富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「主なる神の御言葉の力」イザヤ書55章1~11節

2022-12-02 14:12:58 | キリスト教

    

  ↑ 渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。 イザヤ書55:1

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週  報

待降節第2主日  2022年12月4日(日)  午後5時~5時50分

 

                            礼 拝 順 序                    

                 司会 斎藤 美保姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 356(インマヌエルの主イェスこそ)

交読詩編      19(天は神の栄光を物語り)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)  イザヤ書55章1~11節(旧p.1152)

説  教  「主なる神の御言葉の力」  辺見宗邦牧師

祈 祷                                                    

讃美歌(21) 231(久しく待ちにし)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

〇 オン・ラインで礼拝に参加できます。牧師(090-3365-3019)に、        申し込み下さい。

        次週礼拝 12月11日(日)  午後5時~5時50分

        聖 書  ゼファニヤ書3章14節~18節

        説教題  「キリストの先駆者」 

        讃美歌(21)  237 27 交読詩編 85

本日の聖書 イザヤ書55章1~11節

55:1渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め、価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ。 2なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い、飢えを満たさぬもののために労するのか。わたしに聞き従えば、良いものを食べることができる。あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう。 3耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ。わたしはあなたたちととこしえの契約を結ぶ。ダビデに約束した真実の慈しみのゆえに。
4見よ、かつてわたしは彼を立てて諸国民への証人とし、諸国民の指導者、統治者とした。 5今、あなたは知らなかった国に呼びかける。あなたを知らなかった国は、あなたのもとに馳せ参じるであろう。あなたの神である主、あなたに輝きを与えられる。イスラエルの聖なる神のゆえに。 6主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。 7神に逆らう者はその道を離れ、悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば、豊かに赦してくださる。 8わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると、主は言われる。9天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道をわたしの思いは、あなたたちの思いを、高く超えている。 10雨も雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種蒔く人には種を与え、食べる人には糧を与える。 11そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす。

本日の説教

 イザヤ書は66章までありますが、年代が違う三人の預言者の書とされています。全体の表題は、「イザヤ書」という最初に活動した預言者イザヤの名がつけられています。 

最初のイザヤの預言は、1章から39章までです。イザヤは紀元前739~750年まで、北イスラエル王国がアッシリアの攻撃を受けて滅亡した時代、南ユダ王国の首都エルサレムで活動した預言者です。

第二イザヤの預言は、40章から55章までです。第二イザヤは、イザヤから200年後、紀元前546~538年まで、バビロン捕囚の末期から、捕囚解放、そしてエルサレム帰還にいたるまで活動した預言者です。おそらく捕囚の地で生まれた第二世代の人であり、祭儀と深く関係していた人物と推測されます。

第三イザヤの預言は、56章から66章までです。第三イザヤは、ユダヤ人の祖国帰還と第二神殿再建(紀元前515年)直後まで、紀元前539~441年まで活動した預言者です。第三イザヤは、第二イザヤの弟子であったと考えられています。

南王国ユダは、バビロニアによって攻撃され、紀元前587年に滅亡しました。王や住民の重立った者たちは、597年、586年、581年と三度にわたってバビロンへ捕え移されました(エレミヤ書52・28-30)。総数は4600人です。これがバビロン捕囚(紀元前597年~538年までの59年間)です。

エルサレムが陥落してから、主なる神の言葉はありませんでした。約40年後に、神は第二イザヤを用いて、「わたしの民を慰めよ」、と語り、「苦役の時は今や満ち、彼女(エルサレム)の咎は償われた。・・・主のために荒野に道を備えよ」(40:1-3)と、エルサレム帰還を約束します。

第二イザヤの預言は、捕囚解放前の預言を集めた40~48章と、解放後の預言を集めた49~55章の二部構成になっています。

ユダの人々は異国の地で捕囚の民として屈辱と苦難をあじわいました。ユダの人々が住んでいた町エルサレムも、信仰の中心であった神殿も破壊されていました。神の民としてのイスラエル民族にとって、国を失い、捕囚の民とされたことは、イスラエルの神に対して、バビロニアの神々が勝利したのではないかという疑問が生まれ、偶像礼拝へ走ろうとする者達もいました(44・9-17)。また、「主はわたしを見捨てられた」(49・14)のではないかという思いがありました。

第二イザヤは、この捕囚の民の中にあって、自分もその苦しみを深く味わいながら、唯一の神が共にいたもうこと、主(ヤーウェ)なる神は必ずイスラエルをあがないたもうことを力強く語り、希望と平安をもって生きることをすすめます。

