オールドゲーマーの、アーケードゲームとその周辺の記憶

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カラービンゴ(タイトー)の発売年の謎

2018年07月29日 18時35分57秒 | スロットマシン/メダルゲーム
それは、1978年初春のある日の深夜のことでした。

そのときワタシは、新宿歌舞伎町におりました。目的は、翌日より封切りとなる映画を観ることだったのですが、どうせなら一番乗りを目指してやれと考え、前日の夜から現地に張り込んでいたのでした。以前、どこかの記事でも申し上げた通り、この頃のワタシは人生で最も馬鹿だった(今でも大差はないかもしれませんが)時期だったのです。

当時のゲームセンターは終夜営業が当たり前だったので、長い夜を過ごす場所に不自由はありませんでした。ただ、お金はあまりありませんから、ゲーム三昧とまではいきません。ゲーセンを渡り歩いて、ゲームのアドバタイズや他人のプレイを眺めることに多くの時間を費やしていました。それでも楽しかった、幸せな時代でした。

そうした中で、「ジョイパックビル」(現在のヒューマックスパビリオン)の「プレイランドカーニバル」というゲーセンに入った時のことです。メダルゲームコーナーに、見慣れない、新しいマスメダルゲーム機を発見しました。それが、タイトーの「カラービンゴ」でした。


カラービンゴのフライヤー。この頃のタイトーは、メダルゲームを「mi-mo machine」と称していた関連記事:「メダル」と「メダルゲーム」という呼称についての備忘録(2)

ワタシが持っている資料は解像度が低いので、フライヤーのコピーを原文のまま書き起こしてみます。

●遊び方
メダル投入口にあらかじめ99枚までのメダルを投
入することが出来、PLAY-NOWのランプが点いて
いる間に、12通りあるラインボタンの中から好き
なラインを選び、メダル1枚につき1ライン、ボ
タンを押すことが出来ます。
カラーボールが吹き上げられ、ボールがドーム内
にある螺旋状ボールガイドを転がり、波長により、
電子的に識別され、そのボールの色のランプが点
灯します。そして選んだ縦、横斜めのライン 5
個が揃うと”オッズ”に示された枚数のメダルが出
てきます。
・オッズは2,000枚、200枚、100枚、50枚、10枚と
変って行き、その”オッズ”の時点で選んだライン
が出来るとその枚数がペイアウトされ、メダル投
入表示「0」になるまで何通りでもゲームを続け
ることが出来ます。

特徴
●アメリカ、ヨーロッパで圧倒的な人気のあるビンゴ
をエレクトロニクス技術により、完全自動化したメ
ダルゲームです。
●6人用マスゲームですので多人数が同時にゲーム
が出来るうえ、コンパクトに設計されており、場所を
取りませんし、短時間での稼働率は抜群です。
●”オッズ”は5段階に分れており、ペイアウトは最高
2,000枚までありますので、射幸心を刺激し、人気
高騰間違いありません。
●カラフルなボールが吹き上げられる様子は、洗練
された機械のデザインと相まって、ゲーム場に華や
かな雰囲気を盛り上げます。
●クレジットシステムの導入により、ゲームのつど
メダルを入れる必要がなくなり、お客様にゆっくり
ゲームを楽しんでもらえると共にその優れたメカニ
ズムと、スリルあるゲーム性はメダルゲームの傑作と
いえましょう。


昔から思うことですが、AMゲーム機の宣伝とかインストラクションの日本語って、もう少し別の表現はできないものかと思うことが良くあるのですが、このフライヤーもそのような点が散見されます。

という文句は自分にも返って来そうなのでとりあえず置いといて、赤、橙、黄、緑、青の5色のボールが空気で吹き上げられてドーム内で踊る様は、カラフルで楽しそうに見えます。そして何より、「機械が色を識別する」という機能は、当時としてはたいへんにミステリアスに見えました。「さぞや高度な最先端技術を駆使しているのだろう。タイトー、すげえ」などと勝手にポジティブに解釈して、これはぜひ遊ばなければとは思うのですが、「カラービンゴ」には一つ、「ゲーム料金が高い」という大きな障害がありました。

