禅を行じることは善いということは分かっても、それが何故善いかということになると、分からないものです。
それは、「禅の本質」が分からないから、十年やっても、二十年やっても何のことか分からないのです。
妄想が増すばかりなのです。
それで道元禅師は「禅の定義」をはっきり述べられております。
「いわゆる坐禅は習禅には非ず ただこれ安楽の法門なり 菩提を究尽(ぐうじん)するの修證なり」と。
「習禅」とは、悟るのに時間を隔てて先に求めることをいいます。
「禅(坐禅)そのもの」が「悟り」なのです。
「禅そのもの」が「仏」なのです。
先に求めたら「禅(坐禅)」は死んでしまいます。
それで「坐禅は習禅には非ず」といったのです。
ただ度胸が据わるようにとか、病気を治すというような、小さい目的のために行う「禅(坐禅)」は皆「習禅」なのです。
坐禅をするときは、「只、坐禅ばかりに成る」必要があります。
「只」とは「まじりものの無いこと」です。
これを「祇(只)管打坐(しかんたざ)」と言っています。