小笠原諸島・母島ジャイアン ブログ  -GIAN'S HAPPY BLOG-小笠原諸島・母島で自然農&便利屋

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その中や暮らしで学んだことを紹介したいと思います♪

ペサウ号~ヤップから小笠原へカヌーで渡った物語

2020年09月28日 | アウトリガーカヌー
■1986年(昭和61年)、
ミクロネシアのヤップ島からタマナで作った手作りアウトリガーカヌー「ペサウ号」で
3,000㎞の海を越えて小笠原・父島に伝統航海術で渡ってきたという話。

僕は父島に残されたカヌーの現状を見る為に行った時に、この話をビジターセンター聞き、心底驚きました。
そんな大きな出来事があったなんて!!!

Facebookにも投稿して、当時の話を知っている人から少し情報も頂けました。
しかし、もの凄い偉業を達成した割にはあまり詳細は見えてきませんでした。

ところが、ふとした時にこの時の様子を描いている本を中古で発見したのです!
「おじいさんのはじめての航海 著・大内青琥(理論社)」
どこかの図書室の廃棄図書だったようで、とても安く手に入りました♪
父島の図書室にはあるかもですね~

先日の日曜日、妻と次女が北港でSUPしている間に大半を読むことができました。(何時間も遊んでいたのでw)
当時の様子がとても丁寧なイラスト付きで描かれています。

なんと筆者もペサウ号に同乗していたんですね(笑)。
ちなみにヤップ島はミクロネシア連邦でグアムとパラオのだいたい中間地点位に位置しています。

■本には船長であるガアヤンがこの航海をするために、
当時ヤップですらFRPの船に移行していた時期で、
現役のアウトリガーカヌーが無い状態で手探りで、しかも数年かけて建造している様子が描かれています。

ガアヤンは当時70代で酋長。
カヌーで外洋を航海して島を渡った経験もない事実を知りました。

興味のある方はぜひ読んでほしいのですが、
そのヤップの人々の暮らしの様子、
人間模様がとても丁寧に描かれています。

材料のタマナを切り倒す所、なんといきなり斧で倒しては貴重な材を割る危険があるので、
根を掘って、根を一本一本切っていく。
木を彫るのは、木が育つ速度で掘っていく意識。
1日1~2食で、航海に向けてどんどん粗食に慣らしていく様。
一度、遠くの島に実験航海を行い、帆綱が切れて助けてもらう、など。
本当に手探りで、でもなんとか実現させた偉業だったと思います。

当時のガアヤンへのインタビュー記事がありました。


■とても興味深い話があります。
【海はわれらをつなぐもので、われらを引き離すものではない。
…ミクロネシアの歴史は、人々が筏やカヌーで海を探索した時から始まった。
ミクロネシアの国は星をたよりに航海した時に生まれた。
われらの世界はそれ自体ひとつの島であった…】

ミクロネシア連邦の憲法前文の一部だそうです。(P133より抜粋)

これが憲法前文に書かれているなんて、なんて素敵な所なのでしょう。

ちなみにスターナビゲーションという伝統航海術を復活させた、有名なハワイのホクレア号。
そのナイノア・トンプソンに星の航海術(スターナビゲーション)を伝えた
マウ・ピアイルックが住むサタワル島もミクロネシア連邦ヤップ州です。

※昔は竹と貝殻で描いた海図が用いられていたそうです

今回のペサウ号は最初はガアヤンのスターナビゲーションで航海していたそうですが、
ヤップからグアムに向けての840㎞の航海の途中であまりに西に流されてしまい、
伝統航海術は断念して、伴走のヨットにルートをフォローしてもらっていたそうです。
(それまでヨットのクルーはルートが外れても、一切口出ししない約束だったそうです)

ホクレアに伝えたマウ師匠のように、口述で航海術を伝承を受けたわけではない、ガアヤン。
それでも、星だけでなく、波や雲でだいたいの島を当ててしまうセンスを持っていたと書かれています。
そこはほんとさすがだと思います。

最終的には無事に父島に辿り着くのですが、
残念ながら本には伝統航海術をやめて、父島に着くまでのくだり、
着いてからの話もあまり描かれていません。

この写真は小笠原返還20周年記念誌に掲載されている到着歓迎の様子です。
盛大にセレモニーが挙行されていますね。

当時を知っている人から聞くと、
出来たばかりの扇浦の宿ビーチコマに泊まったそうです。

ホクレアの最初の航海と同じく、
長い航海でクルー同士が仲が悪くなってしまい、到着後はバラバラになってしまったとか。
本に詳しく書けないのはこうした雰囲気だからでしょうか?

