葵から菊へ&東京の戦争遺跡を歩く会The Tokyo War Memorial Walkers

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75年前の8月2日は八王子大空襲

2020年08月02日 | 自分史「新宿区役所通り」

1944(昭和19)年11月24日。杉並区井荻1丁目(現善福寺1丁目)の自宅から約1,000㍍の距離にある中島飛行機東京製作所へ米軍戦略爆撃機B29の高高度爆撃がありました。自宅から約200㍍の畑に500キロ爆弾が落ちて大きな穴が開きました。迎撃戦闘機の機銃弾一発が自宅の階段踊り場の窓ガラスを貫通し、憲兵隊が持っていきました。12月3日にも爆撃がありましたので、父はビックリして“我が家の長男大事"と八王子市元八王子村の農家に管理人を縁故疎開させました。(学童疎開は国民学校4年生から)元八王子国民学校(現・元八王子小学校)3年生に編入しました。そこは畑の中の一軒家でしたが、学校から帰って一人で家にいたところ空襲警報がなりましたので畑の中にある防空壕に入りました。そこへアメリカの戦闘機が畑すれすれに飛んできてロケット砲で校舎を爆撃しました。プロペラ部が尖っている機体と、操縦席のアメリカ兵の顔がはっきりと見えた記憶が今でも鮮明です。
その戦闘機の名前と爆撃された日にちが知りたくて06年8月に八王子市の郷土資料館に行って調べたところ、1945(昭和20)年7月28日で戦闘機はP51マスタングだったことが分かりました。8月2日には八王子大空襲。3日の午前1時頃P51マスタング再度の爆撃により校舎の大部分を焼失しました。父は管理人を自宅に引き取りました。一昨日元八王子小学校校長長田猛先生から電話があり、「キミ達の青い空」を紹介されましたので早速申し込みをしましたので明日配達予定です。

大正10年生まれの山野キミは、八王子生まれ、八王子育ち。 死期が近づき、想いは戦中の八王子へ……。 仲良しの由江ちゃん、好きだったあの人、隣保館での悲劇、逃げ惑った八王子空襲、託された手紙、そして「いのはなトンネル」での列車銃撃……。 キミの現在と過去が織り成す悲しくも美しい人生物語。 戦中戦後の八王子を舞台にして、一人の女性の成長と苦悩を描き出す、『この世界の片隅に』を彷彿とさせる小説です。

米軍P51マスタング戦闘機

自宅に戻って8月15日の玉音放送を聞きました。翌年4月、杉並区立桃井第四小学校に早生まれだったので一年遅れの3年生で編入しましたので、45年秋に行われた「教科書の墨塗り」は体験していません。

杉並区井荻一丁目(現善福寺一丁目)自宅近くで。管理人は戦地帰りの父に敬礼の仕方を厳しく教えられましたが、友達はハイルヒットラー式敬礼をしています(5歳頃)

杉並区立桃井第四国民学校入学の時

八王子市立元八王子国民学校3年生男子組61人。

元八王子村から自宅に戻って、桃井第四小学校3年生に編入した頃

(了)

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1 コメント

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長谷川さんへ (西里扶甬子)
2020-08-03 01:03:25
長谷川さん、面影はしっかり長谷川順一さんですけど、やっぱりかわいいですね。子供の頃は。
私は今八王子の住民です。もう40年近くなります。
我々年寄りはコロナに感染すると重症化の恐れがあるので、気をつけましょうね。お互いに。
ずっと外出せずにいると、慣れてきて、人嫌いになってきました。長谷川さんもお大事に。
前に教えていただいて、話を聞かせてもらった、元若松町の町会長さん、書き起こしも編集もおわってビデオがありますが、このブログでアップしませんか? 石井や奥さん(清子)の話など結構面白いです。私もいつポンコツになるかわからないので、11月に講演頼まれていて、その時には使おうを思っていますが、今忙しいので9月になればそちらに送ることができます。

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