東アジア歴史文化研究会

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「日中戦争は日本が起こした」というマインドコントロールからの脱却  茂木弘道『日中戦争 真逆の真相』を読む(国際派日本人養成講座)

2024-04-20 | 歴史の真実

■1.「日本が日中戦争を起こし」たのか?

「日本はどのようにして日中戦争を起こし、人々にどのような影響をあたえたのでしようか」

これは東京書籍(以下、東書)の中学歴史書で「日中戦争と戦時体制」の項の冒頭の発問です。「日本が日中戦争を起こし」たことが問答無用の前提とされてします。その後の本文は、次のように書かれています。

1937年7月、北京郊外の盧溝橋付近で起こった日中両国軍の武力衝突(慮溝橋事件)をきっかけに,日中戦争が始まりました。戦火は中国中部の上海に拡大し,全面戦争に発展しました。[東書、p230]

ここでは「誰が」盧溝橋事件を引き起こしたのか、「誰が」戦火を上海に拡大したのかが、書かれていません。「日本はどのようにして日中戦争を起こし」という冒頭の発問の後で、この文章を読んだ中学生たちは、当然、すべて日本軍の仕業だと解してしまうでしょう。天才的なテクニックです。

最近刊行された「史実を世界に発信する会」会長・茂木弘道氏の『日中戦争 真逆の真相─ 誰が仕掛け、なぜ拡大し、どこが協力したのか?』[茂木]では、まさにタイトル通り「誰が仕掛け、なぜ拡大し、どこが協力したのか」に関する豊富な史実に、「真逆の真相」を語らせています。

このように「史実をもって真相を語らしめる」のが本当の歴史書ですが、東書は「史実なくして、ある断定を押しつけている」わけで、これでは歴史教科書ではなく政治的プロパガンダに過ぎません。今回は茂木氏の本を頼りに、「真逆の真相」を見ていきましょう。

■2.盧溝橋事件は誰が引き起こしたのか?

日中戦争の始まりは盧溝橋事件ですが、JOG(446)では中国(蒋介石)軍の中に潜伏していた中国共産党スパイの仕業である根拠をいくつか挙げています。しかし、茂木氏はもっと簡単明瞭な史実を指摘しています。事件発生4日後、両軍で結ばれた現地停戦協定です。

一、第二九軍代表は日本軍に遺憾の意を表し、かつ責任者を処分し、将来責任を以てかくの如き事件の惹起を防止することを声明す。

三、本事件は所謂(いわゆる)藍衣(らんい)社、共産党、その他抗日系各種団体の指導に胚胎すること大に鑑み、将来これが対策をなし、かつ取り締まりを徹底す。[茂木、p21]

第一項で中国軍が日本軍への発砲を謝罪し、第三項でそれが藍衣社(国民政府の情報工作機関)や共産党の仕業であるという認識を示し、中国軍側で「取り締まりを徹底す」と約束しています。この停戦協定だけでも「日本が日中戦争を起こし」という断定は吹き飛んでしまいます。

■3.船津和平案を潰した大山勇夫中尉虐殺事件

停戦協定くらいでは、中国共産党はあきらめません同月29日、北京から東20キロほどの通州という町で、日本人・朝鮮人居留民と日本軍守備隊計257名が惨殺される、という「通州事件」が起きましたこれも中国の公文書に掲載された実行犯の手記が見つかっています。[茂木、p66]

この事件を国内では各紙が大々的に報道し、「暴支膺懲(ぼうしようちょう、横暴な支那を懲らしめよ)」の見出しが紙面に躍りました。しかし、日本政府は世論の憤激をよそに「船津和平案」と呼ばれる画期的な和平案を決定します。

満洲事変以後、日本が北支で得た権益のほとんどを放棄しようというものです。その代わりに「支那は満洲国を承認あるいは黙認する」「日支防共協定を締結する」という条件が含まれていました。この和平案が成立すれば、日本、満洲、中国政府の平和的共存が実現し、さらに共同で共産党に対抗することとなります。中国共産党にとって、悪夢のような事態です。

この案を元上海総領事の船津辰一郎を通して、中国政府に働きかけることになり、第一回目の交渉が8月9日に行われました。ところが、その日の午後6時半頃、上海の海軍陸戦隊の大山勇夫中尉が市街を自動車で視察中、中国軍保安隊によって惨殺される事件が起きました。この事件により、和平工作は雲散霧消してしまいました。

