20年ぶりくらいに立川へ行ってきました。
個人的には、香川の金刀比羅宮の「富士二之間 「巻狩図」」を描いた方だというのに、現地まで行って見ておきながら、なんとうかつな。そもそもこの二作が同じ画家だったとは。
応挙のトラが目当てだったため、邨田丹陵の名前は全く記憶にありませんでした。
黄金の大ナマズ(日記)の近くのベトナム料理屋さんで、ベトナム版「鳥獣戯画」みたいな絵に出会いました。
京の冬の旅 非公開文化財特別公開 相国寺光源院 2024年1月8日~3月18日
先月ですが、京都の相国寺に行ってきました。
お目当ては、塔頭の光源院。
しばらく展覧会に行けない生活だったので、投稿も久しぶりです。
東博に来たのも、昨年の12月に年間パスポートを作って以来。年パスの意味が…。
平成館ではやまと絵展が開催中なので、この日の常設の2階でもやまと絵を中心に展開されていました。
*
一階では、柴田是真の四季図屏風に再会。色も鮮やかなまま保たれ、どこを切り取っても完璧です。
「光風斉月帖」1936にも再会。
橋本関雪、小林古径、前田青邨、安田靫彦、大観、鏑木清方、玉堂、菊池契月、富田渓仙、和田英作の合作の巻物。
なんとなく画家の字と絵の線がシンクロしていて、ほほえましい。幅、リズム、きっさき、筆勢、字は絵も性格もあらわすのかな。
特に、前田青邨の魚のピチピチ生動感は、青邨の字にも重なります。字がそのまま生きた魚に見えてきたり。
横山大観 字のままですね。
安田靫彦
見惚れるのは、菊池契月の「八幡伝説」
色紙大の小さな紙に、洒脱な短い線で素速く人と馬を生み出し、金と胡粉をすうっとはいただけなのに、無限の広がり。
2階では「近世のやまと絵-王朝美の伝統と継承ー」特集。
宗達工房の屏風から、土佐派、住吉派、板谷派も。さらには琳派、復古やまと絵まで、あしかけ300年をひとめぐり。
印象的だったのは、宗達工房の「四季図屏風」17世紀。
一つ一つの花の存在感が強く、気を発しているよう。
400年たっても古い感じがしないのがすごい。
嘉永の大嘗祭の悠紀屏風(1948)土佐光孚 は、青い色があまりにきれいでくぎ付け。
孝明天皇の即位の大嘗祭のもの。近江が描かれています。
金だけじゃなく、青いすやり霞を見たのは初めて。
と思っていたら、昨日(11月27日)放送のNHKの「大奥」で、将軍家茂が上洛して、孝明天皇に拝謁するシーンの間に、このような青い霞が。
先述の屏風も孝明天皇の時代。
現在の京都御所もこのような襖絵であるようだ。
NHKの美術さんの時代考証は抜かりない。
(それにしても、NHKの時代劇の襖や掛け軸、着物は、人物のキャラや状況に合わせて、しかも美しくて、つい人物のうしろにくいついてしまいます。「大奥」でも、江戸城の家茂の間は狩野派っぽい水墨の山水画だし、和宮とその母の間は豪華なやまと絵ふうだったり。「どうする家康」でも、大阪城の金の襖絵の豪華なことときたら。)
細部は土佐派らしく細やかで、菊が美しいのでした。
近衛信尹の和歌屏風(安土桃山~江戸)も見入ってしまいました。
ゆるまないスピードと打ち付けるようなリズムで書きつけられる書。信尹がはりつめた中に興に乗って、最高のステージに達した短い時間、これまた400年たってもライブ状態。
本阿弥光悦、松花堂昭乗とともに寛永の三筆と称される信尹。秀吉とのなんやかやで数年薩摩に流され、その時に書体も変化をしたらしい。島津の庇護のもとで充実した暮らしだったらしいですが、どのように変化したのか、見る人が見れば、この書がいつ頃のものかわかるのでしょうか。
非業の死を遂げた復古やまと絵派の二人、冷泉為恭と田中訥言が並ぶ一角もありました。
田中訥言「舞楽図」17世紀
左に陵王と、右側の蛇を持つのは還城楽。平面の画なのに、動きが迫真で鮮烈な印象。
両者とも息ぴったり。二人で左上がりの無限「∞」ループのかたちをなしているよう。
訥言ファンとしては嬉しいことに、別のコーナーに、平等院鳳凰堂の模写も6面展示されていました。
田中訥言模写「日想観図」19世紀
田中訥言模写「中品上生図」19世紀
冷泉為恭「後嵯峨帝聖運開之図」19世紀
百姓から献上された米を洗ったところ、亀が現れ、運が開けて天皇になれたという言い伝えとのこと。
まるでその場の会話が聞こえそうなほど、人物が自然な感じに再現されていました。
藤袴の足元の亀がかわいいです。
栄花物語図屏風 土佐光祐 17世紀
女性だけ着色されていないので、未完なのかと思ったら、こういう趣向のよう。(姫君の塗り絵用にも使える?)
