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Tough Boy-World of cap_hiro(Subtitle:sense of wonder)

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2022年07月03日
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カテゴリ:絶対存在論
神の存否-459
 定理六四 悪の認識は非妥当な認識である。
 証明 悪の認識は(この部の定理八により)我々に意識された限りにおける悲しみそのものである。ところが悲しみはより小なる完全性への移行であり(感情の定義三 善および悪の認識は、我々に意識された限りにおける喜びあるいは悲しみの感情にほかならない。により)、したがって悲しみは人間の本質自身によっては理解されえない(第三部定理六 おのおのの物は自己の及ぶかぎり自己の有に固執するように努める。及び、同部定理七 おのおのの物が自己の有に固執しようと努める努力はその物の現実的本質にほかならない。により)。ゆえに悲しみは(第三部定義二 我々自らがその妥当な原因となっているようなある事が我々の内あるいは我々の外に起こる時、言いかえれば(同部前定義一 ある原因の結果がその原因だけで明瞭判然と知覚されうる場合、私はこの原因を妥当なで十全な原因と称する。これに反して、ある原因の結果がその原因だけでは理解されえない場合、私はその原因を非妥当で非十全な原因あるいは部分的原因と呼ぶ。により)我々の本性のみによって明瞭判然と理解されうるようなある事が我々の本性から我々の内あるいは我々の外に起こる時、私は我々が働きをなす「能動」と言う。これに反して、我々が単にその部分的原因であるにすぎないようなある事が我々の内に起こりあるいは我々の本性から起こる時、私は我々が働きを受ける「受動」と言う。により)受動であって非妥当な観念に依存するものである(第三部定理三 精神の能動は妥当な観念のみから生じ、これに反して受動は非妥当な観念のみに依存する。により)。したがって(第二部定理二九 人間身体のおのおのの変状の観念の観念は人間精神の妥当な認識を含んでいない。により)悲しみの認識、ひいては悪の認識は非妥当な認識である。Q・E・D・=これが証明すべきことであった。
 系 この帰結として、人間の精神は、もし妥当な観念しか有しないとしたら、悪に関するいかなる概念も形成しないであろうということになる。
 記:人の子として肉体と精神を携えもって生まれたナザレのイエスも神の子を自覚するまでは当然に非妥当な観念を認識していただろうし、釈迦族の皇太子であるガウタマ・シッダールタ、漢訳では瞿曇悉達多(くどんしっだった)も悪を認識したらこそ沙弥となり、共に修行中は悪(魔)と戦っています。



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最終更新日  2022年07月03日 06時00分50秒
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