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【検証1】佐賀に近江の土器が?(^O^)/

2020-03-30 14:25:21 | 古代史
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この記事は2017-01-11 22:24:00に掲載した内容に追加し修正して、少しだけ読みやすくしたつもりです。疑問点などございましたらコメントください。どうぞよろしくお願い致します( ^)o(^ )

弥生終末期の動乱に迫る「外来系土器」

 吉野ケ里遺跡(神埼市郡)で出土した「外来系土器」のルーツの解明が進んでいる。他地域から持ち込まれた土器は「畿内系」などと推定していたが、地域が具体的に絞られてきた。同遺跡は、九州では珍しい「前方後方墳」も存在するなど、弥生終末期には他地域の政治・文化の影響を強く受けていたとみられる。県文化財課は「交流を調べることで、弥生から古墳時代へ移り変わる動乱期の実態や前方後方墳の謎に迫れるかもしれない」と期待している。
 7月下旬に吉野ケ里歴史公園で開かれた考古学者約70人の研究会で、複数の学者が型や文様、発色などから外来系土器の具体的な地域を判定した。同遺跡で出土した外来系土器は約190点。これまでは畿内系、西部瀬戸内系など幅を持たせて呼んでいたが、今回の研究会で十数点の出自が特定された。
 県文化財課が「畿内系」としていた「手あぶり型土器」は、滋賀県守山市周辺で出土した土器と同型であることが判明。県文化財課は「土器に使われた土が吉野ケ里とは異なる。何らかの交流があったのは間違いない」とする。



手あぶり型土器(同記事より)

 吉野ケ里の南内郭で見つかった4基の前方後方墳は、弥生終末期に出現。甕棺(かめかん)や石棺(せっかん)で埋葬していた吉野ケ里で、なぜ近畿でよく見られる前方後方墳が造られたのかは明らかになっていない。県文化財課は「『墓制』が変わるということは、集落にとって非常に大きな変化。当時の守山市の集落との関係を調べることで、何か分かるかもしれない」と解明に期待を寄せる。
 守山市文化財保護課によると、吉野ケ里の手あぶり型土器は弥生終末期から古墳時代初頭に作られたとみられる。「関東では、前方後方墳の発生とともに手あぶり型土器が流入している。両者は文化的にセット関係にある」と説明。「九州北部でも、近畿の文化要素が波及したのでは」とみる。
 このほか、奈良県地域の土器と考えられていた庄内甕は、福岡市付近で作られたと特定。瀬戸内地域産とみられていた加飾つぼは、岡山市付近の土器と同型であることも判明した。吉野ケ里遺跡にさまざまな地域の土器が持ち込まれているが、吉野ケ里から何が見返りとして持ち出されたのかは分かっていない。

 県文化財課は「弥生から古墳時代に移り変わる当時の状況はよく分かっていない。外来系土器のルーツを手がかりに、交流があった地域との関係を詳しく調べたい」としている。

 ■外来系土器 他地域で作られたものが持ち込まれたり、それを模倣して作られた土器。他地域の年代を並行的に調べることができるほか、物資や人々の往来を知る手がかりとして注目される。吉野ケ里遺跡では朝鮮半島や北九州、近畿などさまざまな地域の土器が出土しているが、これまで詳細な絞り込みはできていなかった。
(2013年08月26日更新 佐賀新聞)


外来系土器は各地の人の動きが分かるから、古代史の解明のヒントを与えるのだ。

また前方後方墳は三世紀前半に築造された東近江市の神郷亀塚古墳が最古級として知られており(注1)、そこから東海などに波及・分布している。このような古墳で埋葬される人物はかなり高い身分だから、手あぶり型土器が前方後方墳とセットで見つかるということは近江の支配者・首長あるいはその親族・将軍らが吉野ヶ里遺跡を占領したようだ。

三世紀初頭に奈良盆地の三輪山麓に突然出現した政治都市の纏向遺跡で出土した外来系土器は以下のようになっている(【検証11】定説の根拠を疑え(^_-)-☆)。

纏向に北部九州から来た土器が見つからない。

このことは邪馬台国大和説が間違いである端的な証拠だった。何故ならば「魏志倭人伝」では一大率を伊都国(福岡県糸島市)に置いて、女王国より北の諸国の検察させたとある。もしも邪馬台国が纏向にあったというなら、この時期に北部九州の土器が纏向遺跡である程度の量は見つからねばならないからだ。

だが北部九州の倭国と交流した痕跡がない。

逆に、北部九州に大量に近畿の土器などが出土しているということは北部九州の倭国が纏向ヤマト勢によって一方的に攻撃されて滅ぼされたことを示すものだ
(注2)。

この記事のように佐賀県の吉野ヶ里遺跡で近江の手あぶり型土器(注3)が見つかったということは、図の纏向3式(250-280年頃)の頃に近江の土器が出土しているから、纏向に集まった近江勢が吉野ヶ里に攻め込んだことを示している。