事件の犯人は、隠れ共産党員であった南京上海防衛隊司令官の張治中でした。張は蒋介石の許可なくこの事件を仕掛け、さらに蒋介石の制止を振り切って、日本軍への攻撃計画を進めます。当時、上海には3万人以上の日本人居留民がおり、約4500人の海軍特別陸戦隊が守っていましたが、これを5万の中国軍が襲ったのです。

日頃、中国寄りの報道をするニューヨーク・タイムズも、次のように報じました。

日本軍は上海では戦闘の繰り返しを望んでおらず、我慢と忍耐力を示し、事態の悪化を防ぐために出来る限りのことをした。だが日本軍は中国軍によって文字通り衝突へと無理やり追い込まれてしまったのである。[茂木、p87]

東書が「戦火は中国中部の上海に拡大し、全面戦争に発展しました」という一行の裏には、こんな重大な史実が隠されているのです。

■4.ドイツが仲介した日本の和平提案を蒋介石が拒否

海軍陸戦隊は数倍もの敵を寄せ付けず、日本からの上海派遣軍の到着まで上海居留地を守り切る、という大殊勲を上げました。

8月30日、中国政府は国際連盟に対して、日本の行動は連盟規約、不戦条約及び9か国条約(日中米英仏など9カ国で中国の領土保全などを誓約)に違反すると通告し、連盟が必要な措置を取るよう提訴しました。自分の方から仕掛けておいて、こういう要求をする面の皮の厚さは、たいしたものです。

この提訴から、ベルギーのブリュッセルで9カ国条約会議を開催することになりました。10月27日、日本は英米仏独伊に対して、日中交渉のための第3国の好意的斡旋を受諾する用意のあることを伝えました。結局ドイツが仲介役となることになり、日本は正式に和平条件7項目をディルクセン駐日ドイツ大使に伝えました。

船津和平案とほぼ同じ内容で、ディルクセン大使も「きわめて穏健なもので、南京はメンツを失うことなく、受諾できる」と本国に報告したほどでした。ドイツ政府も日本側の和平条件を妥当なものと判断し、トラウトマン駐華大使を通じて蒋介石に日本側条件を通告しました

それでも蒋介石はブリュッセル会議でもっと有利な状況になると期待して、この和平提案を拒絶してしまいました。しかし、会議の結果、その思惑は外れました。

ブリュッセル会議最終日の11月15日、広田外相はグルー米国大使に「日本軍の上海での作戦は円滑に進んでいるが、これ以上深く中国軍を追撃する必要はなく、この時期に平和解決を図るのは中国自身のためになる」と述べ、現在ならば講和条件が穏当なものであるので、米国から蒋介石を説得してほしいと依頼したのです

これに対して、米国は積極的な対応は見せませんでした。英国も同様でした。米英とも日中連携は望んでいなかったのでしょう。

■5.「南京大虐殺」がでっちあげだった証拠

中国軍は上海から撃退されましたが、まだ40万もの勢力を持ち、蒋介石も和平提案に応じません。日本政府は従来から不拡大方針をとってきましたが、ここにきて、蒋介石を和平のテーブルにつかせるために、首都・南京を攻略して、敵軍主力に一撃を与えようという方針に変わってきました。これは日本の「領土」を広げようとする「侵略」ではありません。

ここから12月初旬の南京戦となり、後に東京裁判で「南京大虐殺」として訴追されるようになったのです。南京での戦いで、日本軍が厳密に国際法を守ったのに、中国軍は破り放題であったことは弊誌[JOG(1348)]でも述べましたが、この本では徹底的に「南京事件」がでっちあげだった証拠を揃えています。

たとえば遺体の埋葬記録で41,330体という記録が残っていますが、そのうちの39,537体は南京城外の戦闘による死体です。南京城内の死体は1,793体で、そのうち女性は8体、子供は26体でした。城内への砲撃による死者とは考えられますが、この数字から城内で30万人にも及ぶ組織的虐殺があったとは考えられません

また、茂木氏は「南京大虐殺」を報じた欧米の記者や宣教師たちが、誰も「大虐殺」を見ておらず、そのうちの何人かは国民党の顧問や金で雇われた工作員であった、という史実も紹介しています

50ページほどのわずか1章で、こうした簡明な史実を豊富に引用して、「南京大虐殺」などなかった、という真相を語らせています。一般読者が「南京大虐殺」の真相を知りたいと思ったら、この1章だけで十分でしょう。

