きょうは朝日新聞の社説「難病患者殺人 共に前を向ける社会に」に異議を唱えたい。
この社説は、5年前、筋萎縮性側索硬化症(ALS)の女性患者(当時51)からの依頼で薬物を投与、殺害したとして嘱託殺人などの罪に問われた被告の医師の男(45)に対し、京都地裁が有罪判決を言い渡した出来事を取りあげている。
京都地裁の判決に対するこの社説の評価は「全面的に支持」と言えるもので、被告の医師が起こした事件は「医の倫理に明らかに背く、あってはならない事件だ」としている。
この社説は、5年前、筋萎縮性側索硬化症(ALS)の女性患者(当時51)からの依頼で薬物を投与、殺害したとして嘱託殺人などの罪に問われた被告の医師の男(45)に対し、京都地裁が有罪判決を言い渡した出来事を取りあげている。
京都地裁の判決に対するこの社説の評価は「全面的に支持」と言えるもので、被告の医師が起こした事件は「医の倫理に明らかに背く、あってはならない事件だ」としている。
なぜか。この事件はなぜ「医の倫理に明らかに背く、あってはならない事件」なのか。それは、「難病に苦しむ人を救うはずの医師が、いともたやすく命を奪った」からだと社説は断じる。しかし、これは明らかにおかしい。(地裁判決を支持するという)結論が先にあり、社説が持ち出したこの理由づけは、この結論を導き出すための根拠のない屁理屈に過ぎない。
「難病に苦しむ人を救うはずの医師が、いともたやすく命を奪った」と社説は述べるが、被告の医師は、難病の筋萎縮性側索硬化症(ALS)に苦しみ「安楽死」を望む女性患者の訴えを正面から受け止め、「この患者の苦しみを救うには、安楽死以外に手立てはない」との判断から、この患者に安楽死の処置を施したのであって、「いともたやすく命を奪った」などと言えるものではない。むしろ難病に苦しむ患者から積極的に苦しみを取り除こうとしたもので、この医師の行為は充分「医の倫理」に適ったものと言わなければならない。
京都地裁は、医師の行為を「利益を求めた犯行」だと断じたが、その論拠も(この社説から判断する限り)「専門医でなく診察や意思確認もせず、報酬130万円を得たうえで初対面の女性を死に至らしめた経緯から」とするものであって、早計のそしりを免れない。この判決を下した地裁の判事は、130万円を差し出されれば、きっと後先を見ずに注文に応じる手合いなのだろう。
不幸にもこの世には、安楽死以外には患者の苦しみを取り除けない厄介な難病が存在する。
いやいや、安楽死以外にも何らかの手立ては存在するはずだ、と主張するのは、無知で無責任な楽天主義(オプティミズム)以外の何ものでもない。
「求められるのは、苦悩する患者を孤立させず、生きる意味を実感できる環境を整えることだ」と社説は主張するが、そもそもそんな環境を整えることが可能なのかどうか。
「人工呼吸器の装着で長く生きられるようになり、発話が困難になっても目の動きで会話できる補助機器もある。患者の中から国会議員も誕生した」と社説は言うが、そんなことは(現に苦しみの中で生きている)患者には、何の慰めにもならないだろう。
「問われるのは、社会のありようだ。難病患者への理解を深め、共に日々を暮らす。そうした取り組みを広げていきたい。」
朝日新聞は最期にそう書いて、毒にも薬にもならない与太話でお茶を濁そうとするが、今回の京都地裁のような判決を歓迎する手合いが存在する限り、そういう社会が来ることは望み難い。天邪鬼爺はそう思うのだが、いかがだろうか。
「難病に苦しむ人を救うはずの医師が、いともたやすく命を奪った」と社説は述べるが、被告の医師は、難病の筋萎縮性側索硬化症(ALS)に苦しみ「安楽死」を望む女性患者の訴えを正面から受け止め、「この患者の苦しみを救うには、安楽死以外に手立てはない」との判断から、この患者に安楽死の処置を施したのであって、「いともたやすく命を奪った」などと言えるものではない。むしろ難病に苦しむ患者から積極的に苦しみを取り除こうとしたもので、この医師の行為は充分「医の倫理」に適ったものと言わなければならない。
京都地裁は、医師の行為を「利益を求めた犯行」だと断じたが、その論拠も(この社説から判断する限り)「専門医でなく診察や意思確認もせず、報酬130万円を得たうえで初対面の女性を死に至らしめた経緯から」とするものであって、早計のそしりを免れない。この判決を下した地裁の判事は、130万円を差し出されれば、きっと後先を見ずに注文に応じる手合いなのだろう。
不幸にもこの世には、安楽死以外には患者の苦しみを取り除けない厄介な難病が存在する。
いやいや、安楽死以外にも何らかの手立ては存在するはずだ、と主張するのは、無知で無責任な楽天主義(オプティミズム)以外の何ものでもない。
「求められるのは、苦悩する患者を孤立させず、生きる意味を実感できる環境を整えることだ」と社説は主張するが、そもそもそんな環境を整えることが可能なのかどうか。
「人工呼吸器の装着で長く生きられるようになり、発話が困難になっても目の動きで会話できる補助機器もある。患者の中から国会議員も誕生した」と社説は言うが、そんなことは(現に苦しみの中で生きている)患者には、何の慰めにもならないだろう。
「問われるのは、社会のありようだ。難病患者への理解を深め、共に日々を暮らす。そうした取り組みを広げていきたい。」
朝日新聞は最期にそう書いて、毒にも薬にもならない与太話でお茶を濁そうとするが、今回の京都地裁のような判決を歓迎する手合いが存在する限り、そういう社会が来ることは望み難い。天邪鬼爺はそう思うのだが、いかがだろうか。