細菌戦から核戦略へ!!

2024-03-16 11:34:29 | Weblog

南京大虐殺

 
 

南京大虐殺(マギーフィルム)

パネー号撃

 

      
 
 
 

 
 
 
重慶爆撃
 
 
原爆投下や東京大空襲ばかり取り上げて、
日本のテレビや教科書が重慶爆撃を取り上げないのは問題だと思います。
(視聴者のコメント)
 

苦干(重慶無差別爆撃)

 

 

 
 
731部隊

 細菌戦で使用した「ケオプスネズミノミ」

 
 

731部隊展

 

 
 
 
原爆
 

ニュース257号

 
 
日航123便の怪(1985年8月12日)

 

 

【森永卓郎×倉田真由美】 日本航空123便墜落事故で分かった新事実

 
 

●東京帝国大学伝染病研究所
 
伝染病研究所の写真は、『傳染病研究所』小高健著より
 

●東京帝国大学伝染病研究所『実験医学雑報』

・東大伝研とは戦前、どんなことをやっていた機関なのか?

・1934年6月、宮川米次と阿部俊男は何をしに満洲国へ行ったのか?

・満洲衛生技術廠とは、一体何をやっていたところなのか??

・東大伝研は731部隊と連携を図っていなかったのか??

・伝研で毒ガスの講演?毒ガスへの対処法も考えることになるのか??

・小島三郎の渡満では、満洲衛生技術廠や大連衛生研究所にもいったのだろうか?

・1933年頃から細菌兵器開発の一環として、「満洲」の背蔭河では人体実験が行なわれているが、そこでも赤痢菌の研究が行なわれていたのだろうか?35年の川崎市の爆発赤痢は、人為的に行なわれたものなのか?それとも自然流行なのか?

・1936年5月に浜松一中で大福餅事件、37年9月に大牟田で爆発赤痢事件が起きているが、これなども細菌兵器・研究の一環として軍医学校や伝研の関与による仕掛けられたものか、自然に発生したものか究明する必要がある。

・1936年5月と37年9月の両事件に、小島三郎が出張しているが、果たして何をやったのであるか??

・河本禎助も毒ガスの研究をしていた。

・1938年6月1日の伝染病研究所で石井四郎の厚意によって上映された映画には、731部隊の生体解剖でも映っていたのでであろうか?精神的緊張裡とは、何のことだろうか?

 

実験医学雑報20巻 第7号(1936年)

本所職制改正

この度本所では職制を次の如くに改正し7月より実施することとなった。

 

*特別研究室とは何だ??

 

 

実験医学雑報22巻 第7号(1938年)

 人事異動報告 昭和13.7.1

発令月日   辞令       官職   氏名

5.31   研究生退学           続木正大

〃    同               須賀井忠男

6.8    岡山県下へ出張を命ず 教授   宮川米次

6.9    伝染病研究所業務を嘱託す    安倍胤一

6.10   同               続木正大

〃    同               須貝井忠男

6.16   同               酒井菊雄

6.15   叙正四位    従四勲三教授  宮川米次  

 

 
 

●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)

吉田裕監修 

 2001年ピュリッツァー賞受賞

 ※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!

戦後補償問題に国家無答責という天皇主権の明治憲法下の原則を適用するな!!  

 

第2部    仁愛の政治

1922(大正11)年―1930(昭和5)年

 




 

 

 

 

 

 

第6章 政治的君主の誕生

宮中と政党に対する批判者は、西洋的な自由主義・民主主義を長らくユダヤ主義およびフリーメイソン主義と同一視し、それを敵視した。彼らが現実に望んだのは、日本の海外膨張を妨げるアングロ・サクソンの「鉄のたが」と見なす、ワシントン条約体制の制約を打破することだった。彼らに言わせれば、日本は、かつて第1次大戦期のその大陸進出をくじこうとした米英という白人強国に再度従属したのだった。


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