■6.南京戦の間も続いた和平交渉

南京戦の間も、ドイツの仲介による和平を求める動きは続いていました。12月2日、駐華ドイツ大使トラウトマンは蒋介石と会見しました。蒋介石は日本側の要求は前と同様かと尋ね、トラウトマンは主要条項に変化なき旨を答えました。すると蒋介石は、

1、支那は講和の一基礎として日本の要求を受諾する。
2、北支の総主権、領土保全権、行政権に変更を加ヘベからざること

その他2項目を中国側条件として伝えました。

12月21日、日本政府はディルクセン駐日大使に対する回答案を閣議決定しました。

1、支那は容共抗日満政策を放棄し日満両国の防共政策に協力すること。
2、所要地域に非武装地帯を設け且(かつ)該各地方に特殊の機構を設置すること。
3、日満支三国間に密接なる経済協定を締結すること。
4、支那は帝国に対し所要の賠償をなすこと。

この条件から、茂木氏は次のように指摘してます。

この和平条件をよく見てみれば、日中戦争は日本の侵略戦争ではない、ということが明確に示されているといえるのではないでしようか。

第一に、領土要求など全くしていないという事実です。すでに上海、首都南京、さらに北京を含む北支の主要部分を占領しているのですが、領土要求を全くしていないということは、もともと侵略を目的とした戦争ではないということです。[茂木、p169]

日本側が目指していたのは、中国の侵略ではなく、日本、満洲、中国の友好と連携により、ソ連と中国共産党による共産主義の浸透を防ぐことだったのです。

■7.「国民政府を対手(あいて)とせず」

トラウトマン駐華大使から12月26日に伝えられた日本提案を、蒋介石は翌日、国防会議にかけました。会議では汪兆銘(おうちょうめい)影響下にある二人の大臣が日本の条件を受け入れて交渉に入るべしと述べましたが、蒋介石は激怒して二人を解任しました。

ドイツの軍事顧問団長ファルケンハウゼン中将も勝利の見込みはないので、この条件で妥協するよう説得しましたが、蒋介石は受け入れませんでした。

蒋介石からの日本への回答は、要求期限に大幅に遅れて、1月13日にようやく到着しました。日本側の要求4カ条は範囲が広すぎるとして、「新たに提起された条件の性質と内容を確定されることを望む」としていました。

首都南京を奪われながらも、なおも誠意の感じられない回答に、日本政府の堪忍袋の緒も切れたのでしょう、蒋介石は受諾する意思はなく、引き延ばし戦術である、と断じました。一方、国内世論も、ソ連スパイ・元朝日新聞記者・尾崎秀実[JOG(263)]などによる世論誘導により、早く結果を出せ、という雰囲気だったのでしょう。1月16日に、次の近衛首相声明が発表されました。

帝国政府は、爾後、国民政府を対手(あいて)とせず、帝国と真に提携するに足る新興支那政権の成立を期待し、[茂木、p182]

この「新興支那政権」とは、後に汪兆銘による南京国民政府として実現します。汪兆銘はもともと孫文の後継者の筆頭であり、蒋介石よりも先輩格となります。そして、国土をこれ以上焦土としないよう、日本との和平を主張していました。

なお茂木氏の著作では、陸軍参謀本部が政府内で、この近衛声明を阻止しようと必死の努力を展開した過程を10ページにわたって詳細に紹介されています。国防の見地からは、ソ連こそ主敵であり、中国との長期戦を必至とする近衛声明は絶対に避けるべき、との見識からでした。「強硬派」の軍部が大陸侵略を先導した、という見方は嘘であることがよく分かります。

■8.「日中戦争は日本が起こした」というマインド・コントロールから脱却するために

以上の史実を辿ってみれば、日中戦争は中国共産党が火をつけ、日本の度重なる和平努力も蒋介石によって撥ねつけられてきた、という真相が見えてきます。

我が国は、「日中戦争は日本が起こした」との詐術に引っかかり、総額3兆6千億円、国民一人あたり3万円もの対中ODAをむしり取られてきました。さらに対中贖罪意識に後押しされた経済協力、企業進出で、モンスター国家を育ててしまい、国際社会全体に取り返しのつかない巨大リスクをもたらしてしまいました。

今後、このモンスター国家にいかに対処するか、冷静に考えるためにも「日中戦争は日本が起こした」というマインド・コントロールから脱しなければなりません。そのためにも、史実抜きで「日本が日中戦争を起こし」と中学生たちに刷り込む東書のような教科書ではなく、茂木氏の著書で『日中戦争 真逆の真相』を学んでいただくことをお勧めします。

(文責 伊勢雅臣)

■1.「日本が日中戦争を起こし」たのか?

