ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

山田詠美 ファースト クラッシュ 文藝春秋

2020-07-11 17:04:39 | エッセイ
 2019年10月30日発行の3部からなる小説。中編小説というべきだろうか。短編ではないし、長編でもない。帯に「現代最高の女性作家が紡ぎだす、豊潤な恋愛小説」とある。
 先日、引っ越しに伴って本棚整理をしたところだが、若いころには倉橋由美子は相応に読んでいた。あとは誰だろう。吉本ばななも、最初の1冊か2冊で止めているし、継続して読んでいる女性作家はほとんどいない。いや、ほとんど、という限定は不要か。唯一の例外を除いては。
 唯一の例外とは、つまり、山田詠美である。
 もっとも、初期からずっと読んでいるというわけでもない。山田双葉という女性マンガ家の作品は記憶にある。黒人男性が登場するクールな世界観が特徴的だった。クールな会話が交わされていた、ような気がする。
 小説のデビュー作からしばらくは、手に取ったことはないはずだ。
 どこからだろう。
 『ぼくは勉強ができない』からだろうか。
 このあたりは、何冊かは読んだ、というレベルだ。
 『PAY DAY!!!(ペイ・デイ)』は、それをネタにして「家族の経済」という詩を書いている(詩集『寓話集』に収録)ので、読んでノックアウトされたことは確かだ。市井の人々のささやかな日常生活を描く、ということではあるのだが、日本の私小説風だったり、下町の風情だったり、というのとは全く違う、まあ、アメリカの黒人家庭の話だったはずだから、そもそも和風ではないのだが、そういうのとは風合いは違いながら、ほのぼのとした温かさ、みたいなものは感じられたのだったと思う。これは、もっと読みたい、と。
 次に『風味絶佳』。短編集。これは、まさに風味絶佳だった。濃厚なクリーミーな舌の上でとろけていくような。キャラメルはキャラメルでも、生キャラメル、のような。絶品の甘さ、美味さ。もちろん同時に「滋養豊富」である。
 これ以降に刊行された小説はすべて読んでいることになりそうだ。
 さて、この小説は以下のように書き出される。

「初恋をファースト クラッシュと呼ぶのを知ったのは、もう何年も前のことだ」(6ページ)

 英語のクラッシュには、実はスペルの違う別の二つの単語があるらしい。

「でも、どちらなんだろう。車や飛行機が、衝突したり墜落したりする時に使う“crash”なのか、粉々に砕いたり、ぺしゃんこな状態にするのを意味する“crush”なのか。
 調べてみたら後者だった。“crush”。ま、どちらも似たようなものか、出合い頭にぶつかって、衝突して墜落して粉々に砕かれるんだもの。」(6ページ)

 そもそも、こんな別の言葉があったなんて知らなかった。擬音語だか擬態語だか知らないが、これは語源的には同じ言葉なのではないか?いずれ意味は似たようなことだ。いい加減なことついでに言えば、サザン・オールスターズに「愛がクラッシュする」などという歌詞があったような気がするが、あえて調べることはしないで放置。
 初恋が、ファースト クラッシュ、「出合い頭にぶつかって、衝突して墜落して粉々に砕かれる」とは、物騒なことであるが、物語の成り行きを期待させるものはある。

「初恋は、しばしば「ファースト ラヴ」と訳されるけれども、そこでイメージされる淡い想いとか甘酸っぱい感じとは全然違うと私は感じている。」(7ページ)

 カルピスの味ではないわけである。(キョーレツに強炭酸の濃い目のカルピス・ソーダの味ではあるかもしれない。蛇足。)
 状況設定としては、まず高見沢家の美しい三姉妹が登場する。

「愛くるしい容姿と清らかな心を持ったと評判の姉は、時に天使を連想させ、活発な妹は、あどけない表情とやんちゃな立ち振る舞いで見る人を元気付けた。私は、と言えば、常に仏頂面で愛想の欠片もなかったが、顔立ちだけは整っていたので、常に抱えていた本と込みで、知的美人のお嬢さんと呼ばれていた。でも、私は、ある時から、知的というのと真に知性があるのとでは全然違うのに気付いていたから、そう呼ばれるたびに、短絡的な誉め言葉を使う輩を心の中でせせら笑っていた。
 ……と、いうように、私だけ、ひねこびた嫌な子どもだったわけだが、それでも「高見澤家のお嬢さん」には変わりなく、裕福で恵まれた家に育つ者としての恩恵を十二分に受けていた。」(11ページ)

 まずは、次女、そして、長女、最後に三女の語りで、3部が構成される。いつも本を抱えた知的美女の次女、あたかも天使のような長女、あどけなく活発な三女の、ある少年との出会いから始まるお話である。
 しかし、主要な登場人物は、もうひとりいる。ある女性である。3+1の4人の女性と、ひとりの男性の物語。
 始まりからすでに濃密な甘やかな世界への期待が高まる。
 ところで、第一部では、島崎藤村の「初恋」が引用される。

 「やさしく白き手をのべて
 林檎をわれに与えしは
 薄紅の秋の実に
 人こい初めし はじめなり」(80ページ)

 「初恋」である。
 第二部では、中原中也「春日狂想」。

 「愛するものが死んだときには、
 自殺しなけあなりません」(136ページ)

 実は、そもそも愛する者が死んだことから、この小説は始まっている。
 第三部では寺山修司の詩。

 「かくれんぼは
 悲しいあそびです」(231ページ)

 これら三つの詩は、それぞれの置かれた場所で、役割を果たしている。深い意味を担っているというべきだろう。しかし、まあ、なんと甘く感傷的な詩ばかり集めたものだろうか。もちろん、適切に、その場所で甘く感傷的なのである。
 第三部の、ほとんど最後のシーンは、こんなふうだ。神戸の郊外の、山中から海を見下ろす駅のホームで。文中の力は、リキ、男性の名前。

「そうして、私は、ひなびた駅のホームで、ひとり待った。風のない海に立つ白波をながめながら、武者震いするような気持ちを落ち着かせようと深呼吸していると、到着した力がゆったりと歩いてくる。他人のレンズを通すようにして彼を見る。ああ、叔父さんだなあ、と思う。あんな年齢までひとり身でいた、いたいけなおじさん。そして、私だって……」(240ページ)

 この、久しぶりの出会いのシーンは、この後、まさに期待通りに展開してラストを迎える。
 この小説には、ちょっとした事故のようなキス・シーンが一回登場するのみで、肉体的な交わりのシーンはひとつも登場しないのだが、私にとっては、最上のポルノグラフィである。そういうふうに言ってしまいたい衝動がある。精神的に、象徴的にサド侯爵的なものが、マゾッホ的なものが交感されている。しかし、それは決してあからさまなものではなく、肉体的な苦痛を与えるものではない。ラストも、きちんと期待通りに回収される。
 こういう読書が、人生の楽しみ、というべきなのだろう。
 しかし、この高見沢家の父親は、いい役をもらっている。先日読んだ小林麻美の本の父親と相当に重なるところがある。うらやましい限りである。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