」という助詞は、とともに、と同時に、につれて、という意味ばかりでなく、苗を植えるための準備作業であることを示唆する洒落にもなっていて、代掻きのことに違いないと確かめられるのである。

 はしたての 倉椅山に 立てる白雲 見まく欲り 我がするなへに 立てる白雲(万1282)

 馬の荷鞍のように脚立が立っている様子をしている峻嶮な山に立ちのぼっている白い雲、その白い雲を見たいと思い、馬である私は代掻きをすると、それとともに、水を張った田の土は均されて田の面に白い雲の姿が映り立ちのぼる。

 「はしたての」が「倉椅山」にかかる例は古事記にも見える。

 はしたての 倉椅山を さがしみと いは懸きかねて 我が手取らすも〔波斯多弖能久良波斯夜麻袁佐賀志美登伊波迦伎加泥弖和賀弖登良須母〕(記71)

 はしたての 倉椅山は 嶮しけど いもと登れば 嶮しくもあらず〔波斯多弖能久良波斯夜麻波佐賀斯祁杼伊毛登能爐禮波佐賀斯玖母阿良受〕(記72)

 仁徳記の女鳥王めどりのおほきみ速総別王はやぶさわけのおほきみの逃避行において交わされた歌である。倉椅山は現在の桜井市倉橋の地にある山のこととされているが、駄馬の背に荷鞍が置かれ、それに乗って行こうとしていたことを物語っていると考えられる。片側に一人乗るとバランスが取れないが、両側に乗れば荷鞍でも人は運ぶことができる。
左から、荷鞍(高岡市立博物館蔵、文化遺産オンラインhttps://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/282520)、米俵を運ぶ(石山寺縁起絵巻模本、狩野晏川・山名義海模、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0019204をトリミング)、駄付けモッコで草を運ぶ(葛飾北斎「武州千住」『富嶽三十六景』、江戸時代(1830~32年頃)、ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/富嶽三十六景)、人を運ぶ(二宝荒神、十返舎一九『続膝栗毛 九編上』江島伊兵衛、明治14年。 国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/878868/1/20をトリミング)、荷鞍につけた木製籠で人を運ぶ(二宝荒神、葛飾北斎(1760~1849)「四日市」『東海道五十三次』、江戸時代(1804年頃)、小判横絵(11.6×16.7㎝)、フィラデルフィア美術館蔵、アン・アーチボールド氏寄贈、受入番号1946-66-81o、https://philamuseum.org/collection/object/203263)、押機(蔀関月著・法橋関月画図「捕洞中熊」、日本山海名産図会、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2575827/40をトリミング)
 そうやって二人乗りすれば、乗馬のように速く翔ることはできなくなる。大きな力を持つ馬が身の自由を奪われている。それをよく表すのが、馬に荷鞍を着けたときである。荷鞍を馬に着ける際、馬の背が擦れて傷にならないように間に敷物を入れる。敷物のことは和名抄に、「茵〈褥付〉 野王に曰く、茵〈音は因、之土禰しとね〉は茵褥、又、虎、豹の皮を以て之をつくるといふ。唐韻に云はく、褥〈而蜀反、辱と同じ、俗に音は邇久にく、今案ふるに毛の席の名なり〉は氊褥なりといふ。」とある(注7)。つまり、ニクラ(荷鞍)はニク(褥)+ラ(等)あってのことだとわかる。重い荷物を載せて運ぶ馬の鞍は、荷物の尻のためではなく、馬の背と鞍との間に十分なクッションが必要である。藁を芯に入れて畳表や布などでくるんだものを左右の鞍床に結いつけて馬の背当てとし、痛くないようにしている。
 同じ仁徳天皇代のこととして、紀にも「はしたての」歌が載り、そこでは「さがし」と続いている。

 はしたての さがしき山も 我妹子わぎもこと 二人越ゆれば やすむしろかも〔破始多弖能佐餓始枳揶摩茂和芸毛古等赴駄利古喩例麼揶須武志呂箇茂〕(紀61)

 この歌も、「はしたての嶮しき山」は逃げ延びて行く山のことと荷鞍のこととを掛けて表現したものである。駄馬に荷鞍を載せて左右に人が居られるように囲いをつければ、座るのに安定して難しいことではないから「安筵」であるかもしれないではないか、と言っている(注8)
 二人乗り同様米俵を複数載せられれば、馬としても重くて暴れることもできず、黙々と運搬に従事するしかなくなる。梯子桟のような形の上に重いものが載っていてその場から逃げ出せなくなる状況は、力の強い猛獣の罠檻の仕掛けと通じるところがある。それをオシ、また、オソとも言った(注9)。「押機おし」(神武記)と見える。もっぱら熊狩りに用いられている。
「捕洞中熊」(蔀関月著・法橋関月画図・日本山海名産図会、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2575827/40をトリミング)
 ということは、梯子桟の形状の上に重いものを載せることは、力の強い動物の動きを抑制するものであると納得される。オシ、また、オソという罠に熊が来て身動きが取れなくなるから、梯子桟のことを指す枕詞「はしたての」は地名クマキ(熊来)にもかかると捻られたと考えられる。

  能登国の歌三首〔能登國歌三首〕
 はしたての 熊来くまきのやらに 新羅斧しらきをの 落し入れ わし かけてかけて な泣かしそね 浮き出づるやと見む わし〔堦楯熊来乃夜良尓新羅斧堕入和之河毛𫢏河毛𫢏勿鳴為曽祢浮出流夜登將見和之〕(万3878)
  右の歌一首は、伝へて云はく、或は愚人おろかひと有り。斧を海底におとして、くろがねの沈みて水に浮ぶことわり無きをらず。いささかに此の歌を作りて口吟くちずさみてさとしとり。〔右一首傳云或有愚人斧堕海底而不解鐵沈無理浮水聊作此歌口吟為喩也〕
 はしたての 熊来酒屋さかやに 真罵まぬらるやつこ わし さすひ立て て来なましを 真罵らる奴 わし〔堦楯熊来酒屋尓真奴良留奴和之佐須比立率而来奈麻之乎真奴良留奴和之〕(万3879)
   右は一首〔右一首〕

 枕詞「はしたての」について上代の人たちが一語に込めた観念を洞察することで、当時の生活技術をビビッドに理解することができ、歌の解釈ともども上代の人たちがどのように思惟していたのかに近づくことができた(注10)

