Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

血圧急上昇の晩夏

2018-08-21 | 
胸が少しパクパクしている。最近は、この季節の変わり目の為が、心臓に負担が掛かるような気持がするのだ。そこにどうしても血圧に影響する新事実を知る。口説こうとしていた女性が、大学生でなく、ギムナジウムの生徒だと分かって血圧が上がった。なにも急いでどうこうの心算は無かったのだが、年齢からすると大学生の筈なのだが、まさかと思った。流石に年齢までは質せなかったが、あとで考えるとドキドキした。流石にギムナジウムの娘を口説こうとは思わないが、実際にそうだったのだ。二十歳前後だとみていたので、そろそろバッチュラーを終えて、グラデュエートにでも進むのかなと勘違いしていたのだ。いい機会を見据えようと思っていたら、少なくともアビトユーアまで一年あることになる。アビテューアのお手伝いぐらいならばできそうだが、ギムナジウムの女生徒はクライミング位でしか付き合ったことは無い。これは困った、想定外である。

夜中にシカゴからの放送を録音しておいた。偶々、アンネ・ゾフィー・ムターのチャイコフスキーの協奏曲演奏だった。最初からストラディヴァリウスの芯の通った最高級ボルドーのような美音が満開だ。そして進むと明らかに遣り過ぎの歌い口が耳に付く、印象させるのはフォンカラヤンなどのチャイコフスキー演奏で、それほど変わらないと思う。キリル・ペトレンコなどが指す「西欧のチャイコフスキー」であろう。フルトヴァングラ―の「悲愴」など歴史的に定着したものであろうが、今こうしてムターの演奏とムーティの伴奏を聞くと我々が期待するようなシカゴの機能的な響きよりも、如何にも脂ぎっていて、フレンチロココへの飛翔が全く期待出来ない。ムターの技術とその音量と貫禄は否定しようがないが、高い金を払って態々聴こうとは思わない。失望まではしないまでもこのようなチャイコフスキーならば御免だ。リサ・バテュアシュヴィリのグァルネリ・デルジェスよりも素晴らしいストラドサウンドで弾いてくれる人はいるかもしれないが、チャイコフスキーが少しでも分かってくるとそのハードルは高くなる。ハイフェッツなども生で聴けばよかったのかもしれない。

ミュンヘンの「マイスタージンガー」三日目が最上席3席を入れて残り17席になった。あとは視界が効かない席だ。サイドのバルコンは出るかどうか知らないが、多くの人は理想的な配役となりそうな舞台上の芝居もしっかりと生で観たいだろう。最上席も中々平土間前方が出なかったのはあのタッパのある舞台を知っているからで、視角を重要視したと思われる。だから「金に糸目を付けぬ、熱心な」私には中継の日のバルコン席の配券となったのだった。

ベルリンでのリハーサルが始まる。私は昨年台湾での第七番イ長調の練習風景を振り返る。ヴィーンで出会いのあった作曲家の述べるコンサート評も交えると、一楽章序奏と主題部のテムピの対比はメトロノーム指定に近いようで、序奏から八分の六ヴィヴァーチェに移りゆくところは最初の聴き所だろう。ヴィデオに残っているのは第二主題へと移るところの舞踏的な経過区だ。キリル・ペトレンコのベートーヴェンはこうした移り変わりの妙が味噌になりそうである。第二楽章のテムポも早く感じられたというので、メトロノーム記号に近いと思う。粘度を下げたボーイングで同時に持続性と軽さを増した演奏とある。この点から更に後半を大胆予想してみたい。
佩特連科與巴伐利亞國立歌劇院管弦樂團 9/8彩排


またまた興奮して来た。体調が心配だ。夏の終わりは毎年胃癌症状で体調を壊すが今年は一寸違う。冷たいものの摂取量は減ったが、水分補給量は増えて胃液も薄くなって気分も悪くなった。更に夜中の気温変化から血圧も上がり気味で、とても怖い。



参照:
謝謝指揮大師佩特連科! 2017-09-12 | 文化一般
グァルネリ・デルジェスの音 2018-08-20 | 女

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