まさか日本でカルチャーショックを!

日本で技術者→中国広東省にて日本語教師→日本で技術者復帰→技術者+?
旧題名:まさか私が日本語教師に!(NO.3)

私の人生のポラリスであり、サザンクロスである中国だが・・・

2020-12-04 23:36:22 | 行動計画 & 積極的思考

これといった理由はない。

ただ、中国が好きであった。

 

小学校6年生の頃には大学など無縁のものだと思っていた。

それなのに中学校1年生の頃には「某大学に入って中国のことを勉強したい」と夢を見ていた。

 

その小6から中1の間に自然と中国好きとなっていった。

身体が弱く、スポーツで鍛えていても、それを覆すまでにはならなかった。

それが中国武術への興味とつながったことは覚えている。

また、当時流行っていたBCLの影響も大きかった。

様々な国への興味が広がり、意味もわからずに英語以外の外国語によるラジオ放送を聴いていた。

フランス語などの響きもロマンティックであった。

それでも中国語とその南方方言、韓国語を聴くのが心地よかった。

 

中1の冬休みであったか、身体がだるいときに寝転がりながら耳にしたハウス『ワンフーメン』・・王風麺・・のTVCMは今でも覚えている。

それが余計に中国好きを加速させたような気がしてならない。

 

当時お小遣いでティーバッグのジャスミン茶を買って飲んでいた。

飲みすぎで気持ち悪くなり、そこから10年以上ジャスミン茶が飲めなくなるぐらいに・・・。

 

高校3年生の秋に就職先を決めてからも、専門学校や大学への進学を夢見ていた。

ただし、それは中国との関係がなくても構わなかった。

 

20歳の頃、急に教師に憧れたことがあった。

21歳の秋であった。

どうしても大学に行きたくなり、当時働いていた会社の社長に1年半後の退社希望を伝え、受験勉強を始めた。

その頃から再び中国熱が加速していった。

 

私は春生まれであるのだが、23歳の誕生日の前に受験失敗という挫折を味わった。

やはり人生そんなに甘くはない。

秋に昼間の学部を受け、敗退。

冬に2部を受けて落ちた。

懲りずにその2次募集を受けたのだが、駄目であった。

 

会社サイドも自分に回す仕事内容を考えるなど、本当に私のことを考えてくださった。

それなのに駄目であったのであるから、一度はすっぱりと諦めた。

 

だが、段々と自分の心に嘘がつけなくなった。

24歳の夏、社内のBBQで酔っ払いある騒動を起こしたぐらいのストレスを抱えることとなった。

それをきっかけに再び社長に大学受験をすることを伝えたのが24歳の夏であった。

ただ、今度は辞めるのではなく、働いたまま2部に通いたいということを伝えた。

 

なぜかわからない。

だが、受かる気がした。

そして受かった。

 

学部は中国とは関係なかったのだが、極力中国関係の科目を履修したことはいうまでもない。

中にはどうしてももう1回履修したく、わざと試験を落とした科目もあった。

もちろん他にわざとではなく落とした科目もあったわけであり、自分で自分の首を絞めるようなものであった。

それでも、中国に関わっていることは楽しかった。

 

実は再び大学を受けたいと思ったのも、24歳の数か月前に社長に勧められて始めたとある行動計画のプログラムの影響であった。

 

受かったのも、途中で辞めることなく4年で卒業できたのも、睡眠不足状態で仕事と学業をしつつ、さらに国家資格まで受けまくっていたことも、すべて行動計画の勉強のおかげであった。

 

卒業後、1年必死に働いて会社に恩返しを行い、退職して中国に渡るはずであった。

 

だが、今度は抱えていた仕事のこともあり、また安定した生活を捨てることへの恐怖・・それは親のためでもあった・・などから辞められずにずるずると年月が流れた。

 

ところが2年にわたり、大きな仕事2つで「それまでとは流れが変わりだしたことによる苦労」を経験し、退職を決意した。

いつも提出できるように、日付を抜いた退職願も準備してあった。

 

その数年前より頭から離れられなくなった日本語教師への夢。

当時私が就いていた仕事で中国語圏に渡ることは難しかったのだが、日本語教師ならばそれが可能である。

 

ただ、タイミング良くとても興味深い仕事が舞い込んできた。

それは普段私が行っている仕事内容とはまったく違っていた。

しかし、それは確かに社員の中では私しかできなかった。

 

苦労した。

普通にいつもの仕事をこなしながらでもあったので。

さらにはその前年の夏場に休みなしで3か月通して働いていたせいか、入院するはめにもなった。

 

急に心細くなり、中国語圏への夢が飛行機で1時間半といういつでもすぐに戻れそうな韓国へ傾いたこともあった。

当時はまだ日本で『冬のソナタ』が放映される前年であったのだが、韓国ブームはあった。

 

翌年(2003年)退職した。

私でなければできない仕事が伸びたので、3月末に辞めることはできなかったのだが、5月末で長年働いた会社を辞めた。

 

日本語教育の勉強を始めた。

それはそれで苦労した。

また、養成講座が終わった後もなかなか就職が決まらなかった。

乏しくなったお金のために、派遣で働いたが、交代勤務をしながらあれこれ手を出していたこともあり、思いっきり身体を壊した・・・。

忘れもしない。

日本語教育能力検定試験を受け、その数週間後のHSKを受けた後、見事に倒れた。

 

1か月半ぐらいゆっくりと体力の回復に努め、翌年1月から以前の会社でアルバイトをした。

4月頭ぐらいまで働き、ようやく本腰を入れて就職活動。

中国へは広東省しか応募していない。

しかし、なかなか受からなかった。

お金もないのに、のんびりと二泊三日で傷心一人旅。

前年無理をし過ぎて就職活動にも響いていたし、受けた試験もすべて敗退であった。

自分が情けなかった。

ところが、のんびりと遅い桜などを見てきたのが良かったのであろうか。

帰宅直後、「いけるかもしれない!」という感触の返事をいただいた。

やり取りを重ね、5月半ばごろであったか、その秋の内定を決めた。

 

何とか大学に潜りこんだのが25歳。

中国で働くことをしっかりと意識したのが26歳。

そこから中国に渡るまで10年以上かかっている。

 

外国で働くためにも、大卒の資格があったほうが心強いことはわかっていた。

それもあるからこそ、大学にこだわった。

もちろん勉強したいという純粋な気持ちもあったけれども、どうせ苦労するなら卒業して得られる恩恵は活かしたかった。

 

私が中国に渡った頃は四大卒でなくても、日本語教師として働くことができた。

しかし、学校を移転したときにビザ発給の条件が厳しくなり、四大卒であることで日本語教師として生きながらえることができた。

 

正直、大学で何を学んだかといえば、具体的には言えない。

確かに様々なことを学んだ。

それもアカデミックに。(当たり前か・・・。)

週末になると学友と飲んで1週間の疲れを癒した。

そういう遊びも含めて、確実に私を大きくした。

 

だが、私にとって大学入学と卒業は自分の自信へとつながった。

 

すべては中国が縁なのである。

 

だが、先日も記した通り、中国が大好きでありながらも、この数年の様々なことから少々中国本土から心が離れつつある。

 

それはそれで次へのステップへとつながるに違いない。

違う世界を見だしたら、自分が自分につけていた足かせが外れ、急に世界が広がった。

 

今のところ大きく中国語圏から外れてはいない。

ただ、私の次のステージ突入も近いのかもしれない。

 

(それでも私は中国が大好きである。)

 

※アップ後すぐに太字で抜け落ちた文字や補足の追記を行った。

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