(注)
(注1)旋頭歌は五七七─五七七の形式を持つため、問答や唱和を思わせるが、相聞の部立に分類されているわけではない。
(注2)梯子段の自立する姿は鞍掛、木馬にも見られる。梯子を立てる様子は今日、園芸三脚にも見られるが、それがいつ頃からあるものなのか不明であり、また、支柱に掛けられているという印象をぬぐえないため考察から除外する。
(注3)狩谷棭斎・箋注倭名類聚抄に、「結鞍今俗荷鞍也。凡駄物於馬縄結束、故名結鞍也。」とある。
(注4)馬具としての鞍は乗馬鞍、荷鞍、牽引鞍に分けられる。牽引鞍は主として農耕用に発展したものである。伝統的な荷鞍や牽引鞍は、乗馬用の鞍と違い、鞍橋くらぼねの前輪、後輪が美しくアーチ状にカーブした一枚板(時に飾縁を付けたもの)を備えているわけではない。前脚・後脚と呼ばれ、山形に屈曲した棒や二本の棒を組んで作られている。農耕鞍を含め、枠木の形状から山枠、千木枠と称されている。乗馬用の鞍のように幅のある居木を使って前後を連結させることはなく、棒を数段使って横桟とし、山形の頂部にわたすものは鞍棟とも呼ばれる。踏段とも呼ばれる小型の脚立のような形となっている。
 荷鞍は幅70㎝、奥行き40㎝、高さ50㎝ほどの枠木で構成されている。田鞍、小鞍とも称される農耕用の牽引鞍には、スタイルは荷鞍のままに小型化したものがある。牽引に際しては荷物を載せる時のように鉛直方向の力が働くわけではないからである。引綱渡し首木を鞍に似せて用いようとしたことから別の形のものも生まれている。「はしたての」という枕詞を用いた時、双橋鞍タイプのものを前提に歌っていると考える。荷鞍を馬から外した時、乗馬鞍のように鞍掛に掛けて仕舞うようなことはしない。そのままでも自立していて、まるで鞍掛のミニチュアのように見える。「はしたての」という言葉ならではのことである。
 なお、乗馬鞍は有職故実の、牽引鞍は河野通明氏の研究に詳しいが、荷鞍の研究はほとんど行われておらず、信州における近世運送業者の研究しか管見に入らない。
(注5)農具の牽引法については、河野2016.に、「中国でも朝鮮半島でも農具を引かせるのは牛か水牛であり、馬は農耕には使わなかった。ところが日本では大型家畜は馬しかいなかったので、馬に水田用の耙を引かせることになり、その耙はウマグワ(馬鍬・マグワ・マンガ)と呼ばれるようになった……。……背中の鞍に引綱を付けて胴体で引くので「胴引き法」と呼ばれる。これが日本初の牽引法で、馬の胴引き法は東アジア初の特異な牽引法であった。」(183頁)とあるように、古代の馬鍬牽引は鞍に負っていた。和名抄に、「馬杷 唐韻に云はく、杷〈白賀反、一音に琶、弁色立成に云はく、馬杷は宇麻久波うまぐは、一に馬歯と云ふ〉は田を作る具なりといふ。𨫒楱〈漏奏の二音、漢語抄に和名は上に同じと云ふ〉は鉄歯の杷の名なりといふ。」とある。
(注6)河野2000.は、津守国基(1023‐1102)と源俊頼(1055~1129)による連歌、「田笠きて はたけ(畠)に通ふ 翁かな」、「牛にむまくは(馬鍬) 掛けたるもあやし」から、平安時代に馬の代わりに牛を使い出していたと考えている。
(注7)乗馬用の場合、人の尻を保護するために敷物を敷く。和名抄に「鞍褥 楊氏漢語抄に鞍褥〈久良之岐くらじき、俗に宇波之岐うはじきと云ふ〉と云ふ。」とあるのがそれで、虎や豹の毛皮も用いられた。一方、木の鞍と馬の背との間に入れるのは、和名抄に「韉〈䪌付〉 唐韻に云はく、韉〈則前反、之太久良したぐら〉は鞍韉なり、䪌〈仕陥反、今案ふるに俗に駒韉と云ふか〉は韉の短きものなりといふ。」とあるものである。人は荷物に比べてはるかに軽い。
(注8)新編全集本日本書紀に、「梯子はしごを立てたような、の意で、嶮さがシキ(険しい)山の修飾語。本文の文脈からすると、この山は素珥山である。記には「梯立の倉椅山は嶮しけど妹と登れば嶮しくもあらず」。この場合の「梯立の」は「倉」にかかる枕詞。元来、梯立はY字形の叉木またぎで、それを立てて神の宿る神座かみくらとしたことに基づく。ここでの山は奈良県桜井市倉橋の山で、これを東へ越えると宇陀郡へ出る。」(58頁)とある。梯子は立て掛けるもので、地面を掘って一部を埋め、立てるものではない。
(注9)民俗語では地域にもよるが、熊の罠猟で餌を使う猟をオシ、使わない猟をオソと呼ぶというという。池谷1988.参照。梯子状の道具をもって暴れものの動きを封じるオシ(押機)のことをオソとも呼ぶことがある点は、記紀の女鳥王の説話を読み解くうえでも貴重なヒントを与えてくれる。拙稿「女鳥王の物語─機と機屋をめぐって─」●参照。
(注10)「はしたての」という言葉は、ほかに名勝、天橋立に残る。風土記逸文に見え、上代に遡る命名と推測される。地形学的な見方からすれば、砂嘴が両岸から延びていってつながったのを、二本の梯子の組み合わせとして見て取った言い方なのではないか。すなわち、脚立が立って天まで届くかと思われたら、頂点を保たずにへたり延びて平板な砂州を形成するに至ったとする逸話なのではないか。股覗きという風習も、あるいは股を脚立と思って始まった仕儀なのかもしれない。

 丹後国たにはのみちのしりのくにの風土記に曰はく、与謝郡よさのこほり郡家こほりのみやけ東北うしとら隅方すみのかた速石里はやしのさと有り。此の里の海に長大とほしろさき有り。長さは一千二百廿九丈、広さは或る所は九丈以下、或る所は十丈以上、廿丈以下なり。先を天椅立あまのはしたてと名づけ、しり久志浜くしのはまと名づく。然云ふは、国生みましし大神、伊射奈芸命いざなぎのみことあめ通行かよひまさむとして、はしを作り立てたまひき。かれ、天椅立と云ふ。神の御寝みねませる間にたふれ伏しき。仍ちくしびますことあやしびたまふ。故、久志備浜くしびのはまと云ふ。此より中間なかつよ久志くしと云ひ、此よりひむかしの海を与謝海よさのうみと云ひ、西の海を阿蘇海あそのうみと云ふ。是の二面ふたおもての海に、くさぐさ魚貝うをかひども住めり。但、うむぎ乏少すくなし。(丹後風土記逸文)

(引用・参考文献)
池谷1988. 池谷和信「朝日連峰の山村・三面におけるクマの罠猟の変遷」『東北地理』第40巻第1号、1988年1月。みんぱくリポジトリhttp://hdl.handle.net/10502/00005923
井手2004. 井手至「垂仁紀「はしたて」の諺と石上神庫説話─枕詞「はしたての」と「はしたて」の習俗をめぐって─」『遊文録 説話民俗篇』和泉書院、2004年。
河野1994. 河野通明『日本農耕具史の基礎的研究』和泉書院、1994年。
河野2000. 河野通明「農具から聞いた古代の人たちの話」宮田登編『ものがたり日本列島に生きた人たち8 民具と民俗 上』岩波書店、2000年。
河野2014. 河野通明「農耕・畜産・山樵用具─民具から歴史を探る─」『国際常民文化研究叢書 第6巻─民具の名称に関する基礎的研究─[民具名一覧編]』神奈川大学国際常民文化研究機構、2014年。神奈川大学学術機関リポジトリ
http://hdl.handle.net/10487/12817
河野2016. 河野通明「在来犂と牽引法から見た古代瀬戸内海地域の政治・社会動向」『論集「瀬戸内海の歴史民俗」』神奈川大学日本常民文化研究所、2016年11月。神奈川大学学術情報リポジトリhttp://hdl.handle.net/10487/15207
新編全集本古事記 山口佳紀・神野志隆光校注・訳『新編日本古典文学全集1 古事記』小学館、1997年。
野地2023. 野地優太「信州中馬の荷鞍」『民具マンスリー』第56巻第1号、2023年4月。
文化庁1977. 文化庁文化財保護部編『中馬の習俗』財団法人国土地理協会、昭和52年。

※本稿は、2023年12月稿を、2024年3月にわずかに補ったものである。

大伴旅人の讃酒歌について

2023年12月01日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 大伴旅人の「讃酒歌」は、契沖・万葉集代匠記(注1)に考察されて以来、研究が積み重ねられ、中国の古典を典故として歌われた歌であると捉えられるに至っている。本稿では、その考え方が悉く誤っていることを明らかにし、正しい解釈を示す。 まず、題詞に次のようにある。

 大宰帥だざいのそち大伴卿おほともきやうの、さけむる歌十三首」〔大宰帥大伴卿讃酒歌十三首〕

 酒を褒めているのだからそのままだろうと思われているが、「讃」字はホムだけでなくタタフとも訓まれる。タタフとは「湛」字で表すことがあるように、たくさんの水で満たされることを指す言葉である。この十三首も、酒のことをたくさんの言葉で満たして讃嘆しているのだから、タタフと訓まれなければならない。
 誰が酒を讃えているかといえば、作者の大伴旅人である。歌の言葉はヤマトコトバで、それを集めてきたのは旅人である。仮にゴーストライターがいたとしても漢籍に従うものではない。なぜなら、ヤマトコトバで歌のダムを満タンにしているからである。漢詩文典故説は歌それ自体を理解せず、する気もない研究者による作り話である(注2)

 大宰帥だざいのそち大伴卿おほとものまへつきみの、さけたたふる歌十三首」〔大宰帥大伴卿讃酒歌十三首〕

 中国の古典を典故としているとする考え方を示して批判しながら解釈を述べるために、新大系文庫本の訓み、訳、注釈を掲示してから逐次私見を述べることにする(注3)

