空華 ー 日はまた昇る

小説の創作が好きである。私のブログFC2[永遠平和とアートを夢見る」と「猫のさまよう宝塔の道」もよろしく。

映画「少女の髪どめ」

2020-08-06 14:20:10 | 映画「少女の髪どめ」
Crying Violin - AYAKO ISHIKAWA/石川綾子 - Original Song



主人公のラティフという十七才の青年がIDカードを使って、買い物をして、彼が働く建築現場まで来ると、現場ではみんなが大騒ぎしている。ナジャフというアフガニスタン人の労働者が仕事の途中で、二階から落ちたのだ。現場監督のメマルは、病院に連れて行くように指示し、「病院に行っても、ここの住所は言わないでくれ。調査が入ると困るから」と言う。

最初から、この映画の二つのキーワードが出てくる。イラン人あるいはイラン在中許可の証明書のIDカードと、それを持っていないアフガニスタン難民の労働者が建築現場で秘密裏に働いているということだ。つまり、アフガニスタン難民の経済的に苦しい生活。それを応援しようとするイランの人達と距離を置く人達の問題。

四階の大きなビルの建築現場。鉄筋に煉瓦を積み重ね、そこにセメントを塗っている仕事場、まだ半分ほどしか出来上がっていない所で、多くの労働者が働いている。



 さて、アフガニスタン人のソルタンがナジャフの子供と一緒に現場監督のメマルの元に来て、ナジャフの子供を息子と称して、メマルに紹介して、働かせて欲しいと願い出る。
頭の方には、(防寒帽とマフラー)で額と耳まで隠して、十三才くらいの少年のように見える。【実はこの子は少女なのだ。これはあとでラティフにのみ分かることなのだが】




「おはようございます」とソルタン。
「ちっとも早くない。もう昼だぞ.」とぴしぴし物を言いながら、応対する強持てのメマル。
「ナジャフの子です。ここで働かせてやって下さい。ナジャフは足にギブスをはめて休養しています」
「ラーマトというその少年は、力仕事は出来るのかな」と監督は疑問に思うが、「ここ二三日、働かせてみよう」と言う。

そこを離れ、多くの労働者がいる現場に、「しっかり働けよ」と激を飛ばす監督メマル。
火にあたっているラーマトの元に、十七才の青年ラティフ【主人公】がやってくる。

お茶くみや買い物が彼の重要な仕事なのだ。
「飲めよ」とラティフは ラーマトに言う。
ラティフは他の働いている仲間にもお茶を配る。
「まずいな。昨日のお茶みたいだな。ぬるくて、まずい」と言う二十代後半の男性。
「文句があるなら、メイドでも雇え」
そこで取っ組み合いの喧嘩が始まる。
監督が来て、一喝して、「皆、仕事に戻れ」と言い、騒ぎが収まった途端に、「メマル。調査官がやってきた」という知らせの声が出る。
「アフガニスタン人は隠れろ。早く隠れろ。見つかったら、連れて行かれるぞ」とメマルは大声で言う。
ジープが止まる。
三人の屈強な背広を着た調査官が車から出てくる。出迎えるメマル。「ようこそ。お越しを」
「メマル。昨日、アフガニスタン人の事故があったそうだな」
「アフガニスタン人はここにはいませんよ」
「許可なしにアフガニスタン人を雇ってはいけない。
法は心得ているようだな」
「ここに署名してくれ」と書類を差し出す調査官。
ラティフがお茶を持ってやってきた。「アフガニスタン人はいるか」と聞く調査官。
「一人いるよ。この俺様だ」と言うラティフ。
「私をおちょくる気か」と調査官。



権力を恐れない若いラティフ。
そして、メマルはラティフを追い払う。
「どうもご苦労様でした。又、いらして下さい」と監督のメマル。
ここに、強持てだが、苦労人の別の人柄が現れている。頭を下げる所にはきちんと下げる。