その頃に福岡で作られた近畿の様式の土器(庄内甕)が出土しているので、纏向ヤマト勢が北部九州の倭国までやってきたのだろう。纏向の外来系土器の半数近くを占めるのが東海勢、次いで山陰・北陸勢、河内勢、近江勢、そして関東勢などだから、纏向ヤマトの倭国遠征軍は纏向に集まったこれらの勢力と纏向在地の勢力との混成と考えてよいだろう。

「魏志倭人伝」にあるとおり、狗奴国と敵対する倭国女王卑弥呼が魏に援軍要請の使者を送ったが、247年に帯方郡からは国境守備隊の役人張政が魏の皇帝の詔書と正規軍の黄色い旗だけを持って倭国にやって来て難升米に渡した。だが、卑弥呼はすでに死んでいたとあるから、詔勅も直接卑弥呼にではなく、難升米に渡したのだ。難升米は倭国の軍事を預かる人物だから卑弥呼の補佐役の男弟であり、刺史のような一大率であり、伊都国男王であり、本当の倭国王だと推理できる(孫栄健「邪馬台国の全解決」言視舎2018,p.322)。

また「魏志倭人伝」には、女王卑弥呼に替わって男王が立ったが、国中がそれに服さず戦闘になって千人ほどが死んだとある。そして卑弥呼の一族の13歳の台与を王として立ててようやく混乱が収まったとある。

そこで、女王卑弥呼の後に狗奴国王が倭国の王に成ろうとしたのであれば、倭国はそれに服さず戦闘になるのは当たり前すぎる。狗奴国は倭国と元々対立していたのだから国中つまり倭国の人々が服従するいわれは無い。だから外来系土器から分かるように狗奴国が倭国を占領したということなので、当然、倭国の人々は服従せざるを得ず、この表現は全く不自然なのだ。

内乱の後に台与を女王に立てたのは倭国の人々ではなく、

倭国を占領した狗奴国勢の中で仲間割れが起こり内戦となって、

結局その勝者が少女台与を女王にして収まったということなのだ。


そうすると台与は、狗奴国に属さない少女なら女王に立てられるはずもなく、台与が「魏志倭人伝」のとおり卑弥呼の一族だとすれば、卑弥呼も元は狗奴国に属していた人物だったはずだ。それよりも前の三世紀初頭に倭国王が狗奴国に属する勢力の一部(ムナカタ海人族)を懐柔して卑弥呼を女王に立てたということになり、卑弥呼は狗奴国を裏切った勢力だったと推理できるのだ。

その狗奴国こそ纏向ヤマトのことだと外来系土器と「魏志倭人伝」から分かるのだ。【検証12】狗奴国は熊本じゃないよ|д゚)

倭国を占領した纏向ヤマトの狗奴国勢だが、最初男王に立ったのは倭国遠征軍の主将を務めた人物で、それに服さなかった遠征軍内部の勢力との間で内乱が起こったと考えられる。倭国王難升米はすでにどこかに逃亡して倭国を纏向ヤマト勢が占領した後の話なのだ。

関裕二さんは「日本書紀」の仲哀天皇の熊襲征伐がこの史実に対応する話だと見抜いた。仲哀天皇は纏向ヤマトの大王で、台与が近江・越の女王神功皇后と推理した。仲哀天皇は神を信じないために突然死んだ。天皇に祟りを与えた神が住吉大神だった。住吉大社の伝承では天皇のもがりで住吉大神が皇后と夫婦の密事を交わしたとあり、モガリの場には常に皇后に寄り添っていた白髪の老人武内宿禰が居た。住吉大神の正体は武内宿禰で、応神天皇の本当の父親だと真相を暴露した話だったのだ。

纏向の祭祀が吉備のものを踏襲していることから纏向ヤマトの大王は吉備から来たと考えられる(【検証7】桃太郎はニギハヤヒだった?(*^▽^*))。二世紀中頃に吉備を平定したのがニギハヤヒ大王で、奴国の宮廷楽師らのクーデターで殺された最後の奴国王スサノヲの弟天照大神尊と推理した(「宋史 王年代記」、日本ピラミッドの謎?( ^)o(^ ))。

