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聖ルドゲーロ司教   St. Ludgerus E.

2024-03-26 06:31:44 | 聖人伝
聖ルドゲーロ司教   St. Ludgerus E.                      記念日 3月 26日


 さしもに栄華を誇ったローマ大帝国も4世紀民族移動の結果敢えなくも滅び去り、退廃を極めたこの老民族に取って代わって欧州の覇権を握ったのは、新興気鋭のフランク民族であった。かくて三百年間ローマ歴代の皇帝に、至らざるなき迫害を蒙ったカトリック教もフランク族には受け容れられて信教の自由を楽しむ事が出来るようになり、まず同民族によってドイツ、イギリス、フランス、オーストリアなどに伝えられた。しかしドイツの西北地方に棲むフリソン人等やサクソン人等はカトリック宣教師を排撃し、なかなか真理の教えに帰依しようとしなかったが、天主の御摂理は不思議なもので、この頑迷極まるフリソン人の中から一人の篤信な司教が現れ、同胞の使徒として目覚ましい活躍をし、ついにその大部分の改宗に成功したが、今日語らんとする聖ルドゲーロこそ即ちその人なのである。

 彼は744年頃生まれた。父の伯爵チアトグリムも伯父も、聖教を奉じた為にフリソン人の王の忌諱に触れ、追放された経歴を持っている位であるから、その敬虔な性質は彼の一族に共通のものであるかも知れぬ。兎に角ルドゲードは幼時より信心深く、殊にベネディクト会の学校に学んでいた頃、ドイツの大使徒聖ボニファチオの風貌に接した時には生涯消えぬ印象と感激とを受け、自分も他日必ずかような信仰の英雄になろうと心に堅く誓う所があったと言われている。

 それから間もなくルドゲーロはイギリスに渡り、長男の権利、即ち父の爵位を受け継ぐ事を断念してひたすら哲学神学の研究に没頭し、助祭に挙げられて英国を去り、オランダで司祭に叙せられた。そしてまず司教に命せられたのは聖ボニファチオ殉教の地(聖人は彼が見た二、三ヶ月後に殉教したのである)ドックムに行って、未信者のフリソン人を改心せしめる事であった。ルドゲーロはその使命に前後七年間懸命に努力した甲斐空しからず、追々洗礼を受けて聖教に帰依する者も出来たので喜んでいる矢先、サクソン人の王ウィヅキンドと共にフリソン人もフランク王国に対して謀反を起こしたため、せっかく現れかけた布教の効果も悲しきや全く水泡に帰してしまったのである。

 しかしルドゲーロは決して失望しなかった。彼はそれも天主の思し召しと諦め、聖ペトロ聖パウロ両大使徒の英霊眠るローマの地へ巡礼し、彼等が布教の千辛萬苦を追想して新たに勇気を得、後聖ベネディクトの創立にかかるモンテ・カッシーノの修道院に行き、心静かに来るべき活動に備えた。

 やがてドイツに帰ったルドゲーロはカロロ大帝からフリソン地方の五州に布教する命令を受けた。前に彼が地の汗を流して営々種を蒔いた聖教は、今こそ見事な実りを見せ、歓喜の中に刈り入れられる事になったのである。その中に数年経つと偶々トリールの司教が逝去したので、カロロ大帝は彼をその後継者に擬したが、謙遜な彼は切に之を辞退し、代わりにサクソン地方にも布教する許可を願った。で、大帝も彼の心を諒とせられ、未だ異教の暗黒に沈淪している西サクソンに彼を派遣された。望み叶ったルドゲードは勇躍任地に赴き、大いなる忍耐を以て土民の教化に当たった。その結果は。さしも頑迷なサクソン人も彼の誠心と謙遜柔和な態度に打たれ、次第に聖教の真理に耳を傾けるようになり、洗礼を願って信者になる者が続出するに至ったのである。

 804年再び司教に推挙された彼は、最早拒む言葉もなく就任を受諾したが、その後も高齢の身を以て不退転の活動を続けている内に、809年3月26日天主のお招きを受けてその御許に帰り、御手ずから光栄ある永福の月桂冠を賜った。
 彼の布教地であったドイツのウエストファーレンやライン地方は、不思議に1200年後の今日でもなお国内の他の地方に比して堅固な揺るぎない信仰を保っているがこれは全くルドゲーロの熱心と篤信の賜物と言って差し支えあるまい。

教訓

 聖ルドゲーロは一度布教に失敗しても、また勇気を新たにして立ち上がった。その不撓不屈の精神こそ、彼が天主への厚い信頼の念と共に、我等の取って模範とすべき美点である。なお我等は彼の如く、事を行うには全力を挙げて当たり、しかも成敗は一切天主の叡慮に委ねて顧みぬ態度を養わねばならぬ。
 






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