それから、ラーマトの肉体労働が始まる。ラティフもセメントの運び方を教えてやる。
「直ぐに慣れるさ。その内に、ラバより強くなって、逞しくなる」
しかし、ラーマトは重いセメントを背中に持ち、階段を昇っている最中に、力つき、落としてしまう。そして、下にいた中年男性の頭にセメントがふりかかる。
「ここは遊び場じゃない。こちらは家族を養うために働いているんだ。だから、アフガン人は嫌なんだ」
イラン人とアフガニスタン人の間に、微妙な感情があることが、この言葉にあらわれている。
「雪ダルマにみたいになったじゃない」とラティフが冷やかす。怒ったその男とラティフがまた取っ組み合いの喧嘩をする。
そこに現場監督メマルが来て、激しく一喝し、ラティフも怒られて、仕事に追いやられる。
事情を知ったメマルはもし石膏でなくて、石だったら、下の者は死ぬ羽目になると考え、ラーマトが働くのは無理だと判断して、連れてきたソルタンにそのことを伝える。ソルタンは「やめさせないで、働かせて欲しい」とひたすら懇願する。
困ったメマルはラティフを正規の仕事に切り替えて、お茶くみや買い物をラーマトにやらせる。ラティフは「よくも、俺の仕事を取ったな。このアフガン人。いつかその鼻をへしおってやるからな」と怒りの言葉をラーマトに言う。ラーマトのお茶はおいしいと労働者の間で、評判がよく、皆「どうもご苦労様」とラーマトを歓迎して優しい声をかける。
その様子を見ていて、腹をたてたラティフは、ラーマトが仕事をしている炊事場にあるいくつもの道具を壊したり、ソルタンとラーマトが朝、出勤してくる所を上から、水をぶっかけたりと、いじめに似た行動をとる。




ある時、ラティフがセメント運びをしている時、目にごみが入り、セメントを置いてぼんやりしていると、ラーマトの仕事場からカーテンが風にひるがえり、その隙間から小さな歌声が聞こえてくる。
ラティフは不思議に思って、カーテンのかげから、じっと見つめる。
その時のラティフの表情の変化が面白い。
最初は不審そうに見る目。鏡で髪をとかす少女を見る。そして、ラティフは驚きの目に変わる。
「セメント運びはどうしたんだ。さぼっているんじゃないだろうな」と言う現場監督のメマルの声が聞こえる。
ラーマトは頭にいつものように、防寒帽とマフラーをまるでターバンのようにまきつけて、お茶を持って、出てくる。完全に少年の姿だ。ラティフはあまりのショックで呆然としている。




翌朝、ラティフは鏡に向かって、髪をとかし、赤い新しいワイシャツを着る。
「おはよう。ソルタン。今日は一人 ?  」
「ラーマトはパン屋に寄ってくる」
監督メマルがラティフを見て「どうしたんだ。やけに目かしこんで」と言う。
「この格好でも仕事は出来る」
メマルは不思議そうに新しいワイシャツ姿でセメントを背中で運ぶラティフを見る。

買い物から帰って来るラーマト。タバコの買い物のことで、男がラーマトに文句を言っている。「使えない奴だな。俺は別のを頼んだのだぞ。こんなくそタバコを買ってくるなんて。直ぐに取り替えて来い」
男の叱る声を聞いたラティフはそばに行き、「タバコなんてどれも変わらないだろ」と強い口調で言う。
お前に関係ないことだという男。
「俺に喧嘩売る気か」とラティフ。
喧嘩が始まる。しかし、この場面は、ラティフが初めて、ラーマトの味方になった時なのだ。
又、この場面で、アフガン人に対する差別意識を強く持っている者がいることも分かる。
食事の時、「ラーマトありがとう」という声があちこちから、聞こえるから、大枠としては、みんなラーマトに親切だが、やはり少数に差別意識を持つものがいるということだろうか。

夜、みんな火の周囲に集まって、踊りを踊っていても、ラティフは寝転んで考え込んでいる。まるで、ジュリェツトを思うロミオのようだ。もっとも、あれほど苛めていた相手なのだから、それを悔やんでいたのかもしれない。ラーマトが少年ではなくて、少女であるという秘密を知り、その秘密を守ることは当然としても、自分の思う少女が健気にも大変な仕事をやっている。そのことで、彼女を守りたいという気持ちも湧いたのであろう。


又、ラーマトの仕事部屋に入る男がいる。お茶を頼んでいる。「熱いお茶を一杯もらえないか」
そこで、ラティフは「ここは喫茶店じないんだ。出て行け」
「現場監督でないお前に命令されるいわれはない」
「メマルに言いつけるぞ」
メマルを呼ぶラティフ。
男は怒って、出て行きながら、「クルド人を怒らせると、ただじゃすまないぞ。いつか仕返ししてやる。イラン人なんかくそくらえだ」と男は言う。クルド人がアフガニスタン人やイラン人の他にもいることが分かる場面だ。

