溜まり場

随筆や写真付きで日記や趣味を書く。タイトルは、居酒屋で気楽にしゃべるような雰囲気のものになれば、考えました。

随筆「文、ぶん、ブン」(五)

2017年04月16日 | 随筆

“のり・のり”(2)

山好き「ところで天皇制を、ひとびと・民とのかかわりで捉えるなら、十七条にもそれはあるよね。この三つの憲法を見ていると、つながっているのかなと感じる。六世紀から二〇世紀まで随分と間があいているがね・・・」

呼びかけ人「明治のも、昭和のもいずれも西洋思想が入っているし、推古十一年十二月に冠位十二階を制定して官僚制をスタートさせ、そのあとすぐ翌年の四月に発表された十七条も中国大陸の思想が大いに入っている。この三つは外来思想のいいとこどりをしている。やはり時代の流れの中にあって、民にとっても大きな存在だし、歴史上も重要な出来事だと思うので比較してみたかった。」

文明史好き「ちょっと待って。ずっと気になっていたのだが、、英語でConstitution、ドイツ語でVerfassungという、近代的な用語の『憲法』ね、日本では一四〇〇年前に使われていたというの、何か不思議な気がするね。」

呼びかけ人「基本法を意味する『憲法』は大陸にもなかったのだが、『大言海』には「賞善罰姦、國之憲法也(善を賞め姦(よこしま) を罰するは国の憲法なり)」との一言が紹介されている。憲の字形は目や心を押さえる枠で「のり」と訓読み、法も「のり」で枠をはめるといった上からの行為だ。」

文明史好き「『十七条』ではいくつか天皇の記述のある条文があるが、その位置づけがはっきり示されているのは、第三条。承詔必謹<詔(みことのり)を承りては必ず謹(つつし)め> 君則天之<君をば天とす> 臣則地之<臣をば地とす> 天覆地載<(天は覆い、地は載(の)す> 四時順行<四時(しいじ)順(したがい)行(おこ)いて> 万気得通 <万気通うことを得(う)>地欲覆天<地、天を覆わんとするときは> 則致壊耳<壊(やぶ)るることを致さん> 

 君をば天とす。臣をば地とす。天は上を覆い、地は万物を載せる。四季が正しく移り、万物を活動させる。天の命を受けては必ず慎んで従うこと。それによって和の世界が実現できる。逆に、地が天を覆わんとする時は秩序は破壊されることになるであろう・・・。」

山好き「近年、明治憲法を好意的にみる傾向がある。明治憲法は、天皇の『告文』というのと、『憲法発布勅語』というのがあって、漢文調で書かれている。結構読みにくい。今の我々にはね。しかし、条文はなかなかリズムがいい。

“大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス”(第一条)と、はっきりしていて,わかり易い。

第三条、天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス。

第四条、天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ此ヲ行フ。

そして例の第一一条、天皇ハ陸海軍を統帥ス。」

詩人「太子の十七条は詩的要素はすごいと思う。明治憲法も、それを倣(なら)ったのかリズムのようなものは確かにある。昭和憲法の方ね。前文がどうか、だ。“かなりの悪文だ”と言った御仁もいたが、そうでもないよ。誰が書いたかわからないが、何かを訴えているよね。宣言文のようでもある。翻訳文との印象もあるけどね。」

 呼びかけ人「昭和憲法をみるのに、明治憲法抜きではできない。憲法学の樋口陽一さんが作家の井上ひさしさんとの対談(*2)で、「四つの89年説」という話をしている。まず、井上さんが『文化の多様性と人間であることの普遍性というものをどう両立させるか。この二つはどうあっても両立させなくてはならない。それぞれの文化を世界の普遍性がすっぽり呑み込んでしまってもまずいし、その逆もまたまずい。』そこで“樋口89年説”は大変なヒントになる』、という。樋口さんの説明はこうだ。

