詩と写真 *ミオ*

歩きながらちょっとした考えごとをするのが好きです。
日々に空いたポケットのような。そんな記録。

すぐれている、という名前

2024年04月28日 | 雑記

誰それが優秀、とか、優れている、というときの、「優秀」「優れている」というのは、様々にある特徴のうちのひとつの名前なのではないか、とふと思うことがある。

ピアノの技術が優れている、記憶力が優れている、といった言い方であれば、それはそうなのかもしれないけれど、ある人を指して「優れている」というのは、一体どういうことなのだろう、と思ったりする。

人がそのように誰かのことを評価することを違和感なく聞いてしまうし、自分自身ももしかして誰かのことをそんなふうに言ったりしているかもしれないのだけれど。

人が「優秀」「優れている」というのは、一体どういうことなのだろうか。何かの分野で名を成したり、目立った業績を残したり、物事をどんどん進めることができたり、など、成果を出している、ということなのだとは、私にも分かっているけれど。

でも、それは一つの特徴にすぎないのではないか、と思ったりする。成果を出せる行動ができる、ということには、きっといくつか、もしくはたくさんの要素があって、その人はたまたまそういう行動もしくは思考をすることのできる特徴を持った人だった。努力や訓練でそうなれた、という人もたくさんいるだろうけれど、そういう方向に向かえる努力や訓練を発見し、積み重ねられる要素を持てる、という特徴を備えた人だったのかもしれない。

結果的に人に見える形で、今の世の中で認められる形で、何かをした人は、「優れている」と呼ばれる。「優れた人」だから、そういう結果を残せたわけではない。

A「これこれこういうことをしたから、あの人は優れている」という文と、B「あの人は優れているから、これこれこういうことができたのだ」という文とは、イコールのようだけど、実は大きな違いがあるのではないか、と思う。私の感覚としては、Aは真になり得るかもしれないけれど、Bは真ではなく、下手をすると優生思想のような危険な考え方になり得るかもしれないと思う。

三角形の内角の和は必ず180度になる、というような数学的、化学的な原理、法則とは異なり、ある人が真理として「優れた人」だから、成果を出せるのではなく、成果を出した人のこと、人が認めることをした人のことを「優れている」と言おう、ということに、人間界ではなっているだけのこと。

ある人がそのようであるには、その人なりの必然があり、それに対して評価をするということは、自然界の真理的な側面から見れば、できないはずだと思う。「優れている人」というのは、都合のいい人、という意味で言われる「良い人」と同じように、人間界的に、ある意味では都合のいい人にすぎないのではと思う。

なぜかというと、生物としては、本来は、多様な個体がいてくれないと困る、群れとしては、女王がいれば、そこに、突出することのないたくさんの働き者や、2割の怠け者(力温存派)がいなくては困る。いろんな遺伝子を持った個体がいてくれないと、一つの災害や、パンデミックで全滅してしまう。そんな摂理の中では、あらゆる個性はなんらかの役割を演じる特徴にすぎず、そこに優劣はない。「優れている」は真理ではなく、誰かが名づける名前なのだと思う。

それなのに、時々、人は、というか、私は、AとBを混同して、Bの言い方をしてしまい、さらには思い込んでしまう。ある人が優れている=特別な存在である=特別に大切にすべき人である=(天とか、運命、といった人を超えた世界から)選ばれた人である。だから、逆の発想も働く。

人間界で生きる私たちだから、人間界的に都合が良く、価値があると感じさせる分かりやすい結果・特徴を持っている人を大事にしてしまうのは、当然のことかもしれないけれど、それは、人の思惑によるものであり、真理ではない、ということを忘れないようにしたい、と思う。「結局人間界で生きているのだから、真理がどうとか関係ない」と思うかもしれないけれど、そんな時は思い出したい。真理ではない、人の思惑だから、ひっくり返ることもままある、ということを。

言葉のすごいところは、「優れている」という言葉だって、何に使っても自由だということだ。「優れている」という言葉を硬直的に使ってしまうのは、言葉のせいではなく、使用する人のせいで、たとえば世間では「怠け者」と言われる人のことを「みんなが必死で働いている中でも、動じずに怠けていられるなんて、あの人は優れている」などと言うことだってできる。

人間界で幅を利かせる価値観にのっかって生活することは、人間界で生きる私たちにはとても重要なことだとは思うけれど、「それは本当の本当の真理ではない」と、時には距離を置いて見てみることも必要だな、と思う。

*つくば海浜公園 ネモフィラ*







 

 

 

 

 

 

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あどけない足音

2024年03月02日 | 

窓を閉めて風を閉め出すと

夜は静かな箱になる

玄関からリビングまでの廊下

四つの扉に囲まれた細長い空間を

部屋着で裸足で歩く

私の足音が浮き上がり

耳の道に入ってきた

 

