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安田義定ゆかりの甲斐国「牧ノ荘」を辿る!③安田義定築城の小田野山城跡!18-11

2018-11-01 | 山梨、往古の歴史と伝説!

安田義定は「牧ノ荘」を領地に、天下の副将軍として活躍!

今号は、かなり広域だった「牧ノ荘」(現山梨市牧丘)の要衝、

その要害城であったと云う「小田野山城跡」から訪ねて見る! 


牧丘(旧中牧郷の牧の要)辺りから望む丘陵地風景!写真に大菩薩連嶺!

シリーズ前②号で「牧ノ荘」の要であった「旧中牧郷」に

ついて紹介したので、今号では省略するが、写真で見るように

貴重な丘陵地である。現在、牧丘は「巨峰」の産地として有名! 


牧丘を訪ねると「北部背景は険しい山岳に囲まれ、丘陵地は少ない!」

往古「牧ノ荘」を領地にした安田義定は、上絵図で連想すると、

三枝氏から引き継いだ、背後にある大弛峠から繋がる金峯山筋

から奥秩父山塊の一ノ瀬高橋周辺にかけての鉱石や砂金採集と

塩山小田原に精錬鍛冶場を開発したのではないかと考察できる。

その後世には一ノ瀬高橋地域の竜喰金山遺跡、牛王山金山遺跡、

金湯沢金山遺跡等が伝わる。

また平沢には鈴庫鉱山遺跡、増田鉱山遺跡、黄金沢金山遺跡等

も伝えられており、往時は金鉱開発まで進んでいなかったよう

だが、鉱石の他、砂金も採集されて、製錬技術も導入され、

精錬まで行って財力になっていたものと考察している。

それらの伝承を連想すると、往時より塩山上萩原~下萩原には、

「金の道」と呼ばれた道もあり、萩原山の黒川金山等・・・は、

平安時代~鎌倉時代には既に安田義定が砂金等の採集を行って

いたと云う説の根拠にもなると云える。

故に、旧青梅街道北線の小田原地域には鍛冶職守護神の金矢

大神を祀る金井加利神社、原之京鍛冶遺構もあり、鍛冶屋沢、

鍛冶屋向等の地名も残り、同時期の創建と云われる金剛山福蔵院

は安田義定の館跡説も伝わり、金山開発の工具や鉱石の精製等

が行われた可能性を示している。※今号は牧丘域のことなので省略。

山梨県歴史の道、甲州市外郭域発掘調査報告書等参照。

そのような伝説を辿ると、安田義定は、古代甲斐国の時代より、

三枝氏が統治・開発を始めた峡東の鉱山開発を引き継ぎ、砂金

の採集と精錬を行って、それを軍資金にして、源平の合戦を機

に天下に向けて軍旗を揚げた勇将とも言える。

因みにその領地を継いだのが、甲斐武田家中興の本拠を八代の

赤甲城から、有力な地盤とみて千野郷へ本拠を移転し千野館(後

慈徳院)を築いた第12代甲斐守護武田信成と第13代信春親子で

あり、武田信虎、武田信玄へと続いて、信玄時代には黒川金山の

金鉱採掘は最盛期を迎えて、武田信玄の上洛への軍資金となった

ことは云うまでもないと想像する。※残念だが信玄も病死で上洛できなかった。

江戸時代になっても、徳川家康は、武田時代より金鉱開発の技術

統括をしていた大久保長安を登用し、甲斐国の金鉱を引き継いで、

その後、佐渡金山などの開発に大久保長安を登用したことは、

周知のとおりです※甲斐金山の物語りだけでも話は尽きないがここでは省略する。


安田義定ゆかりの要衝小田野山城跡を中心に記すと要所は多彩に点在する!