「憲法の問題を考える際の基準になるフランスの人権宣言は九1789年、それより先にイギリスで“ビル・オブ・ライツ”(権利章典(*3))が1689年、ベルリンの壁が一発の銃声もなしに崩壊したのが人権宣言のちょうど200年後の1989年。ここまでの89年は、憲法や自由の問題を論ずる世界中の人々が誰でも気づくが、私たちの足元、日本でももう一つの89年、つまり、1889年(明治22年)は大日本帝国憲法の発布の年に当たる。これは欧米の列強に追いつき追い越そうとした西欧文化圏以外の国民が、一つのタイプの近代化に乗り出していった過程での、重要な区切りとなる年です。その光と影の部分を含めたシンボルが大日本帝国憲法であり、1889年であったということです。」

                                    (つづく)

 

(*1)四六(しろく)駢儷体(べんれいたい)=漢文の一つの形体。四字または六字の句を基本に、対句を用いてリズムを整える。

(*2)『日本国憲法を読み直す』(井上ひさし、樋口陽一著、岩波現代文庫2014年初版)

(*3)Bill Of Rights,1791年、アメリカ合衆国憲法に追加された修正条項の通称も同じ。

 


随筆「文、ぶん、ブン」の(五)

2017年04月09日 | 随筆

“のり・のり”(1)

祇園串揚げ店の若女将「みなさん、ようおこしで・・・」

詩人「あれ、電話の声は女将だったのに、娘さん?」

若女将「へぇ、娘です。年取った娘で、申し訳おまへんけど。母は、永いこと皆さんにお世話になりましが、もうええ年やって、去年春、天に召されましたんや・・・。母の声によう似てるらしいて、電話やとみなさん、先代と思うて話しはるんで、なごうなるんですぅ」

呼びかけ人「一昨年の冬に、ここで、終戦の年の“連載記事・太平洋戦争史”について語り合ったが、あれから間もなくだった・・・。今日は、昔の話に詳しかった先代にも入ってもらいたい。亡霊役は声そっくりの若女将だ。串を揚げながら加わってな。

若女将「へぇ、よろしいおます。」

呼びかけ人「今日は、一年前に資料(聖徳太子「十七条憲法」、「大日本帝国憲法」、「日本国憲法」)のコピーを送って、お願いしてあった“憲法の本質について”語り合いたい。それぞれに、感じたことをあれこれ出してほしい。蜂の巣の周りをブンブン飛び回るみたいにね。この難問に対して。」

山好き「ここへ来る前に、御所の庭(京都御苑)=写真=を歩いて来た。あそこも海外のお客はぼつぼつだったが、本当に静かだ。大木が多くて、難聴気味の僕でも小鳥たちのさえずりが聞こえた。別世界だな」

文明史好き「天皇が退位したら、しょっちゅう来られたらいいと思って、それで行った?」

                                                      

山好き「そう、そうなんだが、三つの憲法をよく読むと天皇と憲法の関係が非常に密接だと感じる。」

先代の亡霊「明治の初めに大久保さんたちが無理やり江戸へ連れて行かはったでしゃろ、帰って来はったらええん違います。」

山好き「明治憲法(大日本帝国憲法)も、現憲法も、そして皇室典範のどこにも、天皇の居場所を規定した条項はない。もちろん退位後の住まいも同じこと。だから平成天皇には自由に動いてもらい、京都御所にも長い期間住んでもらうという手はあると思う。伝統技術の粋を集めて、桂にあるような平成の離宮をどこか、静かな所にこしらえてもいいんじゃない。京都、奈良は天皇家にとって陵も数多くあって、こちらは“ふるさと”でもあるし。」

呼びかけ人「昭和天皇の時、一度“退位”がうわさされたことがあるが、憲法と天皇については後で整理した議論をしてみたいので、先ず、憲法と言葉の関係について、お願いしたい。成文法である以上、言葉というものを切り離せないからだ。」

