気ままに何処でも万葉集!

万葉集は不思議と謎の宝庫。万葉集を片手に、時空を超えて古代へ旅しよう。歴史の迷路に迷いながら、希代のミステリー解こう。

山上憶良が大伴旅人に異常に接近したのはなぜか

2020-11-20 23:02:37 | 81令和元年万葉集を読む

松浦佐用姫の悲しい物語は有名ですが、ご存じですか。出兵する夫を見送る妻が、嘆き悲しんだという肥前松浦の伝承です。

大伴佐提比古郎子は、大伴金村の子です。宣化天皇の二年、新羅が任那を侵略した時、大伴金村の子の磐と狭手彦を遣わして救ったと、日本書紀にあります。狭手彦は佐提比古とも書き、名前の表記は違いますが、同じような話です。風土記では、佐用姫ではなく、肥前松浦の弟日姫子との別離の伝承です。万葉集では、憶良と旅人が詠んでいる佐用姫の物語になります。物語は若干違っていますが。

銅像の手を挙げている女性は、半島へ渡る舟を見送っているのです。ここは佐賀県唐津市の鏡山の展望所で、この人は松浦佐用姫、手に持っているのは領巾です。

彼女は「いってらっしゃい」と言っているのではないのです。「行かないで、舟よ帰って来て」と今生の別れを嘆いていると憶良は詠みました。

佐用姫は夫の大伴狭手彦がもう戻ってこないと思ったのでしょうか。七日も泣いて泣き明かして、ついには加部島まで追いかけて石になったという女性です。

行く船を 振り留みかね 如何ばかり 恋しくありけむ 松浦佐用姫  (山上憶良)  

去り行く船を領巾を振って留めることもできず、どれほど恋しかっただろうか、松浦翔姫は。

愛しているのなら待ち続ければいいだろうに…何故に石になったのだろうか…私には不思議です。

他にも、鏡山の山頂の鏡山神社の前に、憶良の松浦佐用姫を詠んだ歌があります。

麻都良我多 佐用比賣能故何 比列布利斯 夜麻能名乃尾夜 伎々都々遠良武  (碑の歌)

まつらがた さよひめのこが ひれふりし やまのなのみや ききつつおらむ  (碑の読み)

松浦縣 佐用姫の児が 領巾ふりし 山の名のみや 聞きつつ居らむ   (山上憶良)

山上憶良は鏡山に登ったのでもなく、見たのでもありません。ただ、旅人たちが松浦の縣(あがた)に行ったと聞いただけです。『松浦縣と言えば、あの有名な佐用姫の物語があることは知っている。が、まだ山も見たことはない。佐用姫が領巾を振って別れを惜しんだという領巾振山の名前だけを聞いて居なければならないのだろうか、私は。何と残念なことか』という歌を詠んで、一緒に行けなかったことを悔しがっていると、旅人に伝えたのです。

旅人は「何と、憶良殿は私の先祖の大伴狭手彦の伝承をご存じだったのか。我が先祖は大王に仕えて活躍していたことを」と、嬉しかったでしょう。

鏡山の展望台からは、唐津湾が見えます。確かに出兵する船がよく見えたことでしょう。

憶良は佐用姫の歌ばかりではなく、玉島川の歌も送りました。玉島川は唐津湾に流れ込む川で、鏡山(領巾振山)の東側を流れています。旅人は松浦縣への旅で、玉島川でも遊び、歌を詠みました。憶良には、そのことも羨ましくて仕方なかったのです。

松浦の縣への楽しい旅に誘って欲しかったと、何度も何度も歌を詠んで、旅人に贈ったのです。

なにゆえに、憶良は悔やむのでしょう。「私たちは特別の仲ではないか」と言わんばかりです。実は、憶良は旅人に「私たちは、特別仲がいいのですよね」と、繰り返し歌で確かめています。もちろん、特別な関係になりたかったのです。旅人に信頼されたかった、その本心を聞かせてほしかったのです。

それって、なんのためでしょうね。

大宰帥と親しければ何かいいことがあるのでしょうか。いえいえ、憶良は旅人が何を考えているか知りたかっただけです。

これから都で起こるであろう大事件に旅人がどう対応するか、都の高官は心配していました。その命を受けた憶良は、日ごろ旅人がどのように考えているか、知りたかったのです。

何のために? 当然、都に報告するためです。それが、筑前の守、山上憶良の裏の仕事だったのです。

この事については、今年中に出版する「梅花の宴と大伴旅人」に書いています。

よかったら、詠んでくださいね。

では、この辺で。   


防人はなぜ東国で徴集されたのだろう・大伴家持が収載した防人の歌

2020-08-04 17:14:18 | 82大伴家持、万葉集最終歌への道

今日は、防人の歌の紹介です。

万葉集巻二十に収載されている防人の歌のいくつかを、教科書でも習いました。白村江敗戦後に唐と新羅から倭国を守るために防人が徴集されたということでした。彼らは家族と別れて故郷を離れ、難波に集められました。そこから、筑紫に向かったのです。教科書で習う歌です。

4425 防人に 行くは誰が背と 問ふ人を 見るが羨(とも)しさ 物思(ものも)ひもせず  

  「今度防人に行くのはどなたの旦那さん」と尋ねる人、そんな人を見るのは羨ましい限り。なんのもの思いもせずに。(万葉集釋注・伊藤博)

国号が「日本」となるのは670年あたりだそうですから、百済救援に兵を出した頃は、倭国でした。白村江戦に派遣されたのは、九州の二万の兵です。畿内や東海からは兵士が出ていません。畿内の王権が、九州のまつろわぬ豪族の勢力を奪うために筑紫から兵を出したのだと、NHKの番組でゲストが話しておられました。もちろん、憶測でしょうが。そうしか考えられないほど、不思議な出兵だったということでしょう。畿内の王権が百済救援を決定したのに、出兵したのは九州の兵でしたから。

不思議なことに、防人もなぜか東国から徴集されました。九州の島々で防衛の任に就くのに、遠い東国から集められたのです。彼らは準備も全て自前で、十五日ほどかけて難波に集まったのです。拒否したら死罪だったとか。難波までの十五日間に病気になったりして、期日通りに難波まで辿り着けなかった人もいたようです。古代の旅は命がけでした。

ですから、東国から筑紫などの遠い所へ兵士を出すなど、考えられないほど大変なことでした。何故、防人が東国からだったのか、不思議です。

学者さんは「東国が朝廷の直轄領だったから防人が出せた」と言われます。でも、遠い東国から兵を出すのは容易ではありません。いつ直轄地になったのでしょう。

防人」が日本書紀に出てくるのは大化二年(646)正月、孝徳天皇の改新の詔です。この時に、すでに「防人」という組織や考え方があったのでしょう。

白村江敗戦後に防人が徴集されました。敗戦後にさっそく徴集できたのですね。早いです。

それから、防人の悲劇は長く続きます。天平九年(737)に、防人を東国に返すということがありました。実は、藤原四兄弟(武智麻呂・房前・宇合・麿)が疫病死したからです。

軍事拡大路線が一時的にストップしたのでしょう。然し、東国の防人は再開されます。

東国の防人の停止は天平勝宝九年(757)です。この年は八月に改元され「天平宝字元年」となります。その閏八月「大宰府の防人に坂東の兵士を停め、西海道七国の兵士を充てる」ことになりました。やっと、東国からの防人が解放されたのです。

何があったのでしょう。664年から757年まで九十年間も続けていた東国からの徴集を変えたのです。

それは、大伴家持が集めた「防人の歌」を朝廷の重鎮が読んだからではないでしょうか。万葉集巻二十には、天平勝宝七年(755)に集めた「防人の歌」が八十四首、家持が防人を思って詠んだ歌が二十首、昔年の防人の歌が八首あり、計百十二首が収載されています。この歌は時の左大臣橘諸兄の目に留まったのでしょうか。

これを読んで、東国の防人徴集は止めるべきだと思った高官がいたのでしょうか。高官が家持の集めた防人の歌を読んだかどうか定かではありません。。755年、家持は橘諸兄の息子の橘奈良麿の宅の宴に参席しています。宴席にいた左大臣に、家持が「防人の歌」を披露したのかもしれません。それから朝廷において議論され、その二年後に東国の防人は停止された、のかもしれません。

防人の歌は、現代の私たちにも理解できる歌です。親子の別れ、夫婦の別れは悲しいものですが、夫を亡くした母親を残して旅たつ息子や、妻を亡くした父親を残して行く息子や、母親を亡くした我が子を置いて行く兵士など、いずれも悲惨な別れです。生きて帰りたいと元気に帰って愛しい人に逢いたいという恋人たちも悲しいです。その悲しみを家持は理解したのです。

そして、何とか朝廷にも分かってほしいと思った、そう考えました。

貴方は、どう思いますか? 

