長老のひとりが私に話しかけて、「白い衣を着ているこの人たちは、いったいだれですか。どこから来たのですか」と言った。
そこで、私は、「主よ。あなたこそ、ご存じです」と言った。すると、彼は私にこう言った。「彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。(13~14)
ただ、一方的に話されるよりも、時々質問が入るほうが注意力を喚起される。
「あなたこそご存じです」ヨハネがそう答えたのは、全面的に信頼し腹をくくって、天使の言葉を受け入れる覚悟をもってのことである。
聖書はわからないことだらけで、すべてを知ることもない・・、だから何十年繰り返してもドキドキと開く楽しみがある。もう分かっていることなら聞こうとは思わないものだ。
主には、「あなたはご存じです」と分かるまで尋ねることが許され、その度に一歩深みに導かれて新しいことばを聴くのである。
だから彼らは神の御座の前にいて、聖所で昼も夜も、神に仕えているのです。そして、御座に着いておられる方も、彼らの上に幕屋を張られるのです。(15)
殉教者は小羊の血で聖くされた白い衣を纏って、神の御座の前で絶えることのない礼拝をささげている。
彼らは殉教によって義とされたのではなく、小羊の血に洗われて義とされたのである。命を捧げる義の行為でさえも、キリストの血に洗わなければ、神に受け入れられることはない。
彼らはもはや、飢えることもなく、渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も彼らを打つことはありません。
なぜなら、御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです。(16~17)
艱難の中での彼らの飢えと渇きは神の聖さであった。
今、満ち満ちる神の臨在の中にあって、聖いいのちの水に浸され、神のことばにひもじい思いをすることは決してない。
彼らが今より永久まで、神を豊かに経験するのは、彼らの上に神が幕屋を張られ、彼らのうちに充満しておられるからである。
見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。
主は、あなたを守る方。主は、あなたの右の手をおおう陰。
昼も、日が、あなたを打つことがなく、夜も、月が、あなたを打つことはない。(詩篇121:4~6)