Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

モーツァルト所縁の劇場

2022-05-21 | 
土曜日の初日の準備をしている。作曲家ハースのインタヴューでの楽曲説明と2011年のシュヴェツィンゲン音楽祭での録音を参考にする。

先ず作曲家は、この曲のウルトラクロマティックで始まって、どちらに行くかどうかが分からない暗中模糊とした中での不安定な気分を口外している。個人的にはブルックナーの第五交響曲などのそれを感じる。それが徐々に長調の属七和音に近づき、ピアノの音階域を上下する大きなスケ-ルの中で、所謂シェパード効果が生じる。

名曲の中ではアルバン・ベルク「ヴォツェック」における永遠に下降する音型などもそれである。基音の変化とその倍音の干渉によってその効果が生じる。

そして、主人公が近所の嘗ての惨事を知っている近所の人との絡みで短調へと転換する。

上の録音を聴いて、先ず何よりも言葉が聴き取り難いと感じた。会場はロココ劇場でミュンヘンのクーヴリエと姉妹関係にあるモーツァルト所縁の劇場である。だから不利さはないのだが、バロックサイズの楽団と声との相性が悪い。なるほど微分音の出し方などはSDRの楽団が入っているので上手なのだが、声と上手く合っていない。更に芝居などが始まると主役のサラ・ヴェ―クナーがいつもの如く大声を張り上げていて、全く配慮することがない。芝居もなにか音を出すことしかない声出しで全く良くないのだ。すると今度は奈落の楽団が喧しい。当時の放送なども若干思い出すが、力が入っていた割には空回りしていたと思う。

見ると、指揮者も演出家もボンの劇場の人たちでなるほど程度が低いと思った。特にこうした初演とか現代ものとかになると破綻なく仕上げるだけが精一杯なのがこうした地方劇場の常である。作曲家も不満だったのだろう、2014年には同じような歌手陣で今度はムスバッハ演出でヴィーンの芸術祭で同じようなキャストで今度はクラングフォールムヴィーンが改訂版を演奏している。放送管弦楽団とそれほど変わらないであろう。指揮者は、これから共同制作のリヨンで指揮をするルーデルという人で、批評を読むとやはり言葉がチンプンカンプンとあったようだ。

先ず今回は、初の劇場上演ということで、そしてクラウス・グート演出なので先ずは舞台として通じないものは上演されない。更に指揮もティテュス・エンゲルであるから舞台音楽的にも拙くはならない。その意味からはキャスティングの問題もあるが特別に期待をしている。副主演でもある不動産屋のカウンタテノールも喧しくて聞けないような録音だが、まだ少なくとも二回は通して聴かないと分からない。



参照:
芸術音楽で可能となること 2022-05-19 | マスメディア批評
創作のカミングアウト 2022-05-09 | 文化一般

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