この当たりのことを、9月6日に久留米でお話ししたいと思っています。

では、また。


令和二年、やっぱり万葉集を読もう

2020-08-03 22:48:08 | 82大伴家持、万葉集最終歌への道

八月になりました、もう四日ですね。今年の一月以来、半年以上ブログを休んでいました。

そろそろ動き出したいのですが、コロナの第二波が広がっていて身動きが取れませんでした。そんな中、熊本の球磨川流域が水害に襲われて、二十代に一年間住んだ人吉市の九日町が壊滅状態になりました。重く落ち着かない日を送っていたら、最上川が氾濫して夫の遠い親族が住んでいる山形が被害を受けました。流れる映像を見て、茫然と過ごす夏となりました。

この夏を耐えて過ごして居られる皆様に、お見舞い申し上げます。

今年はコロナ禍のなか、万葉集を読む会主催の「令和二年・万葉集を読む」(五回)は開けませんでした。更に、月に一回の筑紫古代史の会での講座「万葉集と古代史」も休止のままです。取材旅行にも今年の二月以来行けていませんし、忙しかったはずはないのですが、ブログはお休みしていました。

今年は九月六日に、久留米大学の公開講座で「杵島山と筑波山・風土記と万葉集から見える常陸の国」という演題で私がつたないお話をすることになっているのです。前年度にお話が決まったのですが、常陸国(茨城県)を訪ねて発見したことや感動したことがたくさんあったのでそんなことをお話したいと思って、受けさせていただきました。

常陸国風土記は大変意味深で、物部氏の勢力が浸透していたと思われます。茨城は豊かで美しい土地です。

2019年の台風で下総・上総国(千葉県)や常陸国(茨城県)に大きな被害がでました。この一年、私は遠い筑紫から復興を願っていました。

香取神宮は千葉県香取市に在ります。ここの御祭神は、経津主神です。

鹿島神宮は茨城県鹿島市にあります。建甕槌神が祭られています。

双方の神が協力して、出雲の神に国譲りをせまったのでした。写真はいずれも以前に撮ったものです。

それから、鹿島市には藤原鎌足の生誕の地という伝承もあります。其の神社をたずねました。

奈良県にも「鎌足の産湯の井戸」というところがあって、小さな社があります。

茨城も奈良もどちらも伝承地なのですが、こんな伝承が生まれたのは何故なのか、考えるのも楽しいです。

では、またブログを始めましょう。令和二年、やっぱり万葉集を読もう。

次は、大伴家持が巻二十に収載した「常陸国の防人の歌」を紹介しましょうね。

万葉集関係の本を出すことになりましたので、少し忙しくて、ブログを書く時間が取れない日があるかもしれません。

よろしくお願いします。


万葉集を編集させた平城天皇の歌

2020-01-01 09:55:19 | 81令和元年万葉集を読む

万葉集を編集させたのは平城(へいぜい)天皇です。桓武天皇が病に倒れた時、二十年前に除名されていた(家持は死亡して二十日も経っていたのに大伴氏の罪に連座して除名された)大伴家持の官位を復したのです。そして、万葉集を召し上げ、自分の近臣に選ばせ(編集させ)ました。

万葉集は日本最古の歌集として重要視されてはいますが、古今集が国文学の中でも重要な位置にあり、和歌史上の最高峰と考えてもいい、とも言われています。その評価は人によってさまざまだと思いますが。では、古今和歌集はどんな編集をしているのでしょうね。気になりますね。

勅撰和歌集は二十一集ありますが、古今集が勅撰集のさきがけです。万葉集は勅撰和歌集ではありません。
古今和歌集は紀貫之が醍醐天皇の勅で、長い年月をかけて精選し編集されたものです。それは、世に出た直後から世間の注目を浴び絶賛され、手本とされ、人々はこぞって暗唱しました。万葉集とは、まったく違うのです。
古今集で、「万葉集は平城天皇の御世に編集されたものだ」と紹介されています。
平城天皇の御製が90番歌です。

平城天皇こそ、大伴家持の官位を復し、万葉集を召し上げ侍臣に編集させた人、なのです。
平城天皇はどこどこまでも奈良の都を愛した方でしたね。都を平安京から平城京に戻すようにと要求し、譲位していたのに「薬子の変」まで起こして、嵯峨天皇と対立されました。御子の阿保(あぼ)親王は本来なら皇太子となったのでしょうが、平城天皇の敗北と出家により大宰府に左遷されたのです。阿保親王の子供たちは臣籍に下り在原という姓になったのです。在原行平・業平の兄弟です。

そこで面白いことに、在原元方の歌が「古今集」の冒頭歌なのです。なぜ、この人なのでしょうね。

貫之は何故この歌を選び、冒頭に持ってきたのでしょうね。
そこには、貫之の歌人としての教養と政治的な意図があったはずです。
考えてみると面白いですね。
令和二年、お正月を桜で飾りました。では、今年もよろしくお願いします。

 


大伴家持が詠んだ万葉集の最終歌、その前の一首の意味

2019-12-29 23:46:48 | 81令和元年万葉集を読む

天平文化が花開いた奈良時代。でも、政変が連続した厳しい時代でした。

「万葉集」は奈良時代の歌人である大伴家持が編集した、と言われています。
「万葉集」の最終歌は、4516番歌の「新(あらた)しき 年の初めの初春の今日降る雪の いやしけ吉事」ですね。
とても爽やかな新年の喜びと期待感に満たされる歌です。
この歌を詠んだのは、大伴家持でした。因幡守として国郡司を饗応する宴席で詠んだ歌です。彼がどんな思いでこの歌を詠んだのか、この歌から読み解ける歴史の一端を知りたくなりますね。
この歌が詠まれた時代を考えるために、ひとつ前の歌・4515番歌を読んでみましょう。同じ大伴家持の作歌です。
4516 秋風の 末吹き靡く 萩の花 ともにかざさず 相か別れむ
天平宝字二年(758)七月に詠まれた歌ですが、なんだか非常に寂しい歌です。
題には『七月の五日に、治部少輔(じぶのしょうふ)大原今城真人(おほはらのいまきのまひと)の宅(いへ)にして、因幡守(いなばのかみ)大伴宿禰家持を餞(せん)する宴の歌一首』とあります。七月は旧暦ではすでに初秋でした。
大原今城真人という人が、因幡守となって赴任する大伴家持のために別れの宴を開いてくれたのでした。その心尽くしに対して詠まれたのが4515番歌なのです。


4515 秋の風が 萩の枝の先の葉まで靡かせて吹いている。この萩の花を髪に挿して宴を楽しむことのないままで、お互いに別れ別れとなっていくのだ。(別れとはつらいものだ)
家持は「相か別れむ!」と言い切りました。寂しさが切々と伝わります。万葉集のなかで「相か別れむ」という表現は、この家持の歌、4515番歌のみだそうです。
なぜ、家持はこんなに寂しい歌を詠んだのでしょう。
家持は大伴氏の御曹司、大手門を守る大伴氏という古代豪族の末裔、その家持に何があったのでしょう。
ちょうど一年前の七月、その事件はありました。大伴氏には大変な試練の時でした。家持は親しい人々や一族の有力者や大の親友を亡くしました。「橘奈良麿の謀反の発覚」事件です。
この大事件に遭遇するまでの大伴家持の半生を振り返ってみましょうか。

家持は物心ついたときには、父の大伴旅人のもとで英才教育を受けていました。
弟の書持とも仲良く育ちました。父の旅人が大宰帥となって九州に赴任した時も、旅人の「長屋王の変」(729年、左大臣の長屋王一家が無実の罪で命を落とした事件)への対応も、目撃しました。旅人が天平三年(731年)に没した後、十代の家持の肩には大伴氏がのしかかってきたのです。
天平十年(738)の諸兄の旧宅での橘奈良麿の宴の時は、家持は内舎人(うどねり)でした。
天平十二年(740)藤原広嗣が乱を起こすと、聖武天皇について伊勢・不破・恭仁京・信楽京と聖武天皇とともに関の東を五年間も移動し続けました。
天平十六年(744)、献身的に仕えた聖武天皇の息子の安積親王の突然死、家持は内舎人として仕えていましたからうちのめされました。
そして、失意のうちに越中守として赴任している時、弟の書持(文持)の薨去を知ります。
更に打ちのめされた家持は病に倒れました。越中守時代に家持の心の支えとなったのが、大伴池主でした。池主と家持は深い友情で結ばれたのでした。


しかし、聖武天皇が娘の阿倍内親王に譲位したあと、皇位継承の問題がくすぶり始めます。孝謙天皇は独身でしたので、次の皇太子が誰になるのか、大変な火種が残されたのです。
大伴氏も藤原氏も他の豪族も、次の政権をにらんで水面下で暗躍していたでしょう。それが、ついに表面化し藤原氏の反対勢力が一掃される事件が起こりました。
天平勝宝九年(757) 橘奈良麿の謀反発覚事件
何故か、家持はその事件に巻き込まれなくて済みました。それまで親しくしていた人々から距離を取っていたのです。しかし、親友だった大伴池主は事件に巻き込まれて命を落としました。池主の死を知った家持はどんな思いを抱いたでしょう。
自分が苦しい時を支えてくれた池主を死なせてしまったのです。心穏やかではなかったでしょう。

大伴池主、彼が無念の最期を遂げた一年後の七月、いろいろ思い出したでしょうから家持が宴を楽しんだはずはありません。餞する宴の歌は4515番歌以外の歌は掲載はありません。この一首のみが最終歌の前に置かれています。当然、にぎやかに餞別の会などしなかったのです。
私はそう思いますし、そう解釈ました。