よくよく見ると、色をつけずとも、着物の柄は線で大変精緻に書き込まれていたり、胡粉で盛り上げてあったり、型押し?で凹凸がつけられていたり、
↓この打掛は、白地に白で微かな模様。アンミカの「あんな、白には200色あんねんで。」が脳裏に浮かんだ瞬間。
土佐派のお顔は、ほっぺたほんのりなのがかわいいです。
住吉具慶の源氏物語絵巻 17~18世紀
萩の美しいこのシーンは心に残りました。住吉派もお顔がかわいいです。
「車争図屏風」狩野山楽 1604年
六条御息所と葵の上の車争い。もとは、淀殿が養女と新郎のために新築した九条御殿の襖絵だったものとか。このシーンを新婚の家に設える淀殿って…。
しかしどこを見ても見飽きないのです。山楽すごい。
右の整列から、左の蜂の子を散らしたような騒ぎへ。解説には、乱闘場面あたりが「円環状の構図」をなしているとあったけれど、たしかに、旋風のごとく渦を巻いています。
どの人物も手を抜かない山楽。表情と動きにただただ圧倒されました。
乱闘だけでなく、周囲の庶民のようすもおもしろいです。
この屏風ひとつを映画に再現したら、何十分にもなるであろう中身の濃さ。そして外観上の構成の妙。たいへんおもしろい時間でした。
このころには疲れてしまって、屏風ルームに来たときにはもう、真ん中のソファに座りこんで一休み。
色鮮やかで精緻なやまと絵を見てきた後だからか、一見しただけでは、この部屋の3方向どの屏風も、状態も悪く色もうす暗い印象。そう目の端に感じつつ、絵も見ないで休んでいました。
ところが。しばらくして顔を上げると、まるで別世界だったのです。
目の前にこのぽっかりとした山。
深江芦舟「蔦の細道図屏風」18世紀
自分がここに入りこんで立っているような不思議な感覚。楽しい体験でもありました。描きこまないシンプルな形が、疲れたところにちょうどいい。
深江芦舟は尾形光琳の門人らしい。絵から頑張っちゃってるところを抜いた感じ(どんなん)が通じるかも。
そして左を見ると、ナビ派を想起させる森。
なんだか洋画を見ているようで、400年も前の絵師が描いたという感じがしない。
「桜山吹図屏風」伝俵屋宗達 17世紀
↓このあたりのナビ派に重なったのでした。ナビ派もジャポニズムの影響を受けているので、あながち的外れでもないかも。
この屏風もナビ派も、せかせかコマコマしていなくて、ゆるいひと時。深い休息の呼吸が戻ってきます。
それでも、近づくと、この桜の生気に圧倒されたのでした。
そして最後の一作を見ると、またしても最初の印象が一変。月がこうこうと輝いていたのです。
「柳橋水車図屏風」作者不詳 16~17世紀
恐ろしいほどに独特。
二隻にわたって大きくかけられた橋が大胆。黒々とした幹をしならせる動きに目を見張る。
それに対して、柳の葉や水流の線は乱れず規則的という、このギャップ。
水車は設計図レベル。
クレイジーなこの絵師は何者??
(2024年1月追記:これとそっくりな「柳橋水車図屏風」が香雪美術館にあります。長谷川等伯筆の重要美術館。人気の画題だったらしく、長谷川派の工房作のものが他にも30程度あるそう。)
これが定型なのか、非定型なのか。定型と非定型を両方を兼ね持つのが、日本の伝統なのか?