 しるしなき ものをおもはずは 一坏ひとつきの にごれる酒を 飲むべくあるらし〔驗無物乎不念者一坏乃濁酒乎可飲有良師〕(万338)
何のかいもない物思いをするくらいなら、一杯の濁り酒を飲むべきであるらしい。
▷大宰府の長官大伴旅人が酒を讃えた歌十三首。
酒を讃美することは中国の詩文に例が多い。なかでも、竹林の七賢の一人、晋の劉伶の「酒徳頌」(文選四十七)は、紳士君子が目を怒らして飲酒の悪を攻撃し、礼法を説くことを冷笑する。そのような超俗の姿勢としての飲酒の意味づけは、「酒を讃めし歌十三首」における「賢しら」批判にも一貫している。この歌は、十三首の総論にあたる。「濁れる酒」は隠者の飲む、白濁した下等の酒。「濁酒一盃、弾琴一曲、志願畢(をは)れり」(晋・嵆康「与山巨源絶交書」・文選四十三)。

 ズハの用法についていろいろと議論されている(注4)。現代語にどう反映させるか訳出の問題として捉えられ、無用の混乱を来しているように見受けられる。~ズハ~という形は、~ハ~という形の一類型であることに違いあるまい。ハは係助詞である(注5)。助詞ハの作用にはおもしろいところがあり、「長男はジョンです。」とも「ジョンは長男です。」とも言える。使われている実態に対して、そのハの用法は何か、と文法学では後付けの解説をする。そんなことはお構いなしに、実社会では「ジョンはジョンです。」とも使っている。
 主語、述語が異なるセンテンスどうしをハでつなぐときもある。ハの前に打消のズがあるときにも上代人は使った。今ではそうは使わないからわからなくなっている。どういう意味を表しているか、どのように訳したらいいか、へ関心が向く。三十一文字で何ごとかを言いたくて歌を歌っているのだから、ズハの前と後とが絡んでいるはずで、その関係を条件や因果ではないかと勘ぐってしまうのである。意味内容の吟味、訳出上の問題からいったん離れれば、構造上は助詞のハによって前と後とが結ばれたものであることが確認される。

 P:験なき ものを思はず
 Q:一坏の 濁れる酒を 飲むべくある
 PはQ:「験なきものを思はず」ハ「一坏の濁れる酒を飲むべくある」ラシ
 考えるといいことがある見込みなどないことを考えずにいること ≒ カップのどぶろくを買って飲むのがよいだろうということ

 「≒」記号に、ハとラシを含めて表している。
 現代語でも似たようなハの使い方は行われている。「クリープを入れないコーヒーは、日焼けした写真プリントのようだ。」を上代流に直すなら、「コーヒーにクリープを入れずは、写真プリントの日焼けするらし。」ということになるだろう(注6)
 いま構造しか見ていないが、万338番歌の前半部の否定に否定を重ねた表現を噛みくだいていけばさほど難しいものではない。考えても仕方がないことを考えずにいることとは、カップのどぶろくを飲むことを推奨するということらしい。甲斐のないことを考えないためには、濁り酒を一杯飲むべきであるようだ。下手の考え休むに似たりだ、安酒飲んでくよくよするな。
 これらの訳はみな当たらずといえども遠からずで、おおむねそれで妥当な訳である(注7)。安酒であっても飲めば自ずと酔っぱらって考えごとができなくなる。頭が回らないという点でハの前と後とが絡んでいる。そのことを完全に見失い、~よりは~すべきであるらしい、~しないで~すべきであるらしい、とパターン化してしまうのはいただけない。なぜなら、ズハと言っているからである。~よりは、の意味を表したいなら上代から常用されているヨリハという。~しないで、の意味を表したいならセズテという。何のためにその言葉が存在し、使われているのか忘れてはならない。
 俗っぽい内容であった。文選を理解している必要などまったくない。酒を讃える詞章は酒を知っている民族ならおそらくどこにでもあり、この歌と似た考えも必ずと言っていいほどあるに違いない。大伴旅人は大宰帥の地位にあり、漢詩文に見られるような隠者ではない。酒造りは濁り酒を作ることから始まり、今でも市販されていて、隠者のための限定商品でもない。

 酒の名を ひじりおほほせし いにしへの おほき聖の ことよろしさ〔酒名乎聖跡負師古昔大聖之言乃宜左〕(万339)
酒の名を聖人と名付けた、古の大聖人というその言葉の適切さよ。
▷禁酒令の行われた魏の時代、酔客たちが秘かに濁酒を賢人、清酒を聖人とよんだという説話(「魏略」・芸文類聚・酒)によって、その命名の絶妙を賛嘆する。第二句の「聖」を、第三・四句で「古の大き聖」と繰り返す。結句の「言」は言葉。

 漢土でさえ「魏略」にあるような考え方が普及していたのかよくわからない(注8)。不確かなことを大伴旅人が公言していたとはなかなかに想定しにくい。百歩譲って旅人が勉強して知っていたとしても、地方行政機関で働く役人たちが周りにいて旅人が歌うのを聞いたとき、誰も理解できないであろう。
 ヤマトにおいて酒の銘柄として「ひじり」という名で呼んでいたことは知られていない。銘柄として呼ばれたかもしれない例としては「吉備の酒」(注9)というのがあるが、こことは無関係である。銘柄名ではなく、酒のこと自体をヒジリという言葉と関係することとして呼んだとしか考えられない。酒のことはミワ(ミは甲類)と呼んだことがある。神に供える酒のことという。ミワはまた、三輪山のミワ(ミは甲類)である。酒の神として通っている。古事記の三輪山伝説では、赤土を撒いておいて紡麻うみをを裾につけておいたところ、鍵穴から抜き出ていって三勾みわ残っていた。辿っていくと三輪山に着いたというのである。

 哭沢なきさはの 神社もり神酒みわゑ 祷祈いのれども わご大君は 高日知らしぬ〔哭澤之神社尓三輪須恵雖祷祈我王者高日所知奴〕(万202)
 神酒 日本紀私記に神酒〈美和みわ〉と云ふ。(和名抄)
 かれ、其の三勾みわのこりしに因りて其地そこを名づけて美和みわと謂ふ。(崇神記)

 ミワは御輪のこと、御所車などに使う牛車の車輪のことをも指していたと考えられる。輻で構造体を支える巧妙な仕組みでできており、車の直径を2mほどにまで大型化でき、軽量化に伴い動かしやすく壊れにくい。和名抄に、「輪〈輞附〉 野王案に云はく、輪〈音は倫、〉は車脚の転進する所以なりといふ。四声字苑に云はく、輞〈文両反、楊氏漢語抄に於保和おほわと云ふ。一に輪牙と云ふ〉は車輪の郭曲木なりといふ。」、「輻 老子経に云はく、古車に三十輻〈音は福、〉有り、月に象るを以ての数なりといふ。」とある。車輪(輞)を輻が支える構造で、ひとつの車にスポークが30本あるのはひと月が30日であるからとしている。周礼・冬官・輈人に、「軫之方也、以象地也。蓋之圜也、以象天也。輪輻三十、以象日月也。蓋弓二十有八、以象星也。」とあるのがもともとの拠りどころとされる(注10)
 つまり、酒のことをいうミワという言葉は、古く、ひと月が30日であると知っていたから成り立っているといえる。日のことをよく知っていてできているのがミワであり、ミワという言葉は酒の別名でもある。ゆえに、大伴旅人は酒のことをヒ(日)+シリ(知)=ヒジリ(聖)であると歌っている。太古の昔、三輪山伝説のことを考えた人は、酒や車のこともよくよく弁えていた人で、日月のことを心得た「大き聖」であったと想定されることを歌っている。昔の人はうまいこと言ったねえ、というのが歌意である。
 歌はヤマトコトバで歌われ、ヤマトコトバで聞かれ、ヤマトコトバで理解され、ヤマトコトバで伝えられている。裏を返せば、ヤマトコトバでしか理解されず、それ以外のことは理解されておらず、行われていなかった。

 いにしへの ななさかしき 人たちも りせしものは 酒にしあるらし〔古之七賢人等毛欲為物者酒西有良師〕(万340)
古の七賢人もまた、欲しがったのはもっぱら酒だったらしい。
▷「古の七の賢しき人たち」は、俗世を避け、飲酒、清談、弾琴に遊んだ魏晋の「竹林の七賢人」。