「日本はどのようにして日中戦争を起こし、人々にどのような影響をあたえたのでしようか」

これは東京書籍(以下、東書)の中学歴史書で「日中戦争と戦時体制」の項の冒頭の発問です。「日本が日中戦争を起こし」たことが問答無用の前提とされてします。その後の本文は、次のように書かれています。

1937年7月、北京郊外の盧溝橋付近で起こった日中両国軍の武力衝突(慮溝橋事件)をきっかけに,日中戦争が始まりました。戦火は中国中部の上海に拡大し,全面戦争に発展しました。[東書、p230]

ここでは「誰が」盧溝橋事件を引き起こしたのか、「誰が」戦火を上海に拡大したのかが、書かれていません。「日本はどのようにして日中戦争を起こし」という冒頭の発問の後で、この文章を読んだ中学生たちは、当然、すべて日本軍の仕業だと解してしまうでしょう。天才的なテクニックです。

最近刊行された「史実を世界に発信する会」会長・茂木弘道氏の『日中戦争 真逆の真相─ 誰が仕掛け、なぜ拡大し、どこが協力したのか?』[茂木]では、まさにタイトル通り「誰が仕掛け、なぜ拡大し、どこが協力したのか」に関する豊富な史実に、「真逆の真相」を語らせています。

このように「史実をもって真相を語らしめる」のが本当の歴史書ですが、東書は「史実なくして、ある断定を押しつけている」わけで、これでは歴史教科書ではなく政治的プロパガンダに過ぎません。今回は茂木氏の本を頼りに、「真逆の真相」を見ていきましょう。

■2.盧溝橋事件は誰が引き起こしたのか?

日中戦争の始まりは盧溝橋事件ですが、JOG(446)では中国(蒋介石)軍の中に潜伏していた中国共産党スパイの仕業である根拠をいくつか挙げています。しかし、茂木氏はもっと簡単明瞭な史実を指摘しています。事件発生4日後、両軍で結ばれた現地停戦協定です。

一、第二九軍代表は日本軍に遺憾の意を表し、かつ責任者を処分し、将来責任を以てかくの如き事件の惹起を防止することを声明す。

三、本事件は所謂(いわゆる)藍衣(らんい)社、共産党、その他抗日系各種団体の指導に胚胎すること大に鑑み、将来これが対策をなし、かつ取り締まりを徹底す。[茂木、p21]

第一項で中国軍が日本軍への発砲を謝罪し、第三項でそれが藍衣社(国民政府の情報工作機関)や共産党の仕業であるという認識を示し、中国軍側で「取り締まりを徹底す」と約束しています。この停戦協定だけでも「日本が日中戦争を起こし」という断定は吹き飛んでしまいます。

■3.船津和平案を潰した大山勇夫中尉虐殺事件

停戦協定くらいでは、中国共産党はあきらめません同月29日、北京から東20キロほどの通州という町で、日本人・朝鮮人居留民と日本軍守備隊計257名が惨殺される、という「通州事件」が起きましたこれも中国の公文書に掲載された実行犯の手記が見つかっています。[茂木、p66]

この事件を国内では各紙が大々的に報道し、「暴支膺懲(ぼうしようちょう、横暴な支那を懲らしめよ)」の見出しが紙面に躍りました。しかし、日本政府は世論の憤激をよそに「船津和平案」と呼ばれる画期的な和平案を決定します。

満洲事変以後、日本が北支で得た権益のほとんどを放棄しようというものです。その代わりに「支那は満洲国を承認あるいは黙認する」「日支防共協定を締結する」という条件が含まれていました。この和平案が成立すれば、日本、満洲、中国政府の平和的共存が実現し、さらに共同で共産党に対抗することとなります。中国共産党にとって、悪夢のような事態です。

この案を元上海総領事の船津辰一郎を通して、中国政府に働きかけることになり、第一回目の交渉が8月9日に行われました。ところが、その日の午後6時半頃、上海の海軍陸戦隊の大山勇夫中尉が市街を自動車で視察中、中国軍保安隊によって惨殺される事件が起きました。この事件により、和平工作は雲散霧消してしまいました。