あどけないあしおとだった

とがらない

アピールしない

クエスチョンマークの足形の見えそうな

ひっそりした音

 

影が自分から離れてしまう話を聞いたことがある

足音も自分から離れてしまうことがあるのだ

離れないと聞こえない

いつも離れているのにいつもは聞こえない

 

あんたがたどこさ

あたしはひとり

でもあんたがた

は複数だよ

リズミカル

にもなるよ

引きずるようにも

できる

もったいつけたり

連弾したり

いろんな色合いつけて

いろんな連れ合いあるはずなのだけど

わたしのはペタリペタリ

重くもなく軽くもなく無垢

のように

色が

なかった

 

外から見える家々は過去と未来を孕んで

その壁の向こうの棕櫚の葉の形

鮮明に染め抜く夕焼けの町を

永く歩いてきたはずなのに

不意に訪れたあ

し音

あ足音

にはまるで

言葉がなかった

まるでオクターブのように

ふるえながら

離れながら

わたしに連なっていた

この感覚を知っているのはわたしだけかもしれない

わたしも他の誰もそれを確かめることはできない

永遠に

永遠に錯覚しかできない

永遠を前に命は月て

カーテンをそっと開ける

足音は独特の切株を数えている

時計なのかもしれない

 

生まれてからわたしにしかなったことがない

ああ足音はとても弱い

フローリングのひんやりした感触は

サイズをよこしまに変えることもできない

不安という繁みに押されるように作られた道

をほんとうに(という言葉があるならば)

あとへあとへと追いやられて

 

言葉がない世界に

わたしはわたしの論理と年輪を繕って生きている

傷つくより前に樹皮を纏って

急襲に貫かれたことはない

だからまだこんなふうに

無防備な音が出る

だからきっと

本に纏わる埃の匂いを嗅いでいれば

生きられると思ったり

その脇で忙しく怠惰にアリバイ作りに精を出して

何十年を生きてしまいふと

とても静かな人間だった

絶滅危惧種のようだった

まるで、足音だった

(それは身体を追いかけていく影)

 

一瞬で消える

音のつらなりを

足音とわかるのは覚えているから

わたしにまつわる

世界にまつわる

水の流れのような記憶

ペタリペタリと鳴っている

わたしにしかきこえない不安が

ときどき風にはためいている

(不安をきくなんていまやしあわせものだ)

 

遠い電車の音が風に乗って聞こえる夜がある

わたしの中のどんな気象条件がその夜

わたしに足音を届けにきたの

 

まだ論理を踏み固めていない

この先の悲しみや

この先の喜びを

受けとめているのだ

やさしい腐葉土を信じて

いま選ぶ時なのかもしれない

論理ではなく感情を開拓する道を

(それがきっとほんとうに考えるということ)

いつまでもあどけない足音で

いつか耐え忍ぶ

次第におもくなっていく足音

そのときでさえあどけなく

 

 

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感じると考える

2024年02月12日 | 雑記

〜〜*簡単な目次*〜〜

1.ピアノの練習をきっかけに考えたこと

2.目標を持つこと

3.私の「感じる」そして「考える」

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 

1.ピアノの練習をきっかけに考えたこと

もうすぐピアノの発表会がある。選択した曲は私のレベルではとても難しく、どうしたら少しでも美しく弾けるだろうかと悩みつつ練習している。

 

テンポが早い上に、オクターブでの跳躍も多く、なんとなくの練習ではいつまで経っても弾けるようにならない。音も多い。ペダルも難しい。自然かつ美しい表現ができるようになるには、私のレベルでは、どれほどの細かい配慮と組み立て、それを実現するための練習が必要かと思ってしまう。

 

自宅には電子ピアノしかなく、これで練習することも効果はあると思っていたけれど、今回、その限界をあらためて感じた。

 

そうなると、これまでにも、たくさんの時間を無駄にしてきたのかもしれない、と思えてきた。もし明確な目標を持って取り組んでいたなら、「そこに到達できない」ということによって、練習の仕方のまずさにもっと早く気がつけたかもしれない、と思った。

※発表会間近のいまは、電子ピアノはあまり触らないようにして、実家のアップライトで練習している。

 

2.目標を持つこと

目標を持つことの大切さはよく聞く。

でも私にとっての自然な「感じる」では、あまりその言葉がピンと来なかった。

それは

・目標を持って達成したい何かがなかったからかもしれない。

・目標を持ってまっしぐらになることで見えなくなる散歩道が魅力的に思えてしまう人間だからかもしれない。

 

それとも

・多くの人も訓練によって、目標を持つことが必要だと考え→感じるというレベルにまで引き上げ(引き下げ?)ているのかもしれない。

 

目標を持つことで先ほどの例のように、やり方のまずさに気がつき、効率よくできることは、たくさんあったのかもしれない。理想から逆算してネジを巻いて生きないと、人生はあっという間に終わってしまう。

 