纏向ヤマトの大王は「魏志倭人伝」から狗奴国王の卑弥弓呼であり、「先代旧事本紀」からニギハヤヒ直系の物部氏の祖と考えている。仲哀天皇は卑弥弓呼大王の命を受けて倭国遠征軍の主将を務めた物部氏と同族の尾張王のことだと考えた。上で述べたとおり、もしも仲哀天皇が纏向ヤマトの大王であったならば、纏向ヤマト勢は大王の臣下であるので倭国占領後に男王として立つまでもないし、内乱が起こるはずがない。纏向ヤマトの大王でない人物が倭国王に立とうとしたから内乱が起こったと考えるのが自然だ。従って、纏向遺跡の外来系土器土器の約半数を占める東海の尾張王が倭国遠征軍の主将だと推理した。

そして、尾張王(仲哀天皇)と対立したのは山陰・北陸・近江の勢力であり、近江・越は神功皇后のモデルとなった台与の勢力範囲だったので、武内宿禰が、台与を女王に立てて倭国王となった狗奴国の官で出雲・丹波王狗古智卑狗だと推理した(狗古智卑狗という人物?(^_-)-☆)。台与と卑弥呼は日本海沿岸部を支配し半島南部を活動圏に置いていた縄文海人ムナカタ族の姫巫女だということだ。結局、狗古智卑狗は当時の列島主要部をほとんど版図とする倭国を支配したので後世に出雲の大国主と呼ばれた人物なのだ。

殺された尾張王(仲哀天皇)の墓は、九州で最古級の前方後方墳である鳥栖市の赤坂古墳だと推理した(注4)。女王台与を「日本書紀」では仲哀天皇の皇后のモデルとしたのは、近江と尾張は親密な関係で、婚姻関係もあったからではないだろうか。東海が近江の墓制である前方後方墳を採用していることから分かる。



【参考記事】古代史の謎を推理する(^_-)-☆




(注1)神郷亀塚古墳は乎加(おか)神社の社地にあり、「豊遠迦比売命(豊岡姫命)を主祭神とし、白山比売(白山比咩神)を配祀する。」とWiki にあった。豊岡姫命と言っているが、ここでも台与を祀っていた(本当は怖い七福神の謎(;一_一))。やはり台与は近江が出身地だと思う。つまり近江の豪族息長氏の祖である神功皇后(おきながたらしひめ)のモデルが台与ということだろう( ^)o(^ )

(注2)福岡の庄内甕については、福岡市博物館のアーカイブNo.305[平成19年9月4日(火)~平成20年1月14日(月祝)]に以下の記事ある。
人が集い モノが集う
(途中省略)
奈良盆地では庄内式土器とよばれる、非常に薄手で軽い甕が作られました。この奈良盆地産の庄内甕は単に福岡平野に持ち込まれただけでなく、在地の土器作りにも影響を与え、庄内甕とよく似た甕が作られるようになりました。
この頃に纏向ヤマト勢が福岡をはじめ北部九州を占領し、在地の人々とも交流したということのようだ。

(注3)写真の手あぶり型土器は滋賀県斗西(とにし)遺跡の斗西Ⅲ期(250-300年、庄内新式に対応)の鉢がベースだと思われる(植田文雄「【前方後方墳】の謎」学生社2007,pp.33-43)。

(注4)植田文雄さんは吉野ヶ里遺跡の4基と赤坂古墳もすべて4期(270-300年)の前方後方墳としているが(植田前掲書p.124)、手あぶり土器は3期(250-270年)に見られるとあり(植田前掲書p.122)、近江の首長や一族の将軍が使用するものであり、吉野ヶ里のものは3期の可能性がある。

3世紀後半頃、吉野ヶ里遺跡全体を取り囲む環壕は、ほぼ埋没し、北内郭、南内郭とともにその機能が失われてしまったと考えられています。それと前後して、南内郭付近の丘陵部には4基の前方後方墳が築かれます。吉野ヶ里丘陵の南部一帯は、人々の生活する集落から、人が葬られる埋葬の地へと変化したようです。
吉野ヶ里に集まって住んでいた人々は、どこに行ったのでしょうか?
弥生時代の終焉と共に、どこかへと移り住んでしまったのでしょうか?
吉野ヶ里歴史公園「吉野ヶ里遺跡の終焉」 より)

台与と大国主が倭国を支配することによって吉野ヶ里遺跡は終焉したものと思われる。恐らく、奴国大王のスサノヲを殺した恨みのある師升一族と関連がありそうだ(倭王帥升(すいしょう)は何者だ?(´・ω・`))。軍事的な意味もなくなったので、拠点集落は消滅させられたのだろう。

人が住まなくなった4期(270-300年)の吉野ヶ里遺跡に近江系の前方後方墳を造ることは考えにくいのだ。4基の前方後方墳は3期(250-270年)に築造された台与の近江勢のものだろう。

そうであれば、それらよりも古いと見られている赤坂古墳についても3期(250-270年)となるから尾張王(仲哀天皇)の墓だろう。



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