あちらこちら文学散歩 - 井本元義 -

井本元義の気ままな文学散歩の記録です。

№137 初めての海外 香港マカオカンボジアタイマレーシアシンガポールほかそしてパリ

2021-10-19 14:32:49 | 日記
コロナ下で一年以上国内はもとより海外もどこにも行っていない。もちろん僕以外の多くもそうであろう。日々の大半を部屋で物書き音楽読書昼寝や酒で過ごした。一面、面白い経験とも思ったが、残り少ない人生から考えると残念でもある。まだ2か月になる孫「10人目」にも会っていない。
ぼんやりそう思ってみると、初めての海外旅行の事など思い出す。それは初めて乗る飛行機でもあった。50年以上も前、僕は丸の内の大企業に勤めていて、そしてそのうちに海外事業部に配属になるのを待っていたが、諸事情で会社を辞めることになった。物書きになるのも少し諦めて、帰郷することになった。
同僚の親友に話すと、実は自分も国に帰らねばならない、と言った。彼は名古屋に帰ってトヨタの下請け会社を友人と経営するらしかった。社員は当時数百人、いまは2千人以上の大下請けになって、この度引退した。そして二人とも、海外はまだ、飛行機もまだだった。面白いことしようとなって、一か月余り東南アジアを回ることにした。お互いに27歳、実に面白い有意義な旅だった。英語も中国語も旅の要領も知らなかったが新鮮だった、目を開かされることばかりだった。前にも述べたが、カンボジアでは内戦の一週間前に脱した。香港ではそうとうに危ない場面にも出くわした。
無事帰国したが、それからは中小企業に悪戦苦闘の日々、大阪万博、三島の切腹、時代は大きく変わっていった。それからの20年余りのうちに行ったのは、学会とメーカーの見学でアメリカに一度、県の使節団で中国と新婚旅行くらいだった。
日々の仕事で、文学への夢はほとんど絶たれていた。が読書だけは続けていた。そしてカミュ、サルトル、ランボー、ジャンクリストフ、芸術の都パリは何時も頭から離れなかった。大学の文芸部の先輩菅原さん「学部は違う」がそのころ、本屋の紀伊国屋を辞めたあと、東京で出版社を起こしていた。牧神社というマイナーな文学書を取り扱っていた。「彼は僕の17歳から50年にわたっての文学の師だった、仏文学は専門、最近は連絡が途絶えたが」彼が一度パりに一緒に行こうか、と言ってくれた。そして日程も決めた。いよいよ手配をすることになったとき、先輩が突然、止めたと言ってきた。僕の心が収まるわけはない。一人で行くことにした。はじめての海外一人旅だった。英語も仏語もだめ。僕は40歳もはるかに過ぎていた。この年になって何も喋らず恥かきに行くようなものだった。それでも初めての海外一人旅を決行した。東京から帰郷したこと、それに並ぶ僕の人生の大転換期だった。このパリ行きが僕のその後の人生の大きなエキスになった。
何度もガイドブックを読み返した。名跡を辿るよりも、迷子にならない、へまをしない旅、がむしろ先に学ぶことだった。バスや地下鉄、迷子、怪我、病気、被害、にも注意がいった。内心、びくびくものだった。第一が、空港から市内へ行くバスはどうやって行けばいいのか、さえ調べてもそのとうりかどうかわからない。
幸い、飛行機で知り合った若い一人旅の女性が教えてくれて一緒に市内までは無事についた。その日はその女性の友人と3人で夕食だった。僕は旅慣れた風を装って、レストランを決めた。クローズデリラ、ヘミングウエイが通ったモンパルナスに近いリュクさんブール公園の南の有名な店だった。
それから僕は、ハラハラドキドキしながら、おどおどしながら、また太々しくパリを歩き回った。ルーブルもコメディフランセーズも、サントシャペル教会も、切符を買うのにも慣れてきた。地下鉄もバスも。モンマルトル、テルトル広場、パンテオン、テュイルリー公園、凱旋門、僕は歩き回った。空は快晴、30度、5月の連休。コメディフランセーズでは言葉も分からずに芝居を見て、そこに座っただけで興奮した。「帰ってからその芝居の訳本を読んだ。」サンジェルマン教会の横の、本屋に入って、「サルトル氏はどこに住んでいましたか」などわずかに知っているフランス語で尋ねたりした。店員は、そこよ、と教えてくれた、横のアパルトマンだった。下町のムフタールやデカルト街では、ヴェルレーヌの終焉の家を見つけた。そこにはヘミングウエイも住んでいたとギャルソンが教えてくれた。ヴォ―ジュ広場もコンコルドもヴァンドーム広場もまだ人通りは少なかった。「それから40年後の今はとても多い」小さな教会のコンサートに入り込んで、アルビノーニのアダージョに涙で感動した。僕は長年の悩みの、ものが書けないという不安から脱したようでもあった。毎年来るぞ、と決めて僕は自信にあふれ帰国した。
ところが翌年は、どうしても仕事の都合で、パリに3泊しかできない。3泊5日の旅だ。資金も勿体ない、今年はやめとこうかと思ったが、家内が、そんなにパリが気に入ったのなら、いいじゃないですか、行ける時に行ったらいい。と肩を押してくれた。それが病みつきになった、何十回行ったことか、また住む事にもなった。
丁度その頃、誰から聞いたのか、旧い友人の女性が、パリに住んで10年くらい、が手紙をくれた。巴里に来たらしいですね、今度来たら連絡ください、というものだった。そんなに親しい間でもなかったが、さらに自信がついた。
丁度、一年後、僕はそのアパルトマンのドアの前に立った。何も知らせずに、住所を頼りにそこまでついた。そしてドアをコツコツ叩いた。どなたですか、と声がした。井本です、と言うとエーと言う驚きの声とともにドアが開いた。十年ぶりの再会だった。古い安いアパルトマン。
僕は愉快だった。彼女が、子供を迎えにいくのでちょとまっててくださいと言ってでかけて、ぼくはしばらく椅子に座っていた。しばらくしてドアが開いた。男が入ってきた。どなたですかと彼は驚いた。彼がそれから30年付き合うことになった絵描きの山崎氏だった。貧乏絵描きだったが、二年に一度帰国して個展を開き稼いでまたパリに帰る生活をしていた。その兄が福岡市長にもなった。30年の間、度々パリ郊外を案内してくれた。また彼のパリでの個展では搬入や搬出や店番をして僕もてつだった。それから彼を通していろんな友人もできた。4年前彼は亡くなった。子供が一人いて孫もいるが、奥さんは帰国している。























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