なぜ、家持は難局を乗り越えることができたのか。
不思議ですが、誰かが情報を漏らして家持を救ったのです。それは、誰なのか。
答えは万葉集の中にあるはずです。

4516番歌のひとつ前の歌「秋風の末吹き靡く萩の花‥」を家持が詠んだ場所『大原今城真人の宅』がヒントです。
私は、大原今城真人が大伴の氏の継続のために、藤原氏側の情報を家持に漏らしたのだと思います。彼は大伴氏をつぶしてはならないと考えた。そのために、家持を救おうと決めたのです。
だって、大原今城真人の母は「大伴女郎」なのです。大伴氏ゆかりの女性なのです。彼が大伴を断絶してはならないと考えたなら、それは自然です。

大原今城真人はどんな人物だったのか、家持を助けたとしたら其のことを咎められなかったのか、気になりますね。

彼の話は、また今度。

今日は、4515番歌が語ってくれた歴史の一コマです。

橘奈良麿たち反藤原勢力が一網打尽に捕らえらることを知った大原今城は、家持に自重と奈良麿たちとの交流を断つように助言した。その助言を入れた家持は胸中穏やかではなかったが、大伴の氏を断絶しないために苦渋の選択をした。

謀反発覚という大事件は誰にも止められず、443人もの人が刑に処された。大伴氏からも多くの処分者を出したので、罪を問われなかった家持も因幡国へ左遷となった。その家持を激励する選別の宴が大原今城真人の宅で開かれた。ちょうど、大伴池主らが獄中死した七月のほぼ同日である。家持は涙にくれたが、大原今城に対して別れの歌を詠んだ。

上のような状況で家持が詠んだ歌が4515番歌なのです。

4516 秋風の 末吹き靡く 萩の花 ともにかざさず 相か別れむ 

では、また。


万葉集の最終歌を詠んだ大伴宿禰家持

2019-12-26 23:15:08 | 81令和元年万葉集を読む

4516 新 年乃始乃 波都波流能 家布弗流由伎能 伊夜之家餘其騰
     あらたしき 年の初めの 初春の 今日降る雪の いやしけ吉事
この歌を詠んだのは、万葉集の編集者とみなされている大伴宿禰家持です。
天平宝字三年(759)正月一日、家持は「新しき年の初めの」の歌を因幡国の国庁に国郡司らを招いた宴で詠みました。前年、天平宝字二年六月、家持は因幡守に任じられ、七月に親しい者による別れの宴を済ませ、ほどなく家持は任地に赴いていたのです。


そして、正月一日の宴。この年は、正月一日と立春が重なった年でした。その年の宴歌です。
 新しい年の初めの一日が 立春に重なった今日、このめでたい日に降る雪よ どんどん降り積もれ。 吉いことが積み重なるように この国の弥栄をことほぐように 降り積もれ 

凛と引き締まった寿歌です。国土と人々の幸せを願い、新年を寿ぐ思いが込められています。
しかし、こんな寿歌を詠んだ家持は、この時非常に寂しく辛い状況でした。
因幡守として国郡司を饗応した家持でしたが、彼の因幡守任命はいわゆる左遷でした。

家持が因幡守に任じられた一年前の天平勝宝九年(757)橘奈良麿の謀反事件がありました。そこで、反藤原勢力は一掃されていました。


橘奈良麿の父の左大臣橘諸兄の館に聖武太上天皇に従がして訪問したこともある家持だったのに、「奈良麿の謀反」に何故か巻き込まれなかったのでした。家持は443人もの処分者を出した政変を生き残ったのです。それは、彼を死なせてはならないと密かに情報を伝えた人物がいたということでしょう。だから、家持は橘諸兄たちから遠ざかり命をつないだのです。

しかし、藤原氏としては名門豪族大伴氏を率いる家持を野放しにするわけにはいきません。
家持が左遷されたのは、古代からの名門豪族である大伴氏が藤原氏にとって危険な存在だったからです。七月、藤原仲麻呂は抜かりなく家持を因幡国に遠ざけ、八月には孝謙天皇の譲位、息のかかった大炊王(淳仁天皇)に即位させました。

政変の度に、藤原氏によってターゲットの動向は監視され、事が起きた時には逃げ道はないのです。
橘奈良麿の謀反事件でも「反藤原氏勢力を一網打尽」計画は準備万端でした。

天平勝宝九年の橘奈良麿の変は、計画通りに事が進行しました。
発端は、聖武天皇の遺詔により「道祖王ふなどおう」が皇太子指名されていたことです。天武天皇の皇子である新田部親王の王子に皇位が移るのです。それが聖武天皇の遺言でした。孝謙女帝は独身でしたから、当然だれかに皇位継承されるのですが、藤原氏としては道祖王(ふなどおう)では納得いかなかったのでした。彼は天武系の王子です。

 

聖武天皇崩御(756年5月)の半年後の天平勝宝八年(757年1月)、左大臣を辞していた橘諸兄を死に至らしめ(おそらく殺害されたと思います)、その同年(757)7月に「橘奈良麿の変」を実行しました。
そうとしか考えられません。藤原氏がかかわる政治的な出来事は、ほとんど半年前から準備され確実に実行されています。それも、ことごとく「半年後の法則」(私が命名したのですが)に当てはまります。
757年7月、奈良麿の謀反は、大伴家持とも親しく交流していた山背王(長屋王の子)によって密告されました。それまで反藤原仲麻呂派だった山背王が、なぜか仲間を裏切り藤原氏に密告したのです。内部事情を知り尽くした王の密告です。そして、同母の兄をはじめ443人もの人が刑に処せられました。同母の兄の安宿王はその妻子とともに佐渡に流罪でした(宝亀四年・773年には、高階真人の姓を賜り、臣下に下る)。しかし、同母の兄の黄文王は皇位継承者候補とされていたために獄中で杖に打たれ絶命しています。
家持はこの危険な網を逃れました。家持の大切な人々は、歌を交換し合った友である大伴池主も、大伴氏の期待の星だった大伴古麻呂も、道祖王も名だたる官人も獄中の拷問で絶命したのでした。
何もできなかった家持は無念でした。

家持の主人だった藤原仲麻呂(恵美押勝)が、大伴家持の本心を見抜かないはずはありません。家持が大伴氏を断絶しないために不本意な選択をしたことに気が付いていたはずです。ですから、橘奈良麿の変(757年7月)のちょうど一年後に、因幡国に左遷したのです。家持が都を去ると、八月にさっさと淳仁天皇(大炊王)を即位させました。
時代の流れと一族の受難を密かにかみしめて家持は因幡国で年末を迎え、そして新年を迎えたのです。
そこで、大伴家持は新年を寿ぐ歌を詠み、それを万葉集の最終歌としたのです。
どんなにつらいことがあっても、家持が寿歌を詠み切ったのはなぜか。それは、彼が初期万葉集の編集に倣い合わせたからです。
柿本人麻呂によって編纂された「初期万葉集」では「寿歌をもって最終歌としていた」からです。
だから、家持も渾身の力を注いで最終歌を詠んだのでした。


天平二年正月の梅花の宴で、大伴旅人は長屋王を偲んだ

2019-08-19 15:24:44 | 81令和元年万葉集を読む

お盆が過ぎると涼しくなると、昔の人は言いました。しかし、最近はそれが通じません。9月まで暑いのです。さて、まだ暑さの厳しい時期ですが、阿蘇はさすがに8月後半から風が変わり、さわやかな風が吹くようになります。8月28日もそんな風が吹きますように。

8月の歴史カフェは、万葉集の巻五の「梅花の宴」について考えます。

天平二年の正月に、大伴旅人はどんな思いで正月儀式を行ったのか。その時代背景と旅人の置かれた状況から「梅花の宴」を深読みします。

大宰帥・大弐・少弐・国司から無官の者までが一同に会して「梅歌」を詠むなど、前代未聞の出来事でした。その行事は、旅人の思い付きだったのか、筑紫の伝統行事だったのか、宴の目的は何だったのか、ここが重要なのです。

当時、大伴旅人には都の藤原氏から秘密裏に三人の監視人が付けられていました。旅人は気が付いていたのでしょうか。筑前守・山上憶良と、少弐・小野老と、造観世音寺別当・沙弥満誓の三人です。三人共に稀代の知識人で教養がありました。だから、大伴旅人の傍に近づけたのです。

大伴旅人は都の高級官僚ですから、少々の文化人では傍にも寄れないのです。

筑前守山上憶良は、無官のまま遣唐使として唐に渡りその才能を発揮し、帰国後は役人として都で活躍し、716年から伯耆守、721年退朝後は「東宮」に仕え、皇太子(聖武天皇)の教育係の一人になりました。聖武は724年に即位し、憶良の仕事は終わっていた…のです。

なのに、既に高齢の老人だった憶良が726年に筑前守となったのです。

何処か変…おかしいでしょう! 退朝した高齢者を九州に遣るなんて。

憶良は733年に74才で没していますから、大宰府に来たときは、68歳くらいの老人です。棺桶に片足突っ込んだ人をはるばる筑紫に遣りますか? 藤原氏としては、憶良以外に大伴旅人をうならせる人物はいないと、踏んだのです。

憶良は皇太子の教育係までした人物ですから、そのころの聖武天皇の立場は熟知しています。その頃の聖武天皇には、後継者となる男子がいませんでした。そうなると、元明天皇によって「皇孫」と立場を引き上げられた長屋王の子ども達が皇位に着きかねません。

