後藤和弘のブログ

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中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「日本の歴史(19)日本の運命を大きく変えた太平洋戦争」

2023年01月18日 | 日記・エッセイ・コラム
太平洋戦争は日本の歴史の中で一番大きな出来事でした。1945年の日本の敗北によって日本の政治、社会、文化が根底から変革されたのです。アメリカ流の民主国家に生まれ変わったのです。
今日はこの太平洋戦争の経過を簡略に書いてみたいと思います。
太平洋戦争は、1941年から始まった戦争であり、第二次世界大戦のアジアでの戦いでした。
この戦争は日本とアメリカ合衆国との戦いで始まり、すぐに日本とアメリカ、イギリス、中国、オランダ、オーストラリアなどの連合国の間の戦になったのです。
1945年8月15日に連合国が勝利して終わります。日本政府が降伏文書の署名した9月2日が正式な終戦の日となります。さてこの大戦争の経過を見てみましょう。
以下は次の各資料の抜粋です。これらの詳細な資料の執筆者へ感謝の意を表します。
1,太平洋戦争https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E6%B4%8B%E6%88%A6%E4%BA%89 
2,真珠湾攻撃
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%8F%A0%E6%B9%BE%E6%94%BB%E6%92%83
3,仏印進駐
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E5%8D%B0%E9%80%B2%E9%A7%90
4,マレー沖海戦
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AC%E3%83%BC%E6%B2%96%E6%B5%B7%E6%88%A6
(1)仏領インドシナ、ベトナム、ラオス、カンボジアの日本による事前占領
太平洋戦争が始まる前の1940年から1941年にかけて日本は仏領インドシナだったベトナム、ラオス、カンボジアを軍事占領します。
これが仏印進駐です。第二次世界大戦下におけるフランス領インドシナ(仏領印度支那)への日本軍の進駐のことをです。1940年の北部仏印進駐と、1941年の南部仏印進駐に分けられます。1907年に締結された日仏協約が事実上無効化し、南部仏印進駐は日米関係の決定的な決裂をもたらし、太平洋戦争への回帰不能になりました。
1940年5月のドイツ軍のフランス侵攻によりフランスが劣勢になると、日本軍内ではフランス領インドシナに対する対応が検討され始めました。そして1940年に北部仏印進駐が始まったのです。

1番目の写真はベトナムのサイゴンに進駐する日本軍です。
フランス領インドシナ政府は武器弾薬・燃料・トラックの輸出を禁止する措置を行う旨を日本側に通告しましたが日本側の対応はかえって激しいものとなります。結局、仏領インドシナだったベトナム、ラオス、カンボジアは日本によっ占領されたのです。

(2)真珠湾攻撃で太平洋戦争の開戦
1941年12月8日です。7時49分(同3時19分)、第一波空中攻撃隊は真珠湾上空に到達し、攻撃隊総指揮官の淵田が各機に対して「ト」の連送で、「全軍突撃」を下命します。
7時52分、淵田は旗艦赤城に対して「トラ・トラ・トラ」を打電しました。これは「ワレ奇襲ニ成功セリ」を意味する暗号略号です。この電波は広島湾にいた戦艦長門でも、東京の大本営へも到達します。


2番目の写真は発艦直前の翔鶴の飛行甲板です。

3番目の写真は赤城から発艦する零式艦上戦闘機です。
航空機による攻撃は7時55分に急降下爆撃隊がフォード島のウィーラー陸軍飛行場へ250 kg爆弾による爆撃を開始し、これが初弾となりました。
ホノルル海軍航空基地作戦士官のローガン・ラムジー中佐は7時55分ごろに基地に対して急降下してくる航空機の耳をつんざく音に気が付き、近くにいた当直士官の大尉に「あいつの機体番号を調べろ。あいつの安全ルール違反を報告しなきゃならん」と命令しなす。その航空機はさらに突っ込んできたため、ラムジーは「機体番号はわかったか?」と当直士官に聞いたが「いや、わかりません。赤のバンドがついてるから隊長機と思います。」という返答があった。ラムジーが苦々しい顔をしていると当直士官が「急降下爆撃機が機体を引き起こして上昇するとき何か黒いものが落下しました。」と報告した瞬間に凄い爆発音が格納庫の方で鳴り響きます。
ラムジーは表情を強張らせ「ディック、飛行隊長を調べる必要はない、あれは日本の飛行機だ」と叫ぶと、無線室に向かって廊下を走り、当番兵に次の電文を平文で打てと命じたのです。(真珠湾空襲さる ※これは演習ではない)
こうして太平洋戦争が始まったのです。

4番目の写真はアリゾナの弾薬庫が誘爆した瞬間です。

(3)真珠湾攻撃と同時に東南アジアの軍事侵攻と占領
軍部が中心となって作成し1941年11月15日に大本営政府連絡会議が決定した、太平洋戦争全般にわたる基本方針となる日本の戦争計画書『対英米蘭蔣戦争 終末促進に関する腹案』です。「東南アジア南太平洋における米英蘭の根拠を覆滅し、戦略上優位の態勢を確立すると共に、重要資源地域ならびに主要交通線を確保して、長期自給自足の態勢を整う」。
戦争の終わらせ方については「独伊と提携して先ず英の屈服を図り、米の継戦意志を喪失せしむるに勉む」としていのです。
そして「マレー作戦」を真珠湾攻撃と並行して進めたのです。
最初に、日本陸軍の上陸部隊を載せた船団が日本時間12月8日未明にイギリス領マレー半島東北端のコタ・バルに接近、日本時間午前2時15分に上陸し、海岸線で英印軍と交戦します。
イギリス政府に対する宣戦布告前の奇襲によって太平洋戦争の戦端が開かれたのです。
日本軍はほぼ同時にタイにも上陸し、タイ側と戦闘を行い日本軍のはタイに進駐しました。また近衛師団も8日仏印から陸路タイに侵入しました。
日本軍を迎撃しようとしたイギリス海軍の戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と巡洋戦艦「レパルス」は、仏印から発進した日本海軍陸上攻撃機による雷撃と爆撃で撃沈された(マレー沖海戦)。

5番目の写真は日本軍航空部隊の攻撃を受ける英海軍のプリンス・オブ・ウェールズ(右上)とレパルス(左下)です。

6番目の写真は戦艦プリンス・オブ・ウェールズです。
マレー沖海戦は太平洋戦争の1941年(昭和16年)12月10日にマレー半島東方沖で日本海軍の陸上攻撃機とイギリス海軍の東洋艦隊の間で行われた戦闘でありこれが東南アジア諸国の軍事占領の出発点になったのです。日本海軍航空隊は戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルスを撃沈したのです。航行中の戦艦を航空機だけで撃沈した世界初の事例でした。

今日は太平洋戦争の前半部分の経過を書きました。日本軍が勝っていた太平洋戦争の前半部分です。しかしこの後日本の運命は暗転するのです。明日の続編で書きます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

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