絵を描こう 旅に出よう

死ぬまでわくわくしていたい

久しぶりに運転 車を巡る思い出

2024年04月17日 00時30分57秒 | 日記

きょうは娘にたのまれて家具を運ぶためにレンタカーを借りた。

1年ぶりの運転、はじめはどきどき。

でも走っているうちに昔通り。

非力な人間が重い荷物や人を運べ、夜中でも早朝でもどこにでも行ける。雨でも風でも平気。

座ってハンドルやシフトレバーを操作するだけ。

車は自由と力の象徴のように思える。カーロスを感じた。

 

4年前、愛車を手放して、大分に移住し、そのときは大家さんの車を借りて乗っていたが、横浜に来てから車の無い生活になっていた。2年、3回くらいはレンタカー借りたかな。最後に運転してから1年がたつ。

73歳はもうそろそろ免許返納を考える歳だけど、まだしばらくは乗りたいなーと思った。

でもいったん事故などの不安を抱くと、もういらないやと思ったりする。不便だけど平穏。人に害を与える心配もない。お金もかからない。

 

このブログにも書いたことがあるけど、

二十年前に、長女が交通事故で亡くなった。

あのときの運転手のHさん(名前はいまも覚えてる)は今頃どうしているだろう。亡くなったときには土下座して謝って泣いていた。いまは全く音沙汰はないが、ときどきは死なせた少女のことを思い出すのだろうか。事故は娘にも責任はあった。急に車線の変更をして後ろから来た車にはねられたんだから。でも夜中、その車はライトをつけていなかった。夜中の甲州街道、みんな高速道路並みのスピードで走る。バイクに乗っていた娘はバックミラーでは無灯火の車が来てることを気づかなかったのだろう。娘の頭はその車の右のサイドミラーにぶつかったらしく帽子の毛糸がくっついていたらしい。その車には巨大な犬が2頭乗っていた。

病院で3週間意識のないまま寝ていて、その間に顔の傷が奇麗に治った。でも脳のダメージはやがて彼女を死に至らせた。

私たち両親はなぜかあまりその運転手の男性を憎まなかった。

運命だと思った。

娘が死ぬまでの5年間、わたしたちは娘の生き方の激しさに翻弄されていたので、死という結末が、なぜか、ああ、やっぱりそうだったのか、という受容の気持ちで受け取った。もちろん悲しくなかったのではないし、いまも悲しいし毎日思い出すんだけど、理不尽さからくる怒りよりも、天のやり方に、そして娘に、感謝を感じるときもある。もう一度新しい体でやりなおしに生まれてくると信じることで悲しみをやり過ごせた。

 

実は私は、多摩市の野猿街道で、自転車の大学生をはねたことがある。それは明らかに相手の責任で、ブレーキの効かない自転車で急な坂道からすごい速度で飛び出してきたんだから。こちらは信号のすぐあとで、スピードが出てなかったのは幸いだった。大学生のころび方も上手くて、すみませんといいながらスタスタ歩いてきた。。パトカーと救急車を呼んで病院へ運ばれたけど、骨折もなく軽症。頭も打ってなかった。柔道の受け身が得意だと言っていたっけ。ほんとうにラッキー!

とにかく呪文のように「ありがとう」を唱え続けていた私だった。

警察ではこちらの責任もいちおう問われるということで左前方不注意、となったけど、あれはお巡りさんでもさけられませんでしたよ!

保険会社の交渉でこちらの過失は20%となった。

私の小さな車はかなり壊れて弁償してもらった。彼は個人賠償保険に入っていたらしい。

トラックにでもぶつかっていたら彼は死んでたかもしれない。小さい車でよかった~と言っていたな。もしかしたら私は彼を救ったのかもしれない。

全く迷惑な話だけど、それもなにか私へのメッセージだったのだろう、とは思う。天使か何かがわたしを守ってくれた。

忘れられない思い出。

 

車にまつわる思い出はたくさんある。札幌まで一人で運転して行ったこともあるし、鳥取砂丘へも行った。御前崎、潮岬、野島岬、観音崎・・・たくさんの灯台を巡った。

 

もう終わりにした方がいいのか、もう少し楽しんだほうがいいのか、迷っている。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。