富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「安息日の主」 ルカによる福音書6章1~11節

2019-02-07 01:34:12 | キリスト教

   ↑  ルーカス・ファン・ファルケン(1535-1612)(ベルギ―の画家)「安息日に麦の穂を摘むことを擁護するキリスト」(画面の左に見える三人はファリサイ派の人々です。イエスと麦畠を通る十二人の弟子が描かれています。)

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

      日本福音教団 富 谷 教 会    週  報

 年間標語 『日々に、刻々と、肉の思いに生きようとする自分に死に、霊の思いに従って歩む者とされましょう。」

聖 句 「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。」(コロサイ3・15)

     降誕節第7主日  2019年2月10日(日)     午後5時~5時50分 

                      礼 拝 順 序

                                               司会 田中 恵子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 204(よろこびの日よ)

交読詩編   42(涸れた谷に鹿が水を求めるように)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者祈祷

聖 書(新共同訳)ルカによる福音書6章1~11節(新p.111)

説  教    「安息日の主」      辺見宗邦牧師

祈 祷                 

讃美歌(21) 355(主をほめよ わがこころ)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏

              次週礼拝 2月17日(日) 午後5時~5時50分 

              聖 書  ルカによる福音書8章4-15節

              説教題   「教えるキリスト」 

              讃美歌(21) 57 287 24 交読詩編 147

     本日の聖書 ルカによる福音書6章1~11節    

  6:1ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは麦の穂を摘み、手でもんで食べた。 2ファリサイ派のある人々が、「なぜ、安息日にしてはならないことを、あなたたちはするのか」と言った。 3イエスはお答えになった。「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。 神の家に入り、ただ祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを取って食べ、供の者たちにも与えたではないか。」 5そして、彼らに言われた。「人の子は安息日の主である。」                                6また、ほかの安息日に、イエスは会堂に入って教えておられた。そこに一人の人がいて、その右手が萎えていた。 7律法学者たちやファリサイ派の人々は、訴える口実を見つけようとして、イエスが安息日に病気をいやされるかどうか、注目していた。 8イエスは彼らの考えを見抜いて、手の萎えた人に、「立って、真ん中に出なさい」と言われた。その人は身を起こして立った。 9そこで、イエスは言われた。「あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか。」 10そして、彼ら一同を見回して、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。言われたようにすると、手は元どおりになった。 11ところが、彼らは怒り狂って、イエスを何とかしようと話し合った。

        本日の説教

 今日の聖書の箇所には、安息日をめぐる二つの出来事が記されています。一つはイエスと弟子たちが安息日に麦畑を通り過ぎながら、麦の穂をつんで食べたことに対してファリサイ派のある人々が抗議した事件です。並行記事は、マタイ12・1-8、マルコ2・23-29にあります。

  もう一つは右手のなえた人を、安息日にイエスが癒したことです。並行記事は、マタイ12・9-14、マルコ3・1-6です。この事に対して、ファリサイ派のある人々や律法学者たちは、「安息日にはしてはならないことをした」と非難し、訴える口実を見つけようとしたのです。

 弟子たちが「安息日に麦の穂を摘み」、食べたことに対するファリサイ派の人々の抗議に対して、イエスは、「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。 神の家に入り、ただ祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを取って食べ、供の者たちにも与えたではないか」と答えられました。

 これは、サムエル記21章1-7に記されている出来事です。サウル王に仕えていたダビデが数々の武勲を立てたことから、人々のからの人気が高まりました。サウル王はダビデに嫉妬し、ダビデを亡き者にしようとしました。サウル王の息子ヨナタンは、父がダビデを殺そうとしていることを知って、ダビデの逃亡を手伝いました。ダビデは、祭司アヒメレクのところに身を寄せ、自分と従者のために食べるものを求めました。マルコの2・26節に「大祭司アビアタルの時」とあるのは、の誤りです。アビアタルはアヒメレクの息子です(サムエル22・20)。祭司アヒメレクは普通のパンがなかったので、十二個の聖別された供えのパンをダビデに与えました。「パンを供え替える日(安息日)」(レビ記24・8)でした。取り下げた供えのパンは祭司以外の者は食べることを禁じられていました。イエスはこの故事を話されたのです。