詩人「十七条憲法はオール漢字、明治憲法は漢字と片仮名、昭和憲法は漢字に平仮名で書かれている。7世紀の初め604年(推古十二年)に発布された十七条憲法が書かれたころは、仮名と言うものはなくて、文章で表現するには漢字しかなく漢文で書くしかなかったが、見事な漢詩で書かれている。四六(しろく)駢儷体(べんれいたい)*1)と呼ばれ、非常にリズミカルで、聖徳太子の漢詩の素養は大変なものだったと言われている。」

文明史好き「中国は隋の時代だ。仏教も取り込み、文化も非常に発達した。聖徳太子は小野妹子ら優秀な人材を派遣し、多くのものを吸収しようとした。しかし、『憲法』というものはなかった。向こうにはね。だから、この発想はすごいことだと思う。人が多く集まると、軋轢(あつれき)(いさか)いが起きる。秩序を保たないといけないので、“役人”や“決まり”をつくるそれが律令だが、そのためには文字書き留め、広く伝え、皆に徹底しなくてはならない。したがって法律と文字不可分の関係にある。もちろん書き言葉は詩歌や物語などの文学や、紀行文、書簡文へと広がりをち、発展してきた。今はアメリカのリーダーたちが簡単に“フェイク・ニュスだ”とか、“もう一つの事実ファクト)だなんて簡単に言ってしまう。言葉が非常に軽く扱われている元来は、一語一語が重いものなのだ。

詩人「必要は発明を生むわけだが、十七条憲法も、その必要性、いわゆる時代背景というのがあったのだろうな」

文明史好き「と、思う。条文から推測してみよう。

以和為貴<和をもって貴しとし> 無忤為宗<(さから)うことなきを(むね)とせよ> の後にくる、人皆有党<人みな(たむら)あり>、亦少達者<また(さと)れる者少なし>は、梅原猛さんの『聖徳太子(上)』(小学館)によると、『(たむら)は集団のことで、当時の政治状況からいって氏族集団のことをさしているのではないか、と。氏族制度の弊は、まさにこのころ頂点に達し、大和朝廷は雄略帝のことから衰えるばかりで、その一つの原因が氏族集団の不和にあった。多くの氏族が相争い天皇家もその争乱に巻き込まれて、多くの天皇や皇子が悲運に遭った。皇族の絶滅、三韓からの撤退、蘇我対物部の戦いなどがあった。その後にくる、不順君父<あるいは君父(くんぷ)(したが)わず>、乍違于隣里<また隣里(りんり)(たが)う>も合わせて考えると『今は大和のピンチだ。何とかしなくては』との太子の危機感がこの条文を生んだのではないか。

山好き「時代背景があるというのは共通点だが、他にもあるよ。司法だ。」

文明史好き「第五条の不正裁判の糾弾ね。七世紀の初めにもう“裁き”が行われていたのだ。驚きだよ。

絶餮棄欲<あじわいの、むさぼり(餮)を絶ち、たからの、ほしみ(欲)を(す)てて> 明弁訴訟<明らかに訴訟(うったえ)(さだ)めよ> 其百姓之訟<その百姓の(うったえ)> 一日千事<一日に千事あり> 一日尚爾<一日すらなお(しか)るを> 況乎累歳<いわんや歳を(かさ)ねてをや>  」

梅原さんによると、日本では古くからもめ事があると、それを部族の長老が双方の言い分を聞き、公平に裁くことにしていた。一日千件はさすがに多すぎるが、誇張した修辞なのだろう。多くの民による訴えが朝廷に持ち込まれていたという。 頃治訟者<このごろ(うったえ)を治むる者> 得利為常<利を得るを常とし> 見賄聴讞<賄を見ては、ことわりりもうす(讞)を聴く> 