ゆゆしき事態、やむにやまれぬ状況だと憶良は諭されたでしょう。ですから、老体に鞭打って、必死の覚悟で彼は九州に来たのでした。旅人に面会した時は70歳になっていたでしょうか。

藤原氏としては、時の権力者・左大臣長屋王に死んでもらう予定だったのです。旅人は大宰府に遣る、都に残った弟の大伴少奈麿にも死んでもらう、そうして長屋王を陥れ、その4人の男子(吉備内親王の子ども達)を断絶する、その計画は実行されました。

梅花の宴は、大宰府に遣られた大伴旅人が天平二年正月十三日に開いた宴です。大伴旅人は自分の立場や政治的状況を理解できなかったのでしょうか。そんなことはありますまい。

 

何もかも分かっていて、その上で何もできない自分を嘆いたでしょう。そして、下心丸出しで近づいてきた山上憶良と親しくなったのです。

憶良も同じです。立場は違っても両者は稀代の文化人です。大伴旅人は、古代大伴氏の血統をつなぐサラブレットでした。その文化力と教養に憶良としても感銘したはずです。

憶良は漢文の知識を駆使し漢詩を作り、和歌を詠み長歌を作歌しては旅人に献じました。それらが多く残されたのが、万葉集巻五です。

巻五の詩歌には二人のやり取り、憶良のその重厚な手練手管が見え隠れしています。70歳の老人の決意と執念、悲しい限りです。憶良が大宰府に在った時、すでに家族のすべてを失っていました。その人が、聖武天皇のために命を捧げたのです。

70歳の憶良の妻も児もこの世の人ではなかった…彼は孤独な老人だったと分かって、巻五に残された憶良の歌を読むと世間の無常が胸を突くのです。

803 銀(しろがね)も金(くがね)も玉も何せむに まされる宝 子にしかめやも

905 若ければ道ゆき知らじ まひはせむ 下への使ひ 負いて通らせ

瓜を食べても、栗を食べていても思うのは亡くした子のことなのでしょうか。どんな宝より子に勝る者はないとは、憶良の心の叫びでした。905番歌は、亡くした我が子・古日を恋う長歌に続く短歌です。「吾が子古日は幼くして死んだので、あの世への道は分からないだろう。黄泉の国へ連れて行く使いよ、どうか背負って行ってくれまいか」というのです。

こんな詩歌を読ませられて、旅人の心が動かないはずはないでしょう。

弟の少奈麻呂の為にも、長屋王家の為にもどれだけ無念の涙を流したか、その旅人ですから。

 

太宰府で大野山を眺めて、二人はどんな話をしたのでしょうね。

8月28日の14時にお会いすることができますように。

場所は、熊本県阿蘇郡西原村小森1805-1です。平田庵というソバ屋さんのとなりの民家です。

では、また。

 


壬申の乱に勝利した高市皇子の悲劇・歴史カフェ阿蘇

2019-07-19 13:31:09 | 81令和元年万葉集を読む

壬申の乱を勝利に導いた高市皇子の悲劇・歴史カフェ阿蘇

熊本県阿蘇郡西原村での歴史カフェは、7回目となります。今年は万葉集のお話です。7月31日(水)のテーマは「壬申の乱を勝利に導いた高市皇子の悲劇」となっています。

                     

壬申の乱は、大海人皇子(天武天皇)の周到な計画のもとに起きた内乱でした。天武は東国の兵を召集していました。ですから、吉野を脱出して不破ノ関辺りのワザミが原の仮宮にいて、動きませんでした。天武の代わりに軍を率いて活躍したのが、高市皇子です。万葉集の「高市皇子の挽歌」にはそのように書かれています。

この内乱の大義名分は、当時の社会に受け入れられたのでしょうか。

この後の天武朝の皇位継承に関する事件を見ると、壬申の乱には矛盾と無理があったようです。天武天皇の皇統はことごとく政変に巻き込まれ命を落としていくのですから。

ですから、高市皇子は天武天皇の長子として生涯苦労しました。

壬申の乱後、高市皇子は天智天皇の皇女を二人、妃に迎えました。
天武帝に愛された大津皇子には天智の皇女は一人、山部皇女だけです。
皇太子だった草壁皇子にも天智の皇女は一人、阿閇皇女だけです。
滅ぼした王朝の皇女たちは天智天皇の血統ですから、他の有力者に渡すことはしません。天武天皇自身も天智天皇の皇女を四人も召し入れているのです。(大田皇女・鵜野皇女・新田部皇女・大江皇女の四人です。それぞれの皇女が皇子を生みました。)
ですから、高市皇子が天智天皇の皇女を二人も妃に迎えたのは特別です。御名部皇女と但馬皇女です。こともあろうに、但馬皇女は穂積皇子に恋して、高市皇子を裏切ります。
穂積皇子に惹かれる歌や密かに会いに行った歌が万葉集に遺されていますから、周囲の者はみんな知っていたのです。

その上に、高市皇子は近江軍の総大将だった大友皇子の妃(十市皇女)を引き受けさせられました。十市皇女は大海人皇子(天武天皇)と額田王との間に生まれた長女でした。
母の額田王と共に近江に下り、大友皇子の妃となって王子も生んでいました。
高市皇子は、そんな義理の姉を引きうけたのでした。十市皇女も高市皇子もいろいろ思うところがあったでしょうし、うまく収まるはずはありません。
やはり、事は起こりました。
十市皇女が宮中で突然死したのです。たぶん、自死だと思います。
天武天皇は斎宮での儀式を取りやめ、急ぎ戻ります。父にもショックだったでしょう。

さて、壬申の乱後、高市皇子は藤原宮を造営しました。彼はそのころ何処に住み、どんな暮らしをしたのでしょう。そして、死後、何処に埋葬されたのでしょう。
その飾り立てられた遺体は、明日香のメインストリートを通り城上の陵に埋葬されたのです。
万葉集で一番長い挽歌を柿本人麻呂に献じられた高市皇子は、どんな人だったのでしょう。

では、七月三一日(水)西原村でお会いできればうれしいです。

会場は、熊本県阿蘇郡西原村小森1805です。「平田庵」の駐車場が開いています。水曜は、平田庵はお休みです。会場は平田庵駐車場に隣接しています。
宜しくお願いします。

お知らせでした。

 


万葉集巻九の冒頭歌は雄略天皇・そこに詠まれた鹿の運命

2019-05-28 10:15:14 | 3持統天皇の紀伊国行幸

万葉集は謎が多いと云われます。それは、現在時間で読むからです。もともと「初期万葉集には秘密も謎もなかった」のです。

                     a0237545_23291520.jpg今日、令和元年5月28日(火)のことです。
筑紫古代文化研究会の講座(福岡市中央区天神・光ビル)で「万葉集巻九・紀伊国十三首」のお話をします。
 まず、「有間皇子とは」から話し始めて、紀伊国十三首までたどり着きます。
 
 
巻九の冒頭歌は、雄略天皇の歌です。
 

万葉集巻第九 「雑歌」
     泊瀬朝倉宮御宇大泊瀬幼武天皇御製歌一首

1664 暮去者 小椋山尓 臥鹿之 今夜者不鳴 寝家良霜
    ゆふされば おぐらのやまに ふすしかは こよいはなかず いねにけらしも
泊瀬朝倉宮天皇とは、雄略天皇のことです。

雄略天皇御製歌が万葉集の巻の冒頭に置かれているのは、巻一と巻九なのです。
然も、そこに掲載された大きな意味もあるのです。

夕されば(夕方が去って夜になって)
小椋の山に臥す鹿は(小椋の山で臥している鹿は)
今夜は鳴かず(どうしたことか、毎晩のように鳴いていたのに今夜は鳴かないなあ)
いねにけらしも(寝てしまったのだろうな)
この歌は、いかにも意味深です。鹿は臥しています。では、既に寝ているのです。この詠み手は「鹿は臥している」と知っていて、「今宵は鳴かず」と云っていますから、「もう臥しているから今夜は鳴かないのだな。もう寝てしまったのかな」となって、なんだか歯がかみ合いません

よく似た歌が、万葉集巻八の「秋雑歌」の冒頭に在ります。
  巻八  「秋雑歌」
      岡本天皇御製歌一首(舒明天皇)
1511 ゆうされば小倉の山に鳴く鹿は今夜は鳴かずいねにけらしも

こちらであれば、「いつもなら夜になったら小倉の山に住む鹿が鳴くのだが、今夜はなかないが寝てしまったのだろうか」と自然に意味が流れます。

しかし、そうであっても巻九(1664)も巻八(1511)も、なぜ鹿が鳴かなかったのか分かりません。何時もなら鳴いている鹿が鳴かない。
二人の天皇が鳴かない鹿を思っている、そこに共通するのは何でしょう。それは、「鹿の死」なのです。鳴かない鹿は、「死んでいた」のです。

万葉集には鹿を詠んだ歌が五十五首ぐらいはあります。
其のほとんどが、妻を呼ぶ牡鹿の鳴き声です。

 
a0237545_01135397.png
そして、万葉集時代の人々は、鹿が鳴かないわけを知っていました。
 秋の牡鹿が妻を呼んで鳴いているその声が聞こえない。
 その声が聞こえないのは、牡鹿に異変があったからにほかなりません。
 二人の天皇の歌は、鹿の身に起こった異変・事件を暗示しているのです。
 その事件こそが、有間皇子謀反事件でした。 こんなお話を交えて、紀伊国行幸で詠まれた有間皇子所縁の地を辿ります。
 