 弟子たちは空腹を覚えながら、無意識的に麦の穂を摘んだのでしょう、その行為がファリサイ派の人々に咎められたのです。麦の穂を摘むこと自体は法に触れることではありませんでした。「あなたが隣人の麦畑にはいる時、手でその穂を摘んで食べてもよい。しかし、あなたの隣人の麦畑にかまを入れてはならない」(申命記23・25)という規定があります。問題は弟子たちがした行為が安息日の規定に違反したことが、とがめられたのです。

 安息日の律法は当時のユダヤ教では最も神聖な律法でした。安息日とは、金曜日の日没(夕方6時頃)から土曜日の日没までです。創世記によると、神は六日間の天地創造の業を終える七日目を休み、この日を祝福されました(創世記2・2-3)。この神の休みに対応する戒めとして、十戒のうちの第四戒「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、…七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない」と定められました(出エジプト記20・8)。安息日は「聖なる集会の日」(レビ記23・3)です。安息日は感謝と喜びをもって天地創造の神を礼拝する日です。

 「その日に仕事をする者はすべて死刑に処せられる」(出エジプト記35・2)とモーセは民に命じました。もし無意識的に破ったときには、「罪のためのいけにえ」をささげればよかったのです(レビ記4・27-35)。この安息日の規則は、バビロン捕囚帰還以後厳しくなり、それが次第に神礼拝より仕事をしないことの方に力点が移行し、イエスの時代、後期ユダヤ教では安息日の禁止規定は三十九、その各々に三十九の細則がつけられ、千五百二十一もの煩雑な禁止条項が定められていました(ユダヤ教口伝集英語版「ミッシュナー」の安息日の規定「シャバット7・2」)。イエスの弟子たちが麦の穂を摘んで食べたことは、収穫、脱穀、もみ殻振るいの禁止を犯すことであると咎められたのです。また、安息日の食事は、安息日の前日に準備すべきという規定をも犯すことになります。

 ファリサイ派の人々の厳しい追及に対し、イエスは旧約聖書の故事を引き、ダビデが聖別されたパンを食べる権利を持っていたことを明らかにし、イエスとその一行にも同じ権利があることを主張されました。さらにダビデの窮乏は規則に優先したことを強調することによって、律法に対する新しい解釈を明らかにされました。

 イエスは彼らに「人の子は安息日の主である」と言われました。この言葉は、イエスが安息日の律法に勝るものであり、それらの律法がいつ、どこで、どのように適用されるものかを決定できる存在であることを主張しています。安息日は旧約宗教にとって神自らが創造された日、神自らも休まれたとされる日です。ユダヤ人は「安息日の主」はイスラエルの神ヤーウェであると信じ、安息日をヤーウェの礼拝日としていました。イエスが御自分を「安息日の主」と宣言されたことは、御自分をヤーウェの位置に置き、御自分への礼拝を要求されたことに他なりません。神から遣わされた人の子イエスが「安息日の主」であるということは、イエスが神に等しい者だということです。イエスは自らが、その律法の無効を宣言する権威を持つことを示しました。

  ファリサイ派の人々にとって、律法は禁止のリストであり、しかもその多くは聖書から出たのではなく伝統や習慣から産み出された口伝によるものであり、人間を束縛する以外の何物でもありませんでした。律法を守るとは、無数の規則に従うことだとする考え方に対して、イエスは反対し、本来律法は人間の生活を守り、安息日は人間を真の自由へと解放する日であることを明確にされたのです。安息日の律法は、人間を神との交わりに導くためのものであり、人間に与えられた神の恵みの律法です。人間はしばしばこの世のことで思い悩み、罪の虜になっています。しかし主イエスは安息日の主、律法の完成者として、人間を自由へと解放する方なのです。

 「また、ほかの安息日に、イエスは会堂に入って教えておられました。」

           

    ビザンチン・モザイク画 「手の萎えた男を癒すキリスト」

  マタイやマルコ福音書では、この事件が先の麦畑の事件と同じ安息日に起きたように記しています。しかしルカによる福音書では、<ほかの安息日>と記して、二つの出来事の間にはある期間があったことを明らかにしています。そのことは、律法学者たちやファリサイ派の人々がイエスと弟子たちの言動に鋭い目を光らせるようになっていたことを示しています。しかしイエスは安息日に会堂に入っていつものように教えておられました。

