陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。葉を見て森を見ないひとの思想録。

小説『マリア様がみてる──パラソルをさして』

2018-08-05 | 感想・二次創作──マリア様がみてる

『マリア様がみてる』は長いシリーズなので、それこそ名場面名台詞と呼ばれる個所はいくつかあります。私にとっての最高の一場面というべきは、この『パラソルをさして』にあります。

1998年に世に出たこの作品は、女の子同士の清らかな友愛を描く「百合もの」とか「ガールズラブ」と呼ばれるジャンルの今となっては教典のような存在。私たちがいま多く目にするアニメや漫画や、一般文芸にまで見られる女と女のなんたらストーリーは、まあ大概がここに先鞭があったといっていい(かなり適当に考察)。遡っては、吉屋信子とか、川端康成とかエス文化とかあるのだけれど、21世紀前後のジェンダー思想が過激に流入するにいたって、いささか変質してしまったかのように見受けられます。自分に向けられた愛情がホンモノか確かめたいがために敢えて親友の女の子に刃を向けるというアニメが登場し、それが視聴者に受けてしまったので劣化コピーのように量産されまくっているような。あるいは、同性だから気後れなくセクハラしてもいいことになっていたりもするような。毎回、女友だちがメインヒロインの胸の薄さを執拗にネタいじりしてくるアニメが美しく尊い百合かと言われたら、首をひねりたくなりますよね。

前巻のなかで、二条乃梨子はのちに自分の「姉」となる藤堂志摩子にこう言います──「世界は二人だけで構成されているわけじゃないよ」。
可愛い乃梨子を選ぶか、それとも山百合会幹部として、白薔薇としての職分を選ぶかという二元論に陥ってしまった志摩子に対し、乃梨子は、志摩子さんの好きな人だから自分もうまくやっていく、だから心の重荷を軽くするためにロザリオを私に預けてよ、と促すわけです。アニメ「神無月の巫女」でも、最終回に姫子が千歌音ちゃんに、わたしに貴女の痛みを分けて云々、言っていましたけれど。「友情は、喜びを二倍にし、悲しみを半分にしてくれる」と語ったのはドイツの古典主義詩人シラーで、日本の歌謡曲に引用されまくっているので安っぽく聞こえてしまうけれど、飽くことなく歌われるのはひとの耳に残ってほしい言葉だから。女の子というのは涙と甘いものが大好きで共感しあう生き物だから、下手に頑張ってと励まされるよりも胸に沁みる。がむしゃらにやってくる人生の荒波に対して共闘していくスタイルというのが、おそらく90年代以後の女の子にとっての希望だったのでしょう。女の子というか、いい年したお兄ちゃんのハートまで掴んじゃいましたけどね、この作品は(笑)。

いっぽう、可愛い従妹がいきおい剣道部へ入部したことで心配して勝負に集中できない令を、由乃は放っておきたくはない。由乃は自分のじょうぶな身体も、自分に何があっても不動心でいられる令の精神力も両方欲しいという。これもまた、ひとつの関係性でしょう。由乃はとにかくうるさい娘なんですが、やってることは明解で裏表がありません。心臓は弱いけれど、メンタルが軟弱ではなさそう。病気に逃げる自分が許せない。寝てばかりいたから、普通の人が二、三年かけて積み上げていくものを、起きてすぐに手に入れたいと願う。祐巳が落ち込んだとき、同級生としてがっつり頼りになるのは志摩子よりも、実は由乃なのです。山百合会を辞めても友達でいようと持ち掛ける由乃は、ゼロサム思考すぎる繊細な志摩子の抱える煩悶を乗り越えています。

『マリア様がみてる』が描いているのは、永続的でもないパートナーシップであり、また競技上のペアや芸能のユニットのような共通の目的や利害のための結びつきでもありません。誰かの部品か付属のような立ち位置のスール制度ではあるが、そのペアはいつ解消してもいい脆さもある。そしてしばしば、そこから外れた辺境から救い主がやってくる。関係性の渦中にあるものは、外へ飛び出さないと自分の懊悩を外形化できないからです。それを体現しているのが、主人公としてより開かれた世界へ歩むことのできる祐巳。そして、この巻はまた、あまりレギュラーではない人物によって励まされて、助けられていくことになります。

祥子との仲がこじれてしまった祐巳を拾い上げたのは、佐藤聖とその行き掛かり上友人になった加東景。景の借りぐらしの住まいにひととき身を寄せた祐巳は、身ぎれいになりいっぱいのお茶で温まって帰っていくだけです。ふたりの女子大生は、何も聞かないし、何も説かない。この景との出会いと再会が、彼女の家主の池上弓子と結びつき、それはやがてラストの感動へと繋がっていくことになります。