ラーマトが朝、荷物を持って一人で建築現場にやってくる。
そこにたまたま、調査官の三人組のジープが来る。
一人の調査官が「ここの労働者か。アフガニスタン人は何人いる。」と質問する。ラーマトは答えに窮して、逃げる。
「逃げるな。追え、つかまえろ」
逃げるラーマト。追う調査官。それを上の方から見ていたラティフは駆け出す。
ラーマトも逃げ足は速いが、調査官は大人の男だけあって、ラーマトに追いついてしまう。
そこにラティフも追いついて、調査官に飛びかかる。
「逃げろ。ラーマト」
ラティフは二人を相手に戦うが、逮捕されてしまう。
この逮捕されたラティフを引き取りに行った監督メマルは文句を言う。
「おかげで、多額の罰金はとられるし、アフガニスタン人は雇えなくなってしまった」




この映画を単にプラトニックラブの延長線上に見たりすると、失望するかもしれない。かなり社会派の視点で見ると、よく考え抜かれた素晴らしい映画ということが分かって来る。
欧米の価値観とはまるで違う価値観の文化とでもいうのか、そこにも人を感動させる文化があるのだということを主張しているようでもある。
例えば、日本。日本は明治維新で列強に植民地化されないように、富国強兵ということで、欧米の文化を良いものとして、積極的に取り入れ、一方で日本の伝統の文化を軽んじた。結局、今の日本は伝統の多くを失ってしまった。
例えば、この映画に感じられる義侠心もそうかもしれない。弱きを助け、強きをくじくという義侠心か。水戸黄門みたいに強きをくじきというのはないが。弱きを助けるという義侠心を五十才の現場監督メマルに感じることが出来る。
そして、十七才の青年ラティフがそういう義侠心に目覚めていく風土がある。

最初はラーマト【少女の本当の名はバラン】一家を助けようと思い、ナジャフに渡してくれ、とソルタンに渡す自分の一年分の給料。
しかし、足に怪我をして、松葉づえをついたナジャフがやってきて、その金はソルタンがアフガニスタンに帰る金として渡したという。「私よりも金に困っているのはソルタンなのだ。アフガニスタンに病気の妻がいて、それでも帰る余裕がなかったのだから」とナジャブは言い、「神にかけて、必ず返します」というソルタンの伝言のメモを渡された青年ラティフはそれを小川に流してしまう。映像では、メモが小川に流れていく様子をゆっくりと映していく。
しかし、ナジャフとその娘、ラーマト【バラン】の一家も金に困っていた。足を痛めたナジャフは生計を娘に頼っていた。川で多くの女性と一緒に重労働をするバランを見て、ラティフは涙を流す。




ある日、ナジャフは松葉づえをついて、監督メマルの元にやってきて、金を貸してくれと言う。
メマルは金は本当にないのだと言う。実際、メマルが建築の仕事の失策で、直ぐに金が入らない場面が映像にもある。メマルはポケットから有り金を出して、今渡せるのはこれだけだと言う。しかし、ナジャフは「私は物乞いに来たのではない。いずれ、返すものとしての大金を借りにきたのだ」ということを臭わせて、それを拒否し、松葉づえをついて帰っていく。
それを見ていたラティフ。なんとかしなくては、と思い、町に出て、危険な場所に入り、そこで、自分のIDカードを売って、大金をナジャフ一家に渡してしまう。
それもこれはメマルからのものだ、金は返す必要がないと、ラティフは言う。




何という無私の愛。最初は自分の一年分の給料を渡し、次には彼が大切にしていたIDカードを売り、メマルからだと嘘を言い、金は返す必要がない、そうした世俗を超えた話になる。ラティフは強く若い。それが彼の財産なのだろう。

ナジャフとバランの家族がアフガニスタンに帰る日が来る。ラティフも手伝う。バランがトマトなどを入れた大きなかごをひっくり返し、トマトなどが地面に散らばる。
ラティフは拾うのを手伝う。その間、バランとの間に、会話がない。かごに落ちたものが戻ると、バランはラティフを見つめる。
女の子は微笑もせずに、静寂にまるで、観音菩薩のような表情で、ただ、ひたすら、男の子を見つめ、そして、ブルカで顔を隠してしまう。これは彼女が女に目覚めたという仕草であり、そのことによって、愛を伝えたととれる。