 この歌は、中国の魏晋南北朝時代の竹林の七賢人のことを歌っているとされている。そのとおりであろう。海を隔てたヤマトにおいて、田舎の役人たちが聞いてわかるかと言えば、なんとなく聞いたようなことだからわかると言えよう。この歌では、「古の」で始まり「らし」で終っている。例えば、万13番歌では、「神代」「古」「うつせみ」の3つの時制が詠まれて「らし」で結んでいる。そうらしいと歌うことは、聞き手も、へえ、そうなんだってさ、と軽い気持ちで受けとることができる。聞き手にとって、それまでぼんやりとしか知らなかったことであっても差し支えがない。もちろん、誰一人として知らないというのでは過去のことを勝手に創作していることになり、出鱈目や嘘の作り話に当たるから歌にされることはない。

 …… 神代かみよより かくにあるらし いにしへも しかにあれこそ うつせみも 妻を争ふらしき(万13)

 注意しておきたいのは、話としてそれらしいと知っているということと、中国の詩文を典故としているということは別物であるという点である。前者はあくまで話の世界、後者は文字を介して勉強した結果である。後者は万葉集の歌にほとんど登場しないと筆者は考える。歌が歌われて周りで聞いている人がその時にわからなければ、歌として成立していないからである。万葉の宴は教室の講義でもなければ、研究者たちが集まる学会後の打ち上げでもない。
 この歌も、酒を讃える歌であって一般論を歌にしており、七賢人はその目的のために引っ張り出されている。「七の賢しき人たちも」の「も」は、自分を含めた「さかし」くはない有象無象だけでなく「七の賢しき人たち」でも、の意である。どうして「七の賢しき人たち」が酒を欲したのかについては、詠まれていないからわからないし、わかる必要もない。そういう話として聞いていて、そうであるらしいと言っているからそのままに受けとるのが解し方として正しい。

 さかしみと 物言ふよりは 酒飲みて ひ泣きするし まさりたるらし〔賢跡物言従者酒飲而酔哭為師益有良之〕(万341)
賢いからと偉そうにものを言うより、酒を飲んで酔い泣きする方がまさっているらしい。
▷「賢しみと」は、理由を表すミ語法に、引用のトの接した形。「酔ひ泣き」→三四七・三五〇。

 この歌には漢詩文との関係は指摘されていない(注11)。逆に、「賢しみと物言ふ」ことを否定していて、これまで歌ってきたことの教養語りを否定することにもなるとする指摘もある(注12)。筆者はすでに、それらが教養語りではないことを示している。また、泣き上戸のことをいう「酔ひ泣き」について、好まれないことと考えられていたとする説もある(注13)
 この歌では、~ヨリハ~と比較していて、どちらが優っているかといえば後者であるとしている。この表現の巧みなところは、マサル(優・勝)という語を使うところにある。マサルはマス(益・増)という語から派生した語と考えられているが、音としては、マサ(正)とつながりが認められる。マサシ(正)、マサニ(正・将・当)といった語の語幹であり、形状言である。正しいさま、条理にかなったさま、確かなさまをいう。木材を切って材として扱うとき、その切り方で年輪の筋が直線的に平行に入っているのが柾目まさめである。マサニという副詞は、二つの事柄や物が合致していることを意味している。
 つまり、ここでマサルという語を使っているのは、「賢しみと物言ふ」ことと、「酒飲みて酔ひ泣きする」こととでは、明らかに「酒飲みて酔ひ泣きする」ことのほうがマサなる点においてマサっていると自己言及的に語ろうとしているためである(注14)
 「賢しみと物言ふ」とき、格好をつけて喋るから、尾鰭をつけて話そうとすることになる。一方、「酒飲みて酔ひ泣きする」とき、思考は停滞して外面をよく見せようとする意識も薄らぎ、憚ることなく本音を吐露している。心と言葉がマサ(正)なる関係、揃っている状態にあるのは、泣き上戸になっている時であると言っている。頓智の利いた名歌である。

 言はむすべ せむすべ知らず きはまりて たふときものは 酒にしあるらし〔将言為便将為便不知極貴物者酒西有良之〕(万342)
言いようもなく、どうしようもないほど、最高に貴重なものは、酒であるらしい。
▷「極まりて」は漢語「極」の訓読語。「極貴」の文字は、巻五、山上憶良の「沈痾自哀文」にも見える。

 評価しづらい注が付いている。ヤマトコトバに、キハム、キハマルという動詞があり、助詞のテを付けてキハメテ、キハマリテの形をとっている。この例では副詞的に使われているものの、自然な語展開、語構成であり、「極」字を学ぶことから得られた言葉とは定められそうにない。平安時代以降、漢文訓読に用いられたともされている(注15)
 「極貴」の字面は、山上憶良・沈痾自哀文に載ってはいる。「かれ、知る、生の極めて貴く、命の至りて重きを。〔故知生之極貴命之至重〕」。そこではキハメテと訓んでいて、キハマリテではない。
 この歌では酒のことを一等すばらしいと言っているだけで、特段に何かを語ろうとしているわけではなく、「無内容」(注16)であると評されることもある。
ノム(祈)(粉河寺縁起、ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/粉河寺縁起絵巻)
 「極貴」なる筆記について、それが仏書によるものであるかどうかはあまり問題ではないが、キハマリテタフトキモノなる言い方は、信仰心と関わりがありそうな言い回しである。信仰心があれば、ましてそれが最高潮に達するときには、人は言葉を発したり、特定の所作をもって奉仕するようなことにならない。祝詞をあげたり二礼二拍手一礼したりと儀式ばることはない。ただぬかづいて祈るばかりである。古語では動詞でノム、連用形名詞でノミ(ノ・ミは甲類)といい、「叩頭、此には廼務のむと云ふ。」(崇神紀十年九月)と見える。このノム・ノミ(叩頭)は、ノム・ノミ(飲、ノ・ミは甲類)」と同音である。言うことでもすることでも方法を知らずに感極まっている様子は、ノム・ノミ(叩頭)ことであるから、ノム・ノミする対象である酒こそが最高に貴重なものなのだと洒落を飛ばしている。頓智の利いた名歌で、漢詩文とは一切かかわりなく、歌詞の言葉は肥沃なヤマトコトバのなかにある。

 なかなかに 人とあらずは 酒壺さかつほに なりにてしかも 酒にみなむ〔中々尓人跡不有者酒壺二成而師鴨酒二染甞〕(万343)
なまなかに人間であるよりは、酒壺になってしまいたい。酒気が染みこんでくるだろうから。
▷三国時代の呉の大夫鄭泉が、酒を好むあまりに、死なばわが屍を窯場の側に埋めよ、やがて陶土となって「酒瓶」に作られたいと遺言した故事(琱玉(ちょうぎょく)集・嗜酒篇)による歌。「染む」は「紅に深く染みにし心かも」(一〇四四)、「香にぞ染みぬる」(古今集・春上)の例のように、色や香りや液体などが物に浸透すること。酒が、酒壺となったわが身に染みこむことを願う。壺は清音のツホ。第四句のニは助動詞ヌの連用形。テシカは願望の助詞。

 この歌でも、中国詩文に典故があるとされている。聞いた人が誰一人わからないような難しいことを言っているとは思われない。
 「なかなかに 人とあらず」とは、中途半端な暮らしぶりしかできていないことを指している。リッチではない、富んでいない、上層階級ではない、ということである。リッチな家は律令制で「上戸じゃうこ」という。貧しい家は「下戸げこ」である。体質的に酒の飲めない人のことを「下戸」というのは、酒を買うお金がないから酒が飲めないことを指したのに由来するとする説がある(注17)。つまり、「なかなかに人とあらず」とは、貧乏で酒が買えないのだけれど、だからといって酒を飲まずにいるなんてとてもじゃないが我慢できるものではない、そんな境遇に置かれるのはまっぴらご免で、せめて酒壺にでもなってしまいたいものだ、じわじわっと酒が体にしみ込んでくる。「下戸」の二つの意味をうまくとり入れている。
 その証拠に、サカツボは、傾斜地の一区画の土地、「坂坪」のことにも当たる。平らなところではあるが貧乏暮らしを強いられるぐらいなら、人間が住むにはふさわしくないかもしれない山奥にポツンと一軒家を構え、酒を密造して楽しみたいではないか(注18)。頓智の効いた名歌である。