巻八の冒頭歌は、志貴皇子のあの有名な歌です。
  巻八  「春雑歌」
      志貴皇子よろこびの御歌一首
1418 石ばしる 垂水の上のさわらびの もえいづる春になりにけるかも

万葉集は何処を読んでも面白い。初期万葉集が編纂された時、秘密や謎はなかったのです。
全てきちんと書かれていた。
しかし、元明天皇には都合が悪かったのです。だから、人麻呂は断罪された。

そのうち、お話しましょうね。
 

大伴卿の最後の日、初期万葉集が家持の手に渡る

2019-04-15 23:13:41 | 80天平二年正月の梅花の宴と大宰府

大伴卿の最後の日・初期万葉集が家持に渡る

大納言大伴旅人は、天平三年七月に没しました。
大宰府を離れたのは、天平二年の十二月でしたから、自宅に帰って半年後に薨去となったのでした。
万葉集には旅人の最後の歌が残されています。

三年辛未(かのとひつじ)に、大納言大伴卿、寧楽の家に在りて、故郷を思ふ歌二首
969 しましくも行きて見てしか神なびの淵は浅せにて瀬にかなるらむ
970 さすすみの来栖(くるす)の小野の萩の花散らむ時にし行て手向けむ


天平三年の秋七月二十五日、旅人は永眠しました。六十七才だったようです。
萩の花が詠まれていますから、詠歌の時は秋であり、病床にあったのでしょう。自分が生まれ育った故郷・明日香を懐かしんで詠んだものです。故郷の飛鳥の川の淵は、浅くなって瀬になっているのでなないだろうか、と。
あの懐かしい小野の萩の花を手向けたいものだと、旅人は詠んだのでした。


巻三には
「天平三年辛未秋七月大納言大伴卿薨の時歌六首」があります。余明軍の五首と県犬養宿祢人上の一首です。
454 はしきやし栄えし君の居ましせば 昨日も今日も吾を召さましを
455 かくのみにありけるものを萩の花咲てありやと問ひし君はも
456 君に恋 痛(いた)もすべなみ蘆鶴(あしたづ)の ねのみし泣かゆ朝夕にして
457 遠長く仕へむものと思へりし君にしまさねば こころどもなし
458 みどり子のはひたもとほり朝夕(あさよい)に ねのみぞ吾泣く君なしにして
 
459 見れどあかず居ましし君が紅葉(もみじば)の 移りいゆけば悲しくもあるか


旅人の薨去は、息子の家持にとって将に人生を変える出来事・大事件でした。父の永眠と共に「初期万葉集」が家持の手に渡りそれを読み理解し守る役目が回ってきたのですから。

 

 

そもそも、万葉集は持統天皇の詔勅により柿本人麻呂が編纂編集したものだと、紹介してきました。孫の文武天皇に「皇統の正統性と歴史を伝えるための教科書」として、持統天皇が作らせたものであると。
それが持統天皇の遺詔となり、人麻呂は主人の思いに応えようと努力したのでした。
しかし、文武帝に進呈する前に、当の帝の崩御となったのです。

人麻呂は母の元明天皇に献上しましたが、それが元明天皇の逆鱗に触れたのでした。万葉集には皇統の真実が記されていましたから、元明天皇には許しがたい内容でした。
天智天皇の娘として、草壁皇子の妃として、文武天皇の母として極位には着きましたが、天武天皇の皇子皇女があまた存在する中での即位でしたので、何かと臣下の動きが気になっていた時期でもあったのです。

どこかに不安を抱えていた元明天皇。そこで、御名部皇女が支えます。
周囲も二人の堅い結びつきを疑いませんでした。

 

天武朝と元明天皇を支え助けたのが、姉の御名部皇女です。御名部皇女は高市皇子の妃、薨去していたとはいえ太政大臣であった高市皇子の正室なのです。高市皇子は天武天皇の長子で、財力権力を掌握していた人でした。その絶大な財力も大きな支えとなったでしょう。

しかし、二人がこの世を去ると皇位を巡って政変が続きました。

待っていたように政変が続いたのでした。 

そうして、天武朝の皇統は消えていきました。
それが万葉集の時代です。その時代を目撃したのが、大伴家持。

                       

こんな万葉集のお話をしようと計画しました。「令和元年・万葉集を読む」

会場は、熊本県西原村・萌の里の近く、平田庵の隣です。昨年の「歴史カフェ・聖徳太子の謎」と同じ場所です。

 

万葉集は、何処を読んでも面白いです。

平日ですが、よろしかったら、どうぞ。

 


新元号「令和」は、万葉集の梅花の宴の序文から

2019-04-01 19:38:29 | 80天平二年正月の梅花の宴と大宰府

「梅花の宴」の歌を紹介をしますと書いてから、もう何週間たったでしょう。

今日、5月に改元される新年号が発表されました。出典は万葉集の梅花の宴の序文、ということでした。

それは、読み下し分にすると、次のような文章です。

集英社の「万葉集釋注」(伊藤博)の訳文を紹介します。

今日は新元号の発表日。選ばれたのは『令和』。

万葉集を世に出された平城天皇の業績に深く感謝したくなりました。

延暦二十五年(806)、平城天皇は、即位するとすぐに、大伴家持(すでに20年前に死亡)の官位を復し「万葉集」を召し上げられました。それまで、大伴家持は藤原種継暗殺事件に連座して官位を剥奪されていました。万葉集も大伴氏と共に廃されていたのでしょう。


平城天皇は即位前から万葉集を知り、そこに書かれている内容を、十分に理解されていたのです。だからこそ、侍臣に編集させ「万葉集」を世に出されたのです。万葉集を埋もれさせてはいけないという意思がおありでした。

やがて、平城上皇となって「奈良の都に戻ること」を強く提唱し、譲位した弟の嵯峨天皇と対立されました。
自ら譲位していたにも関わらず、奈良遷都を強行しようとされたのを、誰もが不思議に思ったでしょう。

平城天皇の奈良の都への深い思いは、万葉集と無縁ではありません。万葉集の内容を読み解いたからこそ「奈良遷都」に固執されたのです。『奈良の都へ還るべきだ』と強く思われたのでした。

平城天皇を動かした万葉集とは何だったのか、それは大きな万葉集を解く鍵です。

万葉集には、皇統の正統性とその歴史が歌物語として編集されていました。
編集を命じたのは持統天皇、編纂者は柿本人麻呂を中心とした歌人・学者でしょう。
しかし、そこに書かれた史的な内容はインパクトが大きく、時の元明天皇(草壁皇子の妃・文武天皇の母)の逆鱗に触れ人麻呂の刑死となりました。そうして、宙に浮いた万葉集は、大伴氏の手に渡り守られて来ました。全てを承知して、大伴氏が元「万葉集」を引き受け、保麿・旅人・家持と受け継がれていたのです。

その流れをすべて承知していた平城天皇は、即位後に万葉集を大伴氏から召し上げ、世間に出せるように編集しなおし改竄されたのだと思います。

やがて譲位して上皇となっても奈良の都への回帰願望は日増しに大きくなり、遂に終始が付かなくなりました。しかし、嵯峨天皇の方が早く兵を動かしたので「薬子の変」と呼ばれる平城上皇の変は失敗に終わり、上皇は出家されました。万葉集はふたたび人々の目から遠のきましたが、その歌の力は人々の心に残っていきました。



「曰く付きの歌集」を召し上げた平城天皇は、何に気づき、どんな思いを抱かれたのでしょう。それは、平城天皇の元号で想像することができます。それが「大同」です。

大同…意味深な元号です。「前王朝も現王朝も本当は変わりはないのだと、根は同じなのだ」というメッセージ・意味です。
父の桓武天皇は、天武朝から天智朝の皇統に皇位が戻ったことを「易姓革命」だとされました。
しかし、その長子である平城天皇は、「大いに同じ」だと元号を定めたのです。
それは、万葉集を既に知っていたための元号の選択だったと思います。

失意のうちに世を去った平城天皇の無念、それが今日は晴れたと思います。

万葉集「梅花の宴」の序文から新元号の『令』と『和』が選ばれたからです。是から万葉集の姿が明らかにされていくでしょう。万葉集に掲載されていたのは、王朝の歴史歌であり、その正当性と弥栄を願う詩歌です。天智朝も天武朝も違って見えているが同じなのだ、それが皇統の歴史だったのだと、気が付かれた平城天皇の大きな業績が評価されると、私は思います。(さて、何処が同じだったのか、これからは書こうとは思っていますが。)
 
大伴旅人も万葉集を理解し、晩年になって歌に目覚めました。息子の家持は、父と柿本人麻呂と山上憶良を敬愛し、初期「万葉集を」守りました。後に付け加えたのは、万葉集の編集方針に倣った後期『万葉集」です。

平城天皇は「後期万葉集」にはあまり編集の手を入れておられません。その必要がほとんどなかったのです。  



さて。
梅花の宴は、天平二年(730)の正月に、大伴旅人の館で行われた宴ですが、形式は「古王朝の正月儀式」だったと思います。旅人は大宰府に来て、古王朝の正月儀式を知り、再現したのです。

