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湯島天満宮の正門は南側の青銅の鳥居です。鳥居をくぐり右手の宝物殿前を通って直進すると正面に参拝者が祈願する拝殿があります。この拝殿は本殿とは幣殿で繋がっておりまして、権現造りという建築様式です。湯島天満宮の建物は土蔵作りだった明治時代の神殿を平成7年(1995)総檜造りの木造で改築したものです。神田明神が防火上の配慮から戦時中に鉄筋コンクリートに改築(1944)されたのに対して、戦後の改築でしたが総檜造りの木造で伝統を維持しています。
(写真1,2、3) 道真ゆかりの梅園は参集殿の前にあり、大小の白梅、紅梅が植えられていて、その間に菅公一千年祭碑、菅家遺戒碑、泉鏡花の筆塚などが建っています。神殿と社務所と参集殿を繋ぐ渡り廊下は高架となっていて境内に立体感を与えています。 (写真4、5) 山の手地域の神社の多くがそうであるように、湯島天満宮も高台の端に建っています。この高台は武蔵野台地が南東に伸びた上野台地と本郷台地が江戸湾に突き出た端に当たり湯島台地とも言われるところで、江戸時代までは上野の森や不忍池を見わたせる絶景の場所でした。 従って湯島天満宮の東側と北側は崖ですから参道は階段です。東側の参道は、急な階段の男坂と緩い階段の女坂の二つあり、北側の参道は夫婦坂と言います。(写真6、7、8) 泉鏡花の小説「婦系図」で湯島天神が別れ話の舞台となり、歌謡曲「湯島の白梅」で「湯島通れば想い出す お蔦主税の心意気 知るや白梅玉垣に残る二人の影法師」と歌われたのは、多分玉垣のある女坂でしょう。 江戸時代、講談師は辻講釈といいまして町の辻ゝで講釈していたのですが、あるとき講談師の伊東燕普が家康公の偉業を読むに際して聴衆と同じ高さでは恐れ多いというので高座に上がって講釈する形式が始まったそうです。その最初の場所が湯島天満宮の境内だったというので、ここが「高座講談発祥の地」と碑が建っています。 (写真9、10) なお、湯島天満宮の正式名称は「湯島神社」ですが、天満宮、天神様という呼称は歴史の記憶を呼び起こすものとして使いました。同じ事は神田明神にも言えます。 (以上) 人気ブログランキングに参加しています。応援をよろしくお願い致します。 人気ブログランキングへ 写真1 湯島天満宮の正門 青銅の鳥居 写真2 拝殿 写真3 本殿と幣殿 写真4 梅園 写真5 渡り廊下 写真6 男坂 写真7 女坂 写真8 夫婦坂 写真9 高座講談発祥の地の碑 写真10 高座講談の実演中 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2021.03.08 12:17:49
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