哲学の科学

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風の存在論(1)

2019-11-16 | yy71風の存在論

(71 風の存在論 begin)






71 風の存在論


風が冷たい。
「かぜがつめたい」とつぶやく。
私はなぜ、「かぜがつめたい」とつぶやいているのか?
それは単に、風が冷たいからでしょう。気温が低くて湿度が低いからでしょう。風速が大きいので、体感温度が低いからと思われます。しかしそればかりではないかもしれない。

そもそも、「かぜがつめたい」などと口に出してつぶやかなくても、さっさとウィンドブレーカーを出して着れば良い。口に出すこと自体、人に聞いてもらいたいとか、自分に聞かせたいとか、言葉の内容以前に、隠された不純な動機がある。それをつぶやくことで私は何をしたいのか?
「世間の風が冷たい。心が冷える」とまで言えば、これは社会の仕打ちに対する怨念を叫んでいるらしい、と分かります。自分が自己中でわがままなのか、社会が自分を不正に差別しているのか、両方混ざっているのか、どれかでしょう。
世間の風が冷たくないはずがないではありませんか?それが冷たいと思う事自体が、もう温かい風を遠ざけている。自分の手を顧みれば、風より冷たくなっている。ほとんど氷のようではありませんか?

閑話休題、風は身の回りの環境です。風速、風向、風力、温度、湿度。環境を冷静に客観的に観察して表現する。これは重要。実務家はそうします。科学者もそうする。まず真実をデータとして知らなければならない。これは正しい、と思われます。

しかし私たちが、実際、「かぜがつめたい」とつぶやくとき、環境を冷静に客観的に観察して表現している場合は少ない。というか、ほとんどありません。
ウィンドブレーカーを携行するのを忘れてしまった悔恨とか、エアコンを強風に設定している管理者の無神経に対する怒りとか、いつの間にか冬が来てしまった、この一年が空しくすぎていくなあ、という詠嘆とか、なにか、感情的な衝動からつぶやきを発している場合がほとんどでしょう。

風が吹けば桶屋が儲かる。つまり、逆に言えば、風が吹くかどうかなどは、たいてい、生活の現実に無関係である、ということでしょう。
しかし風はそれを受ける人間に、微妙に、主観的な感情を引き起こさせる。

Le vent se lève, il faut tenter de vivre.(二〇一三年 宮崎駿『風立ちぬ』原詩ポール・ヴァレリー 風が立つ。生きようと試みなければならない。 訳宮崎駿)

これこそ、真実です。しかし、科学はふつう、こういう真実は無視します。実務家も、たいてい無視する。
かなり特殊な状況の場合、たとえば風を当てることで人を苛立たせてその結果、自分の収入を増やす。昔の喫茶店のクーラーは強めがよくありました。風で人の感情に影響を与えようという場面は特殊ですね。

風は見えない。空気の運動である。空虚であります。気でしかない。風は、しかれども確かに、存在する。私たちにとって、風はなぜ存在しているのでしょうか?





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