こういう風に、この映画にはイスラム教の教えや、コーランの声すら聞こえないのだが、不思議な宗教色が漂っている。私は、このどこにも漂う、薄められた宗教色が映画の本当の言いたいことなのかと思う。
薄められた宗教色という言葉を私が使ったが、宗教の核心と言っても良い。色々な衣を脱いだ宗教の核心。これはどの優れた宗教も同じ。
その例が、最近、ヨーロッパではカトリックもプロテスタントも日本の禅道場を取り入れている。もっと分かりやすい所では、どの優れた宗教も「愛」と「慈悲」を言う。
今の日本は明治維新以来、仏教色を薄め、公立学校では日本の伝統の最も優れた哲人の文章【例えば、空海や良寛の詩は教科書にのらない】を学校で教えなくなってしまった。
それ故にこそ、この映画は今の日本にない感動を誘う。
それから、この映画では、なにげない行動や言葉に優れた宗教の核心を感じる。街にも感じる。
先程、言った弱きを助ける義侠心もそうだし、「孤独な男の隣には神がいる」というような街角の会話もそうだろう。
町も貧しいし、近代化するためのビルが建てられていくが、それでも自然が色濃く残り、町の中を流れる川は神秘なほど美しい。




そして、バランはナジャフと一緒にアフガニスタンに去る。
かごにトマトなどをおさめ、車に向かおうとするバランの片足の靴がはずれる。それをラティフが無言ではかせてやる、バランの愛に答えた形での十七才のラテイフの愛の動作。
バランは無言のまま、去っていく。
彼女の足跡に雨がそそぐ。それを見る青年には不思議なほほえみがある。
ここには、直ぐキスしたり、肉体関係があったりするような欧米映画を見慣れている我々には物足りない向きがあるかもしれないが、不思議な感動がある。
確かに、最初はいじめていたラティフだから、無私の愛とは言えないかもしれない。しかし、そういう愛に目覚めていく若さとでもいうような風にしか、表現出来ないものを感ずる。今の日本の文化が失ったものであるのであろうか。

最後に出てくるアラビア語が読めないのは残念である。それはもしかしたら、「終わり」つまり「エンド」とか「Fin」なのかもしれないし、よく映画の最後の場面にくるプロデューサーの名前なのかもしれない。しかし、映画を見終わったあと、私には神の言葉のように思えたから、不思議だ。アラビア文字の美しさが、神秘な輝きを持って、私に語りかけてくるようだった。


日本なら、どんな言葉がここにふさわしいか、考えてみた。
そう、音楽なら、最近見たシェイクスピアの「真夏の夜の夢」に出てくる歌を思い出す。あれに近い。
西欧では、キリスト教会の教えと芸術と科学という風に、全て、分離してしまったのだ。
そして、キリスト教会から多くの若者が離れていくという報道も聞く。残るは、芸術と科学。忙しい毎日の中で、心とお金に余裕がないと、芸術を味わう機会を失う。

ところが、ここでは貧しさの中に神がいる。街の中に神がいる。美がある。貧しさがいいわけではない。貧しさに悲鳴をあげている人たちがいる。貧しさに苦しんでいる人達がいる。ここではアフガニスタンから来た難民の労働者。しかし、お役所の命令に反しても、助けようとするイランの人達がいる。
その筆頭が現場監督のメマル。そして主人公の十七才の青年もそういう愛に目覚める。
最初、いじめていて、少女と知って、百八十度変わってしまうのだから、男と女の間というのはやはり不思議なものである。

だから、最後のラストシーンは青年のほほえみになるのだ。恋する人が外国に行ってしまうのに、彼女を助けたことが神の恩寵と感じているのであろう、青年のほほえみとなる。





  
監督  マジッド・マジディ
   俳優  ホセイン・アベデイ二
       モハメッド・アミル・ナジ
       ザーラ・バーラミ
    イラン映画
    モントリオール映画祭グランプリ受賞

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  久里山不識  「霊魂のような星の街角」 「迷宮の光」   】

[久里山不識より ]
年のせいか、目の疲れがひどく、胃の調子も悪いので、しばらくこちらのブログを休みたいと思います。
よろしくお願いいたします。


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