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あの草むらへ。

2018年09月17日 | Weblog

【登場人物】

窓の外に鳴く、草ムラの中の秋の虫たち。
裏山に住むカラスの親子
美しい声で鳴くヒヨドリ

【家猫】 

◆寛太 (天涯孤独の野良猫、幼い時に左目をカラスに突かれて今でも涙を流している) 

◆小弾  (チャーリーと仲の良かった雌猫ジョビの子供、数匹のうち、売れ残りの一匹、雪のような白いからだ。純粋無垢の魂。僕が溺愛中だが、オジサンはうら若き小弾に、距離を置かれている。)

◆チャーリー(さすらいの外国猫、サイベリアン・ロシアの土着猫そっくり大柄な体)北国生まれなのに何故、うちにさ迷いこんで来たのか謎。今年の猛暑を風呂場でなんとか乗り切る)

◆網戸登り三姉妹。(先日母猫、日奈子(三毛猫)の突然の死により、やむを得ず、保護して我が家の2階のベランダで暮らす子猫三姉妹、このまま引き取り手がないと、家猫に昇格、3匹とも全部同じ柄、尻尾の形で見分けるしかない)※日名子の死因は不明だが、前日「キュウリモミ」をくちゃくちゃ食べていた姿を目撃す。)

【我が家の外猫】

◆ハチ(顔に八の字の柄、とても性格がよく兄弟思いのオス猫。日名子と兄弟)

◆クロ(黒猫でとても性格が良い、尻尾が丸まっている。温厚ながらもドンゴロスの襲撃に立ち向かい、夜中に、ものすごい悲鳴をあげて逃げる)

◆灰色おばさん(妹が勝手に連れ込んだ猫、全身灰色、定期的に妊娠するも育児放棄、性格はひなびて温厚)

◆渦巻ネコ(アメリカンショートヘヤーの雑種)近所の老人の中では、外国猫で値段も高いと噂される)お腹部分に黒いうずまき。あとからうちにとたどり着き仲間にいれてもらった恩義があり、餌も控え目)

◆松次郎。(ふぃと登場、天涯孤独で黒うした分、性格も荒め。一人生き抜いてきた、全身黒に顔の正面の部分がとんがった白い山形の柄、若いやくざもののくせに少し慣れてきた)

【地猫ども】

◆おきつね様
最初おきつね様を見た時に僕は、近くの権現宮に祀ってあるお稲荷さんの生まれ変わり、白い狐だと思った。権現宮の鳥居をくぐり石段を降りて来たのである。権現宮の宮守、漁師の上杉さんの奥さんの右肩に乗り…お狐様の後ろには神々しい光がさしていた。お狐様の姿は純白で、L字型にまがった尻尾と尖った両耳の部分だけが黄金色(黄色・・・)だった。上杉さんの奥さんは僕以上に猫好き(とり憑かれている)で散歩中は、お狐様を肩に乗せている。

◆どんごろす
向かいの川口さん宅を根城にする、性格最悪のオス猫。町内で一番喧嘩が強い、全身薄汚れた黄色。尻尾がひん曲がり、顔はいつも困った顔をして、まるで子猫のように、「にゃお、にゃお」と鳴いて餌を欲しがるが、か弱いふりして夜な夜な我が家を襲撃する、時に待ち伏せでチャーリーの野良時の天敵。うちの外猫どもの贅沢な食事が許せないらしい。地域の猫の種親として、君臨している。どんごろすを捕まえないことには、うちの町内の猫は増加を続けるのだ。

【僕】

毎朝3時に目が覚める。なにしろ午後9時にはすとんと寝てしまうから。仕方ない。部屋の窓は半分開いていて、網戸からひんやり冷たい風が吹いてくる。僕の部屋は二階の窓際で、すぐ下には草むらがある。季節は秋に近く、虫の声がする。早朝ぼんやりと明るくなると、裏山の方から、美しいヒト鳥のさえずる声が聞こえる、台風に大雨、鳥たちは毎朝、命があることが本当にうれしくて、美しい声で囀るのだ。その声に反応して、うちの小弾が、ウサギのようにぴょんとベッドに飛び乗り、窓際に両手を突き、背筋を精一杯伸ばして、その声を網戸越しに聞いている。寛太は相変わらず寝たままだ。しばらくしてカラスの家族の目覚めの乾いた声があたりに響き始めると、ヒヨ鳥の声は消え、ガアガアとカラスの親子の会話がはじまる。

昨日の昼は大変だった。空き地でものすごい猫の喧嘩が始まった。てっきりドンゴロスと、黒か八の縄張り争いかと思いきや、お狐様と渦巻猫のタイマンだった、お互い向かい合い一歩も引くところがない。お狐様のL字の尻尾が黄金に輝き震える。渦巻猫のお腹の渦巻がぐるぐる黒いとぐろを巻く。他の猫どもは草の陰でこっそりその戦いを見つめているのだろう。白昼の決闘。あたりの時間が止まったようだ。電柱の上でカラスも緊張しながら見ている。二匹のものすごい怒号、叫び声。えんえん30分にらみあいとジャブの打ち合いが続く。何かあれば、階段を駆け下り、渦巻猫を助っ人しなければいかぬ。結局のところ、どちらも怪我もせず、何も起こらず、収まった。お互い「今日は、このくらいにしといたる」とでも言いそうなそぶりで、その場を去った。

僕の頭の中に「鳥獣戯画」という言葉が浮かんだ。

あの有名な絵巻で、カエルとウサギが相撲を取ったり、ウサギが川にダイビングしたり、鳥や獣が戯れる姿が生き生きと墨で書かれてある国宝絵巻だ。平安時代、甲乙丙丁の4巻に描かれて、京都の高山寺に所蔵されている。作者が不詳、何故書かれたか、謎の多い文化財と言われるが、僕が思うに、山深いお寺で座禅中の絵のうまいお坊さんが、醜い人間どもの暮らしに耳を塞いで悩んでいるうちに、お寺の周りの生き物の姿がうらやましく見えたからに違いない。カエルの阿弥陀如来に猿がお経を唱えたり、人の暮らしを真似たり茶化したり、ユーモアたっぷりのタッチなのだが、ながめているとなんだかうらやましい世界、空間なのだ。当然、生き物たちには激しい生存競争はあるものの、お互い恨みっこなしなのだ。つまり、人間を除いた、生き物たちは、明日のことは悩まない。生きているのは今だけなのだ。過去も未来も悩まない。うさぎとカエルが相撲を取っても、お狐様と渦巻猫が激しい取っ組み合いをしても、同じことか。

そういう意味で、結構な過疎地に住む僕は、幸せなのかもしれない。うちの周りの集落は人より猫の数が多いし、何の干渉もない。鳥獣戯画の絵巻に囲まれて生きる幸せをもっと実感しようではいか。(これ以上猫が増えたらうちは破産寸前なので、その絵巻の中の一匹のカエルに変身するしかないのだろうなぁ)僕が死んだら、僕の棺は猫たちが運んでくれるような気がするよ、あの草むらへ。




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