この頃は裁きをする者は、それによって利益を得るを常としており、賄賂をもらっては訴訟を聴く。

便有財之訟<すなわち財ある者の(うったえ)> 如石投水<石をもって水に投ぐるがごとし> 乏者之訴<(とぼ)しき者の(うったえ)> 似水投石<水をもって石に投ぐるに似たり>

それは、金持ちの訴訟はどんなことでも受け入れられるが、貧乏人の訴えはどんなことでも受け入れられないと言って太子は歎き、

是以貧民<ここを(も)って、貧しき民は> 則不知所由<すなわち(せん)(すべ)を知らず> 臣道亦於焉闕<臣道またここに(か)> 

役人がこんなことをしていたら民はなす術もない。すると民はどうなる。反逆に向かわないか・・・と心配する。」(つづく)


随筆「文、ぶん、ブン」の(四)

2017年02月07日 | 随筆

 “なごむ”の(4)

 そう思いながら柿本人麿作、あるいは人麿歌集の中にあるとする歌を詠んでいくと、巻十一の2370番は「戀死 戀死耶 玉桙 路行人 事告無」。極端に字数が少ない。中西進さんの『万葉集・全訳注原文付』による、この歌の口語訳はこう。「恋に苦しんで死ぬなら恋して死ねというのか。玉桙(たまほこ)の道行く人は誰もあの人の伝言をしてくれないよ」。この歌の詠み方は「恋ひ死なば恋ひも死ねとや玉桙の路行く人の言も告げなく」。(「玉桙」は道の修飾句)。

歌集にではない人麿の歌で、巻一にある「鳴呼見之浦尒 船乗為良武 孋嬬等之 珠裳乃須十二 四寶三都良武香」(40番)は二十八字も費やす。(この歌の詠みは「嗚呼(あ)見(み)の浦に 船乗りすらむ 嬬孋(をとめ)らが 珠(たま)裳(も)の裾に 潮満つらむか」)

歌集にあるとする2372番も同じ短歌なのにわずか十一字の「是量 戀物 知者 遠可見 有物」。訳は「これほど恋に苦しむものだと知っていたら、遠くからこそ見るべきであったものを」。詠み方は「かくばかり恋ひむものそと知らませば遠くそ見べくあらましものを」。

後世の人たちがよくぞこんなにうまいこと詠んでくれた。素人は感謝するばかりだ。これらの歌は、人麿歌集にあるとして百四十九首を並べ、前半には「正述(ただにおもひを)心緒(のべたる)」(物の比喩を借りずに直接に心情を表現する形式の歌)との小見出しがついている。もう少し見てみる。

2399番「朱引 秦不経 雖寐 心異 我不念」。詠み方は「赤らひく 膚には触れず 寝(い)ぬるとも 心を異(け)しく わが思はなくに」。訳は「ほんのり赤い初々しい肌にはふれず寝ていようとも、私は異心をもっていないことよ」

2401番「戀死 ゝゝ哉 我妹 吾家門 過行」。

詠み方は「恋ひ死なば 恋ひも死ねとか 吾妹子が 吾家(わぎへ)の門(かど)を 過ぎて行くらむ」。訳は「恋に死ぬなら恋して苦しんで死ねとて、吾妹子は我が家の門を通り過ぎて行くのだろうか」。恋する女性があぁ行ってしまう。映像的だ。

恋に苦しめば、苦しむほどに“接着剤”なしに向かうのかな、と思ったりする。

      ◇

持統天皇・柿本人麿の時代からほぼ百年さかのぼったころ、推古天皇・聖徳太子の時代に、格調の高い書き言葉、そう現存する最古の成文法「一七条憲法」があった。

有名な「和を以って貴しとし・・・」の一条。

「一曰 以和(わをもって)為(とうとし)貴(とし) 無忤(さからうことなき)為宗(をむねとせよ) 人(ひと)皆(みな)有党(たむらあり) 亦(また)少達者(さとれるものすくなし) 是以(ここをもって) 、或(あるいは)不順(くんぷに)君父(したがわず) 乍違宇(またりんりに)隣里(たがう) 然(しかれども)上和下(うえやわらぎした)睦(むつびて) 諧於論事(ことをあげつらうにかなうときは) 則(じり)事理(おのずから)自通(つうず) 何事(なにごと)不成(かならざらむ)」