51章では、シオン(エルサレムの丘)への帰還を預言します。「主はシオンを慰め、そのすべての廃墟を慰め、荒野をエデンの園とし、荒地を主の園とされる」(51:3)と、主の御計画が語られます。

52章では、「彼らは目の当りに見る。主がシオンに帰られるのを。」(52:8)とあります。

53章では、主のしもべの苦難を通して贖いがなしとげられることが預言されます。

54章は、その贖いの成就にもとずいた、回復への備えが命じられます。

そして今日の55章は、第二イザヤの預言の最後の締めくくりをする重要な章です。成し遂げられた贖いに立って、その救いを受け入れなさいという招きがなされます。預言者は神に代わって、イスラエルの人々を、無償で与えられる神の饗宴に招きます。それは「永遠の契約」への神の招きです。

「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め、価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ。」(55:1)

  バビロンに捕らわれているイスラエル人は、救いを求めてあたかも渇ける者のように、また飢える者のようです。「渇きを覚えている者は皆」という冒頭の語はそれを表しています。それゆえ、預言者は神に代わって「水のところに来るがよい」と呼びかけます。主イエスは、「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(ヨハネ4:13)と言われています。

1.渇いている者は皆、招かれています。救いの機会は、お金のあるなしに関係なく提供されます。

これは、53:11の「多くの人を義とし」とある預言によるものです。万民のための贖いが成就した今、万民に対してその救いを受け入れるように招きがなされるのです。

2.豊かな命が約束されています。豊かな水、穀物、ぶどう酒、乳などに象徴される豊かな命が約束されています。これらはただ、必要を満たすだけでなく、私達に喜びを与え、命に活力を与えます。

3.「銀を払うことなく」とあります。イザヤの時代には、金や銀が物の売買に使われるのは、特別に価値の高いものの売買の場合でした。キリストの救いは、まさに、代価を払うことなく与えられる恵みです。無代価の救いが提供されているのは、53章に預言されている主のしもべの代価があったからです。私達が救われたのも、これから救われるのも、ただ恵みによるのです。

「なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い、飢えを満たさぬもののために労するのか。わたしに聞き従えば、良いものを食べることができる。あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう。」(55:2)

 大部分の捕囚民は、バビロンの生活にすっかり同化し、物質的にも、精神的にも、生命の糧以外のものの獲得に憂き身をやつすようになっていたと思われます。イスラエル人は愚かにも「糧にならぬもののために銀を量って払い、飢えを満たさぬもののために労」しています。それは空しい労苦ではなかろうか。「わたしに聞き従えば、良いものを食べることができる。」神の言葉を心より聞くことこそ「良い食べ物を食べ」「豊かさを楽しむ」道である。飲食が、神との交わりの象徴的な意味を表しています。神が与える命の糧、霊の食物である神の御言葉を食べることが勧められています。

「耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ。わたしはあなたたちととこしえの契約を結ぶ。ダビデに約束した真実の慈しみのゆえに。」(55:3)

3節で預言者は今一度会衆に耳を傾けることが真に生きることになることを述べます。神に代わって預言者が「耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ」と語りかけます。神の言を聞くことは、食べることよりもさらに重要な生命の道です。次に神自身が「わたしはあなたたちととこしえの契約を結ぶ。ダビデに約束した真実の慈しみのゆえに」と民に語りかけます。「とこしえの契約」を結ぶとあるように、これは契約の永遠性を示します。エレミヤ書31章の新しい契約が、旧いシナイ契約の更新であったように、これはダビデの契約(サムエル記下7:16、詩篇18:51)の更新です。

「見よ、かつてわたしは彼を立てて諸国民への証人とし、諸国民の指導者、統治者とした。今、あなたは知らなかった国に呼びかける。あなたを知らなかった国は、あなたのもとに馳せ参じるであろう。あなたの神である主、あなたに輝きを与えられる、イスラエルの聖なる神のゆえに。」(55:4-5)

「見よ、かつてわたしは彼を立てて」は、過去のダビデと交わされた約束が未来のメシアによって実現することを言っています。過去のダビデは政治的に諸国を支配するに至った王でした。しかし未来のメシアは霊的に全世界を統治する君です。それで、「彼を立てて諸国民への証人とし」と言われています。このメシアが神に代わって諸国民を招き、彼らはあなたのもとにあつまるでしょう。あなたの神である主が、イスラエルに与えられる永遠の契約による輝きのもとに。この預言は、第一イザヤの幻でもありました。「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」(イザヤ書9:1、11:10)。

