武弘・Takehiroの部屋

万物は流転する 日一日の命
“生涯一記者”は あらゆる分野で 真実を追求する

下手な“カメラマン ”とは自分のこと

2024年04月23日 13時49分55秒 | フジテレビ関係

<以下の文を復刻します。>

下手なカメラマンとは私のことだ。もう50年以上も昔の話だが、私はフジテレビの報道局に入ってから記者の仕事をしていた。当時は内勤の整理記者だったが、ある時、報道局の幹部が「テレビ記者というのはこれから、書けて、話せて、写せることが出来なければならい」と訓示した。
要するに記事を書くだけでなく、テレビの前でレポートをし、さらにカメラで撮影しなければならないというのだ。
記事だけ書いていれば良いと思っていた私は動揺したが、上司の命令だから仕方がない。それからカメラ撮影の“特訓”が始まった。当時の動画用カメラはモノクロの16ミリフィルムを使っていたが、たしかアメリカ・ベルハウエル社製の「フィルモ」だったと思う。ゼンマイ式のもので、100フィートのフィルムを装填し、2分50秒ぐらいしか撮影できなかった。したがって、無駄のないように効率的に撮影することが求められていた。現在のVTRとはえらい違いである。

フィルモで撮影する名カメラマンのロバート・キャパ(私とはえらい違いだ!笑)

それはさて置いて、新米カメラマンが初めに仕事をするのは、どうでもいいような「トピックス」ばかりであった。それはそうだろう。事態が急変するような、あるいは高等なカメラ技術が必要な撮影は無理だからである。
最初は良かった。催し物を撮ったりしていたが、ある日、春の“風情”を撮影しようと新宿御苑に行ったら、小学生の女の子数人が縄跳びをしていた。
雑感を撮影しようと近づいて「フジテレビだけど撮らせてね」と言ったら、とたんに女の子たちは「キャア~、キャア~ッ!」と歓声を上げて飛び跳ねる。テレビに映ると意識したのだろうか、実に面白くて楽しい取材だった。
そのうち撮影に慣れてくると、だんだん難しい取材も担当するようになる。例えば台風の取材だ。ある時、千葉県の浦安市一帯が台風で水浸しになった。現場に行ったら道路の冠水が酷く、濁流やら汚水が胸の近くまで達し撮影は難航を極めた。もちろん上から下まで防水着で身を固めていたが、その時はカメラマンの仕事って本当に大変だな~と思ったものである。

さて、撮影にもいろいろな失敗があるが、ある日、皇太子ご夫妻(現在の上皇ご夫妻)がある式典に出席されるから撮ってこいと指示を受けた。何の式典だったか忘れたが、カメラを持ってその会場に駆けつけたのである。
静止している人物の撮影なんか簡単だと決め込んでいたが、壇上のご夫妻を初めて見るやいなや私はいっぺんに畏れ多くなって近づけなくなった。両殿下はまるで“お雛様”のように美しく見える。
私が立ちすくんでいると、他社のカメラマンは両殿下のすぐ近くまで進んで撮影を始めていた。撮影時間は1分ぐらいと決まっているのだ。
これはいかんと思い、私も勇を鼓して近づいたがアッと言う間に撮影のタイムリミットが過ぎてしまった。しまったと思ったが、もう遅い。
仕方がないのでロングショットだけ撮って会社に戻った。そして、現像されたフィルムを見ると、皇太子ご夫妻ははるか彼方に“点”のようになって映っているのだ。
「何だ、こりゃあ!」と撮影デスクに叱られたが、万事休すである。他社のニュースでは両殿下の顔が間近にはっきりと映っているのに、わが社のニュース画像では、両殿下はまるで“霧の彼方”におわしますように映っていた。

何事もそうだが、仕事は場数を踏むのが第一である。いかに素人カメラマンとはいえ、場数を踏むうちに上達し度胸も据わってくる。私の場合は数カ月しかカメラ撮影をしなかったが、人事異動で警視庁クラブに配属になったためカメラから解放された。正直言って、内心ホッとしたのである。しかし、たとえ数カ月とはいえ、カメラを持って現場に行った体験は忘れられない。
カメラマンがいかに大変な仕事かということを痛切に感じた。私も1年~2年と撮影を続けていればそれなりのカメラマンになったかもしれないが、道半ばにして外れてしまったのである。以上、下手な素人カメラマンの話であった。


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