美しいリズムで書かれ、亦(また)とか或(あるいは)、然(しかれども)と接着剤はあれど、気にはならない。これを中国人が詠むとどうなるか。吉川幸次郎さんが読んでいるのが梅原猛さんの『聖徳太子・上』(小学館)に出ている。

 以和為貴(yi  he  wei  gui )、 無忤為宗(wu  wu  wei  zong)四シラブルの二句、次、人皆有党(ren   jie  you  dang)、亦少達者(yi  shao  da  zhe)も四シラブル二句、あとも五シラブルずつと整えられ、当時の中国のリズムに合致している。なるだけリズミカルな方が意味もよく伝達され、人を説得する力強い文章になる、と吉川さんは言っている。

 日本書紀に記される十七条憲法は「食に奢ることをやめ、財物の欲望を捨て、訴訟を公明に裁け」(五条)とか、「国司(くにのみこともち)、国造(くにのみやつこ)は百姓から税をむさぼってはならぬ・・・」(十二条)など官(役人)に国の健全な運営を説いて、内向きのようでもあるが、「三宝(仏、法、僧)を敬うよう。仏教はあらゆる生きものの最後のよりどころ、すべての国の究極のよりどころ。いずれの世、いずれの人でもこの法をあがめないことがあろうか。・・・」(二条)とか「君を天とすれば、臣は地である。天は上を覆い、地は万物を載せる。四季が正しく移り、万物を活動させる。・・・」と、わが国のかたちを示し、国外、即ち経済力、軍事力ともにすぐれたり、文化度が高かった隋や、高句麗を意識したようにもみえる。

 そして一条は、昭和の憲法で言えば前文に相当する部分であろう。すべては諍(いさか)いのない、静かな状態「和」に集約される。中国、朝鮮は古くは日本を倭国と言った。このワ(wa)の音は大陸のものだろう。当時、自分の国をやはり「和」を入れて「大和(やまと)」と言った。和語・訓読みは「やわらぐ」「なごむ」「なごやか」、調理の「あえる」、海の「なぎ」など。『大言海』は「やわらぐ」を、自動詞で「ヤハラカニナル」「シナヤカニナル」、他動詞で「ヤハラグヨウニナス」「和解ス」「平易ニナス」と言う。原発事故の地から逃げてきた先でいじめられた少年の気持ちは和らぐどころか、その真逆だ。刺激的な言葉で大統領が生まれ、その大統領が荒っぽい「大統領令」にサインすると人々の心は騒ぐ。海は和(な)ぐどころか大荒れなのである。                                       (おわり)

 


随筆「文、ぶん、ブン」の(四),”なごむ”(Ⅲ)

2017年01月31日 | 随筆

 膠着語が日本語の特徴であるなら、「語」のくっ付け役「助詞」は大昔から使われてなくてはならない。現代の使われ方の「で」は、上代にはさすがにないが、今と同じように体言(*2)に付く「が」「の」、さらに「を」「に」「へ」「と」など格助詞は実に多く使われている。万葉集の巻一、柿本人麿の29番(近江の荒れたる宮を過ぎし時の)長歌「…畝傍(うねび)之山乃 橿原乃・・・淡海國(あふみのくに)乃 楽浪(ささなみ)乃 大津宮(おおのつみや)尒(に)・・・大殿(おおどの)者(は)・・・」と、頻繁に出てくる。際限なくと言っていい。今は平仮名があるから、それを使うが、当時はまだ仮名が考案されてないから音(おん)でそれに合う漢字を当てている。いわゆる万葉仮名であるが、同じ音なのに当てている漢字が違うことが、ままある。「ノ」の音がいい例で「之」「乃」さらに他では「能」も当てられている。「ハ」音は「者」のほか「波」が多い。「オ」と「ヲ」ははっきり区別され、「オ」音には「於」の漢字がほとんどで、「意」もときどきある。「ヲ」に対しては「乎」が圧倒的に多く、「遠」「呼」がたまに。「ニ」音は「尒」と「仁」が半々の感じ。「ノ」の助詞は、その上にある名詞で使い分けしているのだろうか。例えば天皇が来ると「之」で、それ以外は「乃」、あるいは女性だったら「乃」で受ける。そういうことがあるのかなと調べたが、そういう法則性はなかった。好みで使い分けしていたのだろうか。