こういう時、「考える」が必要になるのかもしれない。特に、私のように「感じる」に突き動かされることを待ってしまう人間には。自分の「感じる」では見えてこない「目標を持つことの重要性」、それを一つの経験から類推して、敷衍して?他の物事を見てみる。

 

そう考えると、目標……、というより期日を決めるというのは大切なことかも、と感じた。ピアノの発表会という期日があることで、そこに焦点を合わせて、できることできないことの目算をする。これがすごく大事なのだといまさら気がついた。期日を決めることで、いまから自分にできる理想像を考え、それを実現するための練習に時間とエネルギーを集中できる。

 

期日を決めるというのは、夢想の理想像の代わりに現実的に描ける理想像を据えて、現実的な努力ができるようにするための(そしてそれは物事を前に進めるためにとても重要なこと)一番の方法なのかもしれない。

 

そう感じ、思ったならば、「目標とその期日を決める」をしていこうと決めて※、それを習慣にすることができるはず。

※ここで「考える」と書きたくなったけれど、ここはきっと「決める」なのだ。私は「決める」と言うべきところを、「考える」と言い換えて、とかく現状維持を選んでしまう。「決める」ことを躊躇させるのは何だろうか。間違った選択をして無駄な時間を過ごしてしまうこと、何かを見過ごしてしまうこと?でも選択をしないことで無駄にしている時間、見過ごしていることは、もっとずっと多い可能性もある。

 

3.私の「感じる」そして「考える」

さて、私にとっての「考える」とは。何を選択すべきか決めるために「考える」とは。できれば、「時間をかけて揺らしたい」。同じ一つのことを、いろんなタイミングで、手で重さを計るようなイメージで、揺らしてみたい。「いまはどう感じるかな」「いまはどうかな」と、いろんなシチュエーションでいろんな角度で感じてみたい。そうやって「感じる」をたくさん積み重ねると、自分にとってのそのものの適切な重さがわかってくるような気がする。そうなって初めて、「ではこうしよう」。そのように、答えを出したい。

 

とはいえ、「考える」は決めるためだけに使うものではない気がする。長期的に見れば、やはり、それによって何かを決めているのかもしれないけれど、心に浮かんだ疑問、疑問というほどにも形を成していないようなフワフワしたものをも、パッと捨ててしまわずに、自分の中に温めておく、という役割も大いにあるのではないか。それがなんの役に立つか。長い時間をかけて価値観、好き嫌い、より自分らしく、またより良い人間となるための「感じる」を育んでいるのではないだろうか。それらはまた何かを「決める」ときの土台を作っている。

※これが私の人生のテーマなのかもしれないとふと思った。

 

そして私は考える。「文章を書く」は何だろう。私にとっての何だろう。

それはきっと、「感じる」を受け止めて、「考える」につなげるためのトンネル。「考える」が豊かになると、今度は、「感じる」も玉虫色になる。トンネルから思わぬ言葉、もはや言葉を超えて触知するような幻のような言葉が生まれる。そんな夢を見る。

 

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雪の日

2024年02月06日 | 
レースのカーテンを開けて覗くと
予報通りの雪
模様のように降る

困るなぁと思うのに
大人なのに
子どものようにはしゃぐ
隠れた気持ちがある

ちょっと買い物行ってくる なんて
さっきも出かけて帰ってきたばかり

迎え雪
暗くなり始めた空から
バッティングセンターみたいに
白いつぶてがびゅんびゅん飛んでくる
こちらが速いみたい
奥へ奥へ吸い込まれていく
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架空線

2024年01月28日 | 
冬の日
太陽の重みで光の帯が空に上がり

路地は淡い色に沈み始めている

曲がるにつれて

折れるにつれて

壁が金色に塗られたり

梅が咲いたりなどする


文学者二人の対談を聞いていた

寒さに負けていたのか

温かい室内では溶け出した泥のように

わたしはうつらうつらした

書物、形、言葉、心、詩、といった言葉が

うわずみでぐるぐるしていた


外に出ると

雲ひとつない青空に知らされる

冷たい空気と

それを留めさせない風と

縮こまる体にも

よくみると芯に温かさがあって

わたしはろうそく


文学者二人の話を聞きながら

その背景に

ろうそくのような

ペンキのような

粘土のような

でたらめなしみを見た

それがわたしだと思った

いろんな時にいろんな場所に

ベシャッと投げつけられるひろがり


わたしの人生

と光の届かない道で思うと

不思議な気がする

他の誰にとっても

わたしの「わたしの人生」は他愛無い

見えもしない

誰にも見えないわたしの夢

それが暮れ方に向かう

夢というのはどこを見ているのだろう

わたしは生き物なのだろうか

***

2024.1.27

堀江敏幸(作家)・澤直哉(ロシア文学者)

『架空線』刊行記念 トークイベント

「書くことのかたちー文学と書物を再考する」

を聴講して

コメント (2)
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