題材や技法は伝統的なものであるのに、400年500年たっても、全く古びないと思えるのは、どうしてなのか?。絵師が唯一無二なところで描いているからなのか?。
精緻で雅びなやまと絵のあとに、なぜこんなざっくりとした屏風をここに揃えたのかと不思議に思ったのですが、この体験を狙った構成だったのかと勝手に解釈し、東博ってすごいと充幅に包まれて帰しました。
やまと絵という日本古来の伝統的な絵の特集の日だったのですが、その系譜のいくつもの作品に、古風を感じず、なんなら今より自由で、突き抜けた作ぞろいであることに、固定観念を壊されたのでした。
茨城県の常総市へ。
豪農屋敷「坂野家住宅」を見学してきました。
大河ドラマの「篤姫」「龍馬伝」や「JINー仁」など多くのロケ地としても使用されているとのこと。いわれてみれば、既視感が確かにありました。
坂野家は500年ほど前に、旧大生郷村のこのあたりに土着し、有力な名主だったそうです。
竹林に囲まれた3000坪の敷地に、主屋、二階建ての書院、蔵、数棟の納屋などが建っていました。
主屋は元禄時代(1688~1704年)に建てられ、その後1838年ごろに座敷の棟などが増築されたようです。月波楼と呼ばれる二階建ての書院は、平屋だったのを大正時代に二階を増築したようです。
平成10年に市が土地・建物を譲り受け、解体修理が行われました。
建物内には、当時の掛け軸や襖絵がそのまま使用されていました。それがさらっと、奥原晴湖だったり!、藤田東湖や山岡鉄舟だったり!。
幕末・明治期、11代当主・坂野耕雨(1802-62)、その嫡子の12代当主・坂野行斎は、二人とも文人当主と呼ばれたそうで、二人の交流が偲ばれました。
所蔵品目録を見ても、亀田鵬斎、田能村竹田、立原杏所、木村武山、菅井梅関、椿椿山など、茨城や栃木ゆかりの人物を中心とした書家や画家の作品がてんこ盛り。
二人の当主の趣向や、この家を行き来した文人たちの足跡が感じられて、興味ひかれました。
周辺は水田や林が広がる、民家もまばらなところ。
豪農の屋敷ですが、門構えは武家屋敷のよう。
薬医門(元禄時代:国指定重要文化財)
坂野家は幕府の役人が逗留することもあったため、城郭や武家屋敷などに認められた薬医門の形になっているとのこと。
室内も、武家屋敷と豪農屋敷、商家がミックスされたような感じを受けました。500年前の新田開発の頭取を命じられて以来、この地域のさまざまな役目をになってきたのかなと思いました。
二宮金次郎も、天保期(1830~1844年)に荒地再興の為、坂野家住宅に滞在したそうで、書簡などが残されています。
向かって右側の主屋が元禄時代の築。(国指定重要文化財)
左側の棟が、1838年の増築部分でしょうか。この棟の玄関は、式台を設けてあり、最も格式の高い座敷に続きます。この玄関は、身分の高い人のためのもので、当主でさえ使用することはなかったそう。
主屋は、土間、茶の間、仏間など生活感のあるスペースと、身分の高い人物を迎え入れる「座敷部」で構成されていました。
帳場
茶の間。奥に土間。
かまどとお鍋が大きかった!
冷蔵庫
蔀戸(しとみど)
横にスライドさせて、通風や採光を調節可。天井から下がる金具に引っ掛けて全面開放することもできる優れもの。
戸の上に槍が。撮り忘れましたが、別の戸には、天狗党が押し入った際の刀傷と言われる跡がついていました。
脇玄関襖絵(右襖) 「富貴図」根本愚洲 ((1806-73)、大槻磐溪賛
この日は一面しか見えませんでしたが、左襖は、岡本秋暉筆ですと!