当時のメダル貸出料金は、10枚で200円が相場でした。つまり、12ライン全てにベットすると、ゲーム単価は240円という事になります。ビデオゲームなら2.4回分の料金であり、ブロック崩しなら30分くらいは遊べる金額です。それが、運が悪ければ1分から1分半で失われるわけです。もちろん、ゲームに参加するだけならメダル1枚だけでも可能ですが、それではビンゴはほとんど望めず、進行が楽しくありません。それでもどうしても遊んでみたいワタシは、半分の6ラインにだけベットするなどと言うケチ臭い妥協点を見出すことで折り合いをつけることにしました。

ゲームが始まると色とりどりのボールがブロワーで吹き上げられ、ガイドレールに乗ったボールは検知器の中に入っていき、内部で色を判定した後にビンゴカードに反映されます。しかし、この進行には釈然としない点もありました。

と言うのは、ビンゴカードは5×5で25個のスポットがあり、それぞれに番号も付されていましたが、選ばれたボールと同色のスポットのいずれかがランダムに選ばれて点灯するため、スポットの番号には全く意味がありません。


ビンゴカードの拡大図。横一列のスポットが同色に塗り分けられ、それぞれのスポットには番号が付されている。

せっかく意中の色が選ばれても、同色の別のスポットが点灯してしまえばハズレです。もちろん、点灯するスポットを完全にランダムに選んでいるのであればこの抽選方法でも公正さは保たれます。しかし、少ない球数で上がるほど高配当となるルールであるため、無駄なハズレスポットが選ばれるということは全く面白くないことでありました。そんなわけで、また、ゲーム料金が高くほんの数ゲームしか遊べなかったこともあって、見かけほど楽しくないという印象が残りました。何とも惜しいことです。

さて、実は今回のテーマはこれからが本題です。この「カラービンゴ」は、業界紙「ゲームマシン」では、1978年1月1日号の「話題のマシン」で紹介されています。つまり、ワタシがプレイランドカーニバルで見た時点では、「カラービンゴ」は最新鋭の機種であったという事です。


ゲームマシン1978年1月1日号の「話題のマシン」のページ。赤枠がカラービンゴの紹介部分。

しかし、業界誌「アミューズメント産業」では、それよりも2年以上早い1975年の10月号に、タイトーの広告として「カラービンゴ」が掲載されているのです。さらに言うと、以前、拙ブログをご高覧くださっている方からいただいた1975年に作成されたタイトーのメダルゲームカタログにも、カラービンゴは掲載されています。


アミューズメント産業1975年10月号に掲載されたタイトーの広告。光ってしまって見づらいが、左上にカラービンゴが挙がっている。

この2年のタイムラグはなぜ発生したのでしょうか。

可能性として、1975年と言えば、その夏に、セガが「グループビンゴ」(関連記事:セガのマスビンゴゲーム(2) グループビンゴ(Group Bingo,1975))を発売した年であることが関係しないものでしょうか。つまり、タイトーは、一足早く発売された「グループビンゴ」とのバッティングを避けて、ラインナップから引っ込めてしまったというストーリーです。

もしくは、発表はしたがまだ販売できるレベルに到達できなかったという可能性も考えられます。実際、色を識別するのは、当時はまだかなり難度の高いテクノロジーであったことと思います。理論上は可能であっても、識別の精度やコストの面から商品化が見送られるということだって十分あり得るストーリーです。

結局のところ、この2年のタイムラグの秘密は未だに謎のままですが、「グループビンゴ」の発売から2年も経てば、そろそろ新製品の出現が期待されてもおかしくはないので、タイトーはずっと塩漬けにしておいた「カラービンゴ」を「グループビンゴ」の後釜狙いとして放出してきたのではないかと、ワタシは想像しています。

「カラービンゴ」は、結局たいしたヒットともならずに消えてしまいましたが、これは不幸なことだったと思います。ゲーム内容はともかく、あのテクノロジーには、あの時代ならではの「センス・オブ・ワンダー」がありました。もし1975年時点で発表されていれば、市場のタイトーに対する評価もまた少し違っていたのではないかと思うと、残念でなりません。

また、それから15年後の1992年にセガが発売した「ビンゴパーティー」(関連記事:セガのマスビンゴゲーム(4)  ビンゴパーティー(Bingo Party, 1992)とそのシリーズ)は、ゲーム性やゲームの見せ方自体は「カラービンゴ」と大きな違いはないにもかかわらず、シリーズ化もされるほどのヒット作となりました。こうしてみると、「カラービンゴ」は、なんとなく、過去記事「【小ネタ】「ERASE」(セガ・1974?) 金鉱脈のすぐ隣を掘っていたゲーム」に似た哀愁を感じてしまうゲームでした。

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