古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

宮山墳墓群(吉備国実地踏査ツアーNo.8)

2019年06月13日 | 実地踏査・古代史旅
 作山古墳から次の目的地である宮山墳墓群に向かいました。事前の調査ですぐ近くの百射山(ももいやま)神社の駐車場に停めればいいことがわかっていたので、ナビをセットして出発。まもなく到着という所で右折と左折で細い道に入り込んでしまいバックもUターンもままならない。でもこれがナビの通りなので行くしかない。運転手の岡田さん、慎重なハンドル操作で切り抜けて少し広い道に出ることができた。なんと、右折も左折もせずに真っ直ぐにくればこの道につながっていたことが発覚。頼むで、ナビ!
 
 百射山神社の駐車場にあった説明板。 

 宮山墳墓群は総社平野南西端の低丘陵の尾根上に築かれた弥生時代後期から古墳時代初期の墳墓群である三輪山遺跡群の中にあって、丘陵北西部の尾根に沿って並ぶ墳墓群です。
 
 ちなみにこちらは百射山神社の説明です。
 祭神は大山祇命。御崎神社と三輪神社を合祀したことによって吉備武彦命、猿田彦命、大物主命の三柱が相殿神として祀られています。
 
 扁額には合祀した神社の名も書かれています。

 
 百射山神社の境内右手の階段を登ります。

 
 いきなり目的の宮山墳丘墓です。

 手前が前方部、向こうに見えているのが後円部。全長が38mの前方後円型の墳丘墓です。築造時期をどう見るかで墳丘墓か古墳か分かれるところで、今のところ弥生時代末期とされていることから、前方後円型墳丘墓とされています。
 
 
 後円部の先端から見上げると意外に高さがあることがわかります。
 
 竪穴式石室が土に埋もれてしまっています。
 

 石室内からは中国製の鏡、直刀、剣、銅鏃、鉄鏃、ガラス小玉などが出土したそうです。
 
 こちらは総社市の公式サイトから拝借した写真です。
 
 この墳丘墓に立てられていたとされる特殊器台は弥生時代終末期(3世紀中頃)の最も新しい型の特殊器台で宮山型とよばれ、同じ文様をもつものが、箸墓古墳(纒向)、西殿塚古墳(天理市)、中山大塚古墳(天理市)、弁天塚古墳(橿原市)の古墳時代初頭(3世紀中頃~後半)の4つの前方後円墳から見つかっています。
 吉備と同じ文様の特殊器台、同じ前方後円型の墳墓が少しだけ遅れて大和に出現する状況をどう考えるか、ということですね。大和の勢力はこの特殊器台を円筒埴輪に変化させ、前方後円墳を首長墓として全国に広めていきます。大和政権の成立において吉備が重要な位置にいた、と考えるべきですね。
 
 ところで、宮山墳丘墓をあえて墳丘墓と呼ぶ必要があるのでしょうかね。宮山古墳でいいと思いませんか。
 
 県立博物館で見た宮山型特殊器台。レプリカです。

 吉備ではこの宮山墳丘墓から出たのみです。
 
 色褪せてしまった説明板。
 宮山墳丘墓の前方部手前には石を箱形に組んだ箱式石棺、土を掘って埋葬した土壙墓、特殊器台を棺に転用した特殊器台棺など多様な埋葬形態の30基以上の墓が見つかっていることから、近隣集落の人々の集団墓と考えられています。



 集団墓は尾根の先端部ぎりぎりのところまで広がっています。逆に尾根の根元の方に進んでいく、つまり丘陵を登っていくと2つの前方後円墳が現れます。

 1つ目は宮山天望古墳。古墳時代前期、全長55mの前方後円墳。

 岡田さんが一足早く後円部の墳丘に登っています。
 
竪穴式石室の痕跡と思われるくぼみ。

後円部から前方部を見ても輪郭がわかりません。
 
 さらに奥にある三笠山古墳。古墳時代中期初頭、全長70mの前方後円墳。


 前方部から見る後円部。

 前方部の高まりがわかります。

 
 これは墳丘から転げ落ちた葺石かな。
 
 宮山墳墓群は近隣の弥生集落の長の墓である宮山墳丘墓を中心に設けられた集落の人々の集団墓と考えられていますが、古墳時代に入ると集落の権力者はさらに大きな力を持ち、古墳時代前期および中期初頭にかけて前方後円墳を築くようになった、ということでしょうか。
 
 この宮山墳墓群はツアー直前に行程に加えた踏査地ですが、来てよかったです。吉備と大和の関係を考える重要性を実感することができました。



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