 あなみにく さかしらをすと 酒飲まぬ 人をよく見ば さるにかも似る〔痛醜賢良乎為跡酒不飲人乎𤍨見者猿二鴨似〕(万344)
ああ見苦しい。賢明ぶって酒を飲まない人をよく見たら、猿にでも似ているかな。
▷初句切れ。浅智恵の人を猴(猿)のようだと貶めることが中国の詩文には多く見られる。「志性軽躁にして猶ほ獼猴(びこう)の如し」(仏蔵経・中)とも。

 浅知恵の人のことを猿知恵とも言う。その呼び方は漢籍に依らなければ起こらなかったものなのだろうか。
 「みにく」という言葉は、ミ(見)+ニク(憎)の意、見るのが難しい、見たくない、というのが本義である。なのに歌の後半では、「人をよく見ば」と一生懸命に見ることをしている。周到に仕組まれた修辞表現であると考えるべきである。
 「よく見ば」は、よくよく見れば、の意である。古語に「つらつら見れば」のことである。つらつら見て猿にも似ているということは、猿の横顔、ツラ(面)の特徴を見たということである。ツラは左右にあるからつらつらに見ている。人にはなくて猿にあるツラの特徴と言えば、猿頬である。頬袋があって食べ物を貯えておくことができる。食べ物を見つけたら一気に口に入れて頬張り、安全なところへ移動してから噛み直しては飲み込んでお腹に入れている。大伴旅人が酒を讃える歌で歌おうとしているのは酒を飲むことである。
 これまでの解釈では、「賢しらをすと酒飲まぬ人」というのは、賢ぶって酒を飲まない人、賢しらである状態を保とうとして酒を飲まない人という意味に捉えられている。「賢しらをす」の意味が、酔わないでおいて後で賢しらごとをすること、酒を飲まずにしらふでいて賢明さを発揮しようとすることと思われていた。そうではあるまい。
 「「賢しらをす」と」は後続の「酒飲まぬ」に直接かかる。「と」は指示、資格を表す。つまり、「賢しらをす」ることとは「酒飲まぬ」ことそのものである。酒を飲んでいるかと聞かれれば、ああ、飲んでいると言いながら実際には酒を飲んでいないというのが、酒の席でもっとも「賢しら」なことであろう。どういうことか。
 せっかくの宴の席で酒を飲まない人は何をしているか。ご飯を食べている。昔、醸造技術の初期段階では、酒を造るために、蒸し米を口に含んで噛んでから甕などに戻し入れて貯蔵し、醗酵するのを待った。口噛み酒である。酒をむというのはその名残りである。酒を飲んでいると言いながら飲んでいない輩は、蒸し米を噛んで貯えているから酒を飲んでいるのと同じことだと醜い言い訳をしている。賢しらな理屈である。蒸し米はどこへ行ったのか。食べてはいないと言っている。ということは、さては猿にある頬袋でも持っているということだな。発想自体が猿知恵で、やってることも猿にそっくりだ、と言っている。頓智の利いた名歌である(注19)

 あたひなき たからといふとも 一坏ひとつきの にごれる酒に あにまさめやも〔價無寳跡言十方一坏乃濁酒尓豈益目八方〕(万345)
価の知れない珍宝といっても、一杯の濁酒にどうしてまさろうか。
▷「価なき宝」は、仏典語「無価宝」「無価珍」などの翻訳語。結句は反語。漢文訓読の語法か。

 「価なき宝」という言葉は漢訳仏典(法華経)からとられた語であるとされている。しかし、その言葉が背景とする思想までそのまま享受して歌で表しているとは言えない。例えば次のような歌がある。

 しろがねも くがねも玉も 何せむに まされる宝 子にしかめやも〔銀母金母玉母奈尓世武尓麻佐礼留多可良古尓斯迦米夜母〕(万803)

 この歌は、山上憶良の「子等を思ふ歌一首 并せて序/釈迦如来の、金口こんくに正に説きたまはく、「等しく衆生を思ふこと、羅睺羅らごらの如し」と。又説きたまはく、「うつくしびは子に過ぎたるは無し」と。至極の大聖たいしやうすら、尚ほ子をうつくしぶる心す。況むや世間よのなか蒼生あをひとくさの、たれか子をうつくしびざらめや。〔思子等歌一首并序/釋迦如来金口正説等思衆生如羅睺羅又説愛無過子至極大聖尚有愛子之心況乎世間蒼生誰不愛子乎〕」の反歌である。「価なき宝」という言い方は比喩に使われ、「子」のことを指している。今日でも常識的にそう思われいる(注20)
 そんな子どもよりも一杯の濁り酒のほうがまさっていると歌っている。どういうことか。
 子(コは甲類)と濃(コは甲類)は同音である。つまり、濃酒こさけ(醴)よりも濁り酒のほうがいいと言っている。「醴 四声字苑に云はく、醴〈音は礼、古佐計こさけ〉は一日一宿の酒なりといふ。」(和名抄)、「醪 力兆反、平、汁滓雑酒也。古云、一夜酒、謂有滓酒也。古佐介こさけ」(新撰字鏡)、「醴酒者、米四升、よねのもやし二升、酒三升、和合醸造、得醴九升。」(延喜式・造酒司)、「醴 音礼、コザケ」(名義抄)、「醅 音盃、カスゴメ、俗用糟交二字、コサケ、アマサケ、サケ」(名義抄)とある。日本書紀には、「因りて醴酒こざけを以て天皇に献りてうたよみしてまをさく、」(応神紀十九年十月)と見え、嵩増しした甘酒のようなものかとされている。と濁り酒は見た目はあまり変わらないが、吞兵衛としては濁り酒のほうがいいに決まっている。酔いたくて飲むのであって、欲しいのはアルコールである。吞兵衛が飽きずに洒落を言っているよと、内容ともどもおもしろがられたことであろう。

 夜光よるひかる たまといふとも 酒飲みて 心をるに あにしかめやも〔夜光玉跡言十方酒飲而情乎遣尓豈若目八方〕(万346)
たとえ夜光る珠玉であっても、酒を飲んで思いを晴らすことにどうして及ぼうか。
▷隋侯が得た「夜光珠」は、天下の至宝として有名であった。「珠は夜光と称す」(千字文……)。結句の動詞「しく」は、追いつくこと。

 「夜光珠」なるものが記された漢籍を典故としているという主張らしい。千字文が当時の地方自治体の役人の間でどれほど勉強されていたのかわからない。千字文というものがあって、ワニという人が我が国にもたらした、という大枠の知識としてなら通っていただろうが、そのなかの一節、「剣号巨闕、珠称夜光」について、あるいは他の関連記事、史記・鄒陽列伝や捜神記に所載の知識が常識化していたとは考えられない。もし仮に常識化していたのなら、同時代の上代の文献のなかで、酒を讃える歌一か所にしか見られないという状況は起らないだろう(注21)
左:ヒオウギの花、中:ヒオウギの実、右:檜扇(平城宮内膳司推定地東隣接地区SK820出土、奈良文化財研究所蔵、平城宮いざない館「のこった奇跡 のこした軌跡─未来につなぐ平城宮跡─」展展示品)
 夜光る玉として万葉人に知られていたものと言えば、「ぬばたま」「うばたま」の類である。枕詞になっている。「ぬばたま」はヒオウギの実のことかともされている。古語にヒアフギ、同音の言葉に「檜扇ひあふぎ」がある。「檜扇ひあふぎ」は恋の相手と交換することが行われた。自分の恋心を示すために贈るもの、遣るものである。恋の駆け引きに使われるプレゼントと、飲んでしまって開放的な気分になる飲み物とで、どちらが「心を遣る」点ですぐれているかといえば、絶対に酔いが回る酒の方である。「檜扇ひあふぎ」を渡したからといって、その効果のほどは定かではない。恋の相手の心変わりもあるし、最初から素振りだけの場合もある。恋の証として相手に求めるものは、檜扇やダイヤモンドやブランド品やお金でもなくて、肉体関係であることもある。「心を遣る」(注22)という意味においては、心がとろけるほうがふさわしいということである。人間の性をよく心得ながら、頓智的に巧みな比喩を凝らした酒讃歌である。

 世の中の 遊びの道に たのしきは きするに あるべかるらし〔世間之遊道尓冷者酔泣為尓可有良師〕(万347)
人の世の遊びの道において最も楽しいことは、酔い泣きをすることであるらしい。
▷第三句の原文は諸本「冷者」。「冷」を「怜」の誤りと見てタノシキハと訓んだ本居宣長説(玉の小琴)により改める。飲酒の歌には「楽し」という語がふさわしい。→二六二。ただし、「怡」字であった可能性もある。「怡 タノシフ」(名義抄)。