岡本秋暉(1807~62)といえば、展覧会で何度か、千葉県柏市の名主・寺嶋家の摘水軒コレクションからの出品だと拝見したことがあるけれど、秋暉は1846年ごろに寺嶋家に逗留していたとか。時期が合うけれど、双方つながりはあったのでしょうか。寺嶋家は、私の好きな亀田鵬斎とも交流があったとのこと、坂野家の所蔵品のなかにも亀田鵬斎の書があり、気になるところです。
摘水軒コレクションは、秋暉はじめ、北斎や若冲でも色鮮やかな肉筆絵画がたくさんあるようなのですが、坂野家には、カラフルな画はなかった印象です。ほぼ墨だけで描かれた画ばかりで、むしろ書が多い。坂野家に泊まった客人が書いていった、主と書簡をやりとりした、文人つながりで入手した、そういう経緯の画や書をたいせつに保管したり、室内に設けたりしてきたのでしょうか。
座敷部分は、一の間、二の間、三の間と見渡せます。
一の間は、二の間、三の間に比べて天井も高く、最も格式の高い部屋。
一の間
床の間の掛け軸は、奥原晴湖。
脇床の違い棚に置かれた額は、藤田東湖。
脇床の天袋に貼りこまれた絵は、特に解説がなかったのですが、なにか由緒ありげな…。
と思ってあとで検索してみたら、「漁師図」は、高久隆古(高久靄厓の跡継ぎ)。
「驟雨図」は、福田半香。
菊は、小池池旭(大沼枕山(知らないけど漢詩人だそう)の妹)。
この絵も気になるのですが、誰かわからず。
高久隆古、福田半香、池旭・枕山兄妹は、11代当主・耕雨のとき、ともに坂野家に滞在し、その折に描かれたようです。筆を渡されれば即興で描ける、皆で興にのって描くって憧れます。
一の間の欄間も見もの。
左右で文様が違いますが、家人はずっと家紋の蔦の欄間(上の一枚目の写真)と思っていたところ、あるとき蔦の部分が落ち、下から菊の透かしが現れたそう。江戸時代には菊で作られていたが、明治に入り天皇家と同じでは恐れ多いということで、蔦を取り付けたのかも、と解説シートにありました。
ほかの欄間もひとつひとつがどれも佳い風合いでした。
屋敷全体に、華美にはしないように心掛けつつ、格式を高く設えたことが感じられました。
仏間
掛け軸は、当主・坂野耕雨によるもの。
渡り廊下から二階建ての書院・月波楼へ。
もとは主屋とともに平屋で建てられたものを、大正9年に2階に建て直したとのこと。
月波楼は、この地方の文化サロンの拠点であり、江戸からも文人墨客を招聘したそうです。
相当多くの人が一同に集うことが多かったのでは。あの大かまどといい、そして印象的なのが、坂野家はトイレが多いこと。主屋にもいくつかありましたし、月波楼の一階、二階にもそれぞれふたつずつ。
月波楼の一階座敷
書は、富岡鉄舟。
その右側、書院の地袋と組子障子。
地袋はだれかわからず。
二階へ
月波楼の二階は眺望良好。月も見えたのでは。
当時のままのガラスは、ゆらぎがいい風合い。
掛け軸は、1858年に、鷲津毅堂・西村以寧・秋場桂園・坂野耕雨による連句を、鷲津毅堂が記したもの。
押入の襖は、川村雨谷の四君子。扁額の「月波楼」の書は中村不折。
二つの間を仕切る襖の絵も、川村雨谷。
富貴平安・歳寒二友図を4面に。開けてあったので梅と牡丹のみ拝見できました。
その裏の襖絵は落款もなくだれということもないのかもしれないけれど、ほのぼのしていてお気に入り。
月波楼の組子も、どれもさりげなく美しくて目移り。六本木の小山富美男ギャラリーで見たソピアップ・ピッチを思い出しました。
二階の欄間 真ん中で別の模様に切り替わっています。
どこだったかな?(広くて順路に随って回っているうちに自分がどこにいるかわからなくなります)
こちらの障子もさりげなくそよ風な感じがいいです。月波楼だけに、さざ波か月光かも。
月波楼の一階の浴室。
タイルが大正モダン。
見上げてびっくり、天井が六角形。から傘天井というらしい。
このお風呂は、沸かすところはなく、女中さんが主屋で沸かしたお湯を運んできたそう。
「文庫蔵」
「三番蔵」