事件の犯人は、隠れ共産党員であった南京上海防衛隊司令官の張治中でした。張は蒋介石の許可なくこの事件を仕掛け、さらに蒋介石の制止を振り切って、日本軍への攻撃計画を進めます。当時、上海には3万人以上の日本人居留民がおり、約4500人の海軍特別陸戦隊が守っていましたが、これを5万の中国軍が襲ったのです。

日頃、中国寄りの報道をするニューヨーク・タイムズも、次のように報じました。

日本軍は上海では戦闘の繰り返しを望んでおらず、我慢と忍耐力を示し、事態の悪化を防ぐために出来る限りのことをした。だが日本軍は中国軍によって文字通り衝突へと無理やり追い込まれてしまったのである。[茂木、p87]

東書が「戦火は中国中部の上海に拡大し、全面戦争に発展しました」という一行の裏には、こんな重大な史実が隠されているのです。

■4.ドイツが仲介した日本の和平提案を蒋介石が拒否

海軍陸戦隊は数倍もの敵を寄せ付けず、日本からの上海派遣軍の到着まで上海居留地を守り切る、という大殊勲を上げました。

8月30日、中国政府は国際連盟に対して、日本の行動は連盟規約、不戦条約及び9か国条約(日中米英仏など9カ国で中国の領土保全などを誓約)に違反すると通告し、連盟が必要な措置を取るよう提訴しました。自分の方から仕掛けておいて、こういう要求をする面の皮の厚さは、たいしたものです。

この提訴から、ベルギーのブリュッセルで9カ国条約会議を開催することになりました。10月27日、日本は英米仏独伊に対して、日中交渉のための第3国の好意的斡旋を受諾する用意のあることを伝えました。結局ドイツが仲介役となることになり、日本は正式に和平条件7項目をディルクセン駐日ドイツ大使に伝えました。

船津和平案とほぼ同じ内容で、ディルクセン大使も「きわめて穏健なもので、南京はメンツを失うことなく、受諾できる」と本国に報告したほどでした。ドイツ政府も日本側の和平条件を妥当なものと判断し、トラウトマン駐華大使を通じて蒋介石に日本側条件を通告しました

それでも蒋介石はブリュッセル会議でもっと有利な状況になると期待して、この和平提案を拒絶してしまいました。しかし、会議の結果、その思惑は外れました。

ブリュッセル会議最終日の11月15日、広田外相はグルー米国大使に「日本軍の上海での作戦は円滑に進んでいるが、これ以上深く中国軍を追撃する必要はなく、この時期に平和解決を図るのは中国自身のためになる」と述べ、現在ならば講和条件が穏当なものであるので、米国から蒋介石を説得してほしいと依頼したのです

これに対して、米国は積極的な対応は見せませんでした。英国も同様でした。米英とも日中連携は望んでいなかったのでしょう。

■5.「南京大虐殺」がでっちあげだった証拠

中国軍は上海から撃退されましたが、まだ40万もの勢力を持ち、蒋介石も和平提案に応じません。日本政府は従来から不拡大方針をとってきましたが、ここにきて、蒋介石を和平のテーブルにつかせるために、首都・南京を攻略して、敵軍主力に一撃を与えようという方針に変わってきました。これは日本の「領土」を広げようとする「侵略」ではありません。

ここから12月初旬の南京戦となり、後に東京裁判で「南京大虐殺」として訴追されるようになったのです。南京での戦いで、日本軍が厳密に国際法を守ったのに、中国軍は破り放題であったことは弊誌[JOG(1348)]でも述べましたが、この本では徹底的に「南京事件」がでっちあげだった証拠を揃えています。

たとえば遺体の埋葬記録で41,330体という記録が残っていますが、そのうちの39,537体は南京城外の戦闘による死体です。南京城内の死体は1,793体で、そのうち女性は8体、子供は26体でした。城内への砲撃による死者とは考えられますが、この数字から城内で30万人にも及ぶ組織的虐殺があったとは考えられません

また、茂木氏は「南京大虐殺」を報じた欧米の記者や宣教師たちが、誰も「大虐殺」を見ておらず、そのうちの何人かは国民党の顧問や金で雇われた工作員であった、という史実も紹介しています

50ページほどのわずか1章で、こうした簡明な史実を豊富に引用して、「南京大虐殺」などなかった、という真相を語らせています。一般読者が「南京大虐殺」の真相を知りたいと思ったら、この1章だけで十分でしょう。

■6.南京戦の間も続いた和平交渉

南京戦の間も、ドイツの仲介による和平を求める動きは続いていました。12月2日、駐華ドイツ大使トラウトマンは蒋介石と会見しました。蒋介石は日本側の要求は前と同様かと尋ね、トラウトマンは主要条項に変化なき旨を答えました。すると蒋介石は、