 「会堂に一人の人がいて、その右手が萎えていました。律法学者たちやファリサイ派の人々は、訴える口実を見つけようとして、イエスが安息日に病気をいやされるかどうか、注目していました」

 マタイやマルコ福音書では<片手>と記していますが、ルカ福音書では<右手>と記しています。多くの人にとって、右手は利き手であり、働き手であり、生計をささえる手です。その右手が麻痺して動かないのです。彼を取り囲むファリサイ派の人々は、この人の苦しみや不自由さを思いやることもなく、彼を利用して、もしイエスが彼の手を癒されたら、訴える口実にしようと、その様子をうかがっていました。安息日には、命に別状がない病人の治療は禁じられていました。

 「イエスは彼らの考えを見抜いて、手の萎えた人に、『立って、真ん中に出なさい』と言われました。その人は身を起こして立ちました。」

  イエスは彼らの思いを知りながら、癒しの行動を起こされたのは、気の毒なこの人を憐れまれ、イエスを陥れようとする彼らへ挑戦でした。あえて彼を真ん中に立たせました。

 イエスは、「あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか」と問われました。

 安息日の規定に縛られている人々に向かって、安息日に律法で赦されているのは、命を救うことか、殺すことか、と問われました。安息日であっても人が困難や苦しみにあるのを放置すること、助けを怠ることを、イエスは<安息日に…悪を行うこと>であるとします。人に対する愛の欠如は悪を行うことになると教えたのです。律法で最も大事な戒めは「神を愛し、人を愛すこと」(マタイ22・34-40)だとイエスは教えています。

 「そして、彼ら一同を見回して、その人に、手を伸ばしなさいと言われました。その人が言われたようにすると、手は元どおりになりました。」

 右手の萎えた人は、イエスに「手を伸ばしなさい」と命じられると、主の癒しのことばを信じて、言われたように手を伸ばしました。すると、手は元どおりになりました。

 この癒しによって、安息日は、人を助け、人の必要のために仕える日であり、人を救うためにあることを示し、ユダヤ人たちが誤用していた安息日の律法の真の意味を主は教えられました。主はこの業をなすことによって、人を救うために来られた方であり、人を真に生かす安息日の主であることを宣言されました。

 「ところが、彼らは怒り狂って、イエスを何とかしようと話し合いました。」

  彼らはイエスと正面衝突することによって、自分たちの立場、存在理由がなくなることを無意識的に知らされました。イエスによってひとりの人間が新しい生へと回復された時、それは反対者の激しい怒りを引き起こし、イエスを何とかしようとたくらみました。このたくらみは、イエスの受難を暗示しており、彼らはイエスを殺す計画をたて始めた時でもあります(19・47)。主イエスは死を覚悟して、右手の萎えた人を癒し、救われたのです。

 安息日の規定は、申命記5・15によると、出エジプトによる救いと結ぶついています。「あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたをみちびき出されたことを思い起さねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである」とモーセが語っています。安息日は神が奴隷からの解放者であることを覚え、これから後もヤーウェが解放者であることを期待する日でした。

 初代教会以来、キリスト者は安息日を、土曜日から日曜日に換えて(使徒言行録20・7)、神を礼拝する日としました。イエスのよみがえりが日曜日だったからです。主の復活を喜び、主による救いを感謝して礼拝する日としました。これはイエスが御自身を「安息日の主」と言われたことに基づくものでした。

 週の初めの「主の日」の礼拝は、罪と死よりの解放、そしてわたしたちを脅かす全てのことから解放してくださる主を覚え、主の恵みと愛に満たされ、憩いと安息が与えられる喜びの日です。父・御子・御霊の神を賛美する日です。週の初めの日の礼拝によって、神の民としての自覚を与えられ、御言葉と聖霊によって強められ、六日間の霊的闘いに備え、世に送り出され、神と共に歩みながら隣人を愛し、労働に励むのです。

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