 三句目の「冷」字を「怜」の誤写ととる解釈が行われている。しかし、諸本とも「冷」字に揺るがない(注23)
 考えるべきは、「遊びの道」とは何かである。上代において「道」は、往来するところのほか、仏道・学問・芸術などの正しい修行の過程のことを表したり、世間のならい、慣習のことを表したりする。また、「遊び」(名詞)は、神前での舞や音楽のこと、宴会のこと、狩猟のこと、ほかに、「遊行女婦うかれめ」のように集団で遊芸を行う女性のことも指した。この「遊び」と「道」の組み合わせとして考えられるのは、後の時代に考えられたような伝統芸能を継承するための修行の類ではなく、道路上で行われる音楽のことを言っていると推測される。そのような「遊び」の例は天若日子あめわかひこもがりの様子に描かれている。

 かれ天若日子あめわかひこ下照比売したでるひめく声、風と響きてあめに到りき。是に、天に在る天若日子が父、天津国玉神あまつくにたまのかみと其の妻子めこと、聞きてくだり来て哭き悲しび、すなは其処そこ喪屋もやを作りて、河鴈かはかりをきさりもちさぎ掃持ははきもちと為、翠鳥そにどり御食人みけびとと為、すずめ碓女うすめと為、きぎし哭女なきめと為、 如此かく行ひさだめて、八日やか八夜やよ以て遊びき。(記上)

 もがりの際に専門業者を雇っている。それぞれ決められた所作が行われ、それを「遊ぶ」と言っている。「哭女なきめ」がいて、声をあげて泣いている。儀礼上の舞や音楽のことだから、これは「遊び」に違いない。どこでするかというと往来であるし、所作は一途に決まっている。つまり、「世の中の遊びの道」というのは、殯のときに専門業者が哭き声をあげることが世の中では一般に執り行われていることを言っている(注24)。歌の後半の「酔ひ泣きする」ことと関わりが出てきて正しい解釈であると確かめられる。
 そして、「冷」字はサム(寤、醒、覚、冷)と訓むとわかる。眠りからさめること、迷いからさめること、酔いからさめること、熱気からさめることをすべてサムといい、サムシ(寒)と同根の言葉である。名義抄では「覚」「冷」「涼」「寤」「蘇」「醒」などにサムの訓みがある。
 葬儀業者のすることはお決まりだから、葬式でどんなに大きな声で泣かれても心が籠っていない気がして興ざめする。泣き方として下手だということである。真心から泣いているように聞こえるのは「酔ひ泣き」である。万341番歌同様、「酔ひ泣き」を肯定的に捉えて歌を歌っている。酒を讃える歌なのだから、酒を飲んだ結果の「酔ひ泣き」を否定的に捉えたら讃える歌とならない。

 世の中の 遊びの道に めたれば きするに あるべくあるらし(万347)
 世の中で礼法上行われている殯のときの「遊びの道」の泣き声に皆興ざめしてしまっているので、酔っぱらって泣き上戸になって声をあげて泣くことが世の中にあってしかるべきこととなっているようだ。

 このにし 楽しくあらば む世には むしとりにも われはなりなむ〔今代尓之樂有者来生者蟲尓鳥尓毛吾羽成奈武〕(万348)
この現世に、楽しくしていられたら、来世には虫にも鳥にも私はなってしまおう。
▷「この世」「来む世」は、もと仏典の「此世」「来世」の訓読にもとづく語であったか。この歌と次歌には酒に関する語がないが、「楽し」によって飲酒の快楽が暗示される。古代語「楽し」は飲酒の場に集中して用いられる。「酒は不善諸悪の根本」(涅槃経二)などと説く仏典には、悪業によって鳥や虫に化する報を受けることを言う。「虫に鳥にも」は、七音句の制約により「虫にも」のモを略した。

 この歌には酒の文言が入っていない。酒との関連を探ると、酒を飲むことが楽しいことであろうことは確かである。そして、「酔ひ泣きする」ことを盛んに述べているので、酒を飲むと泣き上戸で酔って泣くのが常のようである。ということは、この世でそうやっているように、来るべき新たなる生においても同じようにナクことがしたいから、鳴く生き物、虫や鳥になりたいな、ととぼけたことを歌っている。きっと虫や鳥が鳴いているのも、酒を飲んで「酔ひ鳴き」しているに違いないからというのである。この洒落た表現について、因果応報の考えの表れととることは無粋であろう。

 生まるれば つひにも死ぬる ものにあれば このなるは 楽しくをあらな〔生者遂毛死物尓有者今生在間者樂乎有名〕(万349)
生まれたら、後には必ず死ぬと決まっているものだから、この世に生きている間は楽しくありたいな。
▷「生まるる者は皆死に帰し」(無常経)、「人生まるれば要(かなら)ず死す、何為(なんす)れぞ心を苦しめん」(漢・広陵王胥「歌」)。また、「酒に対して当(まさ)に歌ふべし、人生幾何(いくばく)ぞ」(魏・武帝「短歌行」・文選二十七)は、どうせ短い生なのだから、酒を飲んで楽しくすごそうと詠う。

 この歌にも酒の文言が入っていない。万348番歌同様、「楽し」いこととは酒を飲んで酔って泣くこととすれば、この世に生きているうちは酔っぱらって泣いていたいものだ、と言っていることになる。上三句で人生について大きなことを語っているように見えながら、酔っぱらって泣き上戸になっていることをお茶目に肯定するために構えている。生まれたら必ず死ぬわけであるが、だからといって、死んだら酔うことも泣くこともできないということを言うために大仰に述べているのだとは考えにくい(注25)。なぜといって、これは酒の讃歌である。前世、今生、来世を並べて、今生は「酔ひ泣き」して楽しくありたい、酒があるのは今生だけだ、来世では香を嗅ぐしかできないのだ、などと言っているとは考えられないからである。
 人は泣きながら生まれてくる。死ぬともう泣くことはないが、万347番歌で見たような雇われた哭女なきめの儀礼的仕儀であれ、周りの者は泣く。その二者の泣きに挟まれているのが「今生」なるこの世である。「今生在間者」は「この世にあるは」(注26)と訓むものと思われる。生まれる時のことと死ぬ時のことの二者をあげているから「遂に」と言っていて、「遂に」ではないのだろう。生まれた時と死ぬ時に訳もわからず泣くのと違い、その間だけは楽しく泣きたい、「酔ひ泣き」したいと言っている。その間のことを「今生このよ」と戯れに呼んでいる。人生の最初、最後と、その間とでは、泣く心が違うようにしたいと主張し、うまい具合に泣き上戸を正当化している。巧みなレトリックを漢籍由来の観念と解くことはできない。

 もだりて さかしらするは 酒飲みて 酔ひ泣きするに なほしかずけり〔黙然居而賢良為者飲酒而酔泣為尓尚不如来〕(万350)
むっつりと賢そうにしているのは、酒を飲んで酔い泣きをすることにやはり及ばない。
▷「もだ」の原文は「黙然」。黙っていること。上二句は、仏典語の「賢聖黙然」に通ずる。

