札幌・北海道のレトロ建物大好きおぢさん日記

札幌(北海道)のレトロでモダンな建物を見たり撮影するのを趣味としています。

木造校舎・廃校 札幌市の閉校④ ※旧石山高等学校を追加しました

2023-01-24 10:46:08 | 木造校舎・廃校

札幌市の閉校(小学校)  ※赤文字はレポート済

中学校


高等学校
 北海道札幌石山高等学校(1980年北海道札幌平岸高等学校〈現:市立札幌平岸高等学校〉へ統合)

※wikipediaより

 


「旧北海道札幌石山高等学校」

 

開校:昭和25(1950)年
閉校:昭和55(1980)年
校舎:昭和33(1958)年竣工 

南区石山1条2丁目

 

開校時の昭和25年は南区石山は豊平町であり、学校も月寒高校の分校として開校した。

その後、豊平町立石山高等学校となり、昭和36年に豊平町が札幌市に統合されると
北海道札幌市立石山高等学校となった。

旧校舎はすでに解体され新しい校舎が建っている

場所は現在の「啓北商業高校」のある場所で、校庭に小さな碑がある
訪問時は残雪があるのと、学校の敷地内で授業中だったため敷地外から撮影した。
今度は碑の正面側を撮影したい。

 


※創立30年誌より



 

 

 


2022年4月撮影

 

 



「旧北海道札幌稲北高等学校」

 

開校:昭和58(1983)年
閉校:平成23(2011)年
校舎:昭和58(1983)年竣工 

手稲区山口254番

 

小樽市から石狩市への中間点にある手稲区山口に昭和58(1983)年、二つの北海道立高等学校が開校した。

どちらも国道337号線沿いにあり同じ手稲山口ということで比較的近くにある公立高校であった
ちなみに昭和58年まで手稲区の高校は手稲高校しかなく、稲北、稲西の翌年に稲雲高校が開校した。
(札幌市西区から分区して手稲区となったのは平成元(1989)年)

2校同時開校であり当時の建設コストからも同じように鉄筋コンクリート4階建て、箱形横一直線のスタイルは頷ける
レトロと呼ぶにはふさわしくない新しい建物だが数十年したころには、この形の校舎もレトロと呼ばれているかもだ。

 

平成23年に稲西高校と統合し閉校、「北海道札幌あすかぜ高等学校」として
稲北高校の校舎を使用している。

 

 

 

 


2022年12月撮影

 

 

 

「旧北海道札幌稲西高等学校」

 

開校:昭和58(1983)年
閉校:平成25(2013)年
校舎:昭和58(1983)年竣工  

手稲区手稲山口740

 

前記の旧稲北高校と同様だが、こちらは「北海道星置養護学校ほしみ高等学園」が
再活用することになった。

統合校に選ばれなかったことは残念だが、まだ使える校舎だけに再活用されたことは
卒業生にとっても良かっただろう。

旧稲西高校の閉校が稲北高校より2年遅れたのは募集停止から在校生であった
2学年の卒業を待って閉校したからだ。

2つの学校が同時に建てられた手稲山口は明治の前半にはすでに開拓と集落が出来ていた
山口県からの入植者が多く、「山口」と付けられた。

札幌市民としてはスイカ栽培と火葬場でお馴染みな地域だろう。

旧稲西高校は国道337号線の山側にあり、旧稲北高校は海側。
国道から校舎を写しているときに気になったのが後ろに見える山だ

手稲山の山頂が校舎越しに曇り空でも綺麗に見えた。

 

 

 


2022年12月撮影

 

 

 

「旧札幌市立豊羽小中学校」

 

開校:昭和26(1951)年
閉校:平成14(2002)年
校舎:昭和55(1980)年竣工 平成23(2011)年解体

南区定山渓 旧豊羽鉱山


札幌の鉱山といえば豊羽鉱山と手稲金山が有名であるが手稲金山が昭和45年閉山に対し
豊羽鉱山は平成18年の閉山である。

 

豊羽鉱山は札幌市南区定山渓からさらに奥深い山の中にあり
ヤマの周りに必要な住宅などとともに学校が建てられた。

小中学校に触れるには豊羽鉱山と本山[元山](地域の総称)は切って切れないものだ。

ヤマが開かれ昭和18年から19年にかけて5千人の人口があったとのことだ
おかげで定山渓温泉も好景気に見舞われたとある。
しかしその後に事故が発生し、また敗戦ということもあって休山を余儀なくされた。