 「主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。」(55:6)

 主は隠れている。遠くにいて応えてくれない、と思っている捕囚民に、ふたたび預言者が語り手となって、捕囚の民と共におられ、近くにおられる主を呼び求めることを勧めます。

「神に逆らう者はその道を離れ、悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば、豊かに赦してくださる。」(55:7)

捕囚の民に、民の罪を気づかせます。「神に逆らう者、悪を行う者」に、「離れ、捨てよ」と悔い改めへ招きます。この呼びかけの言葉は、イザヤ書53章の「苦難の僕」の預言の後にあります。主の僕が負ったのは、私たちの病、痛み、背き、咎でした。

この先行する神の恵みに応えるために、すでに宣べられている赦しを得るために、民は神に帰らねばなりません。主は「豊かに赦しを与えられるから」です。この主の僕こそ十字架の道を歩まれたイエス・キリストです。

「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると、主は言われる。天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いは、あなたたちの思いを、高く超えている。」(55:8-9)

ここで言う「思い」というのは、「計画」の意味です。「道」はその「計画」を実行に移される方法、手段のことです。バビロン捕囚で危機に直面していたのは神の言葉であり、言葉を実現し、言葉と共に働く神御自身でありました。神の言葉に対する信仰が危機に直面していました。しかし、ここで語りかけておられる神は、世界を創造し、イスラエルを奴隷の地エジプトから導き出し救い出した方です。

イスラエルの民は59年に及ぶ捕囚生活から解放されて、故郷エルサレムへ帰還することが許されました。しかし、全ての民が喜んで帰還したのではありませんでした。捕囚の地に留まった民も多くいたのです。何故でしょうか。故郷エルサレムは廃墟に化していたからです。気の遠くなるような長い再建の道よりも、捕囚の地で安定した生活を確保できる道を選んだ方が最善の道である、と思ったイスラエルの民が多くいたのです。このような民に向かて、主なる神は第二イザヤを通して語った御言葉が、8節以下の言葉です。神が贖いの神として、バビロンの地においても顕れる。それは、人の思いと異なる。それよりはるかに高く超える言葉をもって語りかけます。これが「わたしの思い」として示される、主の思い、すなわち、主のご計画です。

捕囚の多くの民の思い、進むべき道は、捕囚の地に留まり、安定した生活を選ぶことでした。しかし、主の思い、主の御計画は、故郷エルサレムへ帰還し、再建の道を選ぶことでした。新しい出エジプトの出来事を起こすと、主なる神は言われるのです。

「雨も雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種蒔く人には種を与え、食べる人には糧を与える。」(55:10)

主なる神が創造された自然の営みが語られます。天から雨、雪が大地に注がれます。雨も雪もむなしく天に戻らない。大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、豊かな実りをもたらします。種蒔く人には種を与え、食べる人には糧を与えます。それと同じように、主の口から出る御言葉の力は、天からの雨に譬えられて、語られます。

「そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす。」(55:11)

それと同じように、主の口から出る言葉も、むなしく主のもとに戻らない。主の望むことを成し遂げ、主が与えた使命を必ず果たす。主が与えた使命とは、荒れ野に道を備えることです。強い約束が語られます。神の言葉は人間の思いをはるかに超えて、生きて働いてくださるのです。

55章12節には、「あなたたちは喜び祝いながら出で立ち、平和のうちに導かれていく。山と丘はあなたたちを迎え、歓声をあげて喜び歌い、野の木々も、手をたたく」とあります。主による捕囚民の祖国帰還は、自然の変貌と歓呼が告げられ、主の救いの永遠の記念となる讃美となります。

旧約聖書では、主の「言葉」は語られるだけでなく、語られたことが主の意志として行動と結びつき、実行されます。ですから罪の赦しと救いの約束はただ神の約束にとどまらず、必ずその約束の如くになります。具体的にいえば、捕囚のイスラエル人はバビロンより解放されて再び祖国に帰り、荒れはてた国を復興するに至るのです。それが神の救いの約束の具体的な成就として実現されます。こうして神の約束はイスラエル人の解放として実現します。それはその目的を達せずには終わらないのです。

新約聖書はその成就が、主イエス・キリストにおいて現実になったことを伝えます。人の思いをはるかに超える主の思い、主の道をいつも思い、その道を示めされる主の言葉を聞き、信じる信仰を、主は私達に求めておられます。。

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