 これまでも出てきた「賢しら」と「酔ひ泣き」にまつわる歌である。「賢しらす」とは黙っていて賢明なふりをすること、おしゃべりは銀、沈黙は金、のようなことと思われている。しかし、「賢しらに」と副詞に使う場合、自分の判断で積極的に、の意に用いられる。「賢しら」は、自分の判断は何にもまして正しいのだと我勝ちに自信を持った言動のことを指している。万344番歌において「賢しらをすと酒飲まぬ」こととは、「賢しらをす」ることがすなわち「酒飲まぬ」ことであった。この歌でも、同様に考えればよいのであろう。
 「賢しらす」には何か言動が伴っている。「黙然居りて」とは、黙っていること、また、何もしないでいることを表す。両者の結びつきは一見矛盾するトリッキーなものである。「黙然居りて賢しらする」とは、「賢しらする」ことが「黙然居りて」いることなのである。酒を飲むか飲まないかといったやりとりにさえ加わらずに黙っていて、局外中立的に何もなかったかのようにやり過ごそうとすることである。でも、そんなことは、酒を飲んで酔っぱらって泣き上戸に陥って止まらないことにはやはり及ばないものだと気がついた、と言っている。「なほ」とあるのは、万344番歌と同じように、の意と、とり上げてはみたがやはり何といっても、の意を兼ねたものと解される。酒宴において、やってますか? と聞かれて、はい頂いていますと答えながら飲んでいないのもだが、会話の輪に入らずに隅っこで飲まずに黙っていてただ時間が過ぎるのを待っている人も、酔っぱらって泣き上戸になって心が溶けているのには比較にならないものだと了解するに至ったと言っている。何を「けり」と悟ったのか。
 万349番歌では、生まれた時と死ぬ時に泣くのは気持ちが張り詰めて泣いていることと見られていた。楽しくて泣いているのではないのである。気持ちをゆるゆるにすることが楽しいことのはずだから、酔っぱらって泣き上戸に泣くことこそ楽しいことである。酒はなんてすばらしいのだろう。せっかく酒が用意された宴席で、黙ってやり過ごして酒を飲まないなんて、生れて死ぬまでの間の人生を楽しもうとさえしないこと、最初から放棄していることで、ただ命を長らえているだけの何もない人生を送っているということではないか。酒というありがたいものがあって、気持ちを弛緩させることができるのに、知らぬ存ぜぬを通すなど、話にならないことだとよくわかったと述べている。

 以上、大伴旅人の讃酒歌を検討してきた。すべては酒のすばらしさをヤマトコトバで讃える歌であった。
 歌はヤマトコトバでできている。ヤマトコトバは母語であり、ものを考えるのにヤマトコトバで考え、ヤマトコトバで言葉に表してコミュニケーションをとっている。
 至極当たり前のことである。声をあげて歌を歌ったとき、周りの人が聞いて理解できなければそれは歌として存立しない。中国ではこれこれこういうことを言っている、と言われても、そんなこと知らないよ、だってここは中国じゃなくてヤマトの国だから。誰に向かって歌っているの? そんなに中国かぶれのことを言いたいのなら、漢詩にして発表したらいいじゃないの、字もろくすっぽ読めないし書けない私たちを詩会に呼んだりしないでね、ということである。
 言葉は使われて言葉である。もともと漢語であり、翻訳語として成った言葉であれ、ヤマトコトバとして使われている。使われているということは、すでにあるということである。そのことと中国の詩文から目で見て得られる「知識」とは異なる。漢籍にある「夜光珠」という知識は、上代のヤマトにおいて言葉として使われておらず、広く知られてはいない。それが実情である。もちろん、中国から伝来して普及した技術は数知れない。「うま」、「かめ」、「はた」、「ほとけ」、「ふみ」……。これらは皆、ヤマトコトバの顔をしてヤマトコトバとして使われている(注27)。すでに自家薬籠中におさめた技術は既知のことであり、つまりはヤマトコトバに造られていて日常言語として使われている。他方、唐突に知らないことを声を張り上げて歌うことは、選挙でもないのに一人街頭に立って演説を始めるようなもの、「狂言たはこと」や「逆言およづれごと(妖言)」に受けとられかねない。そのようなことは完全になかったとは言わないが、あったとしても周りが理解できない。歌が歌われる空間において音声言語として成り立っていなければ、歌として認められることはあり得ない。万葉歌の内容を理解するには、歌われている言葉(音)のヤマトコトバとしての性格を「正しく」理解することが先決である。どんなに漢籍を繙いてみても、筆記の研究や漢文で記そうと試みられた題詞や左注、山上憶良の文などを除き、直接つながることなどない。万葉集を歌っていた上代人に近づくためには、我々現代人の感覚としてではなく当時の人々の感覚でヤマトコトバを「正しく」理解していくことが唯一の方法である。誰が聞くこともウェルカムであった万葉集の歌は、そこに現代に対する付加価値があるかどうかは別として、今日でも万人に開かれている。

(注)
(注1)巻之三中、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/979062/1/351~参照。
(注2)万葉集の歌は、ヤマトコトバで考えてヤマトコトバで作ってある。片仮名外来語を挿入してあたかもすごいことを言っているように見せかける政府文書ではない。白書は国民が読んだりしないからそれでかまわないが、万葉集に載る歌は、声をあげて周りにいる人が聞いたものである。周りにいる人が聞いてわからなければ歌として安定、定着しない。ものの考え方が漢籍の外注でできているとして事足れりとする発想は、ヤマトコトバの内実、ヤマトの人のものの考え方に迫ろうとする気がないばかりか、漢籍の出典を示してどこか誇らしげな様子でさえある。曲解の挙げ句に「個人的感懐の表現」(寺川2005.5頁)、「酒という具に基づいて思いを述べる精神文化の成熟」(辰巳2020.63頁)であるなどと評されている。「讃酒歌」のなかで「賢しら」と詠まれているそのものの姿を身にまとっている。お勉強屋さんの、お勉強屋さんによる、お勉強屋さんのための万葉歌解釈は、防人歌や東歌を同列に含めて驕るところのない万葉時代の人たちの、万葉時代の人たちによる、万葉時代の人たちのための万葉集歌とは別のところにある。
(注3)新大系文庫本261~265頁。
 「讃酒歌」を歌群としてその構成を読み解こうとする研究も見られるが、これまでのような覚束ない解釈のままに歌群の構造がどうなっているのか論じても仕方がなく、当面の課題としない。
(注4)本居宣長・詞玉緒、橋本1951.、山口1980.、西宮1991.、大野1993.、佐佐木1999.、鈴木2003ab.、小柳2004.、栗田2010.、古川2018.など参照。
(注5)ハへと接続している「ず」、ラシへと接続している「ある」はそれぞれ適した活用形になっている。「ず」は連用形でいわゆる連用形中止法になっている。「ず」を未然形、ハを接続助詞とする説もみられる(小田2015.268頁)。
(注6)往年のCMの例は、「クリープを入れないコーヒーなんて、ピンボケの写真のようだ。」といった譬えを使っていたと記憶する。ここでは日焼けした写真プリントに改めた。写真プリントがコーヒー色に焼けることを含ませたかったからである。「ハ」の前と後とが絡んでいなければ歌のレトリックとしておもしろみがない。あるいはこうも言えるだろう。「ハ」の前と後とでかけ離れたことを言っていて、それをつなぐ助詞「ハ」に負荷がかかっている。どうして両者を「ハ」でつなぐことができるのかという疑問に対して、ほら、よく考えてごらん、前と後とで絡んでいるところがあるだろう、と証明してみせているのである。
(注7)井伏鱒二の名訳を引く。三・四句目のつながりが訳出に失われていない。なお、上代のズハの用法については拙稿「万葉集「恋ひつつあらずは」の歌について─「ズハ」の用法を中心に─」も参照されたい。

  勧酒    于武陵
 勧君金屈巵 コノサカヅキヲ受ケテクレ
 満酌不須辞 ドウゾナミナミツガシテオクレ
 花発多風雨 ハナニアラシノタトヘモアルゾ
 人生足別離 「サヨナラ」ダケガ人生ダ