前年の神亀六年(729)、長屋王の変(二月)があり、長屋王家に悲劇が訪れ、半年後に改元(八月)されて『天平』となりました。天平とは「謀反者を滅し、世を平らげた」という意味なのです。天平二年は、改元後の初めての正月です。そこで、行われた梅花の宴。

梅花の宴はただの遊びではありません。尊敬していた天武朝の高市皇子の跡継ぎである長屋王家の悲劇を胸にしながら、九州にあった古王朝の正月儀式を大伴旅人が再現したのです。
そこには、長屋王へ深い追悼の思いがあったはずです。

「梅花の宴」は、正月に、役人のトップから無官の者までが集まって「王朝の寿ぎの歌を詠む」という前代未聞の正月儀式でした。その頃の都にはない儀式形式だったのです。人々は驚き、その宴を称賛し、息子の家持(やかもち)も書持(ふみもち)も長く誇りにしていました。

「令和」の世の弥栄を心から願っています。

 


大伴旅人の友人だった山上憶良とは何者か

2019-02-22 13:26:52 | 79山上憶良の歌がささやく古代の姿

前回「志賀白水郎の歌十首」について紹介しましたが、この十首は山上憶良の作歌、もしくは憶良が手を入れた歌が数首ある、というのが多くの学者の説でもあります。志賀の海人には歌は詠めないという前提に立っての説でしょうか。しかし、十首の内容や言葉使いから見ると十分に率直で素朴ですから、志賀島の海人の作と考えていいと思います。

ところで、山上憶良が「志賀白水郎の歌」に関わったとされる理由は、なにより彼が筑前の守として大宰府に来ていたからです。その関係で志賀の荒雄の遭難を知り、社会派歌人として関心を持ち歌を詠んだのではないか、と思われたのでした。やがて七十歳にもなろうかという老人がなぜ筑前守として九州に来たのでしょう。憶良でなければならなかった政治的理由があるのでしょうか。

実は、憶良が九州に来たのは、その教養を生かした極秘任務があったからなのです。

山上憶良が認められたのは初老を過ぎた頃でしたが、なかなか面白い人物です。

山上憶良は大宝元年(701)に四〇歳すぎて遣唐使として海を渡りますが、無位無官です。しかし、その才能が認められて、和銅七年(714)には従五位下になり、霊亀五年(716)に伯耆守になりますが、既に六〇歳近くになっていました。退朝後に東宮(皇太子・後の聖武天皇)の教育係にえらばれていますから、藤原氏の目にも好ましかったのです。

驚いたことに、やがて七〇歳になろうかという山上憶良は、筑前守に任じられました。なぜでしょう。来るべき大事の前に、大伴旅人の監視役として前もって憶良を筑前守にしておいたというのです。

 大伴旅人が太宰帥として九州に来たのは、神亀四年の暮れか、神亀五年(728)のはじめと云われていますが、彼が九州に来たのはこの時が最初ではありません。
元正天皇の養老四年(720)三月には、「征隼人持節大将軍」として九州に来ています。隼人が反乱を起こしたのです。(この時、兵隊だけでなく神官も宇佐の神も総動員して隼人討伐に動員されますから、当時の戦いに呪詛力は必要だったのです。)
同じ養老四年八月に、右大臣藤原不比等が没しました。それで旅人は都に呼び戻されます。それは、大伴氏から鎌足の母が出ていますし、大伴坂上郎女が穂積皇子(母は藤原氏)に嫁していましたから氏として姻戚関係にもあった為の召喚なのでしょうが、それより行政のトップ藤原不比等の死亡に対して不穏な動きが起こらないように呼び戻されたと思います。旅人は武人のトップでしたから兵を動かせたし、都の平安の為に必要でした。
ですから、神亀四年の暮に武人のトップである中納言大伴旅人を太宰帥として下向させたとは、どこか不自然でした。(または、神亀五年のはじめに大宰府へ下向)
神亀五年はじめ、大宰府帥となっていた中納言・大伴旅人は妻の大伴郎女(大伴坂上郎女ではない)を亡くしました。たぶん無理な大宰府への旅がこたえたのでしょう。大宰府まで同行した妻の死、遠い都で弟が死亡したという知らせ、旅人は愕然としました。
そんな旅人に異常接近したのが、山上憶良でした。
憶良は、旅人に代わって「大伴郎女の挽歌」を詠み、国司として大宰府の歴史や文化を伝えたり、あまたの長歌や紀行文や詩文を献じたりしました。憶良の教示のおかげで、旅人の知見は広がり歌は急激に変化しています。
それにしても、職を辞した後に皇太子(後の聖武天皇)の教育係でもあった山上憶良が、筑前国国司として大宰府に来ていたのは、大伴旅人の動向を見張るためだったという説がありますが、そうかもしれません。憶良の旅人に対する奉仕の度合はまるでゴマスリ・忖度にしか見えませんから、そこに何らかの下心があったとも考えられます。
(私は、旅人の監視役だったのは小野老、「青丹よし奈良の都は咲く花のにおへるがごと今盛なり」と詠んだ小野老も入る思っているのですが。)

そして、神亀六年(729)二月、長屋王の変が起こりました。
長屋王は左大臣、当代随一の権力と経済を握っていたでしょう。当然、藤原四兄弟とは意見の対立がありました。そこに火種があったことを旅人は承知していました。
もともと藤原氏は天智天皇によって引き上げられて氏族でした。壬申の乱で後退したものの、藤原不比等によって文武・元明・元正朝において力をつけていました。養老元年(717)不比等は『議政官」として朝議に参加できる者は各氏族より一名』という原則を破り、息子の房前を参議に加えていました。その批判をかわすためでしょうか、養老二年に長屋王が大納言、大伴旅人が中納言として議政官に加えられました。そのあたりの事情を旅人は十分に知っていました。

長屋王の変は、当時の人々が大いに驚いた大事件でした。都には「長屋王事件」に対する同情と哀悼が混じりあった噂話があふれ、混乱を極めていました。流言飛語を止めようとする勅も出されたほどです。しかし、混乱と人々の同情は収まりませんでした。
都からの親族の便りもあるし、太宰帥として旅人は成り行きを把握していました。

長屋王賜死の理不尽を旅人が憤らなかったはずは有りません。彼は激怒し慟哭し悲嘆にくれたことでしょう。しかし、大宰府に送られた官人の中に都の藤原氏と直結している者がいるのです。義憤や同情など表に出してはなりません。
どうしても都に帰らねばならないから下手なことは出来ないと、旅人は思ったことでしょう。そんな旅人の所へ山上憶良は度々通い、紀行文や筑紫の物語、自作の歌を献じ続けました。旅人も慰められたに違いありません。少しは心許した友と思ったかもしれません。万葉集巻五の詩文のほとんどは、山上憶良の献じた詩歌や手紙・紀行文・創作物語です。

大伴旅人も息子の家持も憶良の才能と心使いに感動したのです。それでなくては、憶良の歌が万葉集に残されるわけがありません。家持は父の大宰府時代の最大の思い出を整理し、憶良が献じた手紙の隅々をも丁寧に張り合わせて巻を編集したので、今日まで憶良の歌は残りました。

裏を返せば、大宰府で顔を合わせた大宰帥大伴卿筑前国司山上憶良の接近は異常です。出合った二人が意気投合する? 二人の立場からしてありえません。憶良は今上天皇(聖武天皇)の教育係でした。その天皇の命によって長屋王は死を賜わったのです。お互いに何をしてきたか、承知しているのです。

その任を果たした上で、年齢も七十歳になろうと云うのに、九州まで来ているのです。山上憶良とは何者でしょうか。大伴旅人との間に友情はあったのでしょうか。

憶良の胸中、そこに在るのは、最後までやり通さねばならないミッションでした。大伴旅人の監視とスパイ活動です。それを憶良は才能を駆使して命がけでやり遂げました。だから、全精力を使い果たし、京都へ呼び戻されてやがて没しました(天平五年・七十四歳)。

一方、身動きの取れない圧迫感のある追い詰められた状況で、旅人が詠んだのが「酔っぱらいの歌・十三首』なのです。
武人である丈夫が、酒を飲んで泣くなど普通の状況ではありえません。(その歌を万葉集に残した人物も旅人の置かれた立場と心情を理解していた、となると、息子の大伴家持以外には考えられませんが。)

旅人の「大宰帥大伴卿讃酒歌十三首」を読みましょうか。

 

酒を飲みながら、旅人は世の無常と長屋王の無念を思いました。

大伴旅人がここまで長屋王事件に揺り動かされたのは何故? でしょうか。
大伴氏は古代有力豪族でしたが、孝徳天皇の右大臣大伴長徳(ながとこ)以来、議政官への道は遠のいていました。

 

 大伴氏は「壬申の乱」で活躍し、大伴御行(みゆき)に続いて大伴安麿(やすまろ)が大宝元年(701)から和銅七年(714)まで大納言を務めました。大伴氏は、天武朝の忠臣となりましたから、天智朝の忠臣だった藤原氏には不快な存在に思えたでしょう。
大伴氏は奈良時代を通じて藤原氏の横暴に釘を刺し続けましたから、謀判事件にかかわることも多く、ついには「悪逆の氏族」とも評されたのです。然し、その姿勢は「天武朝の繁栄を守る」ということだったと思います。
天武天皇の長子・高市皇子への忠誠心も大きかったでしょうから、その御子の「長屋王の変」は、旅人にとって衝撃となったのです。ですから、「長屋王の賜死」を知った旅人の無念はいかばかりだったでしょう。しかし、本音を吐露することは危険でした。旅人は黙して語りませんから、憶良は文化的な面から近づきました。

 大伴旅人に不穏な言動はないか、山上憶良だけではなく小野老も、他の官人も監視していたと思います。

では、長屋王事件の翌年の正月に行われた「梅花の宴」とは何だったのか、言及しなくてもいいくらいはっきりしていますね。カモフラージュです。本心を隠して、『京都のみなさん、大宰府では「長屋王事件」とは関係なく「宴会」を楽しみました。大伴卿も楽しんでいましたよ』という報告を導くための偽装だった、と思います。
梅花の宴には、もちろん憶良も筑前守として参加して歌を詠んでいます。

結果、都人は安心して、旅人を大納言として呼び戻したのです。

憶良と旅人、二人の間に友情があったのか、心よせながら本心を明かさずに別れたのか、だんだん本心から接近するようになったのか、万葉集を読むと想像が膨らみます。山上憶良とは何者か、万葉集巻五が語り続けています。

次は、梅花の宴の歌を紹介しましょう。


志賀島の白水郎の遭難の歌を詠んだのは山上憶良なのか?