1、支那は講和の一基礎として日本の要求を受諾する。
2、北支の総主権、領土保全権、行政権に変更を加ヘベからざること

その他2項目を中国側条件として伝えました。

12月21日、日本政府はディルクセン駐日大使に対する回答案を閣議決定しました。

1、支那は容共抗日満政策を放棄し日満両国の防共政策に協力すること。
2、所要地域に非武装地帯を設け且(かつ)該各地方に特殊の機構を設置すること。
3、日満支三国間に密接なる経済協定を締結すること。
4、支那は帝国に対し所要の賠償をなすこと。

この条件から、茂木氏は次のように指摘してます。

この和平条件をよく見てみれば、日中戦争は日本の侵略戦争ではない、ということが明確に示されているといえるのではないでしようか。

第一に、領土要求など全くしていないという事実です。すでに上海、首都南京、さらに北京を含む北支の主要部分を占領しているのですが、領土要求を全くしていないということは、もともと侵略を目的とした戦争ではないということです。[茂木、p169]

日本側が目指していたのは、中国の侵略ではなく、日本、満洲、中国の友好と連携により、ソ連と中国共産党による共産主義の浸透を防ぐことだったのです。

■7.「国民政府を対手(あいて)とせず」

トラウトマン駐華大使から12月26日に伝えられた日本提案を、蒋介石は翌日、国防会議にかけました。会議では汪兆銘(おうちょうめい)影響下にある二人の大臣が日本の条件を受け入れて交渉に入るべしと述べましたが、蒋介石は激怒して二人を解任しました。

ドイツの軍事顧問団長ファルケンハウゼン中将も勝利の見込みはないので、この条件で妥協するよう説得しましたが、蒋介石は受け入れませんでした。

蒋介石からの日本への回答は、要求期限に大幅に遅れて、1月13日にようやく到着しました。日本側の要求4カ条は範囲が広すぎるとして、「新たに提起された条件の性質と内容を確定されることを望む」としていました。

首都南京を奪われながらも、なおも誠意の感じられない回答に、日本政府の堪忍袋の緒も切れたのでしょう、蒋介石は受諾する意思はなく、引き延ばし戦術である、と断じました。一方、国内世論も、ソ連スパイ・元朝日新聞記者・尾崎秀実[JOG(263)]などによる世論誘導により、早く結果を出せ、という雰囲気だったのでしょう。1月16日に、次の近衛首相声明が発表されました。

帝国政府は、爾後、国民政府を対手(あいて)とせず、帝国と真に提携するに足る新興支那政権の成立を期待し、[茂木、p182]

この「新興支那政権」とは、後に汪兆銘による南京国民政府として実現します。汪兆銘はもともと孫文の後継者の筆頭であり、蒋介石よりも先輩格となります。そして、国土をこれ以上焦土としないよう、日本との和平を主張していました。

なお茂木氏の著作では、陸軍参謀本部が政府内で、この近衛声明を阻止しようと必死の努力を展開した過程を10ページにわたって詳細に紹介されています。国防の見地からは、ソ連こそ主敵であり、中国との長期戦を必至とする近衛声明は絶対に避けるべき、との見識からでした。「強硬派」の軍部が大陸侵略を先導した、という見方は嘘であることがよく分かります。

■8.「日中戦争は日本が起こした」というマインド・コントロールから脱却するために

以上の史実を辿ってみれば、日中戦争は中国共産党が火をつけ、日本の度重なる和平努力も蒋介石によって撥ねつけられてきた、という真相が見えてきます。

我が国は、「日中戦争は日本が起こした」との詐術に引っかかり、総額3兆6千億円、国民一人あたり3万円もの対中ODAをむしり取られてきました。さらに対中贖罪意識に後押しされた経済協力、企業進出で、モンスター国家を育ててしまい、国際社会全体に取り返しのつかない巨大リスクをもたらしてしまいました。

今後、このモンスター国家にいかに対処するか、冷静に考えるためにも「日中戦争は日本が起こした」というマインド・コントロールから脱しなければなりません。そのためにも、史実抜きで「日本が日中戦争を起こし」と中学生たちに刷り込む東書のような教科書ではなく、茂木氏の著書で『日中戦争 真逆の真相』を学んでいただくことをお勧めします。

(文責 伊勢雅臣)


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