前巻で祐巳の嘆きを増幅させてしまった、あの迷い子の傘が戻ってくる場面は秀逸です。
おじいちゃん先生が放つ台詞が実に印象的です──「君は、近くにいる時は感じないが、離れて時間が経つと、じわじわと良さがわかる人間だ」。 教師というものは、飛びぬけての優等生でもなく問題児でもない、格別手間のかからない生徒には目をかけないものです。残念ながら、ほんとうにそうです。だから、犯罪者の過去を探ると、出てくるのが「目立たない子」という証言は正しい。しかし、濡れて困っている老教師を見かねて傘に入れ、祖父からもらった傘を大事にしている女生徒の、古くさいような優しさが巡りめぐって、自分のこころを救ってくれるのです。抜け駆けを許さない友だち圧力を気にする子だったら、先生を傘に入れたりはしないから。でも、人間は同世代の横のつながりだけで生きているわけでもない。自分から遠く離れた異質な世界にいる人間の言動によって、思いがけず救われることがある。

祥子との依存的な姉妹関係を離れて、いわば巡礼のように予期せぬ人間と触れ合ったすえに、祐巳は諸悪の原因ともいうべき、いじわる後輩の松平瞳子とも対峙することになります。
自分に向かって棘を投げた人間と向き合うのは、なかなかの勇気が必要。瞳子との和解を説いた祐巳は、のちに紅薔薇として、「ある人物の姉」としての片鱗をここで垣間見せている。さらには読者サービスかといわんばかりに、卒業した水野蓉子や柏木優なども登場し、ある一件で学校に来られなくなってしまった小笠原祥子の救出作戦へ出向いていくわけです。もし、祐巳が大小同異のさまざまな人の生き様の切れ端をかすめていくことがなかったとしたら、ラストで祥子を救ういたいけな祐巳は存在しえなかったでしょう。自分の不満を解消してくれと自己本位にせがんだあの少女は、もうそこにはいない。そして世代を超えた救いと、古き女学生たちの死ぬ間際によみがえった友愛もありえなかったわけです。どれだけ豊かな暮らしを送っても、たったひとつの果たせなかった約束のために苦しむことがある。

同じ制服を着て、同じ教室に座り、同じ教師の言葉を受けている。
それだのに、一年も二年も経てば、級友たちは違った人生を歩み始めます。同じクラスにいても、抱えている家庭の事情や心理の闇は異なっている。仲の良かった友だちとのちょっとしたいざこざや、親や先生からの軋轢で曲がってしまいがちだけれど、そんなときは自分の居場所の座標をちょっとだけずらせばいい。閉じられた世界で、決まった人間関係のなかでうまくやらなきゃと思うから、息苦しくなるわけです。加東景や池上弓子や、青田先生のような、通りすがりにひょいと現れて肩の力を抜けば、といってくれるような人は、そこら中にいるわけです。特定の誰かに影響を与える重要人物になりたがらなくても、さりげなく、返さなくてもいい優しさの種をそっと握らせる。「世界は二人だけで構成されているわけじゃないよ」という言葉をしかと胸に刻みたいものです。

それにしても、この巻の小笠原祥子および加東景の抱えていた事情は、いまやっと社会で認知されはじめたヤングケアラーの問題。実母を早くに亡くした景は父の看護で休学を余儀なくされ、祥子はおそらく金銭的余裕があったがため介護で体力を奪われることはなかったでしょうが、葬儀や遺産分割協議など含めての親族間のいざこざや、生前没後の手続き等があって精神疲弊が酷かったのかもしれませんね。まだ齢十数年の人生の悲嘆に直面していない少女に、その特殊事情を汲んでというのは難しかったのかもしれません。しかし、老いや病、死は(あるいは予期せぬ災害や犯罪でさえも)誰にも訪れるもので、いつか来た道で、いつか向かう道なのです。

大学受験前に実父が癌に罹患し、大学在学中も家族親族が立て続けに亡くなった私が、格別にこのエピソードに言い知れぬ希望を見出すのは、これが百合の名場面として認知されているからではないのです。このお話は、絶望のためにずぶ濡れになっても、ひとまず身ぎれいにしてなけなしの食事を摂って備えていれば、いつかたちあがる勇気が湧いてくることを教えてくれます。たとえ、不測の事態で衣食住が整わないような環境に置かれたとしても、無言の善意がある日そっと側に届いているような、人の優しさを思い出す物語を覚えておくことは、生き延びる力となるのではないでしょうか。


【小説『マリア様がみてる』 レヴュー一覧】
過去にかなりおふざけで書いたレヴューが多いので要注意。





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