それはホクレアがタヒチに着いた時に、
スターナビゲーター、マウさんが「もうこの船には乗らない」といった大きな理由がクルー同士の不仲だといいます。

無理もありません。
本当に狭い所で1ヶ月以上、極限の状態で過ごすわけなので、
「まったく自分を飾る事はできず、そのままになる」と言ったホクレアクルーの言葉が象徴しています。

ホクレアはこの不仲以降は特にこの部分を気をつけていると推察します。
違う価値観の人間が上手に支え合って航海する…
まさにここに世界の平和のヒントが隠されていると思うので、
ぜひ学びたいところだと思っています。



■いずれにせよ、70歳を超える船長ガーヤンから20代までのヤップのクルーが、
自分たちで手作りした、木造の伝統アウトリガーヌーを帆走(一部動力にも頼ったとか)でヤップ~~小笠原を航海した偉業は素晴らしいと思います。

船を数年かけて建造し、
実験航海を経ても、
ミクロネシアの大統領が認めても、日本側の許可がおりなかったり、
いざ出港する時には多くの人が集まったけど、風のタイミングをひたすらに待ったり、
自分の年齢がどんどん厳しくなる中、
「これを終えたら、ただのおじいちゃんになるからね」と家族に約束する中、
本当に根気強く進めた、結晶だと思います。

僕が小笠原の郷土芸能「南洋踊り」で首にかける首飾り。
これは母島の南洋踊りの酋長でもある小高さんがヤップ島からのお土産と僕にプレゼントしてくれたものです。

ホクレアとヤップ。
小笠原とヤップ。

なんだかこんなところで繋がるのもなんだか不思議で嬉しい限りです♪
いつかヤップ島にも行かなければいけませんね(#^.^#)

僕も娘たちも踊っている南洋踊り。
この踊りが小笠原に渡って来たのも、南洋諸島(サイパンなど)から
大正、昭和初期に小笠原に渡って来たと言われています。

東京都無形文化財に指定されている南洋踊り。
僕もヤップ島があるミクロネシアと文化的に繋がっているのです。


■作中にはこんな素敵な昔話がありました。
【若いカヌーの木が恋をした
可愛いヤシの実もやはりカヌーの木が大好きでしたよ
「私はいつか、あなたを縛るヤシのロープになりたい」
たくましい枝が動いて、タマナの木は嬉しそうに約束したよ
「きっといつか、お前と一緒に、遠い海の向こうへ行こうよ」
でも、木はまだ若すぎた

可愛いヤシの実は根が生えて、どんどん育って、そのうちカヌーの木を追い越した
とうとう、ヤシロープにはされなかったのさ

高いヤシの木から、また、実が落ちた
落ちた実は育って、やがてまた、実を落とした
3度実が落ちた時、ヤシの実はそっと聞いたよ

「あなたはまだ、昔の約束を忘れていない?」
カヌーの木はビックリだ
ヤシの木よりずっと背が高かったけれど、もう100歳のおじいさんだったからね

可愛い娘の声にドキドキしたからおじいさんは答えられなかった
すると、山のあちこちで、クスクス笑う声がしてきたよ
どうする?
さあ、お前さんだったらどうする?】


そこで一度、聞き手に質問しちゃったり…
続けて

【山の向こうからは、パンノキがからかった
「くっつけ、くっつけ、俺もしっかりくっついて、お前たちの浮き木となって、守ってやろう」
どこかで竹が 風にキシキシ笑った
「なんだか、久しぶりの話だな。俺が帆柱なら、ワヤン大船長もきっと大安心だよ」
ヤシの実は、眩しそうに100歳のカヌーの木を見上げ、一生懸命にささやいた
「私は、ずっと昔に、遠い海から流れて来たの。
だからきっと海ではあなたの大きな力になる。
もしも、あなたの心がまだ分かりませんなら…】(P65より抜粋)

いきなりここで話が変わってしまいます(笑)。

なんだかこの話のくだりと雰囲気がとても好きです。

小笠原にはこうした話が幾つもあったはずですが、なかなか聞くことは少ないです。


■最後にこのペサウ号が今も保存されている園田女子大学についてです。
こちらはこのペサウ号の安全のために伴走したヨットのスポンサーになってくれたそうです。
条件は、その後ペサウ号を預かり、展示させてもらう事。
園田女子大学のページにも載っていますし、
Youtubeにもその映像がアップされていました。


映像を見ると、さらに色んな情景を思い浮かぶ事ができて、
当時の様子を感じる事ができます。

このペサウ号の事についてはまだまだ知っている人もいそうだし、
村の教育委員会にも何かしら資料は残っているはずなので、
また父島に行ったときには調べてみたいと思います。

もし知っている人、知っていることがあれば教えて下さい!!


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