2018-11-25 09:35:21 | 79山上憶良の歌がささやく古代の姿

ここは、福岡県福岡市の志賀島。金印が出土した島です。この島の北側には、日本海が広がっています。

昔、志賀島の北側の外海(玄界灘)に面したところに志賀海神社の本宮はありました。

今日では、博多湾側に志賀海神社(延喜式内名神大社)は遷っています。

いえいえ、神社の紹介ではありません。遭難した志賀の荒雄を偲んだ歌の紹介です。

荒雄は「白水郎」ですから、海の男・船乗りでした。ですから、知り合いの百姓(ひゃくせい)津麻呂に頼まれて糧を届けましたが、遭難してしまったのです。

命令は荒雄に出されたのではないから行かなくてもよかったのに、船を出したばっかりに遭難してしまった。家族は毎日毎日神に飯を供え祈り待ち続けた。島の人々も、島の木を切れば荒雄が帰る時の目印がなくなるというので、なるべく島の姿を変えないように心を砕いた。荒雄たちが行ってしまってからというもの、島は寂しくなってしまった。ああ、荒雄らは官の務めでもないのに行ってしまった。荒雄たちは妻子の生活の事は考えなかったのだろう、もう八年も帰って来ないのだから。鴨という名の船が帰ってきたら、能古島の世良の埼に常駐する防人よ、直ぐに知らせてほしい。荒雄たちの船なのだから・・・

荒雄の家族が悲しみに耐えながら、荒雄を偲ぶ歌を作ったというのです。

帰って来ない男たちを待ち続ける妻子の悲しみと苦しさを詠んだ歌、十首です。この十首の左脚に、長い文が書かれています。荒雄が遭難するに至ったいきさつです。

もともと対馬への送糧を言いつけられたのは、宗像の百姓宗形部津麻呂でした。然し、別の郡の荒雄に大事な役目を頼んだのでした。

津麻呂と荒雄の仲が良かったとしても、宗像には船を出せる海人がいなかったのでしょうか。他所の郡の海人に仕事を任せるとは何だか違和感がありますね。

宗像氏はもともと海の民ではありません。宗像氏の祖先神は「大国主」ですから、海で生きた氏ではなかった、そうでなければ、舵取りの一人や二人はいたでしょう。

志賀の荒雄は白水郎(あま)と書かれていますから、舵取りが生業です。

更に、もう一つ。この歌を詠んだのは誰でしょう。万葉集の編者は、志賀の荒雄を待ち続けた人の作歌ではなく、山上億良かも知れないと書いています。

 そうでしょうか。憶良ですか? そうは思えないのですが。

神亀年間(724~729)は、聖武天皇の時代です。憶良が大宰府に国司として来て三面から四年の間に荒雄の遭難があり、歌を作ったということでしょうか。

確かに憶良は社会派の歌人として著名で、万葉集で特に「貧窮問答歌」などが有名ですが、漢学者らしく言葉は豊かで高尚です。その憶良をして「白水郎の歌十首」はあまりに素朴だと思います。

荒雄に対して「さかしらに命令もないのに船を出した」と責めるような言葉の使い方を見ると、憶良とは思えません。やはり、志賀に残された妻子の歌としたが自然です。

もちろん、志賀に歌が読める風土があったということです。東国で読まれた防人の歌と同じように庶民も歌が読めたのです。

志賀島には、不思議な祭りや伝承があります。昔から、文化の豊かな土地だったと思います。

山誉め祭りの紹介を少しします。とても変な祭りです。日本の国家「君が代」と同じ歌詞の歌が祭りで使われています。手を後ろ手に縛られた人が出てくる祭りです。何だか不思議ですよ。

君が代は千代に八千代にさざれ石のいわおとなりて 苔の生すまで

私は、歌を詠むことを古代の志賀の人はしていた、と思う。それが、今日の結論です。

では、又。


『六義園記』注解(島内景二著)が紹介する『六義園記』の序文

2018-09-28 23:47:22 | 78柳沢吉保は万葉集編纂の意味を知った

『六義園記』注解では、「柳沢吉保が幕府歌学方・北村季吟(または、その高弟)の指南のもと、六義園記を書き上げた意味と、その思い」を丁寧に紹介されていました。今日は、その「序」の紹介です。

元禄15年(1702)江戸駒込の地に造営された六義園は、大名庭園の最高傑作です。この庭園・六義園を造営した柳沢吉保は、「犬公方」と呼ばれた五代将軍綱吉に仕えた側用人で、名前の「吉」を将軍から拝領したほどの寵臣でした。わたしも子どものころから時代劇映画やテレビでその名前を知っていました。なにしろ「赤穂浪士」事件が起きた元禄14年時の将軍と寵臣ですから年末恒例のテレビ番組では必ず耳にする名前だったのです。彼を演じたのは常に悪役を得意とする俳優でしたから、子ども心に良い印象は持っていなかったと思います。

 しかし、その柳沢吉保が六義園を造営した…それだけで彼に対する評価は変わろうというものです。

六義園には八十八カ所の名所が作られましたが、その理念を宣言し「八十八境」として名前の由来を記したものが『六義園記』です。元禄文化が花開いた江戸初期の文化的背景を見ることもできるし、当時の権力層がどのようなものを愛でたのか知ることもできましょう。

その本を分かりやすく紹介した本が、島内景二著の『六義園記』注解で、今回、興味深く読ませていただきました。

『六義園記』注解の始まりを少し紹介するのですが、本文は著者により「漢字交じりの読みやすい文章」に翻刻されていますし大意もありますので、大体の意味は分かります。また、島内氏の「六義園記」に対して詳しい解説もあるのですが今回は紹介していません。が、『本文と大意』を注解の中から取り上げましたので、柳沢吉保の造園の意図をくみ取って読んでください。

 

本文① 「道は、人によりて弘まる」、異国(ことくに)の往にし教へ、すでに然なり。「境は、名を持て伝ふ」、大和歌の古き習わし、また同じ。

 大意 「中国の古い教えに在るように、道はそれを正しく受け止め、その素晴らしさを他人に語り広める人間がいて、初めて広まる。同じように、我が国古来の道である和歌のテーマである「境=名所・歌枕」も、その美しい場所の評判を語り伝え、歌い継ぐ人がいて、初めて後世まで伝えられるのである。」

 

本文➁ この故に、根も心の土に寄すれども、必ず三つの聖(ひじり)の培い植ゑし教えを借りて、枝葉繁り、盛りなることを得たり。

(三つの聖とは、柿本人麻呂・山部赤人・衣通姫(そとおりひめ)のことです) 

大意 「和歌の根は歌を詠む一人一人の心の土にしっかりと下しているのだが、それが枝葉を茂らせて美しい花を咲かせるためには、必ず「和歌三神」が育んで植え置いた古来の教えを借りることが必要なのである。」

 

本文③ 跡を口の碑に留むとも、もし八雲の光遍(あまね)き護りにあらざらましかば、いかでか山川と共に、長く久しかるべき。

 (スサノウが歌った「八雲立つ出雲八重垣妻ごみに八重垣つくるその八重垣を」が『古今集』仮名序で人間界で詠まれた最初の和歌とされている)

大意 「昔こういう素晴らしい人がいたとか、昔こういう美しい場所があったとかが、たとえ人々の伝承として語り伝えられたとしても、もしもすべてを守護し、すべてを永遠のものに昇華させる和歌の広大な光に守護されるのでなかったらのならば、どうして地上の存在物は、悠久な天地のような永遠性を獲得できるだろうか。」

 

*本文④と大意は略(将軍に仕え政治に成果を出し、歌の道にも精進したことなどが書かれている)

 

本文⑤ 遂に、駒込の離れたる館に就きて、いささかに和歌浦の優れたる名所を写す。

それ、妹の山・背の山の混成(まろかれ)たる、あり。常盤・堅磐の動きなき、あり。朝日・夕日は、山辺・柿本の深き味はひを含めり。

山を見、浦を眺むる、彼と此との妙なる言事(ことわざ)を通はせり。山と松は、新しきと古き相成りて、窮(きは)まりなきなり。泉と石とは、心と言葉の、同じく出でて、二つ無きなり。

