伝安田義定創建の「妙高山普門寺」は「小田野山城」の城戸に!
今号は、安田義定要害城跡と伝わる小田野山城の東城戸にあたる
位置に、伝安田義定開基の古刹「卍妙高山普門寺」を辿る!
城下から見る小田野山城(跡)東城戸(稜線の凹み)に妙高山普門寺!
※写真中央、白いガードレールのフルーツラインに沿って、
「妙高山普門寺」が見える!所在地は山梨市牧丘町西保下3631。
最寄りバス停は山梨市営バスで「小田野」、又は「城下」より登る。
安田義定ゆかりの小田野山の山容~天然要塞として好立地!
上写真で見ると「普門寺の位置は、小田野山東端にあたる城戸にあたる」
昭和初期の小田野山中牧村郷土史掲載より牧丘馬場から望む小田野山!
注)写真右の山容が現在の小田野山。山頂が主郭部で、稜線の東端城戸に普門寺!
大手筋は、普門寺裏から登る東尾根で、津島神社、蔵王権現が祀られる。
山城としては山梨県最古の城跡とも云われているが、専門家
の間では昭和年代の調査によるも、安田義定が築城したと云う時代
の様式は見られず、中世に跡部氏の要害城とされた際に改造され
たものと考察できると云う解説もある。
①「小田野山城跡」と伝安田義定開基の「妙高山普門寺」は、位牌
に記す建久5年(1194年)8月19日以前に、堂宇が創建されたと考察。
寺伝では・・・、開創は行基菩薩、開基は安田義定と云われ、
その昔、聖武天帝の勅命を奉じ、諸国に国分寺を建立した僧行基
が甲斐に入国した折り、この小田野山の山腹に草庵を建立し自ら
彫刻した薬師瑠璃光如来坐像一体を安置し人々に崇信することを
説き立ち去ったと云う。
この堂宇こそ、当寺の草創であり、今も行基坂、行基の腰掛石等の
地名あり・・・と伝わる。
小田野城築城年と普門寺の創建年は不詳とされているが・・・、
筆者は、建久年間(元年から3年頃=鎌倉幕府開府と安田氏全盛)
小田野山城築城とともに、城戸口に行基作と伝わる薬師如来像を
遷して安置し、当寺の草庵を開基したと云う。
寺伝では・・・、時は流れ、当地領主安田義定公が小田野山に要害
築城の折、城域に建つ荒廃した堂宇(里人は阿弥陀堂と呼んだ)
を修建し、薬師如来を本尊として安置し、山門、庫裏等を建立し、
寺名も真言宗「富向山薬師寺」として安田公一族の祈願寺とした。
行基開創説は諸説ある。聖武天皇の御代、朝廷に疎まれていた
養老年間から一転し、天平年間には聖武帝により朝廷に招聘され、
仏教の教えに基づいた政治体制普及の統括として采配を振るう
ことになった。特に東大寺大仏殿の勧進の成功を収めた貢献に
より、聖武天皇から「大僧正」の最高位を賜った頃・・・、
特に行基上人が甲斐に入国した記録はなくても、行基作の仏像
「薬師如来」等の下賜があったことで伝行基開基とした寺院が多い
のは甲斐国ばかりではなく、地方国の趨勢でもあったと云う。
奈良時代より始まった寺院の戦略的配置は、平安時代、鎌倉時代
に渡って継承され、鎌倉幕府開府に貢献した安田義定の全盛期を
迎えるに「牧ノ荘の財源を背景にした重要な要害城」であったとも
考察できる。
②小田野山に要害城を築城した安田義定の狙いは、「牧ノ荘」を
統治するに、牧(軍馬補充)他、奥秩父山塊の砂金や鉱山開発
(前号記述)も主軸にしていたと見ていて、「本拠の館」は現山梨市
小原に置き、中牧郷には御所(西御所)を構えて、その要害城とし
て「小田野山城」を備えたと見られる。
従って筆者は、「新編慕書」に「牧ノ荘」の中央を中牧と称し、杣口、
千野、城居寺、窪平、倉科、是なり」とあるも、鉱山に着目していた
ことを加えれば、「牧ノ荘」域は特に銘文の残る羅漢寺域から塩山・
一ノ瀬高橋域まで広域であったとしても頷ける。
筆者は、このような論議には疎いので専門家に委ねたいが・・・、
特に古代から中世のことは、里人の伝承を特に重視したいもの。
故に、YS記では、鎌倉幕府開府にあれだけ貢献した安田義定の背景として、
①本拠の「安田館」周辺の「七日子神社」が語るように貢米の宝庫であった。
②「奥秩父山塊の砂金」開発により、軍資金の調達を可能にした。
③「御牧」による軍馬補充体制が、「牧ノ荘」を背景に、軍事の備えを強力にして、
備えは万全であったことが伺える。
それ故に、征夷大将軍となった源氏の頭領源頼朝の嫉妬と思える対象になって、
武田信玄以上に「不運の武将」であるとも云えるが、筆者は「安田義定は牧ノ荘
を背景に、武家社会を築くために功労のあった英雄の一人」であったとも思って
いる。そして「武田信玄はその後に続いた英雄であると・・・!」
古刹「妙高山普門寺」は、あの安田義定が伝開基(創建)!
普門寺の石段は、”ただ一生懸命に登ると雑念は消える”と・・・!
「甲斐国志」によると「西保下にあり。曹洞宗落合村永昌院末。
本尊は薬師(如来)。寺記に云う保田氏の城跡に建つ。
境内70間、50間。遠州義定の牌子を置く。開基曾覚定光大禅定門
建久六乙卯年八月十九日とあり。注YS記位牌は建久5年が正しい。
按に甲陽随筆に義定の廟所は西保下村に阿弥陀堂とあるは是か。
古くは真言宗なりしが、明暦中永昌13世撫天を請じて当宗となれり
と云う。宝永寺記作富向山。行基坂、同腰掛坂寺の辰巳にあり」と。
妙高山普門寺は石段を上ると「薬師堂を左側に、本堂へ辿り着く」
中牧村郷土史による昭和初期の「財産」は次の様な規模であった。
1:境内 二反二畝三歩 1:墓地 四畝十九歩 1:田 二反七畝十三歩
1:畑 八反一畝二十四歩 1:山林 四反二畝O三歩 ※各地価省略。
荘厳の妙高山普門寺本堂は明暦年間に再興された!
「明暦年間に永昌院第十三世撫天性明和尚を以て、曹洞宗に転宗、現今
の堂宇に修築せり依って中興轉宗開山とす」と中牧村郷土史に記される!
以後、幾度も住職や檀徒によって修復されて、今も輝く!
寺号生起によると「院寺の真西は安田義定の城蹟にして、即小田山は雲際
に聳え、鼓川は南麓を東流し、外川の流水は北より東南に巡り、地勢天険にして
流水の音妙なるが故に、妙高の二字を以て山号」となす。
天平年間行基菩薩の本尊を彫刻せし時、石上に胡座して「普門品を補讀せし故」
に「普門寺」と称す。
普門寺より望む展望風景は、南に富士山、東に大菩薩連嶺を眺める!