愛する人々。私はあなたがたに、私たちがともに受けている救いについて手紙を書こうとして、あらゆる努力をしていましたが、聖徒にひとたび伝えられた信仰のために戦うよう、あなたがたに勧める手紙を書く必要が生じました。
というのは、ある人々が、ひそかに忍び込んで来たからです。彼らは、このようなさばきに会うと昔から前もってしるされている人々で、不敬虔な者であり、私たちの神の恵みを放縦に変えて、私たちの唯一の支配者であり主であるイエス・キリストを否定する人たちです。(3~4)
光と陰は、あいまいにまじりあうものではない。聖なるものと汚れは混じりあわない。どのように装っていても、イエス・キリストを否定するものは敵である。
キリストの御救いに与った聖徒と、不敬虔な者とでは、教会で並んで座っていても、神の前には明確に区別されている。
敵には教会の外から攻撃するよりも、パン種を持ち込んで堕落させるほうが効果的なのである。
それは「ひそかに忍び込んで来た」とあり、ぼんやりしていては気づかず巨大な存在となるのである。
ユダはそれは戦いであることを示し、入り込んできた不敬虔なものの正体を暴露し、それらが神に逆らうものであり、戦わなければならないことを旧約聖書から教えた。
人は戦いを好まず、平和だ安全だとぬるま湯に浸っていたいものである。戦いにははっきりとしたみことばの根拠が必要であり、神に聴き従うことから始めなければ勝利はなく、その備えによって一人一人の信仰も試されることになる。
私たちの武器は戦いが始まってから身に着けるものではなく、救いとともに一つになっているものである。聖徒は四六時中みことばに留まり勝利している者、また、みことばを身に着けて安息しているのである。
腰には真理の帯(うちなるキリスト)を締め、胸には正義(神の義)の胸当てを着け、足には平和の福音(みことば)の備えをはき、信仰の大盾(みことばの約束)によって悪い者が放つ火矢をみな消し、救いのかぶと(永遠のいのちの約束)をかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばをいつも持っていること。(エペソ6章)
私たちは血肉に対して戦っているのではないが、血肉を通して入ってくるパン種は取り除かなければならない。
もし、彼らがサタンの道具から悔い改めて、キリストに従順することがあれば、イエスさまが裏切ったイスカリオテのユダに「友よ」と呼ばれたように、私たちも彼らを「友」と呼んで火の中から救い出すことができるだろう。
すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。(エペソ6:18)
なにが敵であるのかは聖霊によらなければ私たちにはわからない。サタンは光の御使いに変装するものであり、キリストを「ベルゼブル」と呼ばせるものでもある。
それゆえ、キリスト者は神の備えてくださった武器を手放してはならないのである。