 この詩と旅人の歌とでは大きな違いがある。旅人の歌は酒を讃える歌であり、自分がこれから酒を飲むとか、相手に酒を勧めるといった歌ではない。一般論を歌っている。歌の文句にあるような験なき物思いも一般論であって、具体的になにか煩わしい事態に直面していたことを反映するものではない。
(注8)大伴旅人がどの漢籍を見て学んだかを突き止めようとする努力が行われている。書名が記載された大伴旅人の日記が発見されでもしなければ特定されることはない。論拠の後ろ盾を持たない推論は空論である。
 讃酒歌について旅人の独吟、モノローグであるとする見方も行われている。上代における「歌」とは何かについて、根本的なところを理解しようとしていない。
(注9)「吉備能酒」(万554)とあるが、産地名のことではなく「きびの酒」のこととも考えられている。
(注10)絵巻物に描かれた牛車ぎっしゃでは、輻の数は21本、24本などのことが多い。外枠の板の数が奇数になっているのは技術的な問題で、板の継ぎ目が上下に揃わないようにして壊れないようにしているからという。周礼の理念には反するが、致し方ないということだろう。
(注11)漢詩文に「酔泣」という語も見られないという。このような例を認めておきながら漢籍出典説を唱えることはダブルスタンダードになるだろう。
(注12)鉄野2016.100~101頁。
(注13)「酔ひ泣き」の語は万347・350番歌にも出てくる。節操を欠いているとか、みっともないことだといったニュアンスは受け取れない。書いてないからわざわざ色眼鏡でみる必要はない。
(注14)二者を比較してどちらが良いかと尋ねるときに、言葉を自己言及的に活用している例としては、「いづれそ」(垂仁記)の例がある。拙稿「古事記のサホビメ物語について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/409df1a4513ed94a0b63264673b829ef参照。上代の人は、AとBとを比べるという時、何の点において比べているのかを非常に厳密に、厳格に比べており、AとBのなかにその言葉を意味するところがないか、えぐるように探っている。
(注15)岩波古語辞典379頁。
 小島1964.は、「極貴」は後漢書・梁皇后紀に見え、「極貴は訓読による漢籍語の応用と云へる。」(932頁、漢字の旧字体は改めた)としているが、「応用」などと言い出されたら証明のしようも反証のしようもない。どうやって言葉を捻り出しているかが焦点になるのではなく、どうしてそのような言葉を使っているのか、使用の問題として考えなければならない。使用されて通じているから言葉として成り立っている。
(注16)鉄野2016.101頁。
(注17)田令に、「凡課桑漆、上戸桑三百根、漆一百根以上、中戸桑二百根、漆七十根以上、下戸桑一百根、漆卌根以上、五年種畢。郷土不宜、及狭郷者、不必満_数。」、紀では、「諸国もろもろのくに貸税いらしのおほちから、今より以後のちあきらか百姓おほみたからて、先づ富貧とめりまづしきことを知りて、三等みしなえらび定めよ。仍りて中戸なかのへより以下しもつかた貸与いらしたまふべし。」(天武紀四年四月)とある。法制度上では、三等戸と九等戸の二種類の分け方があり、三等戸制は丁数(成年男子数)による分類、九等戸制は資財量(貧富)による分類であると見られている。ここで「上戸」、「下戸」という観念は、天武紀に記されているように貧富の差を示すものである。
(注18)「なかなかに 人~」とつづく歌は、他に次の歌がある。

 なかなかに 人とあらずは 桑子くはこにも ならましものを 玉のばかり(万3086)

 注17で示した田令の公課に桑のことが記されている。だから蚕のことをいう「桑子」が出てきている。中途半端な暮らしぶりしかできていない人、下戸は、短期間でも桑子にもなりたいものだなあ、と思い願うものであると言っている。下戸は暮らしに余裕がなく、税も多くは納められず、絹とは縁のない生活をしている。それでも桑を一百根課されている。蚕に桑の葉を食べさせて糸を吐かせ、絹を生産するためである。下戸はわずかにしか貢献していない。それに対応するように、「玉の緒」という言葉を使っている。「玉の緒」は短いから、「玉の緒ばかり」はちょっとでも、の意である。少しの桑拠出でできた絹の緒を使う「玉の緒」になってみたいとずるっこい考えをくり広げている。絹の緒は貴重だろうが、結ぶ玉石のほうが価値はずっと高い。つまりは玉の輿に乗りたいというのである。
(注19)このような頓智的思考と、芸文類聚から得た知識を使って歌を作ったのだという知識的思考は相容れるものではない。鉄野氏の議論では、猿に似ているのは酒を飲んで赤ら顔をしたほうであるとし、酔いが回っているから言葉が転倒しているとまで言う(105頁)。しかし、これらの歌は「大宰帥大伴卿讃酒歌十三首」であって、「大宰帥大伴卿酔酒歌十三首」ではない。
(注20)何度も断っているように、歌は歌われて聞かれて理解されてナンボのものである。ちまたの常識を基にしなければ通じることはない。「無価宝珠」は現世においてずっと安楽に暮らせるだけの富をもたらすものであると解されることがあるが、年金や投資のセミナーにおいて作られた歌ではあるまい。
(注21)中古では、源氏物語・松風に、「若者は、いともいともうつくしげに、よる光りけむ玉の心地して、袖よりほかには放ちきこえざりつるを、……」と見え、源順集などにも例がある。紫式部の頃には中国では最も珍重な宝物の代表と認識されるに至っている。それは容易に想像がつく。源氏物語は紫式部が文字として書いている。文字から得られた知識を文字に落としている。一方、それを遡ること270年ほど前に、大伴旅人は言葉(ヤマトコトバ)として声をあげて歌っている。知識を発表するために歌があるのではないし、三十一音で発表されても何を言っているのか理解できなくては用をなさない。歌に使われる言葉は、歌い手ばかりでなく聞き手もすでに、ともに、肌感覚で認識している言葉でなければ聞き取ることはできない。
(注22)小島1964.は、「心やる」(遣悶・遣情・消悶)、「この世」(現世)、「来む世」(来世)、「濁れる酒」(濁酒)、「いにしへの七の賢しき人等」(七賢人)、「価なき宝」(無価宝珠)、「夜光る玉」(夜光之璧)、「生ける者遂にも死ぬる」(涅槃経純陀品)を大伴旅人による翻訳語の造語であるとし、漢籍を「眼」で学んだことが明らかであるという(931頁)。どうして旅人による造語であると決めてかかれるのか、そもそもそれらは「いにしへの七の賢しき人」以外、漢籍と関わらなければ生れ出るはずのない考え方なのか、確証は得られない。古墳に埋葬して副葬品を供えたのは、「来む世」があると思っていたからのようであるし、酒には澄めるのと濁れるのとがあると戯れて言うことは至極自然な発想であろう。それらのヤマトコトバを筆記するに当たり、漢籍ではどのように書いてあるかを瞥見したところ、それらしい書き方を見つけて当て字をしたためたら、あたかも翻訳語を造語しているかに見えているだけのことではないか。このことは、それらの語が登場する歌の解釈と直結する。これまでの研究による歌の解釈は、「酒を讃ふる歌」の解釈として履き違えている。
(注23)「冷者」はスサメルハ(童蒙抄ほか)と訓む説のほか、スズシクハ、スズシキハとオーソドックスに訓む例も多い。ただし、「冷」をスズシと訓んでも、心が清く爽やかととる説ばかりでなく、心が荒涼として楽しまないととる説もある。
(注24)「世間」という漢字の字面は仏教語である。それをセケンと音でよめば仏教語由来の言葉である。ところが、万葉集ではヨノナカと訓み、ここでは一般に通行していることを表している。このヨノナカという言葉は、仏教語から派生したものなのか、あるいは仏教語が侵食してきたものなのか。
 ヨノナカという語はヨ(世・代)+ノ(助詞)+ナカ(中)という語構成によって作られている。ヨ(世・代、ヨは乙類)をイメージするうえでは、竹のふしふしの間のことをいうヨ(節間)という言葉が大いに与っている。区切られた間のところ、かぐや姫が入って光っていたところがヨである。そのヨ(節間、ヨは乙類)という言葉を説明調に表したら、ヨノナカという言葉ができあがる。
(注25)同じく大伴旅人の歌に次のようにある。

 世の中は むなしきものと 知る時し いよよますます 悲しかりけり(万793)

 一般性を表現する形式をなすものとして「もの」という語が使われている。この歌は仏教語の「世間空」と関連があるとされ、万349番歌でも「仏者の生者必滅といふ常套語をとり来りて語をなしたるなり。」(山田1943.国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1880320/1/254~255)と捉えられている。次の例も参照される。

 …… 生まるれば〔生者〕 死ぬといふことに まぬかれぬ ものにしあれば ……(万460、大伴坂上郎女)

 「生者」は「けるもの」、「生けるひと」といった訓もあるが、山田氏は「生まるれば」と訓むとする考えで、筆者も採る。
(注26)西宮1984.221頁に一案として示され、古典集成本や伊藤1996.178頁が採っている。
(注27)和訓と呼ばれる言葉群である。翻訳語と呼ぶべきものではない点に思いを致すことは、当時の人たちが言葉をどのように考えて使っていたのかについて深い洞察へと導いてくれる。

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古川2018. 古川大悟「上代の特殊語法ズハについて─「可能的表現」─」『萬葉』第225号、2018年2月。萬葉学会ホームページhttps://manyoug.jp/memoir/2018
山口1980. 山口堯ニ『古代接続法の研究』明治書院、昭和55年。
山田1943. 山田孝雄『萬葉集講義 巻第三』宝文館、昭和18年。国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1880320
※大伴旅人の讃酒歌の論考については近年のものに限って記載し、注釈書も特筆すべき点のない場合は割愛した。