カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

禅は神秘主義思想だ ー 仏教概論(11)(学び合いの会)

2023-01-25 16:36:01 | 神学

 2023年1月の学び合いの会は大雪が予報された厳寒のなかで開かれた。コロナ禍第8波のなかマスク解禁も取り沙汰されるも、お集まりの皆さん10名は全員マスクをしておられた。
 今回は仏教概論の第4回目で、タイトルは「仏教とキリスト教 ー 禅と神秘主義」となっている。内容は、禅の話と、神秘主義思想の話、「禅と神秘主義」という上田閑照氏の論文の紹介である。
 実はこのレジュメは2018年5月のこのブログですでに報告してある。内容を再度繰り返すのもおかしいので、ここではこの報告を聞いた私の個人的印象をコメント風に少し記してみたい。

 本報告の論点は、結局は、禅は宗教ではなく神秘主義思想である、というものだ。宗教や神秘思想をどう定義するかで変わるので限定的な命題だが、キリスト教との対比でいえばわかりやすい命題のように思える。というか、禅はそのように理解した方がわかりやすいし、キリスト教との親和性(1)を理解しやすくなる。


 そこで、禅と神秘思想はどこが類似していて、どこが異なるのか、を中心に整理してみたい。

Ⅰ 禅

1 禅の定義

 禅の定義には唯名的定義実存的定義があることは2018年5月の報告でも紹介したが、あまりはっきりしなかった。そこで、石井清純師(2)の説明がわかりやすかったので借用してみる。師は禅の思想の特徴を以下の4点にまとめている。禅を思想として捉えるなら、これは禅の定義とみてもおかしくないだろう。

①経典や文字は直接真理を伝えていないのでそれに依拠しない:不立文字・教外別伝
②自分の本性(本質)は、本来的に清らかなものである:   自性清浄
③悟りとはその清らかな本性を認識し、自覚することにある: 見性成仏・本来面目
④正しい教えは、釈迦牟尼仏以来、師と弟子の心から心へ伝授される: 以心伝心

 つまり、繰り返しになるが、禅では、仏法(真理)は文字や言葉では表現しつくすことができないという考え方が基本にあるようだ。徹底した文字や言語への不信である。

 キリスト教は全く異なる立場をとる。ヨハネは、「初めに言があった。言は神とともにあった。言は神であった(ヨハネ1・1 新共同訳)と述べる。言葉に関するキリスト教と禅との違いに驚かざるを得ない。言葉を神と見なすキリスト教と、言葉を無とみなす禅との違いとでもいえようか。では、禅では神は無なのか。これは禅問答(公案)をみればわかる。

2 公案(禅問答

 公案とは、禅における問答、質問と答えのことをいうようだ。基本は修行者への質問だろうが、禅が考える真理(仏法)を伝える手法だとされているようだ。代表的な公案を少し見てみよう。

僧問洞山、如何是仏               僧、洞山に問う、如何なるか是れ仏
 洞山云、麻三斤                   洞山云く、麻三斤 

 この禅問答は前回すでに紹介したようにいろいろ解釈があるようだ。普通の訳は、「僧が洞山に質問した、仏とはどのようなものですか」。すると、 洞山が答えた、「重さ三斤の麻布だ」。重さ三斤の麻布とは僧侶の袈裟の重さのことで、僧侶のことを指しているという。要は、「あなた自身も(つまり我々も)本質は仏だ」ということらしい。臨済宗の代表的公案だという。

如何是祖師西来意 庭前柏樹子
 如何なるか是れ祖師西来意 庭前の柏樹子

 これは黄檗宗で著名な公案らしい。達磨大師がインドから中国へはるばる来られた真意は何か、という問いに、趙州(じょうしゅう)和尚が、それは庭に生えている柏(柏槙)のことだ、と、問いには無関係な答えをする(柏は柏槙のこと、伯樹子の子は単なる添え字)。その意味についてもいろいろ解釈があるのだろうが、普通は、柏のように心境一体、無の境地を表すということらしい(3)。


狗子仏性 無
 狗子に仏性ありや 無

 これも臨済禅の代表的公案だという。犬にも仏性があるのですか、と問われると、趙州和尚がひとこと無と答えたという。仏教では、涅槃経では、すべてのものに、森羅万象に仏性が宿っている、と言っているのだから、では犬畜生にも仏の本性があるのですか、という問いだ(狗子の子は犬の子供という意味ではないという)。意味はよくわからないが、どうも「犬の本性、仏性は無である」という答えだったらしい。この禅問答は、仏教の「無」の精神を最もうまく表現していると言われるらしい(4)。

趙州狗子(臨済宗)

 

 神秘主義を、トマス・アクイナスにならって「神の体験的認識、直感的認識」と理解するなら、真理(絶対者)に近づく方法(座禅や黙想など)に関しては禅もキリスト教も近いようだが、真理(または神)の認識(関係か実体かなど)には違いがある、とでも整理しておこう。次回は神秘主義を考えてみる。


1 親和性とは曖昧な表現だが、その理念と実践は同一ではないが類似性があり、互いに学び合う(影響し合う)ところがあることを強調できそうなので使ってみた。
2 石井清純師(駒澤大学元学長)は『禅問答入門』(2010)で、禅は思想であって、禅とは禅問答のことである。そして禅問答は公案として示され、公案は真理を伝える方法である(つまり公案とは真理のこと)、と述べている。禅は宗教ではないとは明言していないが、禅を思想として捉えているようだ。宗教を絶対者への信仰を中心とする教義、儀礼、組織からなる集団と考えるなら、禅を宗教としては見ない方がわかりやすい気がする。
3 伯樹はどうも日本の柏の木とは異なるものらしい。
4 といわれても、私にはわからない。

 

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