安田義定が開拓したと考察した要所を辿る前に、安田義定と

牧丘について「牧丘町誌」にて若干概要を把握しておきたい。

牧丘町誌第二節、安田義定と牧丘の項によると・・・

「安田義定は長承三年(1134)3月10日、現在の北巨摩郡須玉町若神子

生まれたと伝える。武田系図によると清光の四男となっているが、

吾妻鏡によると「安田冠者義清が四男」とあることから、義清の子供で

あり、それも三男で清光の弟と考えられる。」・・・と解説される。

安田義定については、北杜市高根町熱那庄八幡神社の社記に「八幡宮御像

は当国武田の元祖新羅三郎義光末孫安田三郎義定公御勧請に而御座候」と

あり・・・、土地の伝えでは社殿を義定が再興したと伝えているので、

吾妻鏡によると安田冠者と云ったこともあるので、義清の所領を受け継い

のではないかと思うと記されているので、本ブログに登場する安田義定

武田義清の四男の安田義定と見ている。注)義清は信玄の武田家始祖。


 その安田義定が晩年統治していた荘園を見ると、当町を

中心とする牧ノ庄(荘園)と加納庄(荘園)であると伝える。

注)牧ノ庄は、前号で述べた通りであるが、範囲は広域すぎて推定するのみ。

加納庄は現在の山梨市上神内川あたりと云う説と一宮町金川原とする説あり。

安田氏との関わりのある史跡から見ると小原の館跡、雲光寺、窪八幡神社等

から見ると山梨市説をとりたいが、長寛勘文にみる安多庄が加納田である

で、安田氏の加納庄と一致するので一宮説が位置的に見て考えられる。

とあるも、このような学説的判断は専門家に委ねて、本ブログは進めたい。 


安田義定は、牧丘町誌を参照すると・・・、

甲斐源氏として初出陣と云われる治承4年(1180)年8月25日、

工藤庄司景光、同子息小次郎幸光、市川別当行房らと「石橋山

の合戦」を聞き、駆けつけたことが「吾妻鏡」に見えており、

甲斐源氏の最初の出陣と見られている。注)頼朝の敗戦と云う。

以後、安田義定は富士川の戦いの戦勝を期にその功賞で

朝廷でも評価され「駿河守」に任ぜられるなど貢献は大きい。

そして一ノ谷、ひよどり越の合戦、屋島、壇ノ浦の合戦など

あの牛若丸こと源義経を将軍に、天下の副将軍として平家討伐

を見事に果たし、源平合戦による数々の功績によって鎌倉幕府

の開府に際しては、天下の要職を務めることになる。

残念ながら、甲斐源氏武田義清等武田家一党の力を恐れ、特に

安田義定は源頼朝その腹心の讒言によって、謀反の罪を着せ

られたりして、漸次、追い詰められて自刃したようだ。

子息の義資とともに不運の武将として語られているが・・・、

筆者は天下の副将軍として活躍したことや、朝廷にて「従五

位の下」に昇格、「駿河守」に任ぜられたこと、源平合戦の

功績などあの武田信玄に劣らぬ武将であると思うが、安田義定

往古甲斐国の英雄の一人であったと云える武将である!

その遺跡については数々の謎も残るが歴史ロマンが伝わるので、

黙々と要所、要所を辿って、シリーズで発信しようと思います。


西保下の城下から見上げる安田義定ゆかりの要衝小田野山(城跡)!

※写真は城下より望む小田野山(正面城跡)と安田義定開基の普門寺方面!


 如何にも山城に相応しい峻険の小田野山(城跡)を望む!

その小田野山城跡は、東山梨郡牧丘町大字西保下地内の

小田野山にあり、現在は西保下部分林となっている。

平安時代~鎌倉初期に安田義定が標高883mの山上に要害城

(山城)を築いたと伝えられる。往時は、写真の十王入り沢

は小田野城の命水場であったと云われる。

城戸口には安田義定が建久年間(1190~1199)に建立した

寺院と伝え、南麓には「城下」、「御所」、「馬場」等の地名

が残る。地元では城山(じょうやま)と呼んでいる。

「王代記」には、跡部上総守西保小田城ニテ腹切」とあり、

中世寛政年間(1460~66)に至っても使用されていた。

甲斐国志では「小田ノ谷とありて、山内広く巨摩郡に接し、

古時は西保四村(中村、下村、北原、牧平)一帯に小田ノ谷

と呼びたるを中世、牧ノ庄を置き牧場となし、馬場によって

中牧、武川、西保(保字疑わくば部の字を転訛ならん)等の

分名できると見えたり、また・・・・今存するところの城跡

は、安田遠江守義定の要害なり。・・・以下、下段に続く。


小田野城跡の見取り図※牧丘町誌掲載図より複写(蔵王権現より登る)

 

甲斐国志記述より続く~「山上の本丸に櫓跡荒塁あり、

二ノ丸に龍石雌雄あり三ノ丸に蔵王権現を祀る。箭竹あり、

養生して節を齊くす。

柳清水、烏帽子石、呼石(よばりいし)あり。

外川子丑の方より回りて溝となる西保川は南麓を東流す。

ここに至りて鼓川と名ずく域は、城溝に水を蓄える。

故に、堤川とも云う。

この小田野城跡は、現在は荒れているので踏査の写真は掲載し

ないが、現在は最近登山して撮影した人が、Web掲載している

のでご覧あれ。

寛政6年(1465)に武田氏との間で甲斐守護の地位を争って、

跡部景家が武田信昌に追い詰められてここで落城したようだが、

この城郭跡を見た人で、これは中世の城跡と云う人もいるも、

自害沢、生捕、穏家、切差などの地名はこの時代後と見ている。

筆者は、「牧ノ庄」を領地とした「安田義定の要害城跡」

考察する。※跡部氏の時代に小田野山城を使う場合に改造しされたと考えている。

代の歴史ロマンは謎だらけと云えば謎のままだが、口伝も

信じれば歴史のロマンが蘇ってくるものも多いと信じている。

何故なら”民”の言い伝えは、口伝が唯一の手段であったから。 

※何故なら役人や武家以外は文章が書ける人が殆ど居なかったからである。


  甲斐豪族の三枝氏が峡東に精力を注いだのは・・・、

一つには、一ノ瀬高橋周辺の黒川鶏冠山の砂金(金鉱)を始め

鉱山であり、もう一つは「御牧」で牧場経営であったと考える。

従って、安田義定が選んでこの地を領地としたのは、三枝氏と

全く同じ考えであったと思われる。

もちろん、前述の通り、三枝氏~安田氏の後は、甲斐守護

武田氏第11代信成と第12代信春が千野館を構えて、地盤を

後継し、後に、本拠こそ躑躅ケ崎(現甲府市)に構えるも、

武田信虎~信玄の時代に至って、峡東は特に黒川金山の発掘

は最盛期になったと云われる通り、発展をしたものである。

それほど、古代甲斐国の時代より、いわゆる峡東は、活力の

あった地域だと云うことが分かる。従って、その中心であった

現甲州市、山梨市、そして笛吹市は、往古から如何に甲斐国の

中心拠点であったかを知ることができるが、今は温故知新精神

で学んでいるのの、なかなか掴めないところもある。

ただ言えることは「峡東は革新期に来ていることは確か!?」

今は、温故知新の温故を知るため、黙々と辿ることを続けたい。


 



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