農産物の蔵?。屋敷内では文人的側面が印象的でしたが、やはり豪農の屋敷だと実感。
地面のこういうぬかるみ後の乾き方、久しぶりに見ました。
出てくると月がでていました。
興味尽きないお屋敷でした。坂野家の多くの所蔵品は、常総市のデジタルミュージアムで見られますが、いつか展覧会が開催されることを期待します。
あけましておめでとうございます。
先日ですが、東博の常設を見に行きました。
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渡辺崋山(1793~1841)が描いた「佐藤一斎(五十歳)」1821年 に再会。
怖いのですよ、この儒学者。気難しそうで、猜疑心強そうで、いい加減にしてたりテキトーにすまそうとしたら怒られそうで。
佐久間象山や渡辺崋山も一斎のもとで学び、教えを受けた者は3000人。
崋山が28歳の若いころに描いた師の肖像。内面をえぐるほどに見透して描き出す崋山がこう描くのだから、実際もこんなような人物だったのだろうと思う。
隣には、この一斎(1772~1859)の70歳の肖像も展示されていた。
崋山の弟子であり友でもある、椿椿山が1841年に描いた二幅。
一斎は70歳になっても、鋭いまなざしと気迫は健在。
むしろ、ますます気骨が深みを増した感。
比べると、崋山の描いた50歳の一斎には、多少まだ青臭さもあったかに見える。
崋山の鋭すぎる感性のせいかもしれない。
椿山がこの肖像を描いたのは、1841年。
すでに崋山は蛮社の獄で蟄居の身。そして田原の自邸の納屋で自刃したのが、この1841年の11月23日。この肖像が描かれたときはおそらく、崋山は生きていたかもしれない。
椿山は、崋山を助けようと奔走し、蟄居後は経済的な支援をしたりしたけれど、一斎は崋山を擁護するために何もしなかった。椿山の縁者(椿山の長男の嫁の父)に崋山救済運動に力を貸すよう頼まれても、その者に、懇意であると示すことは賢明ではないと忠告さえした(このあたりは、ドナルド・キーン「渡辺崋山」に詳しい。)。一斎の本心はわからないけれども。
それにしても、お気の毒に見えて仕方ないのは、左幅に描かれた一斎の奥様。
この面持ち、さぞやストレスMAXの何十年だったのでは…。
こんな気難しそうなだんな様に仕えて、気の休まる日はあったのだろうか。「茶がぬるい」とか叱られそう…。
二幅を同時に見ても、今とは時代が違うとはいえ、叱ってる人と、叱られてる人、みたいにも見える。
2016年に、実践女子大学で、佐藤一斎の晩年の書を見たことがある。(日記:「1797年江戸の文化人大集合ー佐藤一斎収集書画の世界ー」実践女子大学香雪記念資料館)
気迫と激しさのあるかすれ。丸みも柔らかみもない、厳しく強い印象。
一斎の肖像と重なる。書はその人を良く表すのだろうか。
書というと、この日の東博には、大好きな中林梧竹(1827~1913)の書も展示されていた。
梧竹の字は、いつもリズムが流れている。
初めて梧竹の書を見たときは、書というより、絵画だ!ミロか?!、と感動したものだった。
この作品も、字と字の間の、何も書かないところにも、リズムが流れている。字と字のあいだの白い「間」のところにも、音楽があり、「間のはば」もたいせつな音楽を構成する一部であり、表現の役割を担っているのだ。
ほれぼれと梧竹の作品に取り込まれたあと、隣の大久保利通の書を見る。立派な料紙だ。
字と字の間に間隔がないことで、とたんに息苦しさを覚えるような気がしてしまった。大久保利通の書には、音楽はない。(勝手に偉そうにごめんなさい、大久保さん。)上から下までまっすぐに、間をおかずに突き進んでいる。
しかし、その隣の西郷隆盛の書を見ると、おおらかさが感じられ、ほっと呼吸も復活。筆を動かし、リズムにのっている西郷の腕の太さ、頼もしさが思われた。
脱線してしまいました。
東博はもう年末休み。新年は1月2日から。
常設の年間パスを買ったので、今年はこまめに行けると嬉しいのだけれど。
たまに食べたくなるもの。