昭和25年、鉱山の再開
昭和26年に新たに集会所を使用して始まった学校の生徒は36名であったという
昭和37年には小学生2617名、中学生115名になるまでヤマに人が戻ってきた。

昭和55年には鉄筋コンクリート造4階建ての堂々たる新校舎が完成した。

温水プールや体育館の新築、テレビ放送の受信、本山スキー場にリフトが開設など明るい話題が続いた
だがバスの運行など交通インフラの整備で皮肉にも通勤圏となってしまった。
いくら住環境が整備されたとはいえ、人はより住みやすい場所を選ぶのだろう。

本山の人口は減少の一途をたどり平成3年では437人、小中学校の通学生徒も60人余りになった
平成14年についに学校は閉校し、豊羽鉱山も平成18年に鉱量枯渇のため閉山となった。

その後、集落は消滅しほとんどの施設、建物が解体された。

 

 

ここまで到着するのにすごく長く感じた
距離よりも車幅が狭く山の中をぐんぐん登っていくので圧力を感じる
たまに登山者や釣り師の車を見るだけだ。

本山の入り口からは現在の作業施設と鉱山時代の棟がポツンと見えるだけ
使用しなくなった建物はことごとく解体された。

昔の地図に従い学校跡地へ向かう 赤字の新校舎マークへ
それは一般車はここまでの場所だ。

 

 

 

通学路があり、クノ字に上がりきったところに校舎があったようだ
しかし…何もないことが判っており、加えて草ぼうぼうの道とクマへのリスクを考え
ここで引き返すことにした。
数年前の登山をしていた自分なら全然ためらわなく行っていただろう。

 

この上がりきったところに校舎が
おそらく現存していればこの位置からでも上部は見えるだろう

 

 


※「豊羽」より

 

 

少し戻って本山スキー場と無意根山荘があった場所へ (青字マーク)
ここは車で行けた

 



ご覧の通り山荘もリフトもプールも何もない
この最奥に無意根山への登山道があるので登山者にはおなじみの場所であろうが
ちなみに無意根山荘は北海道の建築家、田上義也氏の設計であった。

 

数千人が住んでいたという集落とは想像が出来ない地域だった
空知の炭鉱地区と同様でヤマが開いているうちは人が多いが閉山すると誰もいなくなる

おそらく自分も ここへはしばらく来ることはないだろう。

 

振り返ると定山渓天狗岳が夕陽を浴びてこのうえなく綺麗だった

 

 

 

「旧北海道教育大学札幌分校・北海道教育大学付属小中学校」

 

開校:昭和4(1929)年
閉校:平成元(1989)年
校舎:昭和25(1950)年竣工(小中学校) 解体:平成元年~2年

中央区南22条西13-1-1

 

教育大学と付属小中学校は元々は別所にあったが、その後に
「札幌市中央図書館」と、隣接する「やまはなサンパーク」がある場所に移転した。
そして現在は北区あいの里に移転している。

 

 

銅板には
「北海道教育大学札幌分校跡地」昭和4年~昭和62年
「北海道教育大学付属札幌小中学校」昭和25年~平成元年

沿革として
「北海道師範学校」明治19年創立
「北海道札幌師範学校」大正3年~
「北海道女子師範学校」昭和15年~
「北海道第一師範学校」昭和18年~
「北海道学芸大学札幌分校」昭和24年~
「北海道教育大学札幌分校」昭和41年~

 

師範学校とは教員を養成する学校である
その名残りは厚別区、開拓の村に師範学校の道場が移設されており
内部の見学ができる。

 

 

中央区に閑静な文教地区を形成したのはこの学校のおかげであろう
市民はご存じの通り現在は移転先のあいの里が文教地域になった。

大学は昭和62年、付属小中学校は平成元年に移転している。

 

 


2022年4月撮影

 

毎日たくさんの人が図書館や公園に来ている
関係者には悪いが現在の土地利用はベストだったよね。

ただ大学も付属小も校舎は素敵であった。

 


※北海道教育大学「開学三十年史」より

 


※付属小学校「百年史」より

 

 



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