 わが国に漢字が入ってきて「書く」という行為を始めた。それまでは話し言葉で意思疎通を行っていた。漢字を知り、その字の発音を知り、意味が分かってきてきた。それで話し言葉を漢字で表現したのが、表音の仮名であり、表意漢字でそれらを使って表現しやのが*(3)「上代文学」だとなる。

 話し言葉では、これらの助詞は我が国に漢字が入ってくる、はるか前から豊富に存在していたとみていいだろう。そういう「大和ことば」の広がりの中にあって、万葉の詩人たちは、巧みに助詞を使って心情を表した・・・。                                                (つづく)

 

*2体言=活用のない自立語。主語となることができる。名刺・代名詞。

*4上代文学=大和・奈良時代の文学。『古事記』『日本書紀』『万葉集』『風土記』など。


随筆「文、ぶん、ブン」の(四)

2017年01月23日 | 随筆

“なごむ”(Ⅱ) 

 日本語の特徴は漢字、平仮名、片仮名を駆使するところにある、と言われる。これを言語学的にいうと、語彙は和語(大和ことば)・漢語・外来語に分けられ、形態的には膠着語*1に属し、朝鮮語・アルタイ諸語と共通の特徴がみられ、音節構造は比較的単純だが、その系統は不明、ということだ。膠着は物事が前になかなか進まない“膠着状態”の意味もあるが、言語学でいう膠着は膠でくっつけるように、よくくっつく付着の色彩が濃い。新聞記事でよく使われる、主体につく「政府は」「特捜本部が」や、動きを伴う「逮捕へ」などに使われる「は」「が」「へ」がそう。捜査当局が令状を裁判所から取っていることが確認できてはじめて「へ」を付けたスクープ見出しになる。整理部記者は見出しにおける助詞の使い方には神経を尖らす。

 そこで「新聞記事」における「で」の使われ方だが、戦前はあまり見られない。多用は戦後で、それも1970年代以降ではないかとみている。高度成長とともに公害の発生、人権重視の風潮なども関係しているのではないかと思う。そこで助詞「で」がここまで新聞記者に好まれるのか、調べてみた。「で」は、「そういう訳で・・・」「それで(どうしたの)」のように、接続的用途もあるが、ここは格助詞としての働きを。

 講談社「日本語大辞典」は、まず手段・材料で、英語で言えばby, withだという。パソコンで書く、鋼材で作る、のようなのがそうだろう。次いで場所・時間を示すin、on 外で遊ぶ、正午で夕刊原稿を締め切る。三番目、原因・理由を示すas 、天候不順で青物野菜が不作。4番目、動作・作用の行われ方を示す、With、in、すごい速さで飛ぶ。5番目は方法・状態を示すwith。二人で行く。6番目、話題になるものを示すabout。TPPで論争する・・・。

 こうして見てくるとニュースの要素五つのW,一つのHに似てなくもない。だからだろうか、ニュース記事に多いのは。     (つづく)

*1膠着語=接頭語、接尾語などの接辞や助詞、助動詞などの付属語によって文法的な関係を示す言語。日本語、朝鮮語、トルコ語、フィンランド語など。付着語とも。Agglutinative language(講談社、日本語大辞典)