玉を拾ふも、藻を採るも、等しく紀氏の流れを汲み、梅の雲も、桜の波も、共に長き秋の門にありけり。

 大意 「とうとう和歌への思いが高じて、江戸城から遠く離れた駒込の下屋敷に連接させて、少しでも紀州の和歌浦を中心とした美しい歌枕の風景を写して、庭園を造ろうと思い立った。ここには、世界のすべてが込められている。

だから、この『六義園』という庭には妹山や背山のように、柔らかく丸い名所があるかと思えば、『常盤・堅磐』のように、固く不動の名所もある。『朝日岩』や『夕日岡』は、和歌三紳のうちの柿本人麻呂と山辺赤人の、それぞれの倭歌の味わい深い趣を表している。

妹背の山を見たり、和歌浦の眺望をながめたりしていると、『仁』と『知』の二つの理念が交響しつつ体現されているのが理解できる。また、庭園内に設けられた山や松の名称には、新しい(若い)ものと古い(老いた)ものとが共存しており、老ては若返る『無窮』の理念を表している。庭園内の石や泉は、それぞれ『心』と『言葉』を象徴しているが、心から言葉が溢れ出し、言葉に表れたものが心そのものであるから、心と言葉は一体のものであることを、庭園の石と泉の配置は示している。

八十八境の中に数えられる『拾玉渚』と『玉藻磯』は、この庭園の理念が紀貫之や藤原俊成の流れを汲んでいることを明示し、同じ八十八境の中に数えられる『雲香梅』と『桜波石』は、この庭園の理念が藤原俊成の門弟たちの流れ、すなわち「古今伝授」の伝統と密接に繋がっていることを表している。」

 

本文⑥ 或は、藤原の昔を、蜘蛛(ささがに)の道に訪ね、或は楢(=奈良)の葉の古(いにしへ)を、千鳥の跡に見る。仏法(のり)の教への文字あることは、わが道の広く覆ふなり。漢詩の言葉あることは、わが恵みの遍(あまね)く至るなり。春・夏・秋・冬の面白き、大いに備わり、松・竹・亀・鶴の珍しき、悉く全(まつた)し。

八十八の境の梗概(あらまし)は、述ぶべけれど、お、種々(くさぐさ)のありさまの詳しきことは、何としてか尽くさまし。

元の名を聞きては、その所を彼の国に縮(しじ)むるかと疑われ、今の構えを見ては、その昔をこの文に勘(かうが)へたることを、明らかにせまし。

大意 「この六義園では、『和歌三神』の一人である衣通姫が住んでいた藤原京の昔を、『蜘蛛の道』に訪ねることもできるし、『万葉集』が編纂された『奈良』の帝の昔を、『千鳥の橋』の近くの『時雨の岡』に立っている『楢』の木で偲ぶこともできる。

八十八境の中に、『坐禅石』などのように、仏教に因んで名づけられた名所があるのは、吾が国の和歌の道が仏の教えと通じているからである。また、八十八境の中に、『剡渓流』のように、漢詩文に因んで名づけられた名所があるのは、わが国の和歌の恵みが、遠く異国まで及んでいるからである。八十八境には、『春・夏・秋・冬』の四季折々の美しさが、すべて揃っているし、また、『松・竹・亀・鶴』という、おめでたく珍重される動植物も、完璧に備わっている。

全部で八十八ある名所の概要だけならば、何とか述べられもしようが、その一つ一つの詳細な説明と描写は、どうして今、ここで全てを書きつくすことができようか。

この六義園八十八境のネーミングの由来となった地名を聞くと、その異国にある名所を元々の国とそっくり同じで、大きさだけを縮小して、この六義園に再現したものかと疑われる。また、現在、目の前に広がっている六義園八十八境それぞれの姿を見れば、その銘所が元々は、どのような形であったかという考証を、この『六義園記』で明らかにしたいと思われてならない。

 

本文⑦ 「ああ、浦は、すなわち大和歌なり。ここに遊べるものは、この道に遊べるなり。園はこれ、六種なり。ここに悟れる人は、この理(ことわり)を悟れるなり。

 今、この事の起こり、豈、ただ、君の恵みを目の当たりに誇るのみならんや。神の跡を後の世に垂れまく思ふ故、心の種を筆の林に寄せて、口の実を文の園生(そなふ)に結ぶと言ふこと、然なり。

大意 「ああ、この六義園に写された和歌浦は、実は『和歌』そのもののシンボルなのである。だから、この六義園に遊ぶ人は、和歌の道に遊ぶ人である。この六義園には、儒教の理念を漢詩で謳った『詩経』の『六義』、それを紀貫之が日本風に変型して『古今集』の仮名序で説明した『六種』のすべてが、具現されている。だから、この六義園で詩歌の本質を悟る人がいれば、その人は『六義・六種』の道理を悟る人である。

 今、この六義園を造ろうと志した初心は、決して不肖吉保が将軍綱吉様の御恩顧を蒙っていることを誇示したいからだけではない。『和歌三神』がこれからの時代にも姿を現し、人間世界を守ってくださることを祈って、心に思うことを種として、筆に乗せて文章を書き綴り、口にする言葉を文章として結実させたかったのである。

それが、この『六義園記』一巻の成立事情である。

 

 と、上記のように六義園記の序に書かれています。島内氏は、「古今集」の歌の秘密や奥の意味を伝えた「古今伝授」を念頭に「六義園・注解」を書かれました。柳沢吉保に深くかかわった北村季吟(幕府歌学方)は、もともと京都の新玉津島神社の神官でそこに住んでいたそうです。

彼が吉保に伝えた「古今伝授」は、紀貫之に始まり藤原俊成を経由した和歌の系譜「本流=正統」であることを言据えています。(「古今伝授」は、あの徳川家光でさえ伝授を断られた一子相伝の和歌の秘密事でした。)吉保はそれを北村季吟から授けられていたのでした。

季吟が京都で暮らした「新玉津島神社」は、藤原俊成の旧宅の跡と伝えられていたことを、季吟は考察しています。 

 さて、いよいよ紀伊国の「玉津島神社」と衣通姫に近づいてきました。

 では、この辺で。


柳沢吉保も知った有間皇子と間人皇后の物語

2018-09-07 22:50:54 | 78柳沢吉保は万葉集編纂の意味を知った

 江戸時代になっての話ですが、側用人柳沢吉保(1658~1714)が徳川五代将軍・綱吉に仕えたのち隠居して六義園という庭園を駒込に造りました(1702年)。「回遊式築山泉水」の大名庭園です。

江戸時代の大名庭園の中でも代表的なもので、明治になり三菱の創業者である岩崎彌太郎の別邸となりました。その後、岩崎家より東京市に寄付され、昭和28年に国の特別名勝に指定された文化財になっています。

「六義園記」は、『大名庭園の最高傑作・六義園の理念を高らかに宣言し、「八十八境」と呼ばれる名所のネーミングの由来を記したものである』ということです。この「六義園記」ついて注釈を加えた本がありますから、現代の私たちも柳沢吉保の名文に触れることができます。

この庭園は散策しながら源氏物語の世界や万葉集の世界を偲ぶようにできていていますが、庭園の中心に造営されたのは、富士山でも嵐山でもありません。池にしても琵琶湖でも須磨でも宇治川でもないのです。

庭園の中で一番高い築山は標高35mありますが、庭園を一望できる藤白峠です。一番高い築山が藤白山でした。わたしは深く心ゆすぶられました。柳沢吉保はやはり只者ではなかったのだと思いました。側用人としての気を抜けない年月の後、和歌の世界を偲んだ庭を造ったのです。それも、万葉集の真意を悟ったのです。

万葉集は何を伝えようとしたのか、たくさんのインテリに囲まれてはいたのでしょうが、理解したのですね。

当時の人々も、池をめぐり山を登り、藤白峠で古の物語と歌の謎解きをしながら万葉集に浸ったのです。

万葉集の中で藤白が出てくるのは一か所だけで、「藤白坂」のみです。和歌山県海南市藤白から海草郡下津町橘本に超える坂ですが「藤白のみ坂」と書かれた其処は、有間皇子が追っ手により刑死となった地なのです。

  藤白のみ坂を越ゆと白栲のあが衣手はぬれにけるかも

藤白の坂に「み」が付いていますから高貴な方にまつわる「坂」ということですが、「その坂を越える時、あの方の運命を思い出してわたしは涙を流してしまうのだ」という歌です。この歌を詠んだのはだれか、または詠ませたのは誰かということですが、この歌は、持統天皇と文武天皇の大宝元年行幸時の「紀伊国行幸十三首」のうちに有りますから、二人の高貴な方に献じた寵臣の歌に他なりません。

万葉集中にただ一首しかない地名「藤白坂」を庭園に取り入れたのですから、有間皇子事件を彷彿とさせる仕掛けになっているのです。柳沢吉保は万葉集について十分に理解していたか、彼の取り巻きのインテリ学者たちが吉保に万葉集を解釈し感動させたということになりましょう。

六義園に造られたのは藤白山ばかりではありません。紀ノ川(吉野川)からその河口の和歌の浦や玉津島が表現されていますから、まさに万葉集の王家の悲劇の物語がたどられているのです。

六義園については、また明日。