摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

陶荒田神社(すえあらた神社:堺市中区上之) ~ ”陶邑”と三輪(大神)の強きつながり、そして百舌鳥・古市古墳群時代の三輪・加茂氏 ~

2019年09月21日 | 大阪・南摂津・和泉・河内


南海電鉄泉北高速鉄道の深井駅から、田園線バスのあみだ池行きで15分程乗ると、左手に陶荒田神社の鎮座する”太田の森”が見えてきます。バス停「上之」からすぐのところです。ちなみにこの田園線バスは堺東駅から出ていて、深井から堺東方向に乗れば、ニサンザイ古墳、御廟山古墳(車窓からは見えない)、そして大山古墳拝所前を結ぶ、百舌鳥古墳群陵墓巡りコースになっています。帰りは上之からノンビリ堺東まで乗りました。


・太田の森

【ご由緒】

言うまでもなくこの辺りは、記紀に記された茅渟県陶村(或いは美怒村)にあたるとされ、奈良県桜井市の大神神社の初代神主、大田田根子が探し出されたという地です。崇神天皇の時代、この御方が三輪山に行き大物主神を祭ったところ、疫病が止んで天下が収まった話が有名。神社の鎮守の森”太田の森”の名は大田田根子にちなみます。また、神社名の”陶”は、記紀に大田田根子の母或いはその先祖と記される活玉依姫の父、陶津耳から来ており、また須恵器のスエだと理解されてます。陶荒田神社の近郊は発掘成果からも須恵器生産の本拠地であり、現在でも「陶器大社」とされる所以です。


・バス停横に鳥居が残されています

【ご祭神、祭祀氏族】

一方、”荒田”は、神社の主のご祭神、高魂命と剣根命にちなみます。「新撰姓氏録」には、”荒田直。高魂命五世の孫、剣根命の後なり”とあり、また同じ氏として、葛城忌寸と葛城直が載っています。これは、有名な武内宿祢~葛城襲津彦を祖とする葛城臣とは全く別で、「日本書紀」の神武天皇二年に”剣根を以て葛城国造と為す”とあり、「先代旧事本記」にも”葛城の土神剣根命”とある葛城土着の神です。

葛城に鴨都波神社が有りますが、ひろく知られる御由緒としては大田田根子の孫である大鴨積命が、始祖の事代主命を祀ったとされる社です。陶荒田神社でも事代主命が祀られており、つまり大田田根子と荒田直は葛城で結びつくという事です。



 

【太田田根子説話と須恵器の時代の不一致】

ただ、一般的に理解される崇神帝の3~4世紀と、須恵器が盛んになる5~6世紀は一致しません。茅渟県の須恵器生産の推移からみて陶荒田神社の創建も6世紀と推測されることから、森浩一氏あたりは”大田田根子伝承の陶邑の話は、6世紀以降の事態の反映ではないかと思う”とだいぶ以前に述べられていたそうです。


・拝殿

これの考えは現在にも支持されているようで、2017年の第6回百舌鳥古墳群講演会で、大阪大学大学院の高橋輝彦教授がより具体的にお話をされていました。つまり、大田田根子が祀った三輪山では多くの祭祀遺物が出土するが、とりわけ目立つのが須恵器、中でも陶邑産が多数を占めるのです。それも初期の物でなく、5世紀中頃以降の物です。これは、古墳時代中期の百舌鳥・古市古墳群の築造時期に三輪山に入って来たものです。


・裏から本殿を拝見


・振り返って、現代の”陶邑”。泉北ニュータウンから少し離れた地です

 

さらに、山の辺の道の陵墓、行燈山古墳と渋谷向山古墳でも、同様な時期の須恵器が出土していると云います。古墳が造られたと思しき4世紀始めには須恵器は存在しません。また、普通は古墳が造られた後、その古墳で祭祀が続く事はありません。高橋先生は、これは、三輪山の祭祀が5世紀中頃から後半くらいに、どうやら須恵器を伴うような新たな形に変わっている、とされます。そして、これは大田田根子の後という三輪氏が5世紀中頃にこの地に入ってきた事によると考えられました。

つまり、崇神帝の頃に、陶邑から人が来て神祭りをしたという話は史実ではなく、崇神陵への須恵器の奉納といった史実を背景に、より古い時代の伝承に作り替えられたのかもしれない、とまとめられていました。

(以上、参考文献:谷川健一編「日本の神々 和泉」、第6回百舌鳥古墳群講演会記録集」)

 

・事代主命の戎神社。

 

【伝承の太田田根子】

それでも東出雲伝承では、大田田根子は出雲系豪族、登美氏の分家であり、およそ2世紀の頃この陶邑に住んでいて、三輪地域に移ったと云います(「出雲王国とヤマト王権」)。その位置づけは大元出版本の中でも揺らぎが有りますが、先の最新刊では大王級の力で本家の登美氏をもしのぎ、磯城~三輪地域を支配したと説明されています。分家となって三輪から離れたものの、本家への対抗心から戻ってきたようです。

それにしても陶津耳とは何者なのか、ということです。伝承では特に説明はありません。以前の溝咋神社の記事で記載したとおり、活玉依姫は”摂津”三島の溝咋耳の娘であり、登美氏の始祖、天日方奇日方を東出雲の地でお生みになった姫です。そして奇日方達は三島に移住。その地で成長した後、葛城に移住します。西出雲からの高鴨氏も葛城にやってきて両氏は”鴨氏”と呼ばれます。さらに丹後からアマ氏(海部氏、尾張氏)もやってきて何やらイザコザがあり、奇日方達はさらに三輪に移動し、登美氏となります。


・子授けや安産、子供の成長祈願でも有名。

 

だから、奇日方の子孫の大田田根子が葛城と関係あるのは当然であり、その葛城の土着の神とは、つまり出雲系豪族だったのではないでしょうか。そして、登美氏のように三輪に行った人たちもいれば、西の陶邑あたりに行った人もいて、そこに分家の大田田根子が一時送られていたのでは、と素人考えで感じました。

 

・堺市指定樹木のくすの木

 

【三輪山に須恵器を祀った人たち】

それでは、三輪山や山の辺の道の陵墓に須恵器を祀ったのは誰なのでしょうか。東出雲伝承では、百舌鳥・古市古墳の時代の登美~加茂氏についてはあまり語られていません。しかし、その前の時期について、”オシロワケ王が九州遠征に出かける時は、加茂王家は大和の代理王家であった”と説明しています。そして、オシロワケ王も皇子のワカタラシ王も再び大和には帰れなかったというのです(「親魏倭王の都」)。だから、”大和は国のまほろば”と懐かしむのです。また、行燈山古墳と渋谷向山古墳についても、登美氏の古墳だと、伝承は主張しています。

つまり、倭国大乱の時期邪馬台国の時代の、九州東征軍の争乱は有ったものの、百舌鳥・古市古墳群の時代まで一貫して登美~加茂氏が三輪山の祭祀を掌り、5世紀中頃からは親戚のいる陶邑からの須恵器も取り入れて、新たな祭祀を継続していったような気が、私的にはしています。朝鮮半島との交易は出雲王国時代からお得意だったのではないでしょうか。


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