風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

夜に向かって山に登るな

2022年06月20日 | 「詩エッセイ2022」



振り返ってみれば それぞれの途上で いくつかの分かれ道があった と言うほど大げさなものではないが それらしいものはあった 古い話だが 1700メートル級の山が はじめての山が そこにあった それが一つの分岐点になった あるいは動機になった かもしれない 僕は23歳だった 2年近い療養生活のあとで 再び大学に復帰するか 東京の生活を始めるか 大きな決断をしなければならなかった さまざまな混迷と焦燥と 不安 どの道を選択するか いやすでに 決断はできていたかも ただ思い悩むことが多くて 計り知れない不安の前に ともすれば足がすくんでいた そんな時に山に登った 療養生活中に読んだ本で わずかな登山知識はあった 夜に向かって山に登るなと それなのに暮れていく中で 山に登ってしまった その夜の宿泊予定だった 麓の山小屋の玄関が 大きな岩で潰されていて 灯りもなく人影もなく なんたることか万事休す 街に戻るバスも既になく 山越えをしてさらに 谷あいにある山小屋を目指す そうせざるを得なかった 夜に向かって 夜に追われるように とにかく其処にある山の 頂上を目指して がむしゃら登っていった 不安と焦りで足は速くなる 吐く息ばかり多くて苦しいが その登山道は 頂上に向かってかなり急峻で おかげで展望はよく 日中の明かりを失っていく 厳かな夕景が眼下に広がって 登りながらも息継ぎごとに 着実に高みに押し上げられている 確かな実感があり それまでの不安や思惑が 少しずつ喜びに変わっていく そんな力に後押しされた 山頂は夜との接点でもあった 見上げれば全天が 星々に埋め尽くされ 溢れてこぼれ落ちてきそうで 砕かれたガラスの キラキラとした破片となり 細かい音の響きになって降ってきた だがそれは錯覚だった いっせいに鈴を振るような響き それは足元で起きていた 夜露に凍りついた草々が 風に吹かれて触れ合いながら 繊細な音を発していた たまたまこの季節と時間の 偶然の現象だったのか あるいは奇跡だったのか それは音楽とも言えそうな 天上と地上が 光と音で交響する こんな音楽を聴くのは初めてで ギラギラ星とチリンチリン草の 言葉ではない未知なる音の 不思議な音楽に囲まれていると 夜の山頂は果てのない 幻想と妄想の真っただ中となり とても曖昧な場所となって 曖昧な空間を浮遊させられ 此処はどこなのか 窓もドアもないところ ひとり放り出されていて 場所も自分も見失いそうになって そのときそれは 一瞬の体験だったが それ以来ずっと 幻想の山を忘れられず どれほど奇跡を追い求めただろうか だが幻想の山は幻想のままで いまは夜に向かって ただ言葉で探しつづけている それしか出来ない 夜の山の幻想は 美しいが危険でもあった 立ち止まってはおれない 我に返って懐中電灯を取り出し 5万分の1の地図を広げ 磁石で正確な道の方向を定め 急ぎ谷あいの目的地へと 駆け下るように歩きはじめた そこにあるはずの山小屋まで 辿りつけるかどうか 夜の山の幻想から 抜けだす道は遠かった

 

 

 

 





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