活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

坐禅は習禅には非ず1

2021年01月20日 | 坐禅

禅を行じることは善いということは分かっても、それが何故善いかということになると、分からないものです。

 

それは、「禅の本質」が分からないから、十年やっても、二十年やっても何のことか分からないのです。

 

妄想が増すばかりなのです。

 

それで道元禅師は「禅の定義」をはっきり述べられております。

 

「いわゆる坐禅は習禅には非ず ただこれ安楽の法門なり 菩提を究尽(ぐうじん)するの修證なり」と。

 

「習禅」とは、悟るのに時間を隔てて先に求めることをいいます。

 

「禅(坐禅)そのもの」が「悟り」なのです。

 

「禅そのもの」が「仏」なのです。

 

先に求めたら「禅(坐禅)」は死んでしまいます。

 

それで「坐禅は習禅には非ず」といったのです。

 

ただ度胸が据わるようにとか、病気を治すというような、小さい目的のために行う「禅(坐禅)」は皆「習禅」なのです。

 

坐禅をするときは、「只、坐禅ばかりに成る」必要があります。

 

「只」とは「まじりものの無いこと」です。

 

これを「祇(只)